10.若林文魅の場合
「な、なに、これ……」
思わず身震いした。
『それ』があったのは、美術室の前の壁だった。
美術室の前の壁には、いくつかの作品が貼ってある。おもに美術の授業中に作られたものと、美術部員が作ったものだ。
私はそこにある作品たちの一枚、号数とかはよくわからないけど、美術の図録を拡げたくらいのサイズの紙に描かれてる水彩画に目を奪われていた。
「えっ、えっ?」
私はきょろきょろと周りをみる。この廊下はそれなりに生徒の往来も多い。
いまだって、放課後になったばかりでたくさんの人通りがある。
なのに、誰もこの絵に注目しない。
「……そんなに、気にならないもんか? ここまでのものが? おかしいでしょ」
信じられないと思いながら、私はその絵をもう一度観る。
躍動感のある筆遣い。描きこまれたところは徹底的で、魅せたいところは力強い。
物語のある色の配置。きっとこれは、作者自身の気持ちみたいなものだ。すごくポジティブな強い想い。
塗り遺された空間にすら意志が感じられる。
ちょっと観ただけだと、なんだか奇抜な色の植物のスケッチだけど、これは。
これは「ガチのやつ」が描いた絵だ。
授業で評価をもらおうと適当に描いたんじゃなくて。
放課後の時間に、ユルい部活で適当に過ごそうと思った奴が片手間に描いたんじゃなくて。
この絵でなにかを表現したいと強く思ってるやつが、心の底から本気出して描いた絵だ。
「描いた人の名前は……あれ。ないか」
作品には署名やタイトルがなかった。
ほかの作品にはほとんどのものにタイトルと署名がついているのに。
つけ忘れたのかもしれない、と思った私は、そのままとなりの美術準備室をたずねた。
しかし、教師の返答は「教えられない」だった。
「ああ、その作品ね。ごめんね、本人の希望で、伏せてくれって」
「……はぁ」
手がかりをうしない、私はもう一度絵の前に立つ。
やっぱり、誰も見向きもしない。
「こんな近くに、すごいことをする人がいるのに、みんな気にならないもんかね?」
気にならないもんか。私は自分で納得する。
多くの人は、自分でなにかを作ろうとは思わない。誰かが作ったものを楽しむだけだ。さらにそのうちの多くの人は、その楽しいなにかを自分から探さない。待ってるだけ。
だから、目の前にこんなにすごいものがあって、その作り手がこの校舎の中にいる、という事実に打ち震えることもない。
黙っていてもテレビが「これがおもしろいですよ」といろんなものを流してくれて、スマホでネットに興じていれば「これおもしろいよ」と時間を潰すための情報をいくらでも渡してくれるから。
もったいないことだと思う。
私は打ち震える。
こんなに近くに本気の奴がいることに。
名前が知りたい。会ってみたい。話してみたい。
なにを想ってこれを描き、どこまで行きたいと思ってるのか――
胸が高鳴る。
ガチの作品に出会ったときはいつもそうだ。
ひっぱられる。こめかみにガツーンとくる。魂をもってかれそうになる。
「これを作った人が存在している」という事実に鼻血が出そうなほど興奮する。
「ふ、ふふ……」
そうなったらやることは一つだ。
私は靴音を異様に大きく立ててその場を後にした。
廊下は走ってはいけない。なら、有り余るエネルギーは床を踏む強さで発散するしかないじゃないか。
部室にもどると、どっかとデスクに座って、コンピューターの電源を入れる。
「おっ、勇ましいねえ」
ストレッチをしていた麗華がヒュウ、とうれしそうな声を挙げる。
「んっふっふ、きちゃったもんね。すげーの観ちゃった。わかる? 美術室のまえにすごい絵があるの。麗華ならきっとわかるよ。すごいから。でも名前がないの。こんなに近くにすごいのがいたんなら、やるしかないじゃない」
意味もなくコンピューターのキーやボディを叩く。早く立ち上がれ、早く、早く。
「へぇ? 脚本家がそんなに語彙力乏しくなるほどすごいの? オッケー、明日観に行ってみる」
「うん、損させない。どれって言わなくても行けばわかると思う。麗華、絶対いい
ワープロソフトを立ち上げて、私は腕まくりをした。
「おお、あっつい。そりゃもうなんていうか、恋だね」
「恋だね! これから書くのは最高のラブレターにする! だから完璧に演じなさいよ、麗華!」
麗華は射貫くような笑みをこちらに向けた。
満足だ。
私は、キーを叩きはじめた。
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