五節 教師と他校の学生の父親と 森下公男の場合②


「風波華男と申します。森下先生、いや思ったよりも…」


私に握手を求めた男の手は、異様な熱と湿っぽさを持ち、束の間の怖気に襲われる。


「どうも」


仕方なしに下げた頭を持ち上げ、当然のように上手に座る風波父と、その隣にいそいそと腰を下ろす校長を見比べる。どうやら教育関係のお偉方と言うのは、どことなく洗練された金持ちらしい、と見えた。


男のスーツは、残念ながら値段に依って、またそれを着る人間の体型によって、ひどく見栄えが異なる。風波父の灰色の細身のスーツは、まるで雑誌のモデルのようなバランスで、履いている革靴もおそらくは、一桁は額が違う。まぁ、大して歩くのでなければ、飾りのレベルの代物だ。


 校長の身長は平均で、私と変わらないが、風波父は、高身長かつ、顔は娘の顔を思い出すくらいの整い具合だ。それに髪の毛。おしゃれグレーというやつなのか、黒髪に混じる白髪が、まるで分け目に沿って塗り分けたように、ボリューム共に申し分なく”キマッテ”いる。おまけに美容院帰りのような香水臭までする。


おそらく座り心地が悪いのだろう。ちらっと背後を確認して、「こんなものか」という顔をした後、やけに爽やかな笑みを浮かべて、両の指先を突き合わせる。姿勢は前のめりに、まるで商談でもしに来たような、軽いノリに見えた。


 私は軽く踏ん張るように、開いた膝の上に銘々拳骨を乗せ、咳払い一つを返す。さぁ、何を言う。


「先日は、うちの娘が、いや、長女でミカというんですが、先生のお宅にご迷惑を掛けまして、こちらもお詫びというか、何でお返しするのが適当かと、悩んでましてね」


そう言って風波父は、姿勢を元に戻し、私と目の位置を同じにする。同じと言っても、足はあちらの方が長く、挟んだテーブルの向こうで、窮屈そうに、膝が持ち上がる。


父親のネクタイの柄は、どこかで見たようなデザインだと思ったが、じっと見て、さる有名な競技会関連の代物だと気付いた。それにプラチナ製だろう、ネクタイピンが重厚な白い光を放っている。なんだ、金の無心でもしろっていうのか。つくづく教師を馬鹿にした親だ。


「結構ですよ、私は。保護者の方がご存知であれば、同じことが今後無いように、お嬢さんを教育されるでしょう。それに申し訳ありませんが、学校が違うのでね。あまり大騒ぎをして、お困りになるのはそちらではないかと、こちらも気を遣っています」


「こら、森下君」


私のあからさまに不遜な態度を見かねて、校長が口を挟む。


「いやぁ、風波(…)。当校は決して、自校の生徒ではないからと言って、見て見ぬふりをするような、どうでもいいという立場ではございません。お嬢様が何かお困りであれば、一教育者として何なりと、協力させて戴く所存でございます」


校長が、耳慣れない官職名を付けて、風波父を呼んだ。私は顔を顰めて、それがどういう身分なのか、思い返そうとする。


記憶の淵をつついて、『あぁ、あれか』と、思い当たる。と同時に、そんな大物だったのかと、軽く驚きもする。


私は目の前の、整い過ぎた男の様子を見て、ようやく首を傾げた。


たとえ憶測でも、そんな大層な地位に納まるのに、この男がいったいどういう仕事をしてきたのか、皆目見当がつかない。その点では、一教員の理解も、世の中一般のそれと、何ら変わらないだろう。そう思うと私は、ますます不機嫌になった。


風波父に言う。


「お電話の一件含め、私には、どうしてこんなことになったのか、全く、分かりませんのでね。お嬢さんとは、ついぞ先週の朝まで、会ったことも無い。重ねて、理解不能です。私にできることは、何もない。忘れてほしいと仰るなら、そうしましょう、今回に限っては。

 ですが、お願いしたい。他人の家の郵便物、鍵を盗むことは窃盗の罪に問われると、お嬢さんには重々、ご説明ください。今後一切、お嬢さんが私の住むマンション、ほか、どの御宅にもご迷惑をかけないことを、祈るばかりです」



本心では、あの非常識な子どもに、自分が何をしでかしたのか、言って聞かせてやりたい気分だったが、関わるだけ面倒な場合もある。


親の社会的地位によって、子どもが受ける教育、扱いも変わる。まずは、親自身が、そして親戚が、友人たちが、社会が、そのを教え込む。本人だけの問題ではない。


そういう不平等を、特権と勘違いしたまま成人になる前に、耳障りな異論を唱える大人に会うことは、とても重要だ。その一人に立候補すべきなのは、いったい誰か。


巻き込まれた私、被害者の私が、そうした役を買って出る得は何だ?

考えるまでもない。


 

 風波父は、フムフムと小さく首を振りながら、私の話を聞いた。終始、こちらに向ける目の光は明るく、楽しんでいる様子なのが気に入らない。楽しいことなど一つも無い。子どもが罪を犯し、その詫びをしにきている自身の立場を、本当に理解しているのか。そもそも、そんな気が無いから、こんなふざけた態度なのか。

 

 私が腕組みしてソファに背を預けると、風波父は、自分の口元に指をやり、何やら思案する素振りを見せた。少しでいいから、まともな反応をしてほしい。仏頂面の私を正面に見据えると、その父親はこう言った。


 

「森下先生、あなたのお歳は、見る限り、私とあまり変わらないようだ。いや、もしかしたら私の方が若いかもしれない。そうであればなお、気に入らないでしょうな。まぁ、私も、あの娘の奇行が無ければ、こんな面倒に巻き込まれることも無いのですが、子育てと言うのは、そうも行きませんから。失礼ですがお子さんは?」


私はむすっとした表情を崩さず、一言「いいえ」、とだけ答える。風波父は、フッと表情を緩めると、再度こちらへ身を乗り出す様に、言葉を継いだ。



「これから言うことを、誤解しないで聴いて下さいね。今回の件で、私は娘に、あなたの家にいったい何の用があったのかと尋ねました。どういう関係かとね。普通に考えれば、学校関係の行事か、イベントか、とね。しかし娘は言いました。『”宇宙の交信”を”傍受”した。自分ではなくあなたが選ばれ、あなたのもとに、その連絡の手紙が届いたから』と」



手紙?あぁ、確かに不審な手紙なら存在した。てきとうに新聞棚に押し込んだきりだが、どう見ても、手の込んだ悪戯にしか見えなかった。しかし指先に残るカードの厚みは、かなり上等だったな、と思う。


私がそんなことを思い出している前で、風波父は、話を続けている。



「どうしますか、森下さん。自分の娘が、理解不能なことを言う。5歳やそこらの子どもではないんです。娘は、今年16です。もう大学受験の勉強も始めている。我が子の贔屓目もあるでしょうが、幼い頃からミカは、とても頭がいい。いや、まったくといって子どもらしいところの無い、悪くいえば、可愛げの欠片も無い娘でした。


 ませているというか、大人を子馬鹿にしたような顔をして、昔から、非常に手を焼かされました。次女がそうでないのが、どれだけ嬉しかったか。次女のレイカは可愛い。だから、はっきりとした。ミカは、変な子どもです。私の育て方とは関係ない。しかし、世間はそう思わない。だから私は、私に都合のいいように考えることにした」


 風波父の隣の校長は、気まずそうに押し黙っている。私も、その校長に倣って、口を噤んでいる。だが、言いたいことはある。幾らでもある。



「森下先生。あなた、若い女性がお好きではありませんか。いや、大抵の男は好きでしょう。教師であろうと何であろうと、興味はあるはずだ。かくいう私も好きですよ。娘は居ますが、それとはまた別の話ですからね。

 それで今はまた、そういう衝動を隠れて発散させるための便利なツールも、たくさんあります。もしかしたらあなたも、何らかの形で、利用されているかもしれない」



この男は、いったい何を言わんとしているのか。


自分の娘を犯罪者にする前に、その被害者を、犯罪者にしたてようという目論見か。誓うまでもなく私には、そんな行動癖はない。便利なツール?―笑わせる。お手軽な分だけ、手に入るものも知れている。


この年齢に至って、自身の安っぽい性欲を満たしたところで、何がある? ましてや相手が子ども? 非常識なのはいったい誰だ。無知な子ども相手に、そうした感情を抱く一切の生き物に、私は心から軽蔑を感じる。自分がそうした人間の一人と見られることには、憤りを通り越して、



「お言葉ですが、お父様は援助交際を疑っておられる、そういう理解で宜しいですか」


 口に出して思う。本当に縁の無い言葉だ、と。


 思いの外、"清々しい"問いかけのように響いたかもしれない。しかし、校長はぽかんとした顔をして私を見るし、私は私で、風波父の矛先をかわしたい。そんな思惑のもと、ぐるりと形成された視線の輪の中で、私の言葉が宙に浮く。


 『仮に』だ。後ろめたいことをしている人間が、自らその疑いを明示するのは、どんなときか。そして、真に誰かの疑いを晴らしたい時に採る手段において、その疑いのは、果たして問題になるのか。



私の物言いは、終局、風波父の疑いを否定するわけでも、肯定するわけでもない。ただ、話の焦点と、相手の切り札をはっきりさせて、自分が不利にならない情況を整えるためだけのものだ。


風波父は私の”問い”に、やや感心したように眉を上げたが、そこで引きさがる人間でもないだろう。



「まぁ、そういう言葉は、適切とは言えない。それに娘は、金銭的に困るようなことは何もないのでね」


「でしょうな」


私はポンと膝を打ち、肯定の言葉を返す。


風波父も、娘のためか、それとも自身の名誉の為か、すかさず富貴なる身の上に言及した。もとい、『売り言葉に、買い言葉』の様なものだ。どこまで話を引っ張るつもりか。こちらは、次の授業のための貴重な準備時間を、客人のために割いている。



 風波父は大きく深呼吸した後、グイっと背筋を伸ばすと、ようやく背後のソファに、自分の背を預けた。さっきより随分と遠くなった視点から、私を見つめ返す。


「仮にも、私の娘のすることですから、青春を謳歌するが如く、色んな年恰好の男性とお付き合いをしている、かもしれない。

 経験は大事ですが、歳相応の交際であるように、親は子どもの交際に、口を出す義務がある。そういうお話です。そこで、あなただ。森下先生。私も、まさか自分の歳に近い男と、娘がどうこう、っていうのはあまり予想してなかった。ですがこの際です。構いませんよ、先生。いつから娘とはお付き合いを?」



下手な揺さぶりをかけた後、まっすぐに相手を落とす術を、この男は心得ているらしい。しかし残念だ。私にそんな正攻法は効かない。



「申し訳ありませんが、お嬢さんと私は、ついこの間、会ったばかりです。お話を伺った限り、かなり個性的なお子さんの様だ。こうして、他校のしがない教師をつつきたくなるのも、よくよく分かりますが、期待されるような”何か”など、ありはしません。


お嬢さんの問題は、御家庭内で処理されるべきであって、わたくしに言われましても、何もお手伝いできませんよ。まさか、希望されていませんよね、私みたいな教師とお嬢さんが知り合いだなんて。喜ぶべきですよ。最初から何もありはしない」


私は、わざとらしく手をひらひらとさせて、安っぽい笑みを浮かべて見せる。一瞬だが、風波の父の目に、はっきりとした感情が見えた。娘と同じだ。隠してはいるが、かなり沸点の低い性らしい。


「いいでしょう、この際、申し上げます。私はこの場を利用して、あなたにお願いしたいのだ、森下先生。娘は、あなたと『』と、あなたと一緒に暮らしたいほど篤い、と、私に告白しました。

 理屈なんて、もういいんです。あのミカが、後にも先にも、人間に好意を寄せたなんて言う話は、まともに信じることが出来ない。これは、家庭内の人間なら、”常識”でしてね。


 ですから私は娘の為に、娘の言い分を、確認しに来たのです。ですが、またも、裏切られましたな。あなたは知らないという。、あなたは言うわけだ。たかだか16の小娘に振り回される身にも、なって下さい。いや、そうか。見ず知らずの子どもの言うことに、その親まで出てきて、あなたもさぞかし、迷惑なことでしょう」


 私は敢えて黙ったが、もちろんその通りだからだ。


 沈黙が続き、その場に耐えかねた校長が、口火を切る。



「あぁ…っと、では、お話がつきましたかな。その、え…っと、お嬢様は当校の森下と、何らかの面識があるようだと、そういう話で」


「ありません」


私は重ねて、事実を正す。

校長は、私の気迫に気後れしたのか視線を泳がせ、額に汗を浮かべる。それでも、客人の体裁を優先するために、場を取り繕う。



「いや、きっとどこかで、会っているのでしょう。なにせ教師と学生さんだ。森下はこう言っていますが、お嬢様は若く、感受性の高いお年頃でしょう? 森下が忘れたことでも、きっとしっかりとね、憶えていらっしゃるに違いない!そういうものです。恋というものは、相手の如何を問わないんですな。当人同士、いや、惚れた人間にしか分からない”何か”、というのがあって…」


 必死のあまり校長は、脱線しつつある話を、元に戻す術を失ったようだ。それが客人の不愉快を買い始めたことにも、気付いてはいまい。

 

 言われるまでもない話だが、風波父はひとりの親として、娘の”恋愛”を、そして将来を、多少は案じているのだ。だから当然、こんなことは、御免こうむりたいと、心底思っている。真実がどうであれ、私のようなどうにもならない中年男、それも教師など、家族のどうのこうのと、”神聖な我が家”に招き入れることなど、端から望むわけがない。


 私も嫌である。風波父の御役職もさることながら、、私を招いてなど欲しくない。


「よろしいですか、校長先生」



 風波父が、ようやく校長の恋愛自論を中断させたところで、私の忍耐もそろそろ限界を迎える。あぁ、早く仕事を済ませて家に帰りたい。苛立ちを熱い風呂の湯で、さっぱり全部、洗い流してしまいたい。



「森下先生、今日はどうも娘のことで、お邪魔をいたしました。改めてお詫びの品でもお送りいたします。親の言うことを聞かない娘ですが、あなたなら、どうにか手なずけられるかもと、思いはしましたがね。人を食ったような物言いが、娘とよく似ている」



 そう言って風波父は立ち上がり、校長と私に一枚ずつ、名刺を手渡した。校長はともかく、私にはそんなものなど無い。渡されただけの紙切れ一枚は、なんとも収まりのつかない代物で、私の胸ポケットにとりあえず押し込まれた。



「校長先生も、今日はありがとうございました」


「いいえ滅相も無い。こちらこそあまり…、お役に立てませんで」



見送り役の校長は、率先して風波父の行く手のドアを開け、ニコニコと何の根拠もない笑顔といっしょに、部屋を出て行く。


私もとりあえず二人の後に付いて、スリッパで行けるところまで、見送りに行くことにした。



 風波父は、運転手付きの車で帰って行った。しかし災難は、それで終わらなかったのだ。


 まだすべては、始まったばかりとは知らず、私は、ぼんやりと疲れた身体をひきずり、次の授業へと向かって行った。





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『おっさん太陽説』 ミーシャ @rus

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