7. 二〇三九年六月二日 〇七時三一分

防衛省市ヶ谷地区 内閣安全保障局本部

地下二十一階 特務作戦群居室


 あの日を境にマレスは変わってしまった。

 とにかくしつこく俺に絡みつく。並んで歩いていれば腕を組もうとするし、そうでなくても距離が近い。

 マレスは確かに美人だが、そんな美人に絡まれる俺の身にもなってほしい。周囲の目がとても気になる。


 一方、クレアも様子が変わってしまった。

 翌朝二人と居室で合流した俺は、クレアの様子がどことなくおかしいことが気になっていた。

 元々感情の起伏が乏しいクレアだが、今朝は明らかに困惑しているように見える。どうやら原因はマレスのようで、マレスに話しかけようかどうしようか逡巡しているのが俺にも判る。

 昨夜マレスと衝突した様子もなかったし、何が起きているのか判らなくてどうにも居心地が悪い。

「クレア、どうした?」

 恐る恐る声をかけてみる。

「いえ、和彦、なんでもないんです。大丈夫」

 クレアの返答はどうにも歯切れが悪い。

 白いスーツ姿のクレアが居心地悪そうに身動ぎする。

 マレスもクレアの様子が気になったのか、しばらくクレアの様子を窺う様だったが、やがて

「クレアさん? どうしたんですか? 元気がないみたいですけど」

 と、優しく声をかけた。

 マレスの声にクレアが明らかに動揺する。

「あ、マレスさん、あの」

 再び、口をつぐむ。

 だが、マレスは敢えて促さないようだった。黙ってにこにことクレアを見つめている。

 そんなマレスに励まされたのか、やがてクレアは意を決したかのように顔を上げると、

「あの、マレスさん? 私、マレスさんに言わなければならないことがあるんです」

 と口を開いた。

「言わなければならないこと?」

 マレスが少し表情を強ばらせる。

「わたし、なにか失礼をしちゃいました?」

「いえ、マレスさんはまったく悪くないんです。どちらかと言うと、悪いのは」

 と、クレアがすうっと俺を指差す。

「和彦なんですが」

 突然のクレアの無茶振りにぎょっとする。

「俺かよ!」

「昨夜、高畠警部が言っていたことを覚えていますか?」

 クレアはマレスに尋ねた。

「はい」

 戸惑いながらもマレスが答える。

「高畠警部がその、私のことをロボットだって言ったのを覚えていますか?」

 マレスが黙って頷く。

「本当は、和彦がもっと早くにマレスさんに説明してくれれば良かったんですけど、私は……」

「なーんだ、そんなこと?」

 マレスは右手を突きだしてクレアの言葉を遮ると、にっこりと微笑んだ。

「わたし、もっと深刻なお話かと思ってました。心配して損しちゃった」

「そ、そんなことって」

 クレアが絶句する。彼女にしてみれば一大決心をして告白したのを一笑に附されて拍子抜けしたのだろう。

 だが、マレスの次の言葉で俺は本当に驚いた。

「だって、わたし知ってましたもの」

「え?」

 クレアの目が大きく見開かれる。

「ほら、最初に会った時、帝国ホテルで。あの時、気づいたんです。生身じゃあなさそうだし、かと言ってサイボーグって訳でもなさそうだし、不思議だなーって思ってました。そういうことだったんですね。やっぱりクレアさんは特別だったんだ」

 マレスがにこにこと笑う。だが、急に真顔になると、

「わたしね、クレアさん」

 と真剣な表情でクレアの顔を覗き込んだ。

「わたしはこの目で見たものしか信じないことにしているんです。父にそう教わったの。見たものだけを信じなさいって」

 ちょっと上を見上げ、細いあご先に人差し指を当てながら「んーっ」と考え込む。

「もちろん、和彦さんやクレアさんの言うことなら見ていないことでも信じます。でも、基本的にわたしは見たものをありのままに受け止めるようにしているんです。わたしから見たらクレアさんはクレアさんです。クレアさんはちょっと暗いけどやさしい先輩なんです、わたしにとっては。それ以外のことには興味がありません」

 清々しいほどのシンプルさだった。

 だが、確かにそれでいいのかも知れない。見て、話して、そして気づかなかったら人工知性体であろうが人間であろうが違いはない。

「私はちょっと暗い、ですか?」

 クレアがマレスに言う。

 クレアは今まで見たことがないような明るい顔をしていた。

「ごめんなさい、変なことを言って。でもちょっと暗い、かなあ」

「どんなところがですか?」

「そんな風に尋ねちゃうところもですが、ボカロを一人で聞いて歌っているのはやっぱり暗いです。今度わたしにもいい曲を教えて下さい」

「わかりました。今度スピーカーを富田主任から借りてきます。一緒に聞きましょう。感想を教えてください」

「もちろん」

 マレスが明るく、にこりと笑う。

 と、マレスは真面目な顔に戻ると、

「そうそう、できれば歌い方も教えてもらえませんか? わたし、音痴だから。クレアさんの歌ってとってもすてき。わたしもあんな風に歌ってみたいの」

 とクレアに尋ねた。

「音痴?」

 意外な言葉に思わず反応してしまう。

「そうなの。声域が狭いっていうか、低い声も高い声も出ないんです。クレアさんみたいに上手に歌えないの」

「へえ。意外だ」

「声域はボイストレーニングでいくらでも広げられますよ」

 クレアはマレスに微笑みかけた。

「要は声帯の使い方なんです。調べておきますね。私も興味があるから、一緒にやりましょう」

「やったッ」

 マレスが小躍りする。

「これでやっとカラオケに行けるようになれるかも」

「カラオケかよ……」


 話がひとしきり終わったところで、俺は今朝、装備管理課に立ち寄って貰ってきたものをマレスに手渡した。

「マレス、これを渡しておく。これなら邪魔にならないんじゃないか?」

「なんですか、これは?」

 薄いビニール袋に入っているベージュ色のベストをマレスが両手で掲げる。

「元々は要人警護のために技術研究本部が開発したものなんだが、極薄手のカーボン・ナノファイバーとリキッドアーマーで作られたバリスティックベストだ。一発ならたとえ対物ライフルでも確実に止まる。怪我はするかも知れないが、これを着ていれば少なくとも死ぬことはない。これなら服の下に着られるだろう?」

「これを、わたしに?」

「ああ。できれば着てくれ」

 マレスはビニールに包まれたベストを胸に抱いた。

「ありがとうございます。嬉しいです。今、着てもいいですか?」

「お好きにどうぞ。二十四階にシャワールームがあるからそこで着替えられるぞ……山口が住んでるかも知れないから気をつけろ」

「ちょっと着替えてきます」

 マレスがぱたぱたと部屋を飛び出していく。だが、すぐにドアから顔だけ覗かせると、

「すぐに戻ります」

 と告げ、再び駆け出していった。

「どうしたんです、あんなものを持ってきて」

「殉職されてはかなわないからな。常時着ていても大丈夫なボディアーマーがないかと思って考えていた時に思い出したんだ」

「へえ?」

 クレアが意味ありげに目を細める。

「なんだよ」

「いいえ、別に」


「お待たせしましたー」

 マレスは五分ほどで戻ってくると、

「どうですか? 変じゃないですか?」

 と俺たちの前でくるりと回ってみせた。

「似合ってますよ。というか、着ていることが判りません」

「よかった」

 しかし、この違いはなんだろう。思わず自分の服とマレスの服とを見比べる。

 マレスは昨日と同じ、カーキ色のチノパンツにボタンダウンのシャツを合わせていた。今日はピンク色のギンガム・チェック、栗色の髪をポニーテールにまとめている。

 俺とほとんど同じ服装なのだが、印象はまったく違っていた。

 俺が疲れた港湾作業員のように見えるのに対し、マレスはまるでファッションモデルか映画俳優のように輝いて見える。

 チノパンツに綺麗にプレスが当たっているせいか、あるいは素材が良いからなのか。

「? どうしたんですか、和彦さん」

 マレスが視線に気づいたのか俺に尋ねる。

「いや、似たような服装でも印象は違うもんだな」

「そうかなあ。同じだと思うんですけど。わたしの格好、変ですか?」

「いや、変じゃない。むしろ綺麗なんだが……」

「和彦、照れてないでもっと素直に褒めてあげればいいじゃないですか」

 にやにや笑いながらクレアが茶化す。

「まあ、いい」

 俺は片手を振ってクレアを黙らせると、昨日高畠から聞いた話の整理を始めた。

「要するにレディ・グレイの居場所を教えるから生け捕りにしてくれって言ってるんだよな、あのおっさんは」

「そうですね」

拉致スナッチか、面倒だな」

「排除してしまってはだめなの?」

 マレスが尋ねる。

「警察には一応協力してやらないとなあ。機嫌を損ねて面倒なことになっても困る」

「なんか和彦さんらしくないー」

「宮崎課長から釘刺されてるんだよ」

 俺はマレスの方を向くと言った。

「マレスも言われたじゃないか、バカスカ殺すなって」

「わたしは人前では殺るなって言われただけですう」

 思い出したのか、マレスが頬を膨らませる。

「まあ、これは後で考えるか。拉致が無理なら弾いても構わんだろう。それよりクレア、昨日バカ畠が言ってた『記憶のすり替え』な、あれはどういうことなんだ?」

 俺はクレアに尋ねた。

「ああ、あれですか」

 クレアが小型ターミナルに目を落とす。

「人間の記憶に関わることなので私には若干難しいのですが、たぶんこういうことです」

 クレアは説明を始めた。

「和彦、仮にあなたの記憶が外の記憶媒体にあるとして、この記憶の一部がすり替えられたら何が起こると思います? あるいは違う記憶が流し込まれたら?」

 何が起こる? 記憶と実際に行った行動に食い違いが起こるのだ、ただで済むとはとても思えない。

「少なくとも混乱はするだろうな。何がなんだか判らなくなりそうだ」

「そうですね。少なくとも私はそうです。最悪、富田主任に記憶の一部を消してもらわないといけなくなるかも知れません。でも、人間は違うようなんです」

 クレアは少し悲しそうに言った。

「人間の記憶って、時系列を含めすべてが曖昧なんです。多少の矛盾は補正してしまう。だから」

 クレアは俺の顔を見つめた。

「記憶を外挿されても人間は普通に信じてしまうみたいなんです、その記憶を。それが実際に起こったことだと思ってしまう」

「そう、なのか?」

「わたし、なんとなく判るかも」

 右手をあげてマレスがクレアに言う。

「ほら、嘘をついているうちにそれが本当だと思い込んじゃったりするじゃないですか? 例えば誰かとデートしたって友達に嘘ついてるうちにいつの間にかに本当にデートした気持ちになっちゃうとか」

「あ?」

 呆れてマレスを見つめる。

「そうなのか、マレス?」

「わ、わたしはそもそも嘘をつかないから。でも、よく聞きますよ」

 マレスが急に我に返って、耳まで赤くしながらブンブンと右手を振る。

「仮に記憶を外挿されてそれを半分信じたとして、その記憶を補強するものがあれば完璧です」

 クレアはそんな俺たちの様子に微笑を浮かべながら説明を続けた。

「例えば和彦、あなたに『明日マレスさんを襲撃するために仲間と集合する』という記憶を植え付けたとします。襲撃地点はマレスさんが住んでいる帝国ホテルです。計画はホテルの屋上に降ろした仲間の天井裏からの突入と、側面からホテルに衝突するヘリコプターの二重攻撃にしましょうか。あなたの頭の中にはその計画とか、計画を策定した経緯とかが入力されています。そして、ある朝目覚めたら枕元に装填されたサブマシンガンが置いてあったとしたら、和彦はどうしますか? あなたの脳にはマレスさんを襲うために前の晩のうちに入念に準備した記憶とか、今日の集合場所とかが入っているんですよ? あなたの記憶ではそのサブマシンガンも自分で準備したものです。訓練の記憶とかもあるかもしれない。和彦、それでもあなたは抗えますか? 偽の記憶に」

 それは恐ろしい話だった。

 ゾッと背筋が寒くなる。

 俺はきっと信じるだろう。そして装備を持って集合場所に向かうことだろう。

 それはかつて帝国ホテルで起きた襲撃を題材にした、あまりに迫真の例え話だった。

 マレスも同じ思いだったらしく、顔が蒼白になっている。

「記憶の外挿っていうのはこういうことです……あッ」

 蒼白になっている俺たちの表情を見て、クレアが右手を口に当てた。

「ごめんなさい、和彦、マレスさん、例えが悪かったですね。私、人の気持ちをあまり考えていませんでした」

 肩を落とし、がっくりと俯く。

 膝に置いた両手を握しめている。

「だめですね、私。こういうところ、まだダメです」

 明らかに落ち込んでいる。

 気づくと、強ばっていたマレスの表情が和らいでいた。沈んだ様子のクレアを黙って見つめている。

 つと、マレスは立ち上がると静かにテーブルを周り、クレアの背後に寄り添った。

 背後から優しくクレアの両肩を抱きしめる。

「クレアさん、そんなことないですよ」

 クレアの耳元に顔を寄せ、口を開く。

「気がつくクレアさんのほうがよっぽど繊細です。こういうの、気づかない人多いんですよ。高畠警部とか全然気にしてないじゃないですか。まあ、あの人の場合は故意にやってるのかも知れないけど。わたしもよく空気読めないって言われますもの」

「そう、そうでしょうか?」

 俯いたまま、横目でマレスを見ながらクレアが呟く。

「そうですよー、お姉様」

 マレスはクレアの椅子を回して正面を向かせるとその両手を握った。

「お、お姉様?」

 びっくりした表情のクレアが顔を上げる。

「そ。クレアさんはわたしのお姉さんです。今決めました。今から私たちは姉妹です。わたしが妹、クレアさんはわたしのお姉さん」

「お、お姉さんって、私は何をすればいいんですか?」

「なーんにも。クレア姉さまはクレア姉さまのままでいいんです」

「クレア姉さま!」

 クレアは今にも卒倒しそうだ。人工知性体が失神したら富田や小高の論文の恰好のネタになりそうだ。

「じゃあクレア姉さま、話を続けようか」

 俺はクレアに助け舟を出した。

「和彦まで、やめてください」

 怒ったように言う。だが、その顔は笑っていた。

 俺は椅子を回すとクレアに尋ねた。

「例の補習教材な、届いているか?」

「はい。今朝携帯メモリーが届きました。高畠警部はITリテラシーが低いですね」

 クレアが宅急便の黄色い封筒を差し出す。

 政府各機関には情報を交換するための高度暗号通信システムが完備されている。ファイル転送に関しても同様だ。それなのにデータをメモリーに格納して物理的に送りつけてくるとはいかにも高畠らしかった。

「いや、あながちそうとも言えん。誰にも見られたくなかったらこの方が安全だからな」

「なるほど」

 俺は封を開くとメモリを取り出した。

「これ、指紋認証されているメモリーじゃないか?」

メモリーの後端には指紋読み取り用のストライプがついていた。

「ですね」

 クレアが俺から受け取ったメモリーを自分のターミナルのコネクターに挿す。

「暗号化されています。エクスカリバーに送りますか?」

 米国国家安全保障局NSAのエクスカリバー・システムは彼らが長年運用してきたエシュロン・システムを補完する為に新たに作られた、超大型の量子電算装置だ。かつてNORADの地下司令部があったシャイアン・マウンテン地下空軍基地跡に設置された一テラ量子ビット《Qbit》を誇るこの化物コンピューターの機能はただ一つ、暗号電文の解読だ。このシステムが切り裂けない暗号は存在しない。木を断つかのように鋼を断つ。伝説の剣の名前を与えられたこの量子コンピューターは、その膨大な演算力にものを言わせて全ての暗号を必ず復号してしまう。

「今月はまだ三分ほど専有演算時間の残りがありますけど……」

「いや、たぶん……」

 俺は試しに指紋読み取りストライプを左手の人差し指で撫でてみた。

 メモリーの後端のパイロットランプが赤から緑に変わる。

「あら、開きましたね」

「あの野郎、いつの間に俺の指紋を」

 いつもの高畠の下衆なアピールだ。不愉快な男だ。

「なにが入っているんでしょう?」

 クレアはメモリーの中身を展開した。

「……なるほど」

 中に入っていたのはどこかの会社の会社説明資料と二通の報告書、それに六本のビデオだった。

 クレアが六本のビデオを同時に再生する。

 壁面の大型モニタに映し出されたのは、それぞれ違う角度から撮影されたレディ・グレイの姿だった。撮影された日時が異なるらしく、レディ・グレイの服装や天候が違う。ビデオの右下にタイムコードが表示されているところをみると警視庁の公式な捜査資料のようだ。

「あら? この人」

 クレアがビデオの一つを停止させ、画像を拡大する。

 映し出されたのはレディ・グレイの耳元の拡大映像だった。左耳の後ろに直径二センチほどの円盤状のものが見える。

「この人、長期記憶障害者です。あれは記憶チップを外部の記憶媒体と繋ぐためのインターフェースモジュールです」

「じゃあ、この人も被害者なの? JAL九二〇八便のエンジンに細工した人たちみたいに?」

 マレスがあからさまにがっかりした表情を見せた。

「やっと……、やっと辿り着いたと思ったのに?」

「いいえ、マレス、それはまだ判りません」

 クレアは言うと二通の報告書を開いた。

「ここに何か書いてあるかも知れません」

「高畠は嫌な奴だけどな、奴がただ俺たちを担いで得をするとは思えない。あいつは利に敏いからな、理由もなくそんなことをするわけがない」

 俺はマレスに言った。

「昨日高畠が話していたことは本当だと思う。この女性がレディ・グレイだと考えて間違いはないだろう。だが、何かありそうだ。読んでみよう」

 俺たちはタブレットに報告書を受け取ると黙って読み始めた。


+ + +


 結論から言うと彼女はレディ・グレイであり、同時に岡田桂姫カンジョン・ケイヒだった。

「なんてことを」

 先に読み終わってしまったクレアが口元に右手をやる。

「なにが判ったんだ?」

 俺はクレアに尋ねた。こっちはまだ最初のファイルの半分も読み終わっていない。

「レディ・グレイはもはや人ではないんです」

 クレアは言った。

「彼女は言わば集合知、彼女は多数の人物の記憶の集合体です」

 クレアは大型モニタに映った岡田桂姫の耳の後ろのインターフェース・モジュールを指で示した。

「彼女は、岡田桂姫カンジョン・ケイヒは人々の記憶、いえ、知識を欲したんです。そのために記憶チップの移植を受け、人々から生活史のすべてを吸い出してこれを自らのものとしたんです。その中に大昔の女性テロリスト、レディ・グレイの記憶もあるようですね。経緯はよく判りませんが、以降彼女はレディ・グレイになったんです」

「記憶を吸い出すったって、それにも記憶チップが必要なんだろう?」

 俺はクレアに尋ねた。

「はい。ですから最初のうちは対象が限られていました。でも彼女は新しい方法を編み出したんです。彼女はナノマシンを使う方法を考えついたんです」

 クレアはレポートの中にあった図を大型モニタに表示させた。人間の脳の模式図に複数の細い線が書き加えられている。

「彼女が作ったナノマシンはどうやら人体に侵入すると脳を目指すようです。ただ、ここからが彼女の技術の重要な点なのですが、このナノマシンはなんらかの手段で脳内に回路を形成するんです。これを使えば記憶チップを移植しなくても脳から直接情報を抜き取ることが可能です。しかも逆も然りで、同じ経路で記憶の移植も可能だという研究結果が二本目のレポートに書いてありました。回路形成には何時間もかからないようですね。拉致された翌日に解放された技術者の脳から指先までに通信回路があったという記録がありました。公安が欲しがる訳です。この技術は危険です」

「でもこれを彼女が作っている証拠がない、そういうことか」

「はい、おそらくそうです」

 クレアは頷いた。

「あるいは、危ない橋は私たちに渡らせようとしているのかも知れません。自分たちの手を汚したくないから」

 クレアが顔を上げた。

「でもこれではっきりしました。彼女がJAL九二〇八便を落とした主犯だと考えて問題ありません。この人なら十分に可能です。この人は人間の記憶を外部から操作することに関する専門家なんです」

「……この人がわたしの敵、わたしの家族を殺した人」

 マレスはぽつりと呟いた。

「クレア姉さま、彼女は今どこにいますか?」

「ジェネラル・ナノ・インデックス社です。肩書き上、彼女は今はそこの主幹研究員です」

 クレアは大型モニタにジェネラル・ナノ・インデックス社の外観写真と会社資料、それに地図を表示させた。

 高畠の寄越した会社資料によれば、ジェネラル・ナノ・インデックス社はナノレベルの化学マーカーの製造を主に手がけている会社のようだ。スタートアップらしく、社屋は表参道の本社社屋のみ。最近はバイオマーカー分野にも進出しようとしているようで、医療系の商品が製品ポートフォリオに並んでいる。

「ずいぶんと洒落た場所におかしな会社があったもんだな」

 ふと俺は、マレスの雰囲気が変わったことに気がついた。

 いつもの無邪気な雰囲気が消えている。

 これは、マレスに初めて出会った時に感じた不思議な威圧感と同じだった。

「和彦さん、クレア姉さま、もうその会社はレディ・グレイに完全掌握されていると考えるほうが無難です」

 マレスは大型モニターに表示された会社資料を見つめながら落ち着いた表情で口を開いた。

 別段、殺気立っている訳でも、平静を失っている訳でもない。

「過去、彼女と協力関係にあった組織は存在しません。彼女と接触すると必ず乗っ取られてしまうんです。この会社もおそらくもう彼女のものです」

 だが、マレスから少女のような表情は完全に消えていた。

 今、ここに居るのは俺の知っているいつものマレスではない。

 瞳の色が違っている。

 今、俺が見ているのは、『ブラッディ・ローズ』と渾名される歴戦の、しかしとても孤独な女性兵士の姿だった。

「作戦計画を立てましょう。侵入は簡単です、なんとでもなります。まずは脱出ルートの検討から始めましょ? 最低でもプランCくらいまでは考えないと」

「あ、ああ……そうだな」

 気圧されながらも俺はフォーマットを開くと、二人と共に作戦計画書の起案を始めた。


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