6. 二〇三九年六月一日 一九時〇五分

新宿旧市街


 俺たちは磯貝医務官から届いた報告書の要約をクレアから聞きながら新宿の旧市街に向かっていた。

 道路の多重化は国土再開発計画の一環として策定された一連の都心再生計画のうちの一つだ。

 首都高速をはじめとする主要幹線道路の慢性的な渋滞に悩まされてきた国土交通省は、幹線道路の地下にもう一つ道路を作った上で、出口の少ない高速レーンとアクセスの良い低速レーンを分離することで交通渋滞の解消を図ったのだ。

 だが新宿駅周辺にはすでに地下鉄が網の目のように廻らされていたため、地下に道路を作ることができなかった。そこで無謀にも新宿駅周辺地域では既存の道路の上に高速レーンが建設されたのだが、結果、ただでさえ醜悪だった新宿駅周辺の景観はかつての九龍城のように雑然としたものになってしまっている。

「面白いものが見つかっていますよ。五人とも脳の海馬体周辺、脳室内から妙なナノマシンが見つかりました。先に指示しておいて正解でした。通常の解剖では摘出できなかったと思います」

 車を甲州街道に出し、新宿駅に向ける。俺は少し考えてから新宿駅南側の第二テラスをくぐる高架道路へと車を走らせ始めた。

「五人? 四人の間違いじゃないのか」

 ステアリングを切りながら後席のクレアに尋ねる。

「いえ、五人です。墜落したヘリコプターからパイロットが見つかったんです。磯貝医務官の下には五人の遺体が送られていました」

「そうか」

 旧南口の前を通り過ぎ、テラス下に設置された太陽灯の明るい光を浴びながら駅東側へと向かう。

「ナノマシンの詳細は不明です。緑膿菌をベースにしたもののようです……面白いですね、初めて聞くタイプです。不思議なのは海馬体周辺に記憶チップが見つからなかったことですが、ナノマシンがなんらかの機能を持っていた可能性は否定できません」

 第二テラス下を抜けると目の前に新宿マルイ・メガプレックスの店舗が見える。迫る夕闇の中、駅の空中テラスとほぼ同じ高さの巨大な赤い球体の表面にはさまざまなメッセージやビデオが流されていた。

 多くは近々始まる夏のバーゲンセールや上映中の映画の広告だが、中には個人で購入したと思われるくだらないものもあった。今、目の前を流れている白い文字のメッセージは『亜土夢君お誕生日おめでとう──大好き』というかなりしょうもないものだ。

 それにしても、と、俺は隣のマレスに目をやった。

 さっきまでしゃべりまくっていたマレスが妙に静かだ。

 目の合ったマレスがなぜか頬を赤らめながら慌てて目を逸らす。

 一体何を考えていたのか。少なくともクレアの説明は半分もマレスの頭には入っていないように思えた。

 マレスは少し慌てた様子で窓の外に目をやると、誤魔化すかのように一際目立つマルイ・マルチプレックスの広告を指差した。

 横髪から覗く耳が赤い。顔はもっと赤くなっていそうだ。

「へ、へえ、お誕生日メッセージも流せるんだ。素敵ですね」

 背を向けたまま、俺とはまるで正反対の感想を述べる。

 俺はそれを聞き流すと

「他に有効な情報は?」

 と背後のクレアに尋ねた。

「特には。結局、解剖で判ることは死因と死亡推定時間、それにその他の特徴程度ですからね。そのうち二つはそもそも私たちが原因なので、どうしても新しい情報は限られます」

「まあ、元々記憶チップの有無を確認するのが目的だったしな。しかし、そうなるとやっぱりあのおっさんに話を聞かないといかんか」

 俺は新宿四丁目のランプで甲州街道を降りると、明治通りから新宿三丁目へ抜けた。交差点を過ぎたところでUターンし、交差点の角の交番前に停められていたパトカーの後ろに駐車する。

 二人が降りてから厳重にロックし、念の為に防犯システムを起動。

 ドアノブに手をかけた者を高電圧の電撃で昏倒させる強力なものだ。

「マレス、俺がいいというまでは絶対に車に触るなよ。痺れるだけじゃ済まないからな」

「はい」

 マレスが神妙な面持ちで頷く。

 歩道に上がったところで制服警官に捕まった。

「ここが駐車禁止だってわかっているんですか?」

「ああ、知ってるよ」

 制服警官に防衛省の身分証明書を見せる。そもそもスケルツォのナンバープレートは防衛省の00《ゼロゼロ》ナンバーだ。気がつかない方がどうかしている。

 若い警官は一瞬、しまったという顔をしたが、すぐに踵を合わせると俺たちに対して敬礼した。

「失礼しましたっ!」

 目立つからそういうことは止めてほしいのだが、こればかりはどうにもならない。

「気にしないでいい」

 俺は敬礼する警官に軽く答礼した。俺の後ろにいたマレスも背筋を伸ばして警官に敬礼を返す。

 ちょうど良い機会だったので、俺は逆に高畠警部の居場所を知らないか尋ねてみた。

「公安部公安第四課の高畠警部の居場所を知らないか? この辺に居るとは思うんだが」

「本官は高畠警部という方を存じ上げません。新宿署の方ですか?」

「いや、本庁だ。知らないならいい。ありがとう」

 所轄署に公安部がないことも知らないような警官とは話すだけ無駄だ。

「車の見張りをよろしく頼む」

「了解しました」

 俺に対してもう一回敬礼。

「念の為に言っておくが、車に触ると君、死ぬぞ。気をつけてくれ」

 俺は警官に背を向けると新宿四丁目の方へ歩き出した。

「失礼します」

 律儀に挨拶するマレスの声が背後に聞こえる。育ちが良すぎるのも考えものだ。

 マレスはすぐに俺に追いつくと、俺の隣に並んだ。

 押し出される形でクレアが少し後ろに下がる。

「高畠警部ってどなたなんですか?」

 距離が近い。

 黙って歩く俺に肩をぶつけそうにしながら、マレスが横から尋ねる。

「警視庁公安部の万年警部だ。新宿が好きらしくてね、この時間なら絶対この辺にいるだろうと踏んだんだが」

「へえ」

「嫌なおじさんですよ。マレスさんも気をつけてください。特にお尻に」

「触るの?」

「触るんです。いえ、より正確には撫でる、かしら」

 後ろから淡々とした表情でクレアが答えた。

「撫でるんだ。嫌だな」

「触られたら投げ飛ばしてやればいい。マレスなら出来るだろ?」

 なんとなく愉快な気持ちになって、俺はマレスをからかった。

「できますけど、触られるのは嫌です。触るのはもっと嫌」

 マレスがまるで忌まわしいものでも見たかのような表情で答える。

「なんだったら触られる前に投げ飛ばしてもいいぞ。喜ぶかも知れん」

「うわ、なんだか行きたくなくなってきた」


 俺達が向かったのは甲州街道の両側に広がる新宿駅旧南口の旧市街だ。頭上を空中テラスに覆われたこの場所は日中でも黄昏時のように薄暗い。どこか湿っぽい、地下とも地上ともつかない薄暗い街では夜の店が一日中レトロなネオンサインを輝かせている。通りの向こうにはきらびやかなJRAのカジノの外観が微かに見える。

「でも、当てずっぽうですぐ見つかるもの?」

 マレスはきょろきょろと周囲を見回しながら俺に尋ねた。

「一軒一軒覗いてまわるの?」

「まさか」

 俺は答えて言った。

「高畠の居場所を確実に把握している人がいるんだ。その人に聞けば一発さ」

「へえ」

 夜はまだ浅いのに、新宿の旧市街にはすでに人が溢れていた。

 俺たちは酔いつぶれているホームレスを踏まないように気をつけ、正体不明の募金を断り、パブの軒先に群がる人ごみを掻きわけながら先を急いだ。

 目的の人物はいつもの様に閉店した大型スポーツ用品店の前に机を出していた。

 ワインレッドのテーブルクロスに覆われた小さなテーブルの上には、

『東洋の神秘、易──あなたの運命を占ってさしあげます』

 と下手な字で筆書きされた小さな白い灯籠と箸立ての様な筮竹が置かれている。

 その男はひさしの大きな黒いソフトにピンストライプの三つ揃いという、占い師とはとても思えない服装をしていた。

 長い脚を大股に投げ出し、御丁寧にも白いシルクのマフラーまで肩から下げている。

 殺し屋とまでは言わないが、少なくとも占師と言うにはかなり無理がある。

 俺はマレスとクレアの二人を従えたままテーブルの前に置かれた小さな椅子に座ると、

「准将」

 と声をかけた。

「んあ?」

 腕を組み、うとうととまどろんでいた男が俺の声に顔を上げ、人差し指でソフトのひさしを持ち上げる。

 影になっている顔の中で右の義眼だけが緑色に光る。

「……なんだ、和彦か。客だと思って張り切ってソンをした」

 ソンをしたという割にはさほどがっかりしていない様に見える。

「その准将の恰好ナリじゃあ客なんて来ませんよ」

 俺は准将に皮肉を言った。

「そうかね? レトロ回帰が流行りと聞いて新調したんだがな。ダメかね?」

 四本の傷跡が走る、痩せた片頬に笑みを浮かべて准将が言う。

「ダメってことはないですが、しかし趣味も程々にして頂かないと」

 言外に他の意味も込める。そもそもこんなところで易占をしている事自体が不釣り合いな人物なのだ。

「ここで人を見ているのが楽しくてな。こんな楽しいことはとても止められん」

 准将は俺の言葉には耳を貸さず、俺の背後の二人に目をやった。

「おや和、ずいぶんと綺麗な子を連れているじゃないか。しかもこの前まで一人だったのにもう一人増えておる。悩みはそれか?」

「あら」

 何を勘違いしたのかマレスが両手を頬にあて、顔を赤らめる。

「なんだったら俺が古い方を引き受けてもいいぞ」

 色気たっぷりにクレアに向けて片目をつぶる。

「違います。准将、高畠警部の場所を特定していただきたいんです」

 くだらない話に付き合う時間はない。俺は准将を遮ると、簡潔に要件を告げた。

「公安のバカ畠警部殿の居場所か?」

 つまらなそうに准将が言う。

「はい。准将ならご存知でしょう?」

「いかにも。よろしい。占ってしんぜよう」

 准将は筮竹を取ると、まるで本物の占い師のように両手の中でガシャガシャ言わせ始めた。やがて筮竹を扇状に開き、中から抜き出した一本をじっと見つめる。

「ウム。待ち人は……」

「いや、そういう演出は結構です」

「まぁったく、おまえは変わらんなあ」

 准将は溜息を漏らした。

「和、おまえ真面目すぎるのも考えものだぞ。……待っちょれ」

 彼はポケットから薄い携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。すぐに相手が出たとみえ、話し始める。

「私だ……挨拶はいい。公安の高畠警部は今日はどこにいる? ……すぐにわかるだろう? 判らないなら今探せ……そう、そのバカ畠だ……」


 高畠は歌舞伎町にある老舗の中華料理店で見つかった。

「すごいですね、あのおじさんは何者なんです? 和彦さんは『准将』って呼んでいたけど」

 マレスが尋ねる。

「俺が所属していた大隊の元司令官だよ。俺が除隊する一年位前に何を思ってか急に引退してしまったんだが、今はなぜか新宿旧市街の顔役兼占師をしているという訳だ。立場上、警察の動きには常に目を光らせているから、警察関係者を探すならあの人に聞くに限る」

「へえ、面白い人ですね」

「ああ。まあ、そうだな」

 俺も准将が急に、引退を決めた経緯を知らない。俺は肩を竦めた。

「人にはその人なりの考えがあるからな。世の無情でも感じたんだろう」

 甲州街道のガード下を抜け、テラス下の街を突っ切って歌舞伎町に向かう。

 歌舞伎町の中でも、権利関係が曖昧なこの一角はいまだに再開発の手が充分に入っていないこともあって混沌とした猥雑さを見せていた。

 色鮮やかなネオンの下、韓国、中国、ロシア、そして日本の風俗店が凌ぎを削り、男だか女だかすら判らない整形美人が艶然とした視線を送る。相手が男性、女性お構いなしだ。

「こっちです」

 今だに営業出来ていることが不思議なバッティングセンターの横を抜け、クレアが先に立って裏路地の細い道を案内する。

 クレアがいる限り、道に迷うことは有り得ない。

 クレアがくねくねと折れ曲がった路地を抜け、俺たちを歌舞伎町の最深部へと誘って行く。

「ここですね」

 俺たちは歌舞伎町の路地裏の古いビルの狭いエレベータに乗り、八階に上がった。

 上海茶房はかれこれ五十年近く新宿で営業している中華料理の老舗だ。二十四時間営業のこの店には常に客足が途絶えることがない。味を日本風に調整していないことが売りで、料理は現地に限りなく近い本格派だ。

「なーんか、いろいろスレスレな感じ」

 耳元でマレスが囁く。

「いらしゃーい」

 店内に足を踏み入れるなり、レジの前に座っていた赤いチャイナ服の女性が立ち上がって両手を広げた。

「お食事か? お酒か? ハピーアワーで今ならお酒は半額よ」

「いや、待ち合わせ」

「上海蟹あるよ。今、旬。蒸すか、生か。まだ、生きてる。見るか? カニ」

「まだ生きてるってなんだよ。だいたいあれは秋だろう」

「最近はいつも旬。いつも美味しい」

 まだセールストークを続ける女性には構わず、相手の肩越しに店の奥を探す。


 高畠は薄暗い店の奥の円卓で若いホステスと思しき派手な女性たちに囲まれ、まさに宴たけなわのご様子だった。おそらく夜の出撃準備なのだろう、北京ダックや毛血旺マオシュエワンをはじめとする精のつきそうな中華料理が大きな円卓にこれでもかと盛られている。どうせ払いは店持ちだ。中には蠍の唐揚げや蚕の蛹の塩茹でのようなゲテモノ料理まで並んでいた。

 高畠の隣には目付きの鋭い婦人警官がいつものように寄り添っていた。

 どうした経緯かは判らないが、彼女は高畠警部の副官だ。そもそも警察官に副官など付かないはずなのだが、なぜか彼女はまるで影のようにいつも高畠に付き従っている。

 俺は無駄口を発さないこの香坂という名の婦人警官が苦手だった。

 顔立ちは綺麗なのだが、三白眼の目つきが気に食わない。まるで人型の爬虫類に睨まれているような気分になる。

「あーら、沢渡さん」

 いつものように彼女は高畠よりも先に俺に気付くと、立ち上がってこちらに歩いてきた。

 香坂は俺と同じくらい背が高い。

 確かに、上背のある女性にはハイヒールが似合う。だが、首筋の見える左右非対称のボブカット、黒いタイトなパンツスーツに真っ赤なエナメルのハイヒールという彼女のいでたちはとても警官とは思えない。よほど形の良い胸が自慢なのだろう。いつも胸を強調した服装をしている。スーツの下はブラウスではなく丈の短い真紅のビスチェだ。腹を晒した警官なんて聞いたことがない。

「久しぶりじゃないですか。今日はどうしたんです?」

 言葉は親しげだが目がまったく笑っていない。光のない黒い瞳が油断なく俺たちを観察する。おそらく武装を探っているのだろう。

「ちょっと高畠さんに教えて欲しいことがあってね」

 ここは下手に出るに限る。この女が殺る気になると本当に恐ろしいのだ。


 対する高畑はオールバックに撫でつけた額の生え際が後退し始めている、背の低い冴えないおっさんだ。

 高級そうな茶色のダブルのスーツを着ているが、それがまったく似合っていない。袖が少々長すぎるようだ。完全にスーツに着られてしまっている。

「や、や、これは沢渡さん、お久しぶりですッ」

 高畠がおおげさに両手を広げて歓迎の意を表する。

「これ、静音しずね、沢渡さんたちにもお席を用意して」

 香坂は頷くとそばのウェイトレスに、

「小姐、請安排三個座位シャオジェ、シアンパイサングゥツォウェイ

 とだけ簡潔に告げた。

 大陸系のウェイトレスが簡素なスツールを運び込むのを待ってから、各々高畠たちの正面に座る。

 派手なホステスたちに囲まれ、二人とも少々窮屈そうだ。だがホステスたちは構わずさっそくマレスやクレアの腕に触ったり服について論評したりと騒がしい。

「あなたかわいーわー、お名前は?」

「き、霧崎マレス、です」

 マレスがたどたどしく答える。明らかに困惑している。

「やだー、怪我してるじゃない。女の子はお顔を大切にしなくちゃダメよ」

 ホステスの一人がマレスの頬の青い打撲痕を撫でる。

「なんでそんな服着てるの? マレスちゃんはねー、もっと華やかな服が似合うと思うわー。パンツルックはダ・メ・よ」

「そ、そかな?」

「クレアさんの服ステキ。そのブラウス、チャイナ服風なのね」

 一方のクレアはベタベタ触られながらも超然と背筋を伸ばし、黙って座っている。ホステスたちに目を向けることすらしない。

「白い服はどう? 試してみて欲しいなー」

「髪は染めないの? 茶色って地味じゃない? もっと明るい色がよくないかな、ピンクとか、スカイブルーとか。メッシュも素敵よ?」

「あのね、マレス、パンティはTバックじゃないとダメよ、線が出ちゃう」

「やだー、ネイルしてないじゃない。マニキュア持ってないの?」

「マレスちゃんまつげ長いのねー、少しカールさせるともっといいわよ。やってあげようか?」

「……か、和彦さん、たすけて」

 高畠は目を細めてそんなホステスたちの様子を眺めながら立ち上がると、

「まま、一杯どうです?」

 水差しのような四角い酒器を片手に、円卓越しに紹興酒の酌をしようとする。

 俺は高畠を片手で制し、

「私が酒を飲まないのはご存知でしょう?」

 とだけ告げた。

「そんな、沢渡さん、昔はウィスキーのボトルを何本も空けたって聞いてますよ? いいじゃないですか一杯くらい」

 一旦座り直しつつ、なおも紹興酒の入った酒器を差し向ける。

 こいつは涼子が死んだ時に、俺がアル中になりかけた時のことを言っているのだ。知っているぞというアピールだ。

 最初は驚いたが、何回もやられるとさすがに食傷する。

「それはともかく、この人の居場所が知りたいんですよ」

 タブレットに岡田カンジョン女史の写真を表示し、ロックした上で円卓のターンテーブルに乗せる。ロックしておかないと他のページを覗き見される恐れがある。

「んー?」

 高畠はターンテーブルを回すと自分の前に持ってきたタブレットを手に取り、画面に目をやった。

「ははあ」

 高畠の瞳から一瞬、光が失われる。快活な表情が壊れ、奥からどす黒い彼の本性が顔を覗かせる。

 高畠は酒器を円卓に置くと、黙ってタブレットの内容に見入った。

 スクリーンを手繰り、写真を仔細に眺める。

 こいつは何かを知っている。これは、知っている上でどうしようかと思案している顔だ。

 睨んだ通りだ。

 高畠の所属は警視庁公安部の公安第四課だ。

 第四課は表向き資料係ということになっているが、実際に何をしているのかは実に不明瞭だった。資料係であれば庁舎に引きこもっていそうだが、その割に国内事案の捜査には常に彼らが活動した爪痕があった。

 高畠はそのなかでもとびきり胡散臭い人物だった。常に新宿を徘徊し、何が担当なのかを決して明かさない。その割には実に細かいところまで警察内部の事情に通じている。たまにどちらのことを探っているのかと疑いたくなるほどだ。

「それは簡単ですが、しかしこれは公式? それとも個人的興味?」

「公式な索敵行動ですよ」

「ははあ」

 内ポケットから細い老眼鏡を取り出し、もう一度岡田カンジョン女史の写真を詳細に眺める。タブレットだから簡単な操作で表示を拡大できるのだが、あえてその機能を使わないのが嫌らしい。

「面倒ですなあ。とは言え沢渡さんのお願いじゃあ断れないな、っと」

 高畠は立ち上がると円卓に両手を突き、なおもクレアとマレスをいじくり倒す五人のホステスたちを見回した。

「すまないけどみんな先にお店に行っててくれますか? この人たちが無粋にもお仕事を持ってきてしまったよ」

「はーい」

「アキラちゃんあとでねー」

「マレスちゃん連絡ちょうだいねー。色々教えてあげるから、がんばって」

 ホステスたちが高畠に愛想を振りまきながら席を立つ。慣れているのだろう。特に文句を言うでもなく、背中越しにひらひらと俺たちに手を振りながらそこだけ妙に明るい店の出口へと歩いていく。

 それまで騒がしかったホステスたちが去り、急に周囲が静かになった。

 濃厚な香水の甘い香りが消え、周囲に中華料理店本来の油とニンニクの匂いが帰ってくる。厨房から聞こえる、中華鍋と玉杓子の当たる音が大きくなる。

「さてと、これは高くつきますよ? どうしてくれるんです、この大量の残り物」

 高畠は芝居がかった仕草で俺に言った。

「食えばいいんじゃないか?」

「いやはや、相変わらず冷たい。人間、愛嬌が大切ですよ、沢渡さん」

 ねえ、と言いながら隣の香坂と目配せする。

 香坂は艶然と笑ってみせるが、それでも目は笑わない。愛嬌が聞いて呆れる。

「どれくらい時間がかかる?」

 俺は高畠に尋ねた。

「さぁてねえ、明日の朝には判るかもしれないし、一週間以上かかるかも知れませんなあ。でも沢渡さん、見つけてどうするんです?」

「言うまでもない。殺すのさ」

「レディ・グレイを? そりゃまた大胆な」

 写真しか見ていない女性を高畠がレディ・グレイと呼んだことを俺は聞き逃さなかった。

「やはり、知っているんだな」

「そりゃあ、ねえ」

 高畠は椅子の背に身を預けると両手を大きく広げてみせた。

「国内の脅威はわたしの管轄ですよ。知らない訳がないじゃあないですか。もっとも、どの件かにもよりますがな」

「じゃあ、記憶チップと言えばもう少しシャッキリするかな?」

「ははあ」

 高畠が組んだ両手に顎を乗せ、上目遣いにじっと俺を見つめる。

 無言の凝視。

 何を考えているかわからない分、余計に気味が悪い。

「…………」

「おい、高畠の旦那よ」

 いい加減耐えかねて俺が再び口を開こうとしたその時、高畠は急に表情を緩めると一人頷いた。

 人が良さそうな好々爺の笑顔。

 だが、バカ畠の人となりを知っている俺にはあまりに白々しい。目が笑ってないぶん、なおさら気味が悪い。

「は、は、なるほどね、判りましたよ」

 言いながら高畠はマレスに横目を使った。

「JAL九二〇八便ですか、それなら判ります」

 JAL九二〇八便と聞いてマレスがギクリと反応する。

「なにしろそちらのお嬢さんは霧崎教授の娘さんですからなあ」

 黒い瞳から光が消えた。

 再び薄気味悪い笑みを浮かべる。

「市ヶ谷に核弾頭みたいなすごい新人が入ったって本店でも評判ですよ。霧崎さんはお強いみたいですなあ」

「あんたもさすがだな、もう耳に入っているのか。マレスは強いぞ。うちの姫様は俺よりも強い」

「ははは、沢渡さん、そりゃ凄いですな。サイボーグ・ハンターの異名を持つあんたよりも強いって、そりゃもはや人間じゃない」

 高畠はおどけたように言うと、広くなってきた額をぱちりと片手で叩いた。

「和彦さん、ほんと?」

 マレスが妙なところに反応する。

「ああ。マレスは強い。頼りになる」

 俺はマレスに言うと高畠に尋ねた。

「だが、なぜあんたがマレスのことを知っているんだ」

「ほら、先般の帝国ホテルの件ですよ。あれでもうマレスさんは一躍有名人の仲間入りですわ」

 一匹狼が多い特務作戦群と違い、警察は群の論理で行動する。横の繋がりで情報が広がるのは思ったよりもはるかに速いようだ。その上高畠は警視庁内に強力な情報網を持っている。考えてみればマレスのことを知らない訳がない。

「しかしですな沢渡さん、仮にあんたがたがJAL九二〇八便の件を追っているとして、じゃあなんであんなに殺してるんです? 意味不明ですよ、あんたがたの行動は」

「なぜですか? 私たちがしているのは一般的な殲滅行動です」

 クレアが尋ねる。

「無辜の一般市民を殺すなとわたしは申しているんです」

 高畠はクレアを睨みつけた。

「あなた、これが日本初の記憶改竄事案だって気づいていますか、沢渡さん?」

 記憶改竄。嫌な言葉だった。

「記憶改竄というのはどういう意味だ?」

「やはり気づいておられない。ま、知っていればあんな間抜けをする訳がないですからなあ」

 嫌味な冷笑を浮かべる。

「沢渡さん、経緯はともかく、わたしに話を聴きに来られたのは慧眼でした」

 急に真剣な顔になると高畠は俺たちの顔を見回した。

 つと立ち上がり、コツコツと靴音を立てながら円卓の周りをゆっくりと歩く。

「ここからは万年警部の独り言ということで」

 オフレコです、と立てた人差し指を口に当てる。

 動作がいちいち大げさだ。

「むろん、他言無用でお願いしますよ、沢渡さん。もっとも、そのロボットのおねえさんがいらっしゃるんではあんまり意味はないかも知らんが」

 クレアの後ろを歩きながら冷たい目つきで言う。クレアは素知らぬ顔だ。

「今日の昼間にあんたらが殺した二人ね、あの二人は知り合いでもなんでもない、全然無関係な二人なんですよ」

「市ヶ谷駅の件か?」

「そうそう。あの二人はね、その場で出会ってなんでか意気投合してコンビニを襲ったんです。これが何を意味するか判りますか?」

 俺の背後で高畠が言う。

「いや、さっぱりわからん」

「マレスさん、あなたはどうです?」

 高畠はまるでクイズ番組の司会者のように、大仰な仕草でマレスを指差した。

 通りすがりに右手がマレスの腰に伸びる。

 俺は黙って高畠の右手を掴むと、手のひらに親指を押し込んだ。そのまま逆関節に捻り上げる。

「あ、イタタ」

 高畠は大下座な悲鳴を上げると膝を突いた。

「おイタはいかんね、旦那」

 円卓の向こう側ですかさず香坂が立ち上がり、ジャケットの裾を弾いてショルダーホルスターに手を掛ける。

 高畠は片手でそれを制すると、よろよろと立ち上がった。

「ひどいことをしますなあ。肩がもげるかと思った」

「もいでもいいぞ」

「いや、結構。だいたい沢渡さん、もう今日はもう一本もいだじゃないですか。二本はいらんでしょう」

 高畠は不愉快そうに俺を睨むとよろよろと立ち上がった。

 虚勢を張り、両手を腰の後ろで組み直す。

「ああ、どこまで話したんでしたっけ? 忘れてしまった」

「見知らぬ二人が意気投合したところまでです」

 マレスが助け舟を出す。

「ああ、そうでしたな」

 頷いてみせる。

「一人は阿佐ヶ谷居住のニート君、一人は韓国軍から逃亡中で神田に潜伏していたサイボーグですよ。出会うわけがないじゃないですか。帝国ホテルの連中にしてももそう。全員お互いに面識はありません。なにやら解剖したり検視したりしてるようだが、そりゃあ全くの無駄ですよ」

 高畠は半周回って椅子に座ると、ターンテーブルを回して蚕の蛹の塩茹でをつまみ始めた。

 くちゃくちゃと咀嚼音を響かせながら蚕の蛹を紹興酒で流し込む。

「どうですか、お一つ」

「いや、結構」

「元気になるのになあ。シルクプロテインですよ?」

 さらにもう一つ口の中に放り込む。

 口の中が白い。

「簡単に言えばですな、彼らは被害者なんですよ、記憶改竄の。いずれも例外なく外挿記憶に操られた哀れな被害者という訳でね、あんたら本来なら保護すべき被害者、無辜の市民をその手にかけとるんですよ。まあ、それに関してはこの件に限った話ではないが」

「それは」

 反駁するクレアを制し、俺は高畠に言った。

「それはお互い様だろう。公安だって似たようなもんだ」

「ふふふ、それは褒め言葉ですか? それとも貶し言葉?」

 高畠が上目遣いに嫌らしい笑みを浮かべる。

「あんたは、その改竄をレディ・グレイが行っているというのか?」

 俺の問いには答えず、高畠は黙って蚕の蛹を咀嚼し続けた。

 咀嚼音が不愉快だ。しかもわざと音を立てている。俺たちを苛立たせようとしているのだ。

 何かを黙って考えている。

 計算高い光が瞳に宿る。

 やがて高畠は音を立てて口の中の蚕を飲み込むと、妙に快活に俺たちに言った。

「ま、確かに、マレスさんの居場所を彼女レディ・グレイに流したのはわたしですよ」

「なに?」

 衝撃的な言葉に思わず問い返す。

「マレスさんをレディ・グレイに渡したのはわたしだと申しておるんですよ、沢渡さん。どうやら深い恨みをお持ちのようでねえ。そりゃそうでしょう、彼女の仲間はマレスさんとそのお仲間によって壊滅の憂き目に遭いましたからなあ」

 高畠は椅子の背に身体を預けると言葉を続けた。

「最初はね、簡単だったんですよ」

 香坂が高畠の空いたグラスに紹興酒を注ぐ。高畠はそれを一口啜ると、

「例えばJAL九二〇八便のエンジンを細工した犯人ね、彼らは脳に損傷を受け、長期記憶に障害がある人たちなんですなあ。五分もすればさっき何をしていたのかも忘れてしまう人たちなんです。そんな人たちの福音が記憶チップですわ。記憶チップで吸い出してどこかにしまっておけば短期記憶を長期記憶のように維持できるんですよ。何もかも忘れることができないという弊害があるとは言え、何もかも忘れてしまうよりはよっぽど良い訳でね」

 高畠は今度は毛血旺マオシュエワンをついばみながら冷たい瞳で俺を見つめた。

「気の毒なことです」

 少しも気の毒には思ってない表情で淡々と高畠は言葉を続けた。

「これに目をつけて記憶のすり替えを行ったのがレディ・グレイです。ただ、これだったら我々としてもさほどの興味はない。被害も限定的ですからな。むしろとっととお仕事を終わらせて半島なり大陸なりにお引取り頂いた方が日本のためです。という訳で、我々も影からレディ・グレイをお手伝いしていたわけなんですが」

 こいつ、とんでもないことを言う。

 なんて警官だ。

「ところが、ですなあ、沢渡さん、この記憶改竄が今では一般の人々にも起きているんですよ。レディ・グレイはどうやらとんでもないブレークスルーを見つけたようでね、彼女は同じことを脳障害を持たない一般の方々にも行えるようなんです……いやあ、満腹だ。さすがにもうこれ以上は食べられない。それもこれも沢渡さん、あんたのせいですぞ」

 高畠は声高にゲップを漏らした。

「こうなってくると我々としてもさすがに看過できない。なのでにわかにレディ・グレイからこの技術を頂くことが重要になったんですが、彼女もなかなかのものでね、今までのところこれについては不調です。そこでマレスさんの情報のお値段を少々釣り上げてみたんだが、どうもマレスさんは餌には元気すぎたようですなあ」

 高畠が嘆息してみせる。

「なぜ、そこまで俺たちに教える?」

 俺は高畠に尋ねた。

「そりゃあんた、賭け率の問題ですよ」

 何を言い出すのかという表情で高畠は俺に箸を突き出した。

「いいですか沢渡さん、レディ・グレイはわたしが知る限りもう四回かそこらはマレスさんの殺害に失敗してる。次はうまくいくと思う賭け師はいませんや。しかもあなたまで参戦したとなれば、こりゃもうレディ・グレイのオッズはダダ下がりってわけでね」

 妙に真面目な表情で俺を見つめる。

「馬を替えますよ。わたしらとしては結局、彼女の知識が欲しい訳でね、手段はあまり気にしていないんですわ」

「それだけ判っているのになぜご自分でやらないんですか?」

 クレアが高畠に尋ねた。

「沢渡さん、証拠って概念、ご存知?」

 高畠はクレアには答えず、代わりに嫌味ったらしく俺に言った。

「沢渡さんたちは軍人さんだから証拠なんて大して気にしないかも知れないですけどねえ、我々は公式に活動するためには証拠が必要なんです。だが、残念ながら証拠がない。捜査令状ふだが取れんのですよ。令状ふだがなければ我々は動けない、なにしろ警察ですからなあ」

 高畠が椀に残った毛血旺の赤い汁をずるずると啜る。

「沢渡さん。その突破口を開いてくれるんじゃないかとわたしはあんたらに期待しとるんですわ」

「あんた、俺たちに何をして欲しいんだ」

「いえ、何も。そんなことわたしの口からは言えませんなあ」

 ターンテーブルを回し、北京ダックの皿を目の前に運ぶ。

「ただ、誰かがレディ・グレイの研究室から情報を盗んでくれるとそりゃたいそう助かりますなあ。レディ・グレイの身柄が頂けるとなお結構」

 箸を使いながら俺を見つめる。

「そうであれば協力は惜しみません」

 高畠はしばらく俺を見つめていたが、やがて目を逸らすと北京ダックの最後の一片を皿から片付けた。

 北京ダックを頬張りながらにこりと笑う。

「しかし、ですなあ、殺すのはナシにして頂けると助かります。死なれちゃうとね、聞きたい話も聞けないもんで。死人に口なしでは困ります」

 席を立ち、口を拭った紙ナプキンを床に捨てる。

「さてと、わたしのお話はここまでですよ、沢渡さん。そろそろお店に行かないとあの子たちが待ちくたびれてしまうのでねえ。後はご自分でどうぞということで。補習教材は後でお送りします」


+ + +


「あー、マレスさん?」

 別れ際、ふと高畠はマレスを呼び止めると口を開いた。

「しかし、霧崎教授も酔狂なことをなさいますなあ」

「酔狂?」

 マレスがきょとんとした表情をする。

「あなたのお名前ですよ、マレスって名前。マレスってね、大昔のメキシコの伝説的なプロボクサーの名前なんですよ。たしか世界三階級制覇したんじゃなかったですかね」

「そうなんですか?」

「ええ。しかもマレスっていうのは本当は名字なんです。霧崎教授はよほどボクシングがお好きだったんですなあ」

 高畠は声を上げて笑った。

「まあ、マレスさんもお強いようですし、お父様の遺志はちゃんと継がれているようですな。きっとお父様もお喜びだと思います」

 エレベーターのボタンを押し、ドアを閉じる。

「では、失礼」

 高畠は閉じるエレベーターの中で腕を折りながら大仰に腰を屈め、まるで舞台俳優のようなお辞儀をした。

 腰を屈める高畠の前でドアが閉じる。


 しばらく待った後、誰も乗っていないエレベーターが帰ってきた。

 電子的なチャイム音を鳴らし、エレベーターのドアが開く。

 マレスは俯いたままだ。

「マレス、行こう」

 ショックを受けた様子のマレスを促すと、俺はマレスを店から通りに降りるエレベーターへと押し込んだ。

 古いエレベーターが軋みながらゆっくりと下降する。

 奥のくすんだ窓から新宿の夜景が見える。

 相変わらず煌びやかで、しかし、とても醜悪だ。

 隣のマレスは萎れたようにうなだれたままだ。

「あのね、和彦さん」

 エレベーターを降りた時、それまで沈んだ様子だったマレスが唐突に口を開いた。

「わたしの名前、変ですか?」

「マレス、って名前がかい?」

「うん」

 子供のようにマレスが頷く。

「いや、いい名前だと思う」

 高畠に言われたことを気にしているのだろう。

「わたしはね、わたしの名前が好き。この名前は父と母が考えてくれたんです」

 沈んだ声でマレスは続けた。

「わたしの両親は男の子が生まれたら日本風の名前、女の子だったらイタリア風の名前にしようって約束していたみたいなんです。でも、いざわたしが生まれたら急に父が強硬にマレスにしようって言いだしたんですって、音が好きだからって。前から決めていたみたい」

「でもそれはイタリア語ではないですね」

 と、クレア。

「そうなの。マレスってカタルーニャ語で『海のそば』って意味なんです」

 マレスがクレアの言葉を継いだ。

「だから母はちょっと反対したらしいんですけど、結局押し切られちゃったんですって。まあ、母もそんなに強くは反対しなかったみたい、音が綺麗だからって」

「素敵なお話ですね」

 妙にクレアが食いつく。

「素敵なお名前です。それに意味も」

「子供の頃、名前のことで虐められた時に母がその話を教えてくれたときはうれしかったな。わたしの両親はわたしたち姉弟の名前を海と空で揃えてくれたの」

「ばかだな、バカ畠が言っていたことを気にしているのか?」

 思えば、これも記憶改竄だ。

 ひょっとしたら、バカ畠は俺たちにヒントをくれたのかも知れない。

 思いもよらないところから外装記憶を与えられたら、例えそれが真実ではなくても信じてしまう。これは人の心の弱みに付け込んだ攻撃だ。

 気がつくと俺はマレスの肩を抱いてその細い身体を引き寄せ、髪をクシャッと撫でていた。

「あ」

 マレスが驚いたように声を漏らす。

 マレスの身体の温もりが胸に伝わる。

 しまった。

 慌てて手を引き、恐る恐るマレスの様子を伺う。

 だが、マレスは日向の猫のように気持ちよさそうに目を細めただけだった。

「俺は、君のお父さんもマレスなんてボクサーは知らなかったと思う。学者がボクサーを知ってる訳がないだろう。それにお父さんがボクシングを観ていたことがあったか?」

「いえ、たぶん、ないです」

「だろう? お父さんはきっと、海のそばが好きだったから自分の娘にもマレスって名前をつけたんだよ。いい名前じゃないか。カタルーニャ語のマレスなんて言葉を知っている人はそうはいない。きっと一生懸命探したんだろう。マレスに似合った素敵な名前だ」

「そう、そうですよね。ありがとうございます、和彦さん。少し元気になりました」


 マレスをホテルに送り、クレアとスケルツォを本部に戻してから俺は東北沢の古いアパートに戻った。 

 俺は妹の涼子と住んでいたアパートに今も住んでいる。2LDKの小さなアパートは涼子が巣立つまでの間、俺たちの新しい家になるはずだった。

 涼子の部屋はいまも手つかずのままだ。タンスに何が入っているかも判らない。形見を分けるべき親族もいないし、片づける理由もないから最後に一緒に出かけた時からずっとそのままにしてある。

 涼子は爆死した。

 渋谷で買い物をしていた時、目の前のブティックが爆発したのだ。

 涼子は目の前で粉砕され、粉々になって俺の全身に降り注いだ。

 一瞬前まで元気だった涼子は、肉と、骨と、そして大量の血液になった。

 いまでも涼子の部屋の扉を見るたびに、扉にかかったピンク色の『Ryoko』という表札を見るたびに胸がつかえる。

 俺は、涼子を守れなかった。

 一番大切だった、たった一人の妹を、俺は目の前で死なせてしまった。

 それを思い出したくないから、涼子のことを思い出したくないから、いまでも俺は涼子の部屋を片付けられない。

 きっと、涼子の部屋に入ればもっと涼子のことを思い出すだろう。見たことのある服や小物が並んでいることだろう。

 そのような部屋の扉を開ける勇気を、とても俺は持ち合わせていない。

 おそらく、俺はこの部屋を永遠に片付けることができない。

 この部屋は、このままでいい。

 家に入り、とりあえずシャワーを浴びる。部屋着に着替えてさっぱりしたところで次の仕事だ。

「ミャーオ」

 死の直前、涼子が裏路地で拾った黒猫が俺の足元にまとわりつく。

 クレアがアルと名付けたこの黒猫は、何故か俺に懐いていた。アルの寝床は俺の上だ。勝手に乗ってくるくせに身動ぎすると文句を言う。最初は重たくて邪魔だったが、今はもう慣れてしまった。

 アルがゴロゴロと喉を鳴らしながら俺の脚に頭突きをして餌をねだる。

 俺はシンクの下からラミネートパウチを出すと、アルのために餌を皿に出してやった。

パウチから出した餌をフォークで潰し、食べやすいように盛り上げる。フォークを洗うついでに古い水を捨て、蛇口から出した水道水を水飲み用のどんぶりに注いでやる。

 盛大に喉を鳴らしながら食事を貪るアルの歓声を聞きながら、俺はキッチンの小さなダイニングテーブルに散乱していた模型飛行機の翼をどけた。

 今組み立てているのはラジコンモーターグライダーの左主翼だ。バルサ材のリブを一本一本組み立てる本格的な翼は気を紛らわせるのにちょうどいい。

 脱いだカーゴパンツのホルスターからベレッタを抜き、ワークマットを敷いたダイニングテーブルの上に乗せる。

 俺は片隅からクリーニングキットを取り出すと銃の整備を始めた。

 これは俺たちのような職業の者なら誰でも行う日常の作業だった。精密機械は手入れを怠るとその使い手を手酷く裏切る。一日の終わりに銃を分解整備するのは非常に重要な作業だ。

 狂った銃を作るのはヨーロッパのお家芸だ。

 俺が愛用しているベレッタはマガジンがバレルの下にある。

 六〇度の角度をつけて半透明のマガジンに収納された銃弾は、三〇度回転してチャンバーに送られる。この技術はベルギーのFN社の特許だ。P90の技術を流用して作れたこのマガジン構造は極めて巧妙だ。必要とあれば拡張マガジンも作ることが出来る。

 マガジンを抜いてからスライドを外し、ボロ布を巻いたクリーニングロッドにソルベントをしみ込ませてバレルの中を洗浄する。スライド内部とリコイルロッドをナイロンブラシで掃除し、レシーバーの可動部にオイルスプレーをごく薄く吹きかける。スマートガンユニットを外した統合制御コネクターに接点賦活剤を吹きかけ、パドルスイッチを操作して動作を確認。

 ボロ布で余分なオイルをふき取ってから、俺はベレッタを元通りに組み立てた。トリガーを引いてスムーズにハンマーが落ちることを確認する。次いで三本のマガジンにそれぞれ違う弾を装填し直し、銃とマガジンを別々にしたまま寝室の枕元に置いたガンロッカーにしまう。

 今頃マレスもホテルで同じ作業をしていることだろう。きっと腕の痛みに時折悲鳴を上げ、複雑なXMP34の構造に悩みながら、それでもバレルを洗浄していることだろう。

 ひょっとしたらクリスやホークも巻き込まれているかも知れない。

 賑やかそうなその光景を思い浮かべ、思わず笑みが浮かぶ。

『でも、和彦はどうするつもりなんですか』

 クレアが言った言葉が引っかかっていた。

 人を避けるのは習い癖のようなもので、今では習慣となってしまっている。

 表面的には親しくしても、俺は絶対に他人に踏み込ませない一線を作ってきた。

 誰を失っても傷つかないための距離を保つために。

 だが、マレスはほとんど暴力のような勢いで俺の殻を破壊しようとしている。猛烈な勢いで距離を詰め、さらにその先を求めている。

 マレスの存在が俺の中で徐々に大きくなって行く。

 すでに今日、俺はマレスを失う恐怖を十分に味わっていた。

 もう、あのような思いは懲り懲りだ。

 だが、ふいにマレスを避けることは何の解決にもならないことに気づき慄然とする。

 クレアは正しい。

 俺はすでにマレスに強く惹かれていることに気づいていた。

 マレスがいない生活はいまでは考えられない。

 マレスを遠ざけるのは簡単だ。ただ一言、山口にマレスは適正不足だと伝えるだけでことは済む。

 だがそうしたら最後、マレスと会うことは二度とないだろう。

 マレスを手元に置いておきたい。だがそれは同時に、何か途轍もなく恐ろしいことのように思えた。

 まったく、俺はどうしたいのだろう。

『でも、和彦はどうするつもりなんですか』

 答えはあった。だが、それを直視するのは怖かった。

『でも、和彦はどうするつもりなんですか』

 クレアの言葉が頭の中でリフレインする。

 俺はキッチンの電灯を消し、アルを連れてベッドに入ると毛布を頭まで被った。

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