光を抱く者 3

 混乱は瞬く間に闘技場を呑み込んだ。我先にと通路にまろび出た多くの客が、身動きもままならず怒号だけを発していた。人の波の上を進もうとする者、あるいはこれもこらされた趣向の内と決め込んで座る者もいる。それを一歩ごとに踏みつぶし、薙ぎ払い、大蜘蛛が舞台に向けて這っていた。その黒い背中が泡を孕んだように膨れ、音を立てて弾ける。中から現れたのは、人ほどの大きさの蜥蜴だった。目のない頭をもたげ、獲物を探しては頭からかぶりつく。

「リドガ!」

 首飾りをつかんだバスイルが金切り声をあげる。リドガが引きずられるように地を蹴った。バスイルの元に着地し、わななく尾を逆立てる。

「坊主もいない、おまけに化け物まで――」

「ティズさんは――そこに」

 ハンネが舞台を指差した。

「そうでしょう」

 リセアは首を縦に振った。

 若い狼が繰り返し杭に体当たりしている。繋がれたもう一方はそれを止めるかのように何度も吠え、ついによろけながら若い狼にぶつかった。若い狼が砂埃をあげて転がり、起き上がる。その時、繋がれた狼に大蜘蛛の脚が振り下ろされた。骨のつぶれる音がした。若い狼が狂ったように吠え、広がってゆく血を跳ね上げて走り回る。

「行かなきゃ!」

 ハンネが駆け出そうとする。ゲルトがその肩をつかんで引き戻した。

「まだ間に合うわ!」

「お前もやられる!」

 ゲルトが唾を飛ばして叫ぶ。その背後で影がしなやかに揺れた。

「ゲルト、動くな!」

 リセアは呪文を吐いた。眉間の奥で赤い蕾が光る。蜥蜴の鼻先を火が焦がした。ハンネを片手で庇いつつ、ゲルトが瓶を床に叩きつける。飛び散った水が無数の小さな刃を成し、蜥蜴を切り刻んだ。肉の裂ける音も断末魔もなく黒い体が散った。

 リセアは舞台の方に向き直った。逃げ惑う人影は多くが消え、客席や通路のあちこちに潰れた亡骸が取り残されていた。大蜘蛛と〈明かり石〉の男の姿はない。

 三人は壊れた柵をよじ登って舞台に立った。兄を揺さぶっては叫び続けるティズを、ゲルトが何度もなだめて立ち上がらせる。入れ替わるようにハンネが膝をついた。血を吸った毛を掻き分け、傷口を塞ぐために呪文をつぶやく。ゲルトが嗚咽するティズの背中をさする。リセアは周囲に意識を向けていた。動く者の気配はもはやないに等しかった。

 ややあってハンネが息をつき、後の処置は家で行うべきだと話した。外に出ると日はすでに沈みかけていた。



   ×   ×   ×



「奴を知っている」

 リセアは努めて冷静に言った。

「私が追っていたのはあの男だ。奴が私の親を殺した」

 ティズがはっと目を上げる。その隣の寝台では、ティズの兄がさらなる治療を経て昏々と眠っていた。

「魔術師を狙った殺しも奴の仕業だと思う。トルドノでの手口に覚えがある」

「それなら、死体がほとんど残らないっていうのは――」

「蜘蛛や蜥蜴が食らった」

「そんな……。でもどうして魔法使いばっかり」

「分からない」

「何かの恨みだろうな。この町に目をつけたのも、狭い範囲で多くを手にかけるためかもしれん」

「明日の朝ここを発つ」

 リセアは卓を見つめたまま言った。

「どこに行くんですか? 今からだと寒さが心配だわ」

「話を聞いておきたい者がいる。それに、奴が私に気づけば間違いなく狙いに来る」

「あの蜘蛛はゲルトでも歯が立たないのか? リセアと力を合わせても?」

「やってみないと分からんな」

 ゲルトが唸る。

「図体がでかいだけの奴には何度もお目にかかったが、森の主でもあれほどのはいない。蜥蜴を生み出したのも変だ」

 リセアは膝の上で拳を握っていた。眉間の奥に、開く瞬間を渇望する赤い蕾を感じた。力に目覚めた頃、蕾はこのような姿だったろうか。色さえもたず、凍った泉のように清く脆くはなかったか。それを魔術という力への執着、執着を育み続ける七年前の残像で染め上げたのは、ほかでもない自分。

「お嬢さん」

 ゲルトが灰色の瞳を険しくする。

「命は一つきりだぜ」

 ハンネの顔が曇る。ティズはゲルトとリセアを見、何か言いかけて、突然開いた扉の方を向いた。刺すような冷気とともに数人の自警団員が現れた。

「家にいないからてっきり巻き込まれたかと」

 一人が鎖帷子を鳴らしながらハンネに近づく。

「怪我人を診てほしい。第三劇場に運び込んでいる。できれば今すぐに」

「ええ、分かりました。兄貴、ティズさんのお兄さんを頼みます。まだしばらくは眠っているはずです」

「おう」

 ハンネはついでリセアの手を握る。

「きっとお見送りできないと思うので――リセアさん、どうかご無事で。実りある旅になりますように」

「ありがとう」

 ハンネはきらめくような微笑を見せて出ていった。リセアは消えかけの暖炉に小さな火を飛ばした。飛ばした火が暖炉の火と混ざり、なめらかに膨らむのを見届けてから、そっと唇を湿す。

「ティズ、お前はどうする」

「うん」

 ティズは視線を落とした。少しの間をおいてから小さく息を吸う。

「俺、兄さんに会えてからずっと考えてたんだ」

 慎重に一歩ずつ踏みしめるような声色。リセアはただ耳を傾ける。視界の隅でゲルトが腕を組むのが見えた。

「リセアは俺が売られてたところを助けてくれたし、俺が人間じゃないって知っても受け入れてくれた。それに俺、リセアと一緒に旅してなかったら、もう二度と、一生、兄さんには会えなかったと思う。何回お礼を言っても足りないし、恩返しだってまだたくさんしたくて、でも、」

 ティズが拳を弱く握る。

「でも――ごめん。もう一緒に行けない」

 リセアはティズ越しに寝台を見た。ティズの兄の寝顔が蝋燭に照らされている。

「お前の旅の目的は兄を探し出すことだったはずだ。目的を果たした者に旅を強いる権利は、私にはない」

 リセアは言った。

「それに、お前も私を助けてくれた。魔術師である私を疎まなかった。それで充分だ」

「でも」

 リセアはティズに歩み寄り、広い背中に両腕を回した。

「ティズ」

 穏やかに、空気に溶かすように声を発する。

「充分だ」

 ティズのうなずく気配に続き、リセアは背中に大きな手のひらを感じた。

 翌朝、リセアは宿で荷造りを終えた。町で買い求めた品のほか、ゲルトからの餞別である温かな外套が加わっていた。宿を出るとティズとゲルトが足早にやって来るのが見えた。

「間に合ったな」

 ゲルトが微笑み、額の汗を拭うふりをする。ティズが笑顔でうなずき、懐から何かを取り出した。黒髪の小さな束だった。

「人狼の髪はお守りになるんだって」

 ティズが揃わない襟足を触る。

「小さい頃に会った魔法使いが教えてくれたんだ。ほんとに効き目があるか分かんないけど……持って行ってくれないか?」

「ありがとう」

 リセアは髪の束を懐に入れた。脳裏の氷が痛みこそ起こさず、しかし大きく震えるのを感じる。

「その魔法使いの名を覚えているか」

「ごめん」

 ティズが肩を落とした。

「いい。気にするな」

 氷から溶け出した小さな雫が、頭の奥底に落ちて染みていく。この氷が全て溶けて流れ去れば、彼女の記憶を取り戻せるだろうか。

 じきに町の門が開く。リセアは荷物袋を背負いなおし、あ、という声に振り返った。冷えた空気のなかで、ティズの山吹色の瞳がきらめいていた。

「大事なこと言い忘れてた。名前、つけてくれてありがとな。兄さんに自慢するよ。もし兄さんも欲しがったら、今度は俺がつけてあげるんだ」

「ああ」

「気をつけて――また会おうな。きっと」

 ティズが言った。リセアは乾いた唇の端をそっと上げて歩きだした。

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