第3話 8月8日

 一人暮らしをしている麻衣夏を家まで送り届けた後、爽平は帰るついでに乗換駅にある大型書店へと入る。ここは比較的大きなターミナル駅なので、周辺はそれなりに開発が進んでおり、飲食店も多いので夜になっても人通りは絶えない方だ。

 家の近くの小さな本屋には入荷していない雑誌が多いので、この大型書店を彼はたまに利用している。

 一通り立ち読みして外へ出たとき、見覚えのある女性が彼の前を通り過ぎていく。彼女はそのまま繁華街の方へと歩いていくようだ。

 黒を基調とするフリルやリボンのついたミニのワンピース、黒いハイソックスに黒いストラップシューズ、頭にはローズギャザーのヘッドドレス、両手で黒い小さなハンドバッグを持っていた。

 いわゆるゴシックロリータのファッションである。

 髪はまるで人形のような腰まである漆黒のストレートヘアだった。

 印象的な服装と髪型に惑わされて、爽平には誰に似ているのか思い出せない。

 何か謎解きをしなくてはいけないかのような気がして、無意識に彼女の後ろを付けていた。

 背筋を伸ばしさっそうと歩く後ろ姿に覚えはない。知り合いであれば、歩く姿から想像がつくものだが。

 あまり近づくと本当に犯罪者になってしまいそうだ。爽平はある程度の距離を置く。

 しばらく、ストーカーのように後をつけ、「自分は何をやっているのだろう?」と空しくなってあきらめかけたところで彼は気が付いた。


(麻衣夏?)


 さきほど一瞬だけ見た横顔が、彼女と重なる。たしかに顔の造りは似ていたかもしれない。

 だが、そう呟きながらも心の中では否定する。彼女は先ほど家まで送り届けたではないか。しかも、彼女が着ている服は、彼女自身があまり好きではないと言っていたファッションだ。


(他人のそら似か)


 そう答えを出しながらも、それを否定できない何かが隠されているような気もしてきた。

 だから、前を歩く彼女から目が離せなかった。かと言って気軽に声をかけられるような状況でもない。

 歩いたまま、爽平は片手でジーンズの後ろポケットに入っていた携帯電話を取り出す。

 目の前の彼女は麻衣夏でははない。そう思いながらも確かめずにはいられなかった。

 通信履歴から彼女の電話番号を呼び出し、発信する。

 呼び出し音が鳴った。


(もし出なかったら、どうする気だ?)


 彼は自分自身に問う。答えは簡単だ。彼女だと思うのなら声をかければいいだけの話である。

「もしもし」

 電話が繋がった。

 眠そうなややくぐもった声だが、たしかに麻衣夏だ。

「……」

 そこで安心したのだろうか、爽平の足は自然とそこで止まっていた。

「もしもし、爽平? どうしたの?」

「いや、なんでもない。麻衣夏の声が聞きたかっただけだから」

 それは本当に本心からだった。



 麻衣夏と初めて会ったのは去年の夏の終わりだった。

 暦の上でも本当にぎりぎりの8月31日である。

 街には秋冬ものの衣服が売り出され、夏限定品のあれこれは姿を消すか在庫処分品とされていた。

 爽平は真っ昼間から友達と軽く飲んだ後、夕方には別れて街を散策していた。

 ほろ酔い加減ということで、足下も少しおぼつかない。そんな事もあってか、前から歩いてきた女性と正面からぶつかってしまった。

「わるい」

 相手の女性が倒れ込むことはなかったが、何か手に持っていたものを落としてしまったようだ。

「あ!」

 女性は悲しそうな顔で足下を見ている。それは親に置いていかれた子供のように、いまにも泣きそうな表情でもあった。だからだろうか、ぶつかってきた爽平に対する直接的な怒りは感じられなかった。。

 だが、別の事で爽平は気が動揺した。一種の既視感だろうか。目の前の女性はまったく知らない他人だというのに、どこかで会った事があるような気がしたのだ。それはもしかしたら、彼女に会ったと記憶するものではなく、誰かに会った事を忘れていて、その誰かが彼女に似ていただけのことかもしれないが。

 そんな奇妙な感覚に陥りながらも、爽平は頭を下げる。悪いのはどう考えても自分なのだから、それは当たり前であった。

「申し訳ない。こちらの不注意だ」

 爽平は女性の足下を見る。そこには道路に落ちて無惨な姿となった赤い色のソフトクリームがあった。

「あーあ」

 女性は悲しそうに呟いた。彼女は童顔でもあったので十代にも見えなくはなかったが、服装や多少の化粧慣れした感じから高校生ではないだろうと想像した。

「弁償するよ」

 たかがソフトクリーム一つに、幼子でもないのにここまで傷心する彼女にも疑問を感じるが、爽平自身の落ち度は紛れもない事実なのだからと彼は真摯に受け止めた。

「限定品で、最後の一個だったの」

 かすれるような声で彼女は呟いた。

「え?」

 爽平は単純に赤だからストロベリー味のものだと思っていた。でも、彼女の口調からしてそれは何か特別のものなのだろうか。

「『夢見月のアリス』の夏期限定品。西瓜味のフレーバー」

「西瓜味?」

 爽平は思わず吹き出してしまった。

 確かに夏らしいものではあるが、それほど売れるものなのだろうか? 過去に、夏になるたびに違うメーカーから発売される西瓜ジュースを思い出し、それを毎年酷評するためだけに買い続ける古い友人の顔が浮かんだ。

「笑うことないでしょ。ひどいな、ほんとなら弁償してもらいたいのに」

 目の前の彼女は不満げな顔で爽平を見つめている。たぶん、これ以上笑ったら憤慨するだろう。

「ごめん、ちょっと昔の事思い出したから」

「だからって」

 彼女はまだ未練がましく、ほぼ液体と化したソフトクリームの残骸を見つめている。その表情は先ほどと同じで何かもの悲しそうだった。

「ごめん。そうだね、悪いのは俺だから」

「責任とってくれる?」

 彼女は上目遣いに、懇願するように呟く。

「落とした分の金額は弁償するよ」

「そうじゃない。あたしの夏を返して」



「お兄さんって、わりと女ったらしだったりする?」

 彼女はニヤニヤしながら爽平の顔を見る。

「だから、俺なりの責任の取り方なんだけどな」

「普段でもこんな簡単に女の子誘っちゃうの? 純朴そうな顔してるのに」

「大きなお世話だ。それにノコノコついてくる子だって相当遊んでるんじゃないのか?」

 爽平は知り合いの家の近くにある団地の自治会が、毎年8月の最終日に祭りを行っているのを思い出し、彼女をそれに誘ったのだ。もちろん、彼女の機嫌を取るために途中で浴衣を買い与えた。

 たかがソフトクリーム一つにここまでしてやる義理はないのだが、彼女の寂しげな表情が気になった。

 そして話を聞くうちに、情が移ったというべきか、一肌脱いでやろうという気持ちになった。

 彼女は今年の夏は散々だったらしい。夏に入る前に恋人と別れて、唯一楽しみにしていた友達と行く予定の海水浴もキャンセルとなり、地元の花火大会は強風で中止、夏物バーゲンは日にちを間違え買えず、地元の夏祭りは前日にお腹を壊して次の日ずっと寝ていたそうだ。

 つまり夏らしい事を一つも楽しまないうちに夏が終わってしまうのが悲しかったらしい。

 唯一、まだ食べていなかった夏季限定品のソフトクリームを食べて、最後の夏を満喫しようとしていたところに、それを台無しにする男が現れたということだ。

 それが爽平である。

 そして麻衣夏は、自己紹介の時に自分の名前に「夏」が入っている事を強調し、どれだけ夏が好きであるかということを、クドいくらいに爽平に語った。

 正直、彼は最初はそんなことはどうでもよくて本当に煩わしささえ感じた。だが、あまりにもまっすぐに感情をぶつけてくる姿に、爽平は陥落した。つまり煩わしさよりかわらしさの方が勝ったのだ。


      *


「夏が終わっちゃうね」

 夏祭りは午後九時をもってきっかりと終了した。余韻に浸る間もなく屋台の火は落とされ、人もまばらとなっていく。

「そうだな」

「夏の思い出って花火みたいにすぐに忘れられていくんだよね」

 麻衣夏はいつの間にか涙を流していた。

 あまりの突然の事に一瞬、爽平は言葉に詰まる。

 そんな彼女を見て、彼は胸が締め付けられた。

 彼女の涙の訳を知りたい。もし知ることができたなら、その涙を流させないように努力したい。

 彼はそこで気付く。一夏どころか、小一時間ほど彼女と話しただけだが、自分は麻衣夏に恋をしたということを。

 夏が大好きな普通の女性にいつの間にか夢中になっていたことを。

 だから、爽平は彼女に向かって囁いた。

「もし君さえよければだけど、来年は一緒に夏を楽しもうよ。二人で思い出を作って、それを二人で共有すれば忘れてしまうことはないと思うよ」

「……っ!」

 その言葉で彼女は吹き出した。そして、我慢できなくなったかのようにけらけらと笑い出す。

「笑うことはないだろ」

「ごめん。真面目だったんだね」

「だから、望まないんだったら放置していいよ。下手に反応されるとこっちも傷つく」

「けっこうロマンチストなんだ」

「『けっこう』じゃなくて『かなり』ね」

 爽平は自嘲気味に笑う。

「じゃあ、あたしもスイッチ入れようかな」

 と謎な言葉を呟いた彼女の唇がいきなり接近し、爽平の頬にそっと触れる。

「え?」

 一瞬の事で彼は頭の中が真っ白になった。

「これは今日のお礼。最後の夏を楽しませてくれたことに対する」

 そう言って、彼女は人差し指を自分の唇に触れる。

「こっから先は、お預け。もし、あたしがあなたを好きになったらあなたの勝ち。賞品はその時まで。いい? そうね、期限は来年の夏の終わり」

「それって」

「あたしもね。そんなに軽い女に見られるのは嫌だから。はい、いちおうメアドだけ教えておく」

 彼女の手からメモのようなものが渡される。そして続けてこう言った。

「今日はありがと。で、今日はさようなら。後で連絡して……気が変わらなかったら付き合ってあげる」

「それって?」

 爽平が期待を込めたところで、彼女の笑顔が釘を刺す

「とりあえず友達としてね」

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