第4話 あの聖夜を忘れない

 チャイムが鳴っている。何度も何度も鳴らされている。部屋の主は、それが聞こえているにも関わらず、ソファに沈んだまま動かない。

 訪問者は部屋の前ではなくエントランスのチャイムを鳴らしているはずだ。立ち入りを許さなければ、不審な行動として警告の後に管理室に通報されるだろう。やがてチャイムが鳴り止んだ。

 朱鳥は首をもたげて壁に投影された表示を見る。普段なら監視カメラの映像の上に、立ち入りを許可するか、通話するかなどのパネルが重なっているはずだが、真っ黒な画面に浮かんでいるだけだった。ついでに時間を確認すると、もう夕方のようだ。

 しばらくすると、またチャイムが鳴り出した。今度は扉を叩く音もする。それらが止んで、次は扉が開く音がした。玄関を上がり、朱鳥のいるリビングへ向かってくる足音が、一人分ではなかった。

 扉が開いて、リビングに入ってきたのは、斉藤恵と、三島湊だった。

「どうして」

 朱鳥は思わず口を開いていた。

「……無断欠勤なんて、何かあったのかと、端末も切ってるみたいで、心配になって……。チャイム押しても全然出てくれませんから、ええと……」

 湊の言葉は途切れ途切れだった。朱鳥の姿を認められて、不安は解消されてもいいはずだが、何かを捜すように部屋を見回している。朱鳥の様子にも怪訝な視線を送る。

「私も、気になることがあって訪ねたのだ。すると、下で三島さんが困っていたようなのでな。ついでだから二人で来たのだ。貴様がまったく反応しないようなので、鍵などは無理矢理あけてきた」

 そう言って、恵は掌に小さいスパークを起こした。湊はそれを、少し怯えた様子で静かに見ている。

「しかし、もしやと思って来てみれば貴様……。エル=クローズはどこへやった」

「かえしましたよ、『教室』に」

「……あれだけ私に楯突いておきながら、すんなりとかえしたというのか」

「なんですか、不満げに。斎藤さんは聖人が俺といるのは駄目だって言っていたじゃないですか」

「引き留めなかったのか?」

「あいつが自分から、かえるって言ったんですよ。俺はあいつに言われて守っていただけだ」

 エルを匿ったのも、恵に対峙したのも、エルがお願いしてきたからにすぎない。自分の意思なんてない。無理にエルを縛り付けるメリットなんて、白濁した汚い欲だと見なされる。自分にはそんなものないのだ。

「俺が勝手にかえしたから不満ですか。そういえば、エル=クローズを確認できなければ、即、対応するとか言ってましたね。そうですね、俺、実はもう魔人になってて、てきとうなこと言ってるだけかもしれませんしね。今すぐ消しますか。俺も、ただじゃやられるつもりはありませんよ。ま、最強相手じゃ、結果は見えてますかね……」

「貴様……」

 恵が両手で球を形作る。手の中に青白い光がはしる。朱鳥は動こうとしなかった。

 甲高い音が一つ鳴った。雷撃ではない。恵はその光景に目を見開き、雷を消した。

「…………なんですか、その態度……!」

 湊が朱鳥の頬を引っ叩いたのだった。

「……叩くほどのことかよ」

「叩くほどのことです!朱鳥さん、エルちゃんと別れたことに納得してないでしょう?そんな拗ねた子供みたいな……。エルちゃんが好きな朱鳥さんは、そんな人じゃありません」

「知らないよ。他人の気持ちなんて、自分にとっちゃ幻だ。分かるだろ、湊ちゃんだって子供じゃないんだし。……仕方なかったんだ。魔法使いがぼろぼろになっていく様を見せつけられて、戦場かと錯覚するような場所にいたんだ。あの魔人と俺に決定的な違いはない。だから俺と聖人を引き離そうとした『教室』は正しいし、自分から『教室』に戻るっていったエルの判断は賢明だった」

「正しいとか、じゃないでしょう……。どうしてエルちゃんを見てあげないんですか……。私たちはたしかに大人げないかもしれませんけど、あの子は本当に子供なんですよ」

「見てたさ……。あいつは子供だけど……けど……」

 あのとき、立派に『理科室』に立ち向かおうとしたが、あのままエルが何もしなかったとして、俺ひとりでどうにかできたとは思えない。今こうして無事でいるのは、エルのおかげだ。「守って」と言わなかったのは、俺には守れないと冷静に判断してくれたからだろうし、イオのこともあって、これ以上自分の我儘で誰かを失いたくないと、思ってくれたからかもしれない。一日近い時間が経過して、今になってそう思う。あのときは、いつも通りに、強い力に流されていただけだ。

 俺はエルに大事に思われる価値はない。運命や奇跡の集合のような女の子と、ただの凡夫では、最初から釣り合っていない。収まるべきところに収まっただけだ。

「後悔はしているようだな」

 恵にそんなこと言われる理由が分からない。さっきからこの男の言動は『風紀委員』としてずれている気がする。朱鳥が何も言わないでいると、恵は勝手に言葉を続けた。

「橘朱鳥、エル=クローズが確認できなくなったことに対する、貴様への対応だが。私と同行し、エル=クローズを取り戻しに行くことだ」

「は?どういうことですか」

 支倉から聞いていた恵の悪評を思い出す。朱鳥の不審げな視線を、恵は軽く受け流していた。

「貴様が最近、私に隠れて接触していたのは、『理科室』だな?エル=クローズを引き渡したのも?」

「……ええ、そうですけど」

 どうしてそれを、とは聞かなかった。そもそもこの男には自宅の住所を教えてもいないのだ。情報網か、魔法か、情報などはどうとでもなるのだろう。

「『教室』ならどこへでも、聖人をかえせばいいという話でもないのだ。貴様は返却先を誤った、最悪だ。『理科室』といえば聖人も魔人も実験動物くらいにしか見ていない連中だぞ」

「そんな……でも、あんたに比べたらまともそうな人たちだった」

「結構な言われようだが、まぁいい。……聖人を攫うノウハウが確立しているそうだ。あの晩、聖人二人を逃してしまったのは、魔法による攻撃を受けたからだが、我々はそれが『理科室』の仕業だと踏んでいる」

「なんで『教室』同士で――」

「乗り気ではないか、エルを救いにいくのは」

 この男の、話を聞かずに真意を察して話を進める態度が、本当に気に喰わない。

「……エルが危ない状況に立たされてるって、俺のせいじゃないですか、それ。今更どんな顔で会いに行けば――」

「さっきも言ったがな、これは罰として命じているに過ぎん。流されるままエルを守ってきたというなら、私に脅されるまま、エルを救ったらどうだ」

「はっ、なんだそれ……」

 気持ちの整理はつきそうにない。恵に言わせれば、とりあえず動け、ということだそうだ。結局、『理科室』と『風紀委員』のどちらを信じるかというだけだ。

 いつの間にか立ち上がっていた。一日ぶりに使った脚は、しっかり立ってくれた。

「……分かった、行こう」

 信用は上書きされているだろうか。きれいな意志で動けているだろうか。

「やつらの動向は掴んでいる。ひとまず腹ごしらえでもしながら、どう攻め込むかの打ち合わせをしよう」

 恵の足元には、ロティーリアの一番大きい紙袋が置かれていた。恵はそれをテーブルに置いて、椅子に座る。当たり前のように湊も卓に加わる。

「えっと……え、どこから突っ込んだらいいだろうか」

「エル=クローズ奪還は、この三人で行う」

「いや……、待てよ、湊ちゃんは関係ないだろう」

「関係ないなんてことありませんっ」

 さっき朱鳥は湊に対して魔法使い関連の用語をまくしたてて使ったが、それは半ば自棄になってのことだった。論点をずらそうという意図もあった。無駄に終わったが。

「斎藤さんから軽く聞きましたから、魔法のこと」

「あんた、湊ちゃんまで巻き込んで……!」

「ロックを解除するときに目の前で魔法を使ったら訊かれたのでな。仕方がない、だろう。それに心配するな。『教室』には魔法使いでないものも所属しているのだ。陣があれば誰にでも、魔法は使えるのだからな」

 何も解決してない、という不満は、不意の恵の微笑に遮られた。その隣では湊がハンバーガーを食べている。空気に流されて、朱鳥の表情が綻んだ。いまは食事の流れということだ。朱鳥も卓についた。


 駅前の人の多さに、朱鳥は思い出した。今日がどんな日であるか。ある約束をしていたはずだ。

 湊は何も言ってこない。おそらくそれが正しい。あの約束をしたときと今では、かなり状況が違う。二人の約束はもういい。三人で帰って、また改めて行けばいい。

(所定位置に着いた。橘、三島さん、あとどれくらいかかる)

 恵の声が耳元で響く。

 三人は、『教室』のローブを見に纏って行動している。姿はおろか気配すら消す代物だ。会話は、あらかじめ関連性をもたせることで行えるが、それぞれ姿は見えない。

「俺ももういます」

(私はもうすぐです)

 姿が見えない都合上、一緒に行動する意味は無い。人ごみでどうせはぐれるのだし、集合場所さえ決めればいい。恵は二人に先行して動き、駅内を動いて監視システムなどを無効化して回っていた。

(着きました。遅れて申し訳ありません)

 三人がいるのは、建設中の区画への扉の前。面子が揃ったのを確認すると、恵は魔法を使って扉のロックを開ける。自動で扉が開くと、三人はすぐに中に入る。

 フードを脱いで湊と恵の姿を認めて、やっと安心する。声がそこにいると告げても、信じきれないものがあった。湊の安堵した表情を見て、彼女もそうだったようだ。

「いやぁ、なんか緊張しますね。スパイ映画みたい……」

 恵が喋っていいぞといって次に口を開いたのは湊だった。

「幸運なことに、現実だ」

「……そうですね」

 ここから先は『理科室』の根城だと思っていいと恵が言う。姿を消したまま動けばいいのではないかという提案は、否定された。相手に姿を見られないことより、自分たちの姿が確認しあえないことのほうがまずい。それに、支倉ほどの上位の魔法使いには感づかれることがあるそうだ。ということはあの人ごみに支倉がいたなら潜入は失敗していたのではないかと訊いたら、「そうだな」否定はしなかった。ばらばらに動いたことの意図も、そこにあるらしい。

 建設中らしく、中は舗装もろくにされていなければ、ところどころ鉄骨が剥き出しで、照明も実に頼りない。しかし広さはそこそこのもので、迷いなく突き進む恵の先導で突き当りを曲がると、奥に『理科室』の魔法使いが二人いた。すぐにこちらに気付き、手に持った銃をこちらへ向ける。

「そこを動くなよ」

 恵がローブを翻して両手を床につく。瞬く間もなく雷が奔り、敵二人の足に到達した。

「『最強を従える権能を一瞬で示す』、『雷鳴の銃士(ソルダート)』」

 全身がしびれて動けなくなった敵へ距離をつめる恵の両手にはハンドガンの形をした雷が握られていた。引き金をひくと、稲妻が砲口から吐き出されて、敵の銃へとのび、手から弾き飛ばした。

「『迅雷の尖兵スケルミスト』」

 ハンドガンは刀身の短いダガーのような形状に変わっていた。恵は敵二人の間を、勢いのまま通り抜けた。恵の両手にはなにもなくなっていた。

 どこへ?その答えは『理科室』の口に。『理科室』の二人の口から、雷が生えている。

「おいっ、そこまでしなくても!」

 二人は仰向けに倒れる。朱鳥はすぐに駆け寄ると、目を背けたくなる光景がそこに――なかった。

 雷の刃はすでに消え、口腔が焦げているのは痛々しいが、それだけだ。

「脳を少し痺れさせただけだ。しばらく動けんだろうが、死にはしない」

 湊も近くに来て、脈をとったり呼吸をたしかめてみた。

「いくぞ、時間が惜しい」

 通路の奥には簡易リフトがあった。さっきの二人はその警備だったのだろう朱鳥たちはそこに乗り、唯一の行き先である地下へ向かう。

「フードを被って不可視を有効化しろ」

 言われるがまま、リフトにはまるで誰も乗っていない状況ができあがる。

(次は貴様が対処しろ、橘)

「はぁっ、つ、次?」

(降りたらすぐに来るかもしれん。準備をしておけ)

 文句はこれ以上言えなかった。リフトが止まっていた。リフトはエレベーターのように密室じゃないのですぐに分かったが、『理科室』がこれまた二人、外にいた。

(我々はこの場を動かん。巻き込むなよ)

 誰も乗せてこなかったリフトに怪訝な目をしながら、警戒は解いていないようだ。こちらの二人は上の二人と違って片手剣を持っている。

 やるしかない。魔法で戦うのだ。どうすればいいのか。炎で武器を創ればいい。

「……炎剣ファイアソード!」

 叫んでから、フードをとる。ローブの前をあけて、両手で太刀を握るイメージをする。

 炎の剣は驚くほどうまく、すばやくできた。

 『理科室』の一人が、突如現れた朱鳥に、すぐに迫ってきた。朱鳥は炎剣を一度上段に構えてから、踏み込み、迫る敵の腹を斬った。すかさずもう一人のほうへ立ち直り、今度は腹を貫いた。

 どちらも、実際に斬ったわけでも、貫いたわけではない。炎に実体はなく、体に触れても表面を焼くのみだ。朱鳥に手ごたえはない。それでも大やけどを負った二人はうずくまり、延焼を続ける炎を消そうと転がる。いつの間にか姿を現した恵は雷で二人を気絶させたあと、着ていたローブを二人の上に放った。湊もローブを脱ぐと、恵のものと併せて利用して炎を消した。

「雑な詠唱だな。しかし、いい身のこなしだった。何か嗜んでいたか?」

「……学生の頃に、剣道を」

 恵は納得したようだが、朱鳥は浮かない表情だった。

「……比較較量、してください。この人たちはたしかに大怪我ですけど、エルちゃんを助けるためには、仕方ありません」

「うん、大丈夫だよ湊ちゃん。ありがとう」

「……。では、三島さんにはこれを渡しておこう」

 恵が懐から取り出したのは、手のひらサイズの二枚の板。割符のようだ。それぞれに半分に割られたような図形が描かれている。受け取った湊は、しげしげと眺める。

「次は三島さんに対処してもらおう」

「え、わ、私魔法なんて……」

「その割符をあわせると魔法が発動する。心配しなくていい。私がサポートしよう」

 恵は湊に甘いのか自分にだけ厳しいのか。朱鳥には判断がつかない。

 しばらく進むと、『理科室』が四人現れた。あたふたしている湊をよそに、恵が地上でやったように四人を感電させた。そのまま恵は雷の兵士を三人生み出し、『理科室』四人のうち三人を地に伏させる。

 恵が促すと、湊は頷き、割符の図形をいまだ立つ一人に向けて、かち合わせる。すると、見えない力で『理科室』が吹き飛んだ。

「わ、す、すごい」

 さらに進むと、広いところに出た。

 駅のホーム。開通を数年後に控える、リニアのホームだ。自販機も売店もなにもない殺風景な景色に、朱鳥たち三人以外の姿はない。

 いずれリニアが停まるべき場所には、異形のものが鎮座していた。

 黒色の列車。シルエットはリニアモーターカーそのものだというのに、薄気味の悪い印象を受ける。

 『教室』の総本部は東京にあるという。『理科室』はこれで聖人――エルを運ぼうとしていると、恵は考えていた。

「『理科室』の魔装列車だ。こんなものを錬成できるのは支倉夕希くらいだろうな。……もう動いている、走れ」

 いま朱鳥たちがいるのは先頭車両あたり。それがわずかずつ加速をはじめていた。このままでは逃してしまう。飛び移る隙間もあるはずがない。

「扉を灼け、橘!」

 まだ魔装列車は速度が出きっていない。朱鳥は全力で走り、扉に炎の塊を思い切りぶつける。すると扉が溶け、灰になり、大人が充分に通れる穴が開いた。

 しかし列車は加速していく。腕一本足りない距離まで引き離された。

 そのとき、朱鳥の脇を何かが通り過ぎて行った。雷の翼を背に生やした恵が、湊を抱えて飛んでいったのだ。朱鳥が開けた穴に入ると、恵が穴の縁に手をかけて、身を乗り出して手を伸ばしてくる。

 あの日、エルと出会い支倉から逃げたときよりも全力で。全身が悲鳴をあげる。思い切り手を伸ばす。

 恵の手が朱鳥の手首を掴んだ。ベクトルに逆らって朱鳥を引き上げる恵の力は凄まじいものだった。後ろで湊も加勢しているようだった。

「はぁーっ、……危なかった」

 引き上げられた朱鳥は、仰向けになる。穴から吹き入る突風が、全身を冷やす。恵も少し汗をかき、若干だが呼吸が乱れている。

「時間はないぞ。東京につけば、『理科室』に包囲されて我々はお終いだ。およそ一時間以内で、エルを救出し、この魔装列車を止める必要がある」

「一時間……。これって本当にリニアなんですか」

 湊がもっともな疑問を口にした。どうやら張りぼてではないらしい。設計図さえあればなんでも創れるそうだ。

「エルはどこに?」

 朱鳥たちが乗り込んだのは真ん中あたり。このあたりに『理科室』の姿はない。先頭へ行けばいいのか、後方なのか。

「やつらがどういう布陣かは分からん。よって二手に分かれるのが得策だ。先頭と、後方と。橘、貴様は先頭車両へ向かえ。私と三島さんは後方車両へ向かう」

「え、俺が一人……すか」

「戦力てきには店長さんは一人でもいいんじゃ……」

「戦力の話ではない。戦略の話だ。魔法使いの戦略が分かるか?」

 二人は閉口するしかない。

「では、朱鳥さん、お気をつけて」

「あぁ。斎藤さん、湊ちゃんに何かあったら許しませんよ」

「誰にものを言っている。……武運を」

 もしかしたらこの先にエルはいないかもしれない。だがこれはもう目先の問題ではない。直接エルの手を掴めないとしても、すべてはエルを救うことに繋がっているのだ。


 恵が自分を一人にしたことについて、ローブの存在があるかもしれないと朱鳥は思った。ローブの外界との断絶性能は、一人で動くほうが絶対有用だ。

 恵がそこまで考えていたかは分からない。一要素に過ぎないかもしれないし、ローブを雑に扱っていたことからも、関係ないのかもしれない。少なくとも朱鳥の警戒は無駄に終わりそうだった。

「あら……そこに一人いるわね……」

 先頭車両に入った瞬間だった。最前列の席に座っていた支倉が立ち上がり、声をかけてきた。それだけじゃない。こちらを見ている。先頭車両には他に何もなければ、誰もいない。二人と別れてからここまで、ついぞ誰の姿も見なかった。

 支倉は変わらない微笑を向けている。柔和な態度の奥に秘めるものに、今にも射殺されそうな錯覚を覚え、朱鳥はフードを脱いだ。

「橘さんか。そうよね、斎藤ならわざわざこそこそ来ないか」

「俺が単独じゃないって見越してた割には、警備が甘いんじゃないですか」

「いいえ、残念なことに見越せてなかったのよ。斉藤が来てるって知ったのは、ほら……ついさっきそこの窓から、あなたたちがいるのが見えたから。斉藤とは目も合ったわ。それだけ。よりによって『教室』が出張ってくるなんて思いもしない……。だったら何に対しての警備って、『91』とかかしら。あと聖人が逃げ出さないように、とか」

 顔には出さないが、分からないことが多い。恵のエル奪還作戦は、『風紀委員』の意思ではなく、個人的な感情のように聞こえる。それに、恵は支倉が先頭車両にいると気付いていたということか。なぜ騙すようなことを。

 ――信じるしかない。恵が朱鳥を騙し、エルや湊に危害を及ぼそうとしたことは容易に考えられる。そしてそんな悪い予感は、支倉が補強することもできるだろう。後から言われたことを信じるのではない。

「あなたを倒せば列車は止まるんですよね」

「……すごい、本当に斉藤に信じられているのね」

 朱鳥は駆け出した。炎剣を発動し、間合いまで距離を詰めようとする。

 しかし支倉が懐から拳銃をとりだし、朱鳥に向け、発砲した。朱鳥は銃口を見た瞬間に横へとび、座席の陰に隠れる。

 座席の陰から少し顔を出して支倉の様子を覗う。即座に発砲してきて、すぐに顔を引っ込める。床に当たった銃弾は跳ねることも穿つこともなく粉となった。魔法の弾丸だ。

 朱鳥は、支倉がその場から動こうとしないのを察し、今いるところから飛び出し、反対側の、一つ前の列の座席の陰に入る。

 走れば大したことのない距離なのに。姿を見せる一瞬で撃たれたら終わりだ。全力で動けば当たらない。しかし時間はかけられない。支倉の余裕は、時間がくれば勝利が確定するからか。

 まだ車両半ばだ。焦って失敗しても駄目だ。床に座り、支倉に背を向ける形で息を整えがてら、天井を仰ぐ。

 一瞬“それ”が、監視カメラに見えた。違う。レンズじゃない。自分を狙っているのは、銃口だ。

「――くそっ!」

 正確な位置までは把握できていなかったのだろう。天井から生えていた機銃は、座席の裏を掃射した。結果、朱鳥にはかなりの魔弾が命中し、拘束魔法が何重にも朱鳥を戒めた。

「橘さんが私を、どこまで“たおす”つもりかは知らないけれど。私は、あなたを傷つけるつもりはないのよ。普通の戦争やら紛争やらでもそうでしょう。一人殺しても戦力を一人分削るしかできないけど、殺さなければ、負傷兵を連れ帰るために他の戦力も削げる。この場合はまぁ……捕虜にするとか人質にするとかが近いか……」

 支倉が、動けない朱鳥を見下ろして饒舌に物語る。

「……人質行為は、戦争では駄目ですよ……。捕虜は、いいですけど」

「そう。どうでもいいわ。戦争じゃないし。斉藤が交渉にのってくれるとは思えないけれど、橘さんを封じて私が直々に出向ければそれで充分よ」

 支倉が行ってしまう。斎藤たちがいる後方車両に。

「待……てっ!」

 腕も脚も動かせない。それでも体だけを動かして、通路に這い出て叫ぶ。

「くそっ、炎、炎よ!」

 魔法が封じられたわけではない。炎は出せる。しかし拘束の糸の外へ出てくれない。ならば糸を焼けばいい。そう思い、全身を炎に包む意気で、魔法を使う。

「……無駄よ。この銃、その拘束糸も、リニアと同じ材質で創ってあるの。リニアを創るだけあって、かなり素材には気を遣ったわ。魔力の結合は強固よ……。魔力を使い切ると、魔聖域が壊れて死ぬわよ、やめなさい」

 支倉を倒す。止めるだけでは。エルを救うことにならない。ここで支倉を倒し、列車を止める。きっとエルは恵が救出している。列車を止めた後、全員無事で、再会する。エルを抱きしめてやる。次はこっちから、一緒にいてくれと、はっきり伝える。

「まさか……それは」

 息があがる。視界が炎に彩られている。

 ――拘束がなくなっている。燃え落ちているようだ。

 すぐに気付くべきだった。リニアに侵入するときに穴を開けたではないか。あの糸がリニアの壁と同じ材質なら、燃やせないはずがない。

「魔滅の炎……?ははっ、すっごいレアな魔法じゃない……!」

 全身が火照って、頭がぼんやりする。

「すごぉい……。ただの聖人より、こっちの方が貴重よ……。是が非にでも確保しないと」

 支倉が両手を座席に置く。光陣に包まれ、二挺のライフルとなった。引き金がひかれ、拘束魔法の弾丸が朱鳥に何発も命中する。何重もの糸が、朱鳥の体に巻きつく。

 無駄だ。同じ魔法で練成されたもの。どれだけ頑丈であろうと。灼けて無力化できる。

「なるほど。斉藤があなたを私にぶつけた理由が分かるわ」

 朱鳥は立ち上がる。劣勢なはずなのに昂ぶっている支倉に正対する。

「<法理は死んだ>」

 持っていたライフルを消し、もう二つ座席を潰して新たにライフルを創った。

 朱鳥は、銃の狙う位置が低いことに気付く。魔弾はどこに命中しようと傷を与えることなく全身を拘束する。機銃の掃射で、朱鳥は顔面や胸に弾丸が命中する嫌な気分だけを味わった。いまの支倉は、脚を狙っている。致命傷を避けているのだ。

 とっさに横に飛び退く。朱鳥がいたあたりを弾が通り抜け、床を穿った。支倉は実弾に切り替えたのだ。

「さっきの話ではないけれど。拘束できないなら、殺さない程度に、動けないようにしてあげる。投降する気は……、ないみたいね」

 隠れている座席に弾丸が撃ち込まれる。実弾だから、いずれ貫通する。銃声と座席を穿つ音が止むまで、座席はもってくれた。その隙に朱鳥は飛び出る。支倉は新たにショットガンを練成していたが、向けられる前に火球を放つ。赤熱したショットガンを放り捨て、支倉は後ろへ跳ぶ。壁に手をつき、<法理は死んだ>を詠唱したが、朱鳥の目には何も変わらない。

 後ろを振り返る。天井からライフルが生えていた。発砲は防げなかった。朱鳥は咄嗟に手を後ろに回し、炎の壁をつくる。弾丸は炎の壁で阻まれた。

 支倉が機関銃を向けていた朱鳥は左手を前に炎壁をつくりつつ、炎剣を右手に駆け出す。

 朱鳥の剣はもう剣道のそれではない。剣術の基本は根にあるだろうが、より荒く身軽なものだった。

 朱鳥の振り下ろした剣を、支倉は機関銃で受け止めようとした。炎の剣は機関銃を溶かして掻き消える。朱鳥は斬り下ろした体勢のまま、炎剣を再生させる。それは支倉の腹を焼くが、すぐに適当な壁を練成して防ぎ、すぐに消し朱鳥を蹴り飛ばす。

 支倉が懐からガラスの小瓶を取り出し、床に叩きつける。中に入っていた赤黒い液体が飛び散る。それは染み込み、吸われるように薄くなっていく。

「<黒雲を制す御使いは大地に横たわるゲルート=ガン=ヱデン>」

 すべてが一瞬の光りに包まれる。景色が変わったと朱鳥は感じた。座席が全て消失していた。車両の内装も消え失せ、走行する最低限に必要なものしか残っていない。

 異形がいた。朱鳥を八方から取り囲む。床から上半身だけを生やす、土人形。辛うじて人の外見をしているが、腕も手も頭も胴も、兵器だ。

 朱鳥は咄嗟に屈み、炎のドームをつくる。直後、けたたましい音と共に、砲撃が始まった。いつ止むのかという砲弾の雨でさえ、魔滅の炎は灼いていく。しかし魔力は無限ではない。消耗が激しい。魔力の疲労感、虚脱感。突破するしかない。

 目掛けるは支倉のいる方。追尾性のあるものだとすれば、本体に肉薄すれば魔法を解除せざるをえないだろうし、一定箇所を集中攻撃するものなら、ここから動けさえすればいい。

 意を決し、朱鳥は動き出す。

 しかし、思考がぶれてしまったからだろうか。全方位に張っていた炎壁に、脆い部分があった。そこを大口径の弾丸がすり抜け、朱鳥の腕に穴を開けた。飛び散る赤や白。

 次々に弾丸が朱鳥の体に入っては抜けていく。

 朱鳥は固い床に崩れ落ちる。その感覚はなかった。全身がありえないくらい痛いが、どれが何の痛みか分からない。全身が濡れる不愉快さはあった。真っ赤だ。

 この燃えるような海で、窒息してしまいそうだ。意識はそこで途切れた。


 扉を開けるや否や、恵は<最強を従える権能を一瞬で示す>で騎兵をつくり、中央通路を走らせた。騎兵は両手に剣を携え、狭い車両内では、腕を広げるだけで敵を斬ることができた。

「本来ならば<雷轟の騎兵キャバレリーロ>は有翼の騎馬だ。しかしここでは飛ぶ意味もない」

「そ、そうですね」

 朱鳥と別れてから、少し誰もいない車両が続いた。すぐに『理科室』に出くわしたが、警備をしているというより、座席に座ってくつろいでいるといった風だった。

「朱鳥さんは大丈夫でしょうか。ローブがあるから見つからないはずですけど、強い人には気づかれるかもしれないって。そうなったら戦いは避けられないでしょうし、そうなると他の人たちが駆け付けて囲まれちゃうかも……」

 恵は話は聞いているようだったが、歩みは緩めなかった。次の車両に入り、今まで通りに敵を薙ぎ払う。

 再び歩き始めて、恵が口を開いた。

「先頭車両には支倉がいる。あれは自分と、それ以外の戦力の合計は、等しいと思っている。きっちり中央で分割しているだろう」

「えぇっと……つまり……」

「先頭車両側には支倉夕希しかいない。橘はサシであれと戦える」

 その車両の雰囲気は少し違った。十名ほどの『理科室』が、ローブを着て、立ちはだかった。全員が次の車両への扉の前、恵たちからみて奥の方に固まっている。恵は<雷轟の騎兵>を通過させるが、耐魔ローブによって大したダメージにはならなかった。敵が銃をこちらに向けるのを見て、恵は湊を押し倒すようにして座席の陰に隠れた。

「三島さんは疑問に思っただろう。敵のボスたる支倉がいると知っていながら、どうしてそちらに橘を向かわせたのか。答えは単純だ。私はやつと相性が悪い」

「朱鳥さんは相性がいい、と……」

「そうだ。その気になれば私も倒せるだろうな。……<最強を従える権能を一瞬で示す>、<迅雷の尖兵>、<雷鳴の銃士>」

 剣を持った雷兵、銃をもった雷兵が、それぞれ二体現れた。『理科室』は即発砲するが、雷兵に命中した弾は鈍い音を響かせ、跳ね返り、撃ったものを貫いた。

 『理科室』は実弾を使った攻撃をやめ、魔法や剣で戦い始める。しかし相手は雷だ。その変幻自在の剣戟、銃撃に、耐魔ローブは段々と魔力を失い、ぼろぼろになっていき、最後には直撃の雷を受け、次々と倒れていった。

「魔法は基本的に、望んだ形で発現する。しかしそれは願いが叶う力ではない。魔法は思いの力だが、具体的な、例えば魔力を灰にする炎、を望んでもうまくいかない。人間は言葉で多くを理解し思考するが、世界のプロセスとはそうではない。ぼんやりとした願いの中に、奇跡的に、強い力が生まれる」

「それが、朱鳥さん?」

「あんな凡人に、といいたいところだが、こればかりは偶然だからな」

 扉を抜けると、そこにいた。背が低いので見つけるのが遅れたが、他には誰もいないからすぐ分かった。エルは中ごろの窓側の座席に座っていた。突然現れた二人に、驚いた視線を送ってくれる。

「エルちゃん!」

「なんで……湊、恵……」

 湊がエルに駆け寄る。近づいて初めて気付いたが、エルは後ろ手に手錠がかけられていた。湊は、エルがどんなひどい目にあっているかと思っていたから、かなり自由なかたちで驚いたが、それでも幼い子に手錠がかけられているのは痛々しく思えた。

「店長さん、これは……」

「エル=クローズ。立ち上がってよく見せてみろ」

「ちょ、ちょっと、どういうこと……」

 湊がエルの体を支えて立たせ、中央通路に移動する。

「魔法と普通の鍵の三重の封印のようだな。簡単なものだ。自ら投降したものに対するものとしては、重すぎるくらいだがな」

「……ねぇっ、説明してよ。湊、恵……なんであんたたち……」

「助けに来たんですよ、朱鳥さんと一緒に」

「朱鳥……。……ちがう、私、助けてなんて頼んでない。自分の意思でここにいるんだから」

「話は聞いている。あの状況でのお前の決断など、意思ではない。流されただけだ。人格形成期の子供の意見をいちいち真に受けていては、その子供たちを守れない。大人の意思を黙って受け入れていろ」

 恵は話しながら、手錠の封印を解いていく。一つ目の魔法の封印の解除は、はたからみると恵が手錠を触っているだけだった。二つ目は普通の鍵ということだったが、湊の割符を使って物理的に手錠を破壊することで突破できた。三つめは、壊れた手錠の中から出てきた。手錠のように、エルの手首を縛るそれは、魔力でできていた。

「……ねぇ、朱鳥、は?」

「先頭車両で、支倉と戦っているだろう」

 魔装列車は依然として動き続けている。

「心配か?」

 エルは何も云わなかった。どう云っても、何かを信じないことになりそうだった。

「朱鳥さんはエルちゃんを心配していますよ」

 三つめの封印も解かれた。エルは自由になった手を慰める。

「湊は、どうしてここに来たの」

「ええっとですね、流れで――じゃなくて、いや、まぁきっかけは偶然でしたけど。エルちゃんを助けたい、朱鳥さんの助けになりたい、って思ったからですよ」

 湊が優しく微笑むと、エルはうつむいた。何かをこらえるように。

「行くぞ。魔装列車に残る敵は一人だ」

「ねぇ、なんで恵は私を助けるの?……さっき、話は聞いた、って言ってたけど、やっぱり、イオの……」

「イオを守ってやれなかったかわりに、あいつの親友だった自分だけでも、と、そういうつもりか?」

 恵は遠くを見ていた。時空も世界も越えて、幻かもしれないものを。

 振り返った恵は、意地悪そうな笑みを浮かべていた。

「知っているか?橘朱鳥の魔法は非常に優秀なんだ。私には野望がある。魔法世界を支配するという、な。そのためにも、橘は是非とも引き込んでおきたい。……こんなところでどうだ」

「そう。本当に、イオの好きな恵のまんまだね」

 三人は走る。目的の一つは達成された。列車が一向に止まらないことから、朱鳥は苦戦を強いられているようだ。相性が悪いとは言っていたが、恵が加われば好転してくれるだろう。ムードのかけらもないが、事態が終わる前に、再会を果たしてしまうことになりそうだ。

 走って走って、先頭車両に近づいたとき、三人は眩い光を見た。


 ぴくりとも動かず、ただ床に赤い色を広げる朱鳥を見下ろし、支倉は舌打ちをした。

 このままでは出血多量で命が危ない。

 超貴重な魔法使いを失うことは避けなければならない。<黒雲を制す御使いは大地に横たわる>は本来なら生死問わず相手を戦闘不能にできるものだが、朱鳥に対して使ったときは抑えていた。魔力切れで動けなくなるか、時間切れまで粘ってもよかった。変に反抗するから、こういうことになる。咄嗟に魔法を解除したが、このありさまだ。

 何にせよ、東京についたら優秀な治癒魔法使いを呼び出せば間に合うだろう。

 いずれ恵がやってくるだろう。それまで休もうと、支倉は椅子を創って腰かけた。

「朱鳥さん!」

 

 扉の向こうは、最悪の光景が広がっていた。血だまりに沈む朱鳥と、傷を負いながら余裕然とした支倉。絶望的な敗北の構図だ。

「あら、早かったわね。……いえ、こう言うべきかしら。遅かったわね」

 湊は朱鳥に駆け寄る。少し遅れてエルも朱鳥に近づく。

 ひどい傷だ。深くて、ぐちゃぐちゃなものが、たくさん。湊は迷ったが、朱鳥を仰向けに抱き起す。血に汚れてた顔は、血の気がない。かろうじて呼吸はしているようだが、よくない呼吸だ。

「残念ね、斎藤。橘さんはまだ生きている。本部の魔法使いなら治療できるはず。心配しなくとも、列車はもうすぐ着く……。私を止めないかぎり、ね……」

「支倉、貴様……」

 エルが朱鳥の体に抱き付いて、何度も名前を呼んでいる。血に汚れて、涙で顔を腫らして、その様子を見ていると心が締め付けられる。

 このままではすべてが水の泡だ。『教室』の本部で、きっと拘束されるだろう。そうなったら今後いままで通りの暮らしをさせてもらえる保証はない。

「朱鳥さん、お願いです目を開けて……」

 全員無事で再会をする。これだけなのだ。それ以外の妥協はない。恵も、支倉さえ倒せば、朱鳥を犠牲にして三人は帰れるかもしれないというのに、今にも飛び出してしまいそうなのを堪えているようだ。

 このまま時間を待って捕まっても、支倉を倒して列車を止めても、二度と朱鳥と会えなくなる。それならいっそ、自分の腕の中で最期を看取れるなら――

 ――駄目だ。たしかにそもそもの発端はエルを救うことだ。だがそれは言葉になっている通りの意味だけではない。醜い望みに逃げるくらいなら、病院に行くまでの間、朱鳥が無事である奇跡を願うべきだ。

「――エルちゃん、少し離れて」

 支倉はこちらを見向きもしない。一応の警戒として恵の方を見てはいるものの、誰も何もできないと高を括っている。湊は朱鳥を横たわらせた。

「湊、なにを……?」

 できるはずだ。奇跡を願うことが。今日この日という絶望的な感情しかない日にこそ祈れる、私だけの、魔法。

「<夜を照らす天使ナハトガル>」

 それはまさに祈りだった。目を閉じ、静かに、大切な人の無事を。

 眩い光だった。とても優しい光。目を開けているのが苦でなく、むしろ癒しであるような。世界で最もきれいな望みの色だった。

「これ、治癒魔法……いや、まさか再生魔法……!」

 朱鳥の体だったものが、朱鳥の体に戻っていく。光が収まったときには、そこに絶望の景色はなかった。悪い夢から覚めたみたいだった。

「斎藤。まさかあなた、こうなることを……」

 支倉が思わず立ち上がっている。表情に焦りが生まれているが、同時に今目にした現象に興奮してもいた。超貴重な魔法を短時間で二つも体験したのだ。

「いいや、もちろん偶然だ。未覚醒の魔法使いが、窮地で覚醒すれば少しは役に立つだろう、くらいに思って連れてきたが。ここまでとはな」

「未覚醒?そう、よりによって、ね……」

 朱鳥が目を覚ます。エルが抱き付いて、湊が涙を流す。

「よかった……私、魔法使いで……」

「……湊ちゃん。魔法使いだったんだ」

「ごめんなさい、今まで、見え張って嘘を……」

「俺も同じだよ。お互い魔法使いだったなんてね」

 朱鳥の手が、胸の上で泣きじゃくるエルの頭を撫でる。

「朱鳥……なんでこんな無茶したの……」

「そうだな……。いろいろ思うことはあったし、これで本当にいいのかとか後悔しそうになったけど。……無茶してよかったよ」

「朱鳥……」

 湊が二人から顔を背けた。その湊の動きにも二人は気付く様子はない。

「もうどこにも行かないでくれ、エル」

 エルは何も言わなかった。ただ返事は口でされた。二人の唇同士が触れ合った。

「勝利を確信しているのかしら……」

 支倉は恵の目を睨んで言った。

「橘さんが生還したいま、あとは私を倒してリニアを止めるだけ、と思っているだろうけれど。そもそも私を倒せると思っている……?」

 恵は押し黙っている。相性が悪いとはいっても、負けることはないだろう。しかし今は勝たなければ意味がない。

「おとなしく投降しなさい。痛い目みなくて済むわよ」

 支倉が懐から小瓶を取り出す。この車両を地獄にした魔法を、まだ撃てるのだ。恵が最大の魔法を使ったとしても、拮抗して終わるだろう。そうなるくらいなら、リニア自体を止める方が賢明だが、科学的アーティファクトに耐魔雷が施されていないわけがない。

 にらみ合いが続くだけでも、着実に敗北が近づいていく。そのとき、朱鳥とエルが立ち上がった。寄り添いあい、希望を瞳に灯して支倉を真っ直ぐに見つめた。

「……そう。時間切れを待つ必要もないということね。……<黒雲を制す御使いは大地に横たわる>!!」

 四人は八方を石人形に囲まれた。狙いは全て下を向いている。命さえあれば下半身くらいなくなってもいい。それは大人の話だ。エルは半分も残らないだろう。

 朱鳥は手を前に出す。制止の合図?魔法を使うつもりか。炎のドームを張られては、たしかに攻撃は通らなくなる。だがそうなれば、内側からも何もできなくなってしまう。

「<火焔球:烈フレイムスフィア:ペネトラード>」

 朱鳥とエルの詠唱こえが重なった。熱が集まり、炎が凝縮していく。

 支倉は、石人形に砲撃をさせようとした。しかし、遅い。朱鳥の手から放たれた小さな太陽ともよぶべき魔法の火焔は、一瞬で正確に全ての石人形を飲みこんだ。

 支倉は朱鳥の姿を見た。それは炎を纏う、神か悪魔に見えた。

「<炎王剣:煌(バーニングセイバー:ヴァルメガ)>」

 朱鳥が両手を天に掲げた。炎の剣の柄が形成される。そして、刃が生まれる。爆発的に膨れ上がる刃は天井を貫き、トンネルと串刺しにした。列車を激しい揺れが襲った。立っていられず膝と手を床についた支倉の頭上に、炎の剣が迫った。

目を開けると、まわりは瓦礫の山になっていた。湊は、恵に守られていることに気付いた。恵は湊を腕に抱き、片腕で電磁シールドを張って、降る瓦礫を防いでいたのだ。

 魔装列車は動きを止めていた。炎で引き裂かれた先頭車両が制動をかけ、慣性で迫る後続車両は、ほとんど灰になっている。

 灯りの無い地下に、光源が二つある。一つは恵の電気。もう一つが少し離れた位置にあった。

 煌めく剣。朱鳥はエルを抱き寄せている。彼らの周囲には何もない。降ってくる瓦礫は灰になっていった。剣の切っ先は、瓦礫にはさまれて動けず、上半身だけを出した支倉へと向いていた。しぶとく意識はあるが、悔しそうに睨み付けるだけだ。

「朱鳥さん、エルちゃん」

 駆け寄ると、炎の剣が消える。代わりに、周囲が明るくなる。恵が非常灯をつけたのだ。

 エルが朱鳥から離れる。

「エル……。――エルっ!?」

 エルがふらりと倒れそうになるのを、朱鳥がぎりぎりで支えた。

 息が上がっている。体は熱いのに、顔色が悪い。突然こんな症状が出るなんて、普通ではない。

「これは……まずいな」

 恵が朱鳥とエルを見比べて言った。これまでにない悲痛な色が滲んでいた。

「急げ、手遅れになるぞ」


 結局東京に来てしまった。駅のホームに着いたそのとき、『理科室』が現れたが、支倉夕希を人質にすることで突破した。その後は『風紀委員』の手配で、駅最寄の病院に直行できた。

 事態は何も好転していない。ベッドに横たわるエルの症状は悪化するばかりだ。

「エル=クローズの魔聖域が壊れかかっている」

「壊れかかっている……ということは、厄介なケースね」

 恵の言っていることを、支倉はすぐに理解した。支倉をここに入れたのは恵だ。事情を知るものが多い方がいいということだ。重傷だったが湊が<夜を照らす天使>で治し、首には魔法爆弾の枷が嵌められている。

 病室に医者や看護師、他の魔法使いなどはいない。そのため湊がエルの介抱をしている。

「私の魔法で癒せないのはそのため、ですか」

「そうね。いずれ再生魔法は、そのあたりの修復もできるようになることが期待されるけれど」

「そんなこと今はいい。聖人の魔聖域が破れることは死を意味する。魔聖域はひとりでに壊れはしない。壊す側が存在する」

 視線が自分に集まるのが、朱鳥には分かった。だがそれだけだ。頭がぼんやりする。体が熱い。エルとキスをしているときのような、そんな感覚がずっと続いている。虚脱感も疲労感もない。

「橘朱鳥。貴様、魔人になりかかっているぞ」

 言われたことが理解できない。魔人は、欲望に負けて聖人を犯した畜生だ。自分は魔人になりかかっているという。

「俺はエルと何もしていない」

「キスだ。ついさっきのだけではない。私の目の前でも、やっていただろう。二回だけではないだろう?私は、あれはキスで性的興奮を覚えて一時的に魔法が強化されていると思っていたが。擬似的な魔人化だったということか」

 魔法使いになりたての頃は、魔法は弱くてもどんなものでも使える。時間が経つと、それぞれが得意な魔法以外は使いづらくなる。一点特化は魔法使いの美徳だ。聖人にも、使えはしないが魔法の個性がある。魔人は、膨大な魔力だけでなく、犯した聖人の魔法特性を引き継ぐ。エルは魔法傾向の特化加速だったらしい。

「キスが性行為?って思うかもしれないけれど……。たまにあるみたいね、こういうの。大丈夫よ、完全に魔人化していないなら、事態は動かせる。超レアケースだけど、対処法はあるの。そうよね、斉藤……」

 話をふられた恵は、苦い顔をした。

「魔人化が完了してしまう前に、魔法使いを消せばいい。あるいは、聖人を」

「そ、そんな……っ」

 湊が思わず声をあげた。

「どちらを選択するか、という問題だ。このままでは橘が魔人になる。そのときエルは死に、『教室』は魔人を排除するだろう。それは……最悪だ」

「どう考えても魔法使い、橘さんを生かすべき。ただの凡庸な聖人と、魔滅の炎の魔法使い。比べるまでもない」

「貴様は黙っていろ、支倉。私たちが決めることではない。……決断しろ、橘」

「……俺が」

「朱鳥さん……」

 エルが死ぬか、自分が死ぬか。答えを出さないと互いに死ぬことになる。

 エルを殺すことなんてできるはずがない。まだ出会って二ヶ月くらいだが、エルとは深い関係であると自信をもって言える。なくてはならない存在だ。だからこそ、恵の誘いに乗って救い出したのに。窮地のたびに、エルはキスをしてきた。自分の能力が分かっていたのだろうか。しかしそのたびに、エルは危険な橋を渡っていたということだ。

 エルを生かすために、自分は死ねるか?……できない。誰かのために死ぬなんて、できるはずがない。この世に未練があるからだ。死後続く世界を想像できてしまうからだ。想ってくれる人が悲しむからだ。それはエルも同じだ。エルは天涯孤独だから誰からも悲しまれることはないと思っているのか。そんなことはない。聖人にだって、想われることができる。イオにだって恵とエルがいた。

 だが、だからといって、どうすればいい。ずっと迷い続けることは許されない。

「外に出て風にあたってくるわ。もう何も役には立てないでしょうし……。心配しなくても、逃げないから」

 支倉が病室から出て行く。直前、何かを置いていった。

 ――銃だ。

「気にするな、橘」

 恵が窓の外を眺めて言った。暗闇が広がっている。日は変わってしまっただろうか。

「どう選択してくれても構わない。……最悪、選択できずにそのときがきても。君たちが何人生き残ろうと、生活は保障する。『教室』に頼らない方法で、自由に生きられるように」

「斎藤さん、あんた……」

「三島さんには少し話したが、私はいずれ『教室』に叛逆し、世界を支配するつもりだ。そのために戦力が欲しい。……信頼も。橘、貴様が魔人となろうが、望むなら我々のもとにくれば殺しはしないつもりだ。……それも考慮にいれてくれ」

 恵は扉に向かって歩き出す。

「……感情だけで動くことはできんのだ。目的の為には、非常な決断を迫らねばならない。こんな私ですまない、イオ……」

 三人だけが残された。

 朱鳥は銃を手に取る。重い。あの日とったものと違って、消えることはない。

 湊はなにも言わない。心配そうに朱鳥とエルを見るだけだ。

「どうすれば……」

 魔法使いが死ぬか聖人が死ぬか。選べない。迷いも、決断も、そしてその後も、苦しみ続ける。こんなことならば、消えてしまったほうがマシに思える。

 ――そうか。分かった。おそらくこれしかない。

 一つ、思いついた。エルは殺せない。自殺もできない。だが、これは一人ではできない。どうすればいい。

「朱鳥さん、何か、思いついたんですね?」

 無意識に湊を見ていた。湊が銃を握った手を握ってくる。真っ直ぐに見つめてくる。

 湊も同じ事を考えている。そう直感した。

「私、朱鳥さんのことが好きです。お願いします、やるなら、私……」

「俺、本当に駄目だな。俺から言わないといけないよな、こういうことは」


 その夜、二人の魔法使いが世界から消えた。奇跡があったとすれば、偶然その結末に至れたことだ。

 エル=クローズ――ルナ・シトゥラスは斉藤恵の約束どおり、『教室』を離れて生活することができている。さすがに手放しで生活させることもできないが、恵が全力で援助をしている。

 朱鳥の願いだった。エルの人生の救いになればと。それは魔法だった。消えることのない、見えない魔法だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔法は30歳になってから とこよみあ @kanatakaya91

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ