紅蓮の氷華

藤枝志野

序章

序章

 覚悟はできていた。

 草の上に膝をつき、少女の両手をとって包み込む。木々が急かすようにさざめいた。不安をにじませて少女が呼んでくる。その瞳は利発さの光を宿していながら、この状況を呑み込めていない。自分も充分に把握できているとは言えない――むしろ混乱の中にいる。それでも精一杯の慈しみを込めて、強張る頬に笑みを浮かべてみせた。

「どうか今のまま、優しい方でいてください」

 そう言って、両手に意識と力を注ぐ。続けて頭の中で言葉を紡ぎ、草木の茂りに助力を求めた。吹いた風のなかに応える気配があった。これで当分は少女の身を隠してくれるはずだ。

 強く握りすぎていたのだろう、少女の指が怯えるように小さく動いた。一言謝って手を離す。続けて、決して森から出ないよう告げると、少女が長い髪を揺らしてうなずいた。淡い金髪がかすかな星明かりを吸って美しかった。

 行くべき方に顔を向ける。少女の見つめてくる気配が背中に触れていた。その気配が口を開く前に走りだす。やはり名前を呼ぶ声が聞こえ、心の中で再び詫びる。

 ふと、彼女の親を思った。あまりにむごい光景だった。とっさに抱きしめて顔を覆ったけれど、彼女は目にしてしまっただろうか。少女とその親――聡い父と優しい母。共に暮らした日々の愛おしさ。これ以上壊させはしない。

 森を抜けた途端、少女の声が掻き消えた。振り返ったところでその姿を認めることはできない。彼女がこちらを見ることもかなわなくなっただろう。効き目が表れたのだ。相手は同じ力の使い手ではないから、この術を読み解かれる恐れは少ない。しかし、どのような類の力を用いたのか。いや、彼はそもそも本当に――

 思考が弾け飛んだ。頭を打ち据えられて地面に転がる。意識をなんとか繋ぎとめ、見下ろしてくる人影を睨んだ。

「奴をどこにやった」

 木枯らしよりも冷たい声が響く。

 あの子を守るために何ができる。欠片ほどが残ったこの力で。

 繰り出すべき一手に考えを巡らせたその時、口に硬い土の味が押し込まれた。杖の先端。のどを酸いものが駆け上がり、涙がにじむ。使い手の多くは口から発する言葉を鍵とする。それを封じようというのだろう。けれど。

 杖がのどを刺し貫くより早く、右手の指で空を切る。乾いた音とともに木製の杖に亀裂が走り、粉々に砕けた。男が忌々しげに唸る。破片を吐き捨てて大きく息をした。空気のへばりつくのどに血の味がぬるく染みる。

 ふらつく体を叱咤して立ち上がり、木の破片を頭の内で呼び起こす。破片がことごとく地面を離れ、矢のように男へ殺到した。的の深く穿たれる音が数度。呻き声をあげ、それでも男は懐から何かを放っていた。ぼんやりと光るそれを見た瞬間、背中を冷たいものが走り抜けた。暗闇に反応した〈明かり石〉が煌々と光を放ち、男の影を浮かび上がらせる。その影が地面を離れ、水を含んだ海綿のようにかさを増しはじめた。男の背丈を優に超えて膨れ上がり、八本の脚が伸びる。一つ、また一つと灯る赤い光が夜の闇を睨む。

 動かなければ。この男たちを、少しでもあの子から遠ざけるために。

 術を紡ぐ一瞬さえ惜しかった。駆けだすその足がもつれて再び倒れた。糸に全身を絡めとられていた。糸は地面にへばりつき、もがくほど身動きができなくなる。迫り来るのは、少女の親を食らいつくした悪魔。

「魔術師の汚れた肉だが腹の足しにはなろう」

 喘ぎ、嘲笑いながら男が言う。悪魔が牙を動かして応えた。粘りつく糸を握る。手のひらの皮を爪が破る。

「渡さない……あの子は、絶対に!」

 牙が肉薄する。その瞬間、全ての力を託した言葉を放った。男が顔色を変える。動きを止めない悪魔も、八つの目をわずかに揺らがせた。

 ――さようなら。それでもあなたと共に。

 愛しい名前を思った時、全てが闇に閉ざされた。

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