栗山千蔵くりやませんぞうは老いてから山風と号し、城下で書物に親しみながら長屋の管理を請け負っていたものの、元来は牧野家の学校であるところの修道館の講師であった。数年前に木村惣之助が上席家老を拝命するまでは牧野家中の武家子弟に漢学を教えていたのである。木村もまた幼年の頃には山風に学んでいた。

「秀介と忠吉が何やら共謀していると知って、久々に登城した次第でござるが、外から聞いておれば惣之助の狼藉ぶりは全く恥ずかしいばかり。大殿の御前ではございますが、師として情けのうございます」

 大家は平伏しつつ、秀介と忠吉について「この二名においては牧野家を想ってのこと」「我らは逆らうのを良しといたしませぬが、悪しきを正すもまた人の道でござる」と助命を乞うた。本来ならば彼の学問では市民の反抗を認めないのに……である。

 幕府の学問所にて名を知られた大家の『ある種の転向』ぶりに大殿は応えられた。

「山風がそれほど申すならば、罰するべきは木村のみであろうな」

「お待ちくだされ! 大殿!」

「先ほどから文書を読み直しておるが、お主はこれほどの金をどうしたのじゃ?」

 大殿から多額の御用金の使い道を問い詰められた木村は、苦し紛れに「拙者が悪いのでございます」「しかし別の道理もございましょう」と口走った。

 これに大家は「お主が道理を申すか」と苦笑する。大殿も首をひねられた。

 だが木村は引こうとしない。ひたすらに秀介をにらんでおり、自身の失脚を必定とみてか、せめて彼を道連れにしようと企んでいるようである。

「拙者の道理とは、すなわち先例でございます。この秀介なる者は、畏れ多くも大殿の御政道に異議を申立てようといたしました。ならば先例に従って死罪にするのが当然かと」

「惣之助、往生際が悪いのではないか!」

 大家が声を荒げる。必死で守ろうとしてくれているその姿に秀介は「ありがたい」と思った。だが木村の言い分にも理はある。古来より一揆や強訴の代表者は所業の善悪を問わずして殺されてきたのだ。そして後世においては義民として祀られてきた。

「己なら死んでも構いませぬ」

「おい秀介!」

 忠吉が諌めようとするも秀介は聞く耳を持たない。秀介にはかねてから市中の苦しみを取り払いたいという公への想いのほかに、歴史に名を残したいという強い野心があった。

 ならば死して義民となるのも大いに結構なのである。

 秀介は「この度は失礼いたしました」と改めて平伏した。失礼とは『礼を失う』と記す。大殿を初めとして城方にも礼はある。そして道理もある。一介の町人にすぎない秀介により政を動かされたとなれば、彼らの『支配の道理』は大きく動揺してしまうのだ。

「わかった。その方には死罪を申し付けよう」

 大殿の言葉に大家も頷くしかなかった。忠吉もまた何も言えなくなる。秀介は満足そうに息を吐いた。木村は笑っている。もはや異議を申す者はいないはずだった。

「お待ちくださいまし! 大殿!」

「おお。吉江ではないか」

 ここで控えの間から現れたのが大殿の外孫・吉江である。直系の孫たちが江戸屋敷に詰めている中で、他家に嫁いだ娘の子でありながら城に遊びに来てくれる彼女は、それはそれは大殿から愛でられていた。髪は濡烏、唇は桜桃、羽織の上からでも見て取れる柳腰に遠山の眉。まさしく解語の花と称されるにふさわしい女性である。

「先ほどより話は聞いておりました。死罪を覚悟の上で乱れた政道を正そうとされた秀介様の肝っ玉。これほどわたくしの夫にしたいと思わせる方はいらっしゃいません」

「なんと! この者に輿入れしたいと!」

 大殿は右手の奥で目を丸くされた。

「はい。しかしながら秀介様とは身分が合いませぬ。さすれば、まずは惣之助の養子といたしまして木村の姓に改めていただき、その上で輿入れしとうございます」

「こんなのを拙者の家に入れ……入れぇ!?」

 吉江の提案にそれまで笑っていた木村は泡を吹いた。よほど嫌だったらしい。

 大殿は「ならば惣之助の処分も済んだようなものであるな」と笑みを浮かべた。

 当の秀介は困惑するばかりであったが、近寄ってきた吉江の美しさに惹かれて「よろしくお願いします」と顔を赤くさせた。忠吉も幼馴染の立身ぶりに思わず感極まっていた。

「ははは。お眼鏡に適いましたな」

 これを言ったのは大家である。

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大殿と眼鏡 生気ちまた @naisyodazo

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