第1章 1

 天使。

 そう言うと人は普通、良いものだと思うのかしらん、悪いものだと思うのかしらん。あるいはもしかしたら、なんとも思わない人が多いのかもしれないけれど。まあ、そんなのはどうでもいいこと。

 『天使が通る』って、今みたいな状況を言うのかな、なんてことを考える。なにかの小説で読んだフレーズだけれど、あとあと調べてみたらフランスの諺らしい。

 午前の授業が終わって、お昼休みに少しだけ食い込んでいる時間。四限の国語の授業でちょっとわからない解釈があって、授業後、そのことで先生に質問をした時のこと。教卓一つを間に挟んで、先生とあれこれ会話を交わしていたところ、意図せずして会話が途切れてしまったのだ。特に何を話していたわけでもないのだけれど、なんとなく気まずい沈黙が流れる。

 そうして、『天使が通る』なんていうフレーズのことを考えているうちに、天使なんていう想像上の産物そのものについて考えてしまっている自分に気づいてふと我に返る。

 沈黙が流れ始めてから、どれくらい時間が経ったろうか。わたしは向かい合っている先生の、さらにその向こうの壁にかかっている時計の秒針を眺める。耳鳴りがするような、果てしなく続くような、そんななんとなく嫌な感じがするような沈黙だったけれど、実際に流れた時間は五秒やそこらだったらしい。

「先生、分かりました、ありがとうございました」

 わたしはそう言って沈黙を破る。と同時に今までの会話を切る。先生が答える。

「うん、それなら良かった。君はいつも勉強を頑張ってくれているからね、次回のテストも期待しているよ」

 期待している、その言葉が生徒にとっては思いのほか負担になるということに気づかないんだろうか。先生だって昔は中学生だったこともあるに違いないんだから、それくらい分かってもおかしくない。もしかしたら、想像力が乏しいのかもしれない。昨日のテレビで、最近の人は想像力が衰えてきていると、どこそこ大学のなにがし教授とかいう人がのたまっていた気がする。技術の発展で、世の中から抽象的なものが可能な限り排除されていく傾向にあるとかなんとか。まあ中学生のわたしが、一回りほど年上の先生に言えたことではないけれど。

 そう思っても、もちろんわたしはそのことを口に出さない。

 忙しいということもあるのか、会話を終えた先生は、もうとっくに踵を返して、いままさに教室の扉をあけて廊下に出るところだった。

 それを横目で見送ったあと、わたしの意識は教室の中に戻ってくる。中学とはいえ私立なので、給食はない。各自お弁当を持ってきて、それを各々が好きなように好きな者同士で食べる。

 わたしはなんとなく教室を見回す。ぼーっと全体を眺めていると、そこには昨日とほとんど変わらない、でも少しだけ違う、そういう光景がある。それでも、少しだけ違うところなんていうのは、ほとんど目立たなくて、だから、毎日変わらない日常の雑踏に紛れて、姿を消す。

 わたしの視界に入るのは、まるで『動物園』という形容がぴったし当てはまるような、そんなありさま。鮭の切り身をくわえながら追いかけっこをしている男子たちもしかり、黄色い声と一般的には言うのだろうか耳が痛くなるような嬌声を響かせる女子たちもしかり、逆に魂でも抜けてしまったみたいに黙々と箸を口に運びながらそれでも弁当の中身は大して減っていないように見える人たちもしかり。どれをとっても動物園にいそうなのがそのへんにぽつぽつと点在している。わたしの視界にわたしが入ることはできないので、わたし自身のことは別だが。いや、もしかしたらわたしみたいなのも、動物園のどっかにはいるのかもしれないけれど。

 そんなふうに考えながら首を巡らすのも二、三秒。視界の端で、わたしのいる方角に向かって手を振っている女子が目に入る。わたしの背後にあるのは教卓と黒板だけ。どうやらわたしに手を振っているらしい。仮にそうでないとしたら、あるいは黒板や教卓と意思の疎通を図れるエスパーなのか。

 わたしは人差し指を自分の顔に向けて、首を傾げる。「わたしを呼んでいる?」、そういう合図。彼女は笑いながら言う。

「あはは、当たり前でしょ! あんた以外に誰がいんのよ。それとも、物と会話ができるようなエスパーにあたしが見えるとか?」

 それを聞いて、ちょっぴり背筋がむず痒くなる。やっぱりこの子はエスパーなのかもしれない。人の心を読んだりするのか。いや、そんなはずはない。

 私は明るく答える。

「見える見える! 家で育ててる花とかに毎日話しかけてそう!」

「はは、それはエスパーというより乙女っ!」

 周りにいるほかの女子たちも、からからと笑い声を上げる。

 いつも心の中では、冷めたような感想をつぶやき続けている私だけれど、人と接する時は明るくするように心がけている。

 わたしは近くにあった誰も座っていない椅子を掴んで引き寄せ、いまだ笑いの余韻も冷めやらぬ女子集団の輪に入る。

 わたしが椅子に座ると、男子のデカいしゃべり声が耳に入ってくる。うるさい。聞く気はないが、それでも否応なしに聞こえる。

「お前の頭、ワックスとかつけてんの?」

「いやいや俺の頭、天パーだから、これ!」

 それ、誰得なのっていう情報。そういうの頭悪そうだから、やめたほうがいいよ。もしかしたら、「俺の頭、天パーだから」っていうセリフは、「俺の頭って、天然パーマだから」の略じゃなくて、「俺の頭って、天然でクルクルパーだから」の略なんじゃなかろうか。

 顔を上げると、今度は女子たちが爆笑していた。何事があったのかとわたしがキョロキョロしていたら、爆笑していた女子のうちの一人が、

「ヤバいっ、ウケる! あははっ、クルクルパーって! なんすか、それ、マジヤバいんですけど」

 と言う。私は答える。

「え、なに? やっぱエスパーなの?」

「は!? んなわけないでしょ! 心の声が漏れてたよ。自分で気づいてなかったの?」

「えー、うそー。ぜんっぜん気付かなかったわー」

「マジで。それもヤバいわー、気を付けなね? 本人に聞こえてたらヤバイっしょ」

 なんという語彙力の持ち主だろう。「マジ」とか「ヤバい」とかだけで会話が成立している。いや、成立していると言っていいのかわからないけれど。それにしても、何でもかんでも「マジ」とか「ヤバい」とか言っておけば、何を言いたいか伝わってしまう最近の若者の言語感覚マジヤバい。

 わたしは、できるだけ高い声を出して、「だよねー」と答えておく。どう返答しようか困ったときは、同意しておくに限る。これ、基本。

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