終章 穏やかな風と共に

 ばさり、と、真っ白なシャツやシーツが雲高い秋空の下で翻る。

 娘はひとつ息をついて、全て干し終えた洗濯物が風に揺られる様を眺めていた。

 オズ・クルの手先メティラ・ネフロにたぶらかされ、心ある臣下の言葉を聞かずに政治の腐敗を放置して、民を苦しめ国を荒らした悪王。彼の時代が去り、風詠士の嫡流がミナ・トリアに戻った。

 その後、トル・メダの吹かせる清涼な風は、『暗黒時代』と後に名づけられた、ベルギウス王の悪政ごと、澱んでいたこの国の空気を払拭した。

 涸れていた川に水が戻り、全土に豊饒が満ち、治安が安定して、豊かさが回復する事で、人々の心にも安寧が訪れた。

 無論それが一朝一夕でかなった訳ではない。

 ベルギウス亡き後に即位した現王は、イルザの直系として民の絶大な期待を受けたが、市井の中で育った故に政治には疎く、すぐさま有能な為政者として立ち回る事はかなわなかった。

 しかし、父王が残した山積みの問題ひとつひとつに向き合い、周囲の家臣と議論を重ね、時に自ら現地に赴いて人々を救い、最善の方策を求めて真摯に取り組む様は、風詠士である、その名目を抜きにしても、良き王として人々の目に映り、信頼を勝ち取っていった。

 あれから五年。

 五年あれば、赤ん坊も歩き出し一人前に喋る。幼い少女が立派な娘となり、再建された家で小さい子供達の面倒を見るようになるまで成長するには、充分な時間だった。

 家に引き取られる子供の数は今では少なくなった。国力が戻った事で、理不尽に親を奪われる子供、口減らしに捨てられる子供が圧倒的に減ったからだ。

 全ては彼の努力の賜物である。

 街のそこかしこで民が彼を賞賛する言葉を耳にする度、娘は自分事のように喜び、彼を誇りに思った。ほんのひと時でも彼と共に過ごせた日々を幸福に思っていた。

 別れを告げ、大人達と共に立ち去る背を見送ったあの日以来、彼には会っていない。

 会いたいと思う気持ちが無かった訳ではない。

 今自分がある全てはあなたのおかげです、と面と向かって伝えたい。

 話したい事も沢山ある。

 ニンジンを食べられるようになった事。今年のキノコも美味しかった事。

 レジーナとケヴィンが結婚し、城下で小さな教室を開いて、街の子供達に文字や剣を教えている事。

 当時家にいた子供達も次々と巣立ち、それぞれの道を歩んで行った事。

 しょっちゅう自分をいじめていたサムが、家を出る日、『一緒に行かないか』と、そばかすの残る顔を生真面目に引き締めて手を差し伸べて来た時には、驚いたものだった。

 だが彼女は、その手を取らなかった。

『ありがとう』

 そう微笑みながらもゆるゆると首を横に振ったのだ。

『……まだ、忘れられないのかよ』

 誰を、とは、サムは言わなかった。だがあえて口にせずとも、誰の事を指しているのかは、サムにも彼女にも通じていた。

 サムの言う通り、忘れられなかった。

 十六年の歳月の内ほんの数週間を共に過ごしただけなのに、彼は鮮烈な印象をこの胸に刻んで去った。

 こちらに向けて放った言葉の数々も、風詠士たる蒼い髪も、翳りを帯びた金緑の瞳も、ほんの少しだけ見せてくれた笑みも、名前を呼んでくれた声も、別れ際の涙も。全てを今も鮮やかに脳裏に描ける。

 そしてあの時彼に対して抱いた感情にも、今の彼女は名をつける事ができた。

 胸元からペンダントを取り出し、陽光にかざしてみる。風切り刃の紋章は、毎日欠かさず磨いているおかげで、鈍る事の無い輝きをたたえていた。

 きらり、風切り刃に反射した太陽光が目を射す。目元に涙がにじんだのはそのせいだけではないだろう。

 すん、とはなをすすりあげた時、枝を踏みしだいて近づいて来る誰かの足音が耳に届いた。

 今日は訪問者の予定は無かったはずだ。しかし、誰かもわからぬ相手にこんなみっともない顔を見せる訳にはいかない。彼女は慌てて手の甲で涙を拭い去ると、ことさらの笑顔で振り返る。

「いらっしゃい、どちらさ……」

 言葉は途中で止まった。折角作り上げた笑みが、驚き顔に取って代わられる。

 ぽろりと呟いた名は、娘の赤い髪を吹き上げて通り過ぎたいたずら好きな風にさらわれ、相手に届いたとは思えなかった。だが。

「本当はもっと早く会いに来たかった」

 彼は静かに語りかけてくれた。触れるもの全てを切り裂く刃のようだったあの頃の険呑さとは違い、親しみを込めて低く穏やかに。

 これは現実だろうか。自分の願望が作り上げた夢想ではないかという考えがぐるぐる渦を巻く。しかし。

「パリィ」

 いつになく優しく名を呼ぶ声が耳朶を打った瞬間、止めたはずの涙がこぼれ落ちる。諦めかけていた感情が溢れ出る。

 夢でも何でもいい、この感情を言葉にして伝えよう。彼女は決意して駆け出した。

 何度も何度も相手の名を呼びながら、その胸へ飛び込む。力強い腕が、優しく受け止めてくれる。


 歳月を経て育て上げた二人の想いが重なる事を言祝ぎ、高らかに歌い上げるトル・メダ達の声が、穏やかな風と共にベレタ中を駆けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金緑の風詠士 たつみ暁 @tatsumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ