1章 放つ炎

放つ炎 1

 宿を出ると日射しが顔を洗い、喧騒が清しい風に乗って届いた。娘はまぶしさに目を伏せ、外套の頭巾をかぶって歩きだした。消耗品や食料は昨日買い足したので、この町で済ませるべき用はなかった。宿の主人曰く、朝は市のためにどの通りも混雑するという。喧騒から離れるように道を縫う。大通りと平行して走る路地に入った。湿った石壁と残飯の臭いがする。ひそめた声を交わす男たちの陰で、薄布一枚をまとった女たちが立っている。

 一つ角を曲がった先に、絨毯を敷いただけの露店が再び現れた。だみ声の店主が指を立てて得意げに話している。客たちはにやつきながら耳を傾け、あるいは髭をしごきながら商品に見入っている。品定めされているのは黒髪の青年だった。その姿を認めるや、娘はわずかに眉を震わせた。氷から滴る雫のような冷たさが眉間の奥で閃いたのだった。儚く、それでいて鋭い感覚。娘は数歩ゆくあいだ逡巡した。そして杖を握り直すと、青年を、彼を繋ぐ縄を一瞥しながら通り過ぎた。道を折れ、歩調を保ったまま静かに意識を澄ませてゆく。露店から目の届かない、かといって遠すぎないところまで進んだ。

 辺りには誰の姿もない。

 娘は唇を湿すと頭巾の内で一言つぶやいた。紡がれてこぼれた言葉が標的を捉える手応えがあった。揚々たる店主の声があわてふためいたものに変わる。娘は指揮者のように粛々と杖をついて大通りへ出た。陽気なざわめきが店主の声をたやすく呑み込んだ。香辛料や生魚の匂いを孕んだ熱気が満ち、道を貫く背骨のように屋台が連なっている。その屋台が途切れた先に門のアーチが見える。談笑する召使いの脇を抜け、人波に流されそうになりながら娘は進んだ。時折、陶器の破片や柔らかい木の実を踏む感触があった。やっとのことで人混みを脱した時、後方から聞き覚えのあるだみ声が響いた。行き交う人が視線をやる。

「捕まえてくれ!」

 再び男が怒鳴り、同時にどよめきが起こった。娘が振り向いた先で雑踏が割れる。転がり出てきたのは先ほどの青年だった。つんのめったかと思うと石畳に手をつき、体勢を整えて走りだす。乱れた黒髪が陽光を虹色に弾いた。

「何してる、早くとっ捕まえろ!」

 人々が弾かれたように青年を見る。青年は娘の前を駆け抜け、あっけにとられる見張りを残して門の外へ消えた。

「くそ! 上物だったのに」

 男が忌々しげに足を踏み鳴らす。魔法使いにやるよりましだ、どうせもぐりだろ、とやじが飛んだ。娘は頭巾を深くかぶり、動きを取り戻しはじめる人の間を縫って門を出た。

 引き伸ばされた綿のような雲が空を覆い、歩くにはちょうどよい涼しさだった。宿で見た地図を思い出す。街道を西に向かい最初にある村を今日の目的地と定めていた。林に紛れる市壁を顧みた時、近くの茂みが小さく音を立てた。娘は視線を前へ戻して黙々と進んだ。いざという時のため、少しずつ意識を研ぎ澄ませる。気配は距離を保ったままついてきた。さらに十数歩行ったところで、はっきりと、気を引こうとするように音が鳴らされる。娘は立ち止まり、音の源へ鋭く目を向けた。

 灌木の向こうから顔を出したのは例の青年だった。無防備な表情には剣呑さの欠片もない。追い剥ぎをしようという魂胆ではないのか、と娘は考える。

「あの」

 周囲を見回してから青年が口を開いた。少しかすれた、しかし溌剌とした声だった。

「さっき俺を見た後――」

 娘は言葉を待つ。まさか見抜かれたかと思ううちに、杖を握る手に力がこもっていた。

「なんていうか、心配そうな顔をしてた気がして」

 青年が頭を掻く。娘は拍子抜けしたような気持ちで青年を眺めた。

「あなたが通った後、縄が焼けて切れたんです。わけが分かんなかったけどとにかく逃げました。それで外で隠れてたらあなたが出てきたから、逃げられたって言っておきたくて」

「そうか」

 娘は外套を翻して進もうとする。すると青年があわてて道へ飛び出した。娘が身構えるより早く、その行く手にひざまずく。

「あの、待ってください! 俺、兄さんを探したいんです。捕まってから離れ離れになっちゃって……。旅してるんですよね? だったら連れてってくれませんか? やれることはなんでもやります! お願いします!」

 青年が長身を折るように頭を下げる。

 娘の脳裏で氷の欠片が再び、ちり、と震える。悔いるかもしれない。否、悔いても構わない、悔いることはない。なぜそう思えたか分からない。ただ、昔聞いた話をよすがにするような、淡くも確かな感覚があった。

「来たいなら来い」

 娘は言った。

「本当ですか? ありがとうございます! すっごく嬉しいです! よろしくお願いします!」

 青年が満面の笑みを浮かべ、拳を突き上げる。通りかかった馬車から遠慮のない眼差しが飛んだ。

「名前は?」

 娘は問うた。拳を下ろした青年が首を傾ける。

「名前? 俺、名前ないと思います」

「ない?」

 娘は眉根を寄せる。

「『おい』とか『お前』とかじゃないんですよね? 俺、そういう風にしか呼ばれたことないから……だから、呼びたいように呼んでください。もちろん『お前』でもいいし」

「自分で名づければいい」

「どんな感じか、いまいち想像がつかなくって」

 娘は考えはじめ、しかし首を振る。

「時間をくれ」

 青年はうなずいた。

「分かりました。楽しみにしてます! それで、あなたのことはなんて呼べばいいですか?」

「リセア」

 娘は言った。

「それが私の名前だ」

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