晴れた日の雨傘

くかたけ

序章

 ――まもなく、四番線に、各駅停車、大宮行きが、参ります、黄色い線の、内側で、お待ちください。

 わたしは一歩、線路に近づく。

 遠くから列車の影が近づいてくる。

 瞬く間にその影は影でなく、実体を伴った塊として轟音とともに迫ってくる。ますます、ますます、わたしとの距離を縮める。

 わたしは、もう一歩前に出る。

 さらにもう一歩、もう一歩。気づいたときには、身体を空中に躍らせている自分を感じた。中学の制服であるチェック柄のプリーツスカートをはためかせながら。

 警笛かブレーキ音かが混じりあった、人の声ともつかない叫び声みたいなのが、遠くで聞こえた気がした……。


 ゴオオオォォォォォォォゥゥゥゥゥゥゥゥゥー。

 目の前に止まる電車の音で、わたしの意識は現実へと引き戻される。

 ――まったく、せっかくいいところだったのに。

 わたしの妄想を打ち破ったノイズを引き連れて現れたその電車が止まっている様子は、一瞬プラットホームに沿って横たわっている得体の知れない巨大な物体のようにも見えた。その長く太い図体を持て余すことなく、電車は側面の扉を開く。わたしはその中へと足を踏み出す。

 今ごろ駅の外はきっと快晴なのだろうけれど、地下鉄の駅の構内では太陽の光など届くはずもなく、そこを照らすのは、ただ人工の明かりだけ。

 わたしは、この得体の知れない生物に体を喰われる妄想をしてみた。だが、こちらの妄想は、わたしに恍惚とした感じを与えてくれるものではないようだ。やはり、わたしに夢のような、幻のような、ぼーっとするような、そういう悦楽を与えてくれる妄想は、案外少ないのかもしれない。


 生きていくなんてことは、実際疲れるものだ。

 思いだしてみれば、楽しい時間なんていうのはその一瞬だけで、それは時間とともに徐々に薄れていく。逆に、思いだしたくもない黒歴史みたいなほうは、たまに眼前に姿を現しては、その忸怩たる思いでわたしを悶えさせるのだ。

 でも、まあ思い出し笑いっていうのもあるし、もしかしたら時々現れるこういう気持ちって、楽しいことも悲しいことも変わらないのかな。だけど、やっぱり楽しいことと悲しいことだったら、悲しいことに支配されている時間の方が多いように思う。だって、とびきりつらいことがあったら、何日も何日も引きずるけど、とびきり楽しいことがあっても、そう何日も引きずらない。というか、何日もずっと浮かれ続けていたら、頭のネジが二、三本ぶっ飛んでいるちょっと頭のおかしい奴になってしまうではないか。

 それはさておき、少なくともわたしには、生きるっていうことそのものが、疲れるということを意味しているように思えてならない。

 だからふとした時に、もう何もかも捨てて、命を投げ出すような妄想に浸ると、世の中の雑踏から何もかも解放されて、うっとりとするような悦楽の中に身体が沈んでいく。

 こう言うと勘違いされそうだけれど、別段自殺願望とかがあるわけではない。なにか具体的に思い悩んでいるわけじゃないし、これといってつらい出来事があったわけでも決してない。でも、こういう気持ちってみんな持っているんじゃないかな。たかが中学生の身で「生」について語るだなんて傲慢のように思われるかもしれないけれど、集団の中で生きるって疲れる。みんなに足並み合わせて、従いたくもないのに従って、お互いにお互いの様子をうかがって、これといって得することもないのに媚びを売りあう。そんなことしたくもないのに、しなかったらしないで村八分。なんでこう、人間関係って面倒なんだろう。いっそのこと、自分以外誰もいない世界なんてものがあったら行ってみたいけれど、それはそれで今よりつまらないに決まっている。なんで人生ってこんなに矛盾だらけなの?

 人間なんていつか死んでしまうのに、それでもなぜか生まれてくる。生きるなんて面倒だよね、って思っているくせに、いざ死ねって言われると、それはすごく嫌で、死なないために生き続ける。働くことも、勉強することも、疲れる疲れるって文句ばっかり言うくせに、それをやめることもしない。これだけ矛盾だらけなものって、多分この世にない。でも、生きるってことがなかったら、「この世」自体もないのか。ていうか、人間がいなかったら、この言葉なんていうのも、生まれてなかったんだな。いや、人間がいなかったら、そもそも言葉自体必要ないのか。

 ――こんなことを考えているわたしって、すこし哲学者っぽくてカッコイイ?

 ふとそんなふうに思って、ちょっとだけ楽しい気持ちになる。

 飯田橋駅で電車が扉を開き、わたしは身にまとったセーラー服が揺れるのを感じながらプラットホームに降り立つ。

 ――さあ、今日も嘘だらけの一日が始まる。

 五月のまだ爽やかな風を全身で浴びながら、わたしはただ淡々と歩みを進める。春から夏になっていく温かさを孕みながらも、まだ冷たい感覚が残るつむじ風が、ソックスとスカートの間でむき出しになっている膝のあたりを撫でて、少し鳥肌が立つ。

 そういえば、男子に何回か、「女子って一年中スカートなんて履いて、特に冬とか寒くねーの?」なんて言われたことがあるけれど、履きたくなくったって、制服がスカートなのだから仕方ないではないか。じゃああんたが女子だったら、校則破ってでもスカートは履かないのかって聞きたい。もちろん、そんなこと言えるわけがないのだけれど。それに、年がら年中スカートを履いていたら、そんなの気にしなくなるし、さすがに慣れる。

 ただ、制服のスカートは、私服のそれと違って厄介だ。冬服と夏服でスカートの厚さが違うのだけれど、夏は生地が薄くても、外を歩くとアスファルトからの照り返しでスカートの中が汗かいて蒸し暑い。冬は少しくらい生地が分厚くなったところで大して温かくもないし焼け石に水だ。

 そんなとりとめもないことを考えながら学校への通学路を進む。

 ――ああ、面倒くさい。

 赤信号で止まって、空を見上げた時、ふと考える。

 神様なんてものがこの世に存在するとしたら聞いてみたい。

 ――あなたは一体何を考えているの?

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