森下公男が「人間」であった三年前の秋

一節 しがない教員の生活


「私は…」と思いだしかけたところで、公男は袖口のチョークに気付いた。忌々しい。

この汚れは教員が日々の奴隷であることを自覚させ、また野蛮な子供とその親に侮蔑的態度を許す。だから嫌なのだ。


人は、世界が自分を中心に回っていないことを知ったとき、はじめて謙虚になるだろう。公男は、生徒たちを見ては暗い喜びを味わう。教育の理念とは然り、分け与えることだ。だが何故に私がそうしなくてはならない?


分かち合う喜びはあっても、「分け与える歓び」なんてものは、高尚な方々の良心が導き出した定言命法だ。だから従う道理はない。


『私は自分の持ち分を、死ぬまで持っていくだろう。そんな小悪を神がこうして許すから、私は生きているまでだ』。公男は自分自身に、いつもそう説明する。



森下公男の回想 その1


放課後の自習監督。


私の授業に熱心な生徒が四人、私の出した課題に取り組んでいる。私はしがない中学校の教師だ。兵庫県の神戸の生まれで、立身出世を目指して上京。そのまま東京の街中に居ついて約30年。


得意ではなかった化学を大学で専攻し理科教師になるなんて、人間として体たらくのすることだと思う。安全パイを誰より慎重に並べてきた人生。毎年みかける桜の花に命の儚さを見つめてきた。


私を例えるなら花が散ったあと吹き出す若葉より先、よわよわしく切れた葉先だ。それも濃い緑に成る前に枝から落ちる、未成熟な黄緑の葉の「先っぽ」だ。


あぁ、花の賑わう季節に馴染むのは似つかわしくない男だ、私は。


―「先生、テスト終わったんですけど。」


高梨さんが私に言う。彼女はよくできる生徒で助かる。いまだって、自分だけに与えられた課題をやって、さっさと退室してくれた。彼女は大学で化学を専攻する予定の学生で、他は単純に、罰則代わりの補修を受ける奴等ばかりだ。


私の補修授業をうけるのはきまって、この3人。まったく自慢できない。


同じ化学の教師である二十八の佐々木君が、大勢のうるさい子どもをさらっていってくれた。おかげで私は静かなひと時を得ている。


だが癪に障ると、私の体はすぐさま不平を言う。気力が抜けたか、階段の上り下りがきつい。頭痛がするのだ。気圧が変わるせいかと思ったが、勘で違うとわかる。

 

生来、人を嫉んできた。救えない男なのだ。物質的に恵まれた時代に生きているからこその罪深さ。


ネオン色の有害な化学染料に、生物の証を蝕まれながらも、リミッターの外れた人工的な肉体を創り出した人類は、科学技術を叩いてのばして文明の利器を手にいれると、体も心もふやかして、享楽を味わうことをおぼえた。


しかし私は、この時代に生かされていない。精神が人並みに育たなかった。中流の暮らしそれ自体に不満はなかったのに、人の持ち物に異様なまでの関心があった。


「平等」が私のモットーだった。だから奪いこそしなかったが、不平等を打破するために多くを有する者が当然の仕打ちを受けねばならないと考え、実行してきた。


私はガキ大将ではなく、彼の小さく陰湿な参謀だった。私の額にはいつも皺が寄り、同年代の子供たちを少なからず畏怖させた。


私は自分が特別な存在だと、常日頃思っていたのだ。それを否定するような家族の態度には必ず激高し、私の存在を確認させることにも余念がなかった。それほどの怒りのエネルギーが、私の中に満ち満ちていた。


ところがどうだ?

落ち葉に埋もれていくように皮膚も茶色く変色し、厭な臭いまでしはじめた私の体は、何事も成しえないまま30年後には、私の魂をほいと手放す気でいる。


いったい自分に何ができる? 残りの人生の数十年は、若かりし頃の10年の価値ほども無いことがわかっているのに?


私は地団太を踏みたくなると一人、カラオケに走る。そうだ、今日も行こう。バカどもの鉛筆を持つ手が止まったところで私は言った。


「終わりだ。」


何の心残りもないように生徒たちは私に用紙を返し、がたがたと騒々しく教室を後にした。

すがすがしくなった教室に私のコロンだけが香る。私がこの誰もいない教室の王だ。


私はひとたび、幼い日々を思い出す。



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