帰らなきゃね

 翌朝、正人さんと私は花咲公園を散歩していた。

 ティムが言うにはこの公園、実はもうなんともないのだ。事件が事件だっただけにいまだに誰も来ないけど。

 なので、広い広い公園に、正人さんと二人っきり。



「お別れパーティーの準備している間、二人で散歩でもしてらっしゃい」


 朝食後、杏花さんが言ったのだ。戸惑っている私にこそっと加奈が耳打ちした。


「思い出、作っておいでよ」




 芝生広場に人影が全くないのはやっぱり不思議な光景。今年は梅雨明けが早いのか、からりと晴れた青空はもう夏の空だ。


「マミ、この中を走ってきてなんにも思わなかったのか? 流石におかしいだろ」

「おかしいと思ったわよ、勿論。だけど、世界が変わってるなんて誰が思うのよ」

「ま、それもそうか」


 普段通り話してくれることにほっとして、軽口を返す。他愛ないおしゃべりをしながら半歩遅れて歩く。

 そっと正人さんを見るために。


 最後にいっぱい見ておこう。この目にしっかり焼きつけておこう。

 柔らかそうな少し明るい色の髪。日に焼けた首すじ。髪から半分だけ見えている耳。あ、あんなところにほくろがある。

 小さな発見にふっと笑みが漏れる。

 肩のライン。無造作に羽織った綿のシャツの上からでもわかる引き締まった体躯。初日から抱きついてしまったことを思いだして赤面する。

 それから骨ばった大きな手。この手で頭をぽんぽんってされるとすごく安心したな。髪をくしゃって掻きまぜられるのも好きだった。


 芝生広場の前を通り抜け、紫陽花の小径へ入っていくと、満開の紫陽花のあまりの見事さに目を奪われ会話が途切れる。

 ただ黙って二人で歩く。薄紫と水色と淡いピンクの色の中。


「前に、圭の話をしたよな」


 紫陽花の迷路の真ん中辺りまで来たとき、頭上で小鳥がバサバサッと羽音をたてて飛び立つのを眩しそうに手をかざして見上げて立ち止まると、おもむろに正人さんは話を始めた。


「俺は圭の代わりに真由美の兄になろうと思ってずっとやってきた。真由美を本当の妹のように思って」


 何を言い出すんだろう。真由美の話? ……聞きたくないよ。


「あいつはいつでも一生懸命で真っ直ぐで曲がったことが嫌いで。そんなあいつを可愛いと思ってる」


 息が止まりそう。

 酷いよ。正人さん。なんでそんなこと言うの? なんで今更そんなこと。できることなら聞きたくなかった。わかっていることだけど、あなたの口からは聞きたくなかったのに。


 正人さんが続けて何か言おうとする。


 嫌だ。これ以上何も聞きたくない。耳を塞いで逃げ出したい。――でも、身体が動かない。まるで金縛りにでもあったみたいに力が入らない。


 私は何も言えず、ただ目の前の紫陽花の薄い藍色の花弁をじっと見つめていた。


「お前のことも妹だと思うって最初に言ったよな。真由美と同じなんだ。妹が二人になっただけ。そう思った。最初は。

 でも、お前はあいつよりドジなんだよな。一生懸命で真っ直ぐで曲がったことが嫌いなところは同じなのに。ドジで、莫迦で、ほんっとーにどうしようもなく莫迦で…………放っておけない」


 正人さんはそこで言葉を切ってしまう。……何が言いたいんだろう? わけがわからず表情を探るように正人さんの顔を見やる。

 と、ちょうど私の顔を見ていたらしい正人さんの視線ともろにぶつかってしまい、心臓が私の意思を無視して勝手に踊りだす。慌てて目をそらせようとするけれど、正人さんがあんまりじいっと私の顔を見つめるので目を離せない。


「お前、なんにもわかってないな」


 呆れたような声で言うと、しかたないなとでも言いたげな瞳で苦笑する。


 ……? なに?


「当ててみな。俺が今考えてること」

 

 ……正人さん。無理を言わないでよ。あなたとは違うんだから。たった今、私のことを莫迦だ莫迦だって言ったばかりじゃない。


「そんなの、わかるわけないじゃない」


 反論してみるけれど、正人さんはまた正面を向いて歩き始め、何も言ってくれそうにない。自分で考えろってことらしい。

 私は先へ進む正人さんにくるりと背を向けて、傍らの紫陽花に目を落とした。隣の紫陽花の薄い藍色にほんの少し赤みを足した薄紫の花弁。


 その時、ふとある考えが頭に浮かぶ。……まさかね。

 思わず顔が赤くなってしまい、慌てて否定する。

 いくらなんでもこじつけすぎよね。

 真由美はいつでも一生懸命で真っ直ぐで曲がったことが嫌いで、可愛いと思ってる。だから同じようにいつでも一生懸命で真っ直ぐで曲がったことが嫌いな私のことも可愛いと思ってる。その上私はドジで、莫迦で放って置けない。だから実は私のことを……なんて。あはは。自分の都合がいいように勝手に解釈しちゃってるな、私。

 ちょっと苦笑い。


「正解だよ」


 すぐ近く、頭の上から声が降ってくる。

 見上げると、正人さんはいつの間にか戻って来ていてすぐ隣に立っていた。そしてさっきと同じようにじっと私の顔を見つめる。


「…………え?」

「今、お前が考えているのが正解だって言ってるんだよ」


 ……う……そ。


「…………なんで私が考えていることが、正人さんの想像してることと同じだってわかるのよ。そんなの、たんなる当てずっぽうなんじゃないの?」

「わかるよ。マミの表情を見ていれば。何を考えているかくらい、すぐにわかる」


 正人さん、はっきりと断言してしまう。


 わかってるっていうの? 私が今考えたことが、本当にわかってるっていうの? わかってて、それが正解だって言ったって…………?


「嘘!」

「なんで俺が嘘つくんだよ」

「だって真由美が…………」

「あいつの気持ちは気づいてるよ。でも、俺にとってはやっぱりあいつは大事な妹なんだ。俺がす…………」

「ストップ」


 混乱する頭でなんとか考え、正人さんの言葉を遮る。


「それ以上、言わないで」


 それは、聞いてはいけないこと。聞いてしまったら、帰りたくなくなってしまうから。


 私は一歩後ずさり身を翻すと駆け出した。


 喜んじゃいけない。喜んじゃいけない。そう思うのに、胸の奥から喜びが込みあげてくるのを止められない。これは夢なんだから。夢だったと思わないといけないんだから。と言い聞かせるそばから湧き上がってくる歓喜。

 帰るのに。もう会えなくなるのに。これは夢なんだから。これは、夢なんだから。

 

 涙で小径が滲む。紫陽花の水色と紫とピンクが溶け合って、滲んで前が見えなくなって東屋の陰で立ち止まった。

 途端にぐいっと腕を引っ張られる。

 振り返ると正人さんの顔が目の前で。


「お前が好きだ」


 遮る間もなく落とされる言葉。


 ……なんでそんなこと言うのよ。帰れなくなるじゃない。帰りたくなくなっちゃうじゃない。


 涙で霞む目で、正人さんを睨みつける。


 詰る言葉を吐き出したくなくて、溢れ出そうな本心を口にしたくなくて、引き結んだ私の唇に、正人さんはそっとキスを落とした。


 幸せで残酷な初めてのキス。大好きなあなたからの。もう二度と会えなくなるあなたからの。

 嬉しかった。涙が止まらなくなるほど。

 このまま抱きついてしまいたい衝動に駆られる。


 でも。


 帰るもの。今日、もうさよならするんだもの。

 ここで正人さんの側にいるのは私でなく真由美。

 いつか、気持ちは変わるよ。いつか、真由美は妹でなくなるよ。

 きっと。


 だから私の気持ちは言ってあげない。正人さんのことだから、私の本心なんてバレバレなんだろうけど。でも。だからこそ。


「…………私は大っ嫌い」


 私は両手を突っ張って正人さんを突き放すと、また駆け出した。

 今度は正人さんは追ってこなかった。




 真由美のことを好きだと言うのだと思って耳を塞ぎたかった。でも、私を好きだと言ってもらえても、胸は苦しくなるばっかりだった。


 帰るのに。帰らなきゃいけないのに。


 私は唇を嚙みしめながら一人で家へ向かって歩いた。


 ……そうだ。帰ったら、あかりに聞いてもらおう。


 親友の顔が脳裏に浮かぶ。

 加奈や杏花さんみたいに恋愛相談なんてしたことがない。そんな話にはお互い無縁だったから。突然そんな相談をしたらどんな顔をするだろう。

 帰ったらいっぱい話を聞いてもらって、さっさと思い出にしてしまおう。夢の話にしてしまおう。




 家の前でしっかりと涙を拭いて深呼吸をする。

 みんなが用意してくれたお別れパーティー。楽しく最後を過ごしたい。だから絶対に泣かない。


 リビングに入ると、ご馳走の用意がしてあった。

 中のエビが透けて見える生春巻き。アボカドと魚介のマリネ。クレソンとラディッシュの輪切りを添えたのローストビーフに、パスタが二種類。水菜のサラダにスープとパンと果物とパイ……。


「すごい! 朝からこんなに作ったの?」

「四人で一緒にね」

 

 これだけのものを作るのは大変だっただろうに、四人ともそんな素振りはまるで見せない。


「おいし~い。ね、これどうやって作ったの?」

「あ、それ作ったのオレ」

「え~? 私にも作れるかな」

「後でレシピあげるよ」


 悲しい別れにならないように、みんな楽しく振る舞ってくれる。後から帰ってきた正人さんも、さっきのことはなかったかのように普通にしてくれて。

 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。

 時計の針は四時半をまわっている。ティムと約束したのは五時だ。


 涙の別れは嫌だったけど、やっぱり最後に一人ずつお礼を言いたい。


「加奈。加奈のおかげで前向きになれた。楽しく過ごさせてくれてありがとう」

「マミ、元気でね。あたしこそ、パワーをもらったよ。復帰するきっかけもくれた。ありがとう」


 ぎゅっと抱きしめあう。

 くるくるとよく動く瞳に涙をためて。ゆるいカールがかかった髪はいい匂いがする。いつも笑っていて、可愛くて大好きだったよ。辛い話をしてくれてありがとう。試合、頑張ってね。


「杏花さん。お姉さんができたみたいだった。優しくしてくれてありがとう」

「マミちゃん、大好きよ」


 綺麗で洗練されていて、それでいて可愛らしさも持ち合わせた人。夢に対する真摯な姿と一馬さんへの一途な思い、いろんなことを教えてくれてありがとう。


「一馬さん。迷いこんできた私を受け入れてくれてありがとう」


 直接おしゃべりしたのは少なかったけど、杏花さんの話で口ベタなのは知ってたから気にならなかった。短い言葉の端々には優しさが溢れてたよ。ありがとう。杏花さんを大事にしてあげてね。


「真由美。あなたの強さに惹かれたよ。私も、負けない。…………頑張ってね。応援してる」


 私もあなたみたいに強くなりたい。見習わなくっちゃね。辛いことを乗り越えてきたあなただから――誰よりも幸せになってほしい。大好きよ。ありがとう。


 一人一人にハグしてまわる。

 そして最後は正人さん。


「正人さん」


 言葉が出てこない。


「…………ありがとう」


 なんとか一言だけ絞り出す。


「俺はそれだけ?」


 だって、いっぱいありすぎて言葉にできない。声を出すと泣きそうだもの。

 たった一週間でここまで人を好きになるなんて思わなかった。こんなに心を奪われるなんて。あなたの強さと優しさと……弱さに惹かれた。

 

「マミ」


 正人さんが両手を広げる。


「俺だけなしって、そりゃないだろ?」


 正人さんが笑顔で待っている。


 ――私はその胸に吸い込まれるように飛び込んだ。


 いいよね? これは、みんなと同じお別れの挨拶だから。だから、いいよね。


 自分自身に言い聞かせ、正人さんの温もりに包まれた。ぎゅっと力を入れる。

 それからゆっくりと身体を離して、飛びっきりの笑顔で言ってみせた。


「正人さん、ありがとう」



 忘れないよ。みんなのこと、絶対に忘れない。

 一週間。……たったの一週間なんだ。みんなと過ごしたのは。でも、なんだかもっとずーっと長く一緒にいた気がするよ。

 私はもう一度みんなの顔をぐるりと見回し、最後に一言残すと部屋を出た。


「good luck !」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る