第38話 影武者/エルフ/マルティスト

 永正12年3月末、今川軍は大庭おおば城を退去した。

 近隣の領主たちがことごとく鎌倉方に寝返ったため、大庭城を維持する力と意味を失ったのだ。


 今川氏親いまがわうじちかはそのまま本国へ戻る。

 新しく伊勢家の当主についた伊勢氏綱いせうじつなは、動かない。

 敗戦。当主の討死。相模中部の失陥。急激な勢力の縮小に、内を締める必要を感じたためだろうか。


 ともあれ、ひとまず戦は終息を迎えた。

 戦に明け暮れた冬が過ぎ、相模の地に、遅い春が訪れた。


 4月6日。玉縄たまなわ城。

 この日、荒次郎に子が生まれた。

 男子だ。当主の初めての男子である。三浦家の皆はみな、これを喜んだ。

 幾人かの重臣――たとえば、しゅうと出口茂忠でぐちしげただや、心配性の佐保田さほた河内守などは、喜びの表情に、わずかに不安の色を混じえている。

 この先、正妻である真里谷初音まりやつはつねに男子が生まれれば、この子供は庶兄となる。それが三浦家の乱の種になるのではないか、と心配したのだ。



「ほらほら、初音お姉ちゃんですよー、べろべろばー」



 当の初音は、そんな心配もどこ吹く風だ。

 母になったばかりの出口冴でぐちさえの房室に入り浸って、赤ん坊相手にだらしなく目尻を下げている。



「ああ、いいなー。やっぱり赤ちゃんは可愛いなー」


「そう思うなら、お姫さまもばんばん産んでください。ばんばん」


「そういえば荒次郎。この子の名前、決めてるの?」



 侍女のまつの冷たい視線から逃れるように、エルフの少女は荒次郎に目を向けた。

 とこに寝かされている冴の枕元に座っていた荒次郎は、初音の問いにうむ、とうなずいた。




「丸太――待て、違うぞエルフさん。話を最後まで聞いてくれ!」



 剣呑な表情で立ち上がった初音を手で制し、荒次郎は言葉を続ける。



「――丸太にしようと思ったのだが、さすがに拙いと思ってな、丸太郎に決めた……大丈夫か、エルフさん」


「うごごごごっ」



 ドロップキックを跳ね返されて、畳の上で悶える少女を気遣っていると、布団で寝ていた冴が、ほほ、と笑った。



「仲のおよろしいこと。でも、丸太郎が嫌がりますので、あまりほこりを立てないでくださいましね?」


「すまない」


「ごめんなさい」



 若い母親の静かな抗議に、夫婦はそろって頭を下げた。

 何年も一緒にいたためか、このふたり、仕草が似て来ている。



「つぎは、奥方さまの番ですわよ」



 冴に言われて、エルフの少女は悩ましげに眉をひそめた。

 側では、幼い侍女が無言の圧力を放射している。



「うー。むむむ。あきらめて覚悟を決めるべきか……ちょっと荒次郎、フライングはやめれっ!」



 エルフの少女が抗議したのは、荒次郎が無言で彼女の体を抱き寄せてきたからだ。

 少女が荒次郎の腕の中でもがいていると、侍女のまつが期待を込めた瞳で己を指差した。



「お姫さま、わたし。そろそろわたしの出番じゃないですか?」


「いえ、まつさんはまだすこし早い……怖くありませんわよ? そんなに凄んでも全然怖くありませんわ!? だから無言で近づかないでくださいましっ!!」



 悲鳴を上げる冴を尻目に、傍らの丸太郎はきゃっきゃっと笑っている。

 そんな春ののどかな喧騒を破るようにして、ふいに来客の報が届いた。

 客の名を聞いて、荒次郎は思わず腰を浮かした。







 伊勢氏綱。

 討死した伊勢宗瑞の嫡子にして、伊勢家の新しい当主。

 玉縄城を突然訪れたこの男は、勝手知ったる我が家とばかり、敵地の広間で落ち着いている。


 荒次郎が伊勢氏綱に会うのは、二度目だ。

 一度目は、玉縄城を守る、討つべき敵将としてまみえた。



 ――しかし、今回は様子が違う。



 荒次郎はそれを察している。

 それゆえ、人払いを頼まれた時、諸将はおろか護衛まで退けた。

 伊勢氏綱は、すこし驚いた表情になって、それから怜悧な顔に苦笑を浮かべた。



「腹を割って話したいことがあると見た」



 荒次郎の言葉に「まさに」と応えてから、伊勢家の新しい当主は言った。



「伊勢家は鎌倉公方に臣従したい。それをお願いに参りました」


「……なぜだ」



 意外、ではなかった。

 伊勢氏綱が自ら玉縄城を訪れた時から、予感はしていた。

 しかし、荒次郎たちが予想していた伊勢家の動向からは、かけ離れている。



「荒次郎どの。あなたのことは、調べさせていただきました」



 伊勢家は風魔を抱えている。

 この男が「調べた」と言った以上、徹底的に調べているはずだ。思想、心情、性向、野望。ありとあらゆるところまで。



「――父は、関東を差配する夢を抱いておりました。関東を、ひいては天下を差配し、日本ひのもとに安寧をもたらそうと」



 その言葉を、荒次郎は意外に思い。

 いや、と心中、頭を振った。


 鎌倉合戦において、境川をはさんで交わした問答。

 そして、歴史を知る真里谷初音に教えられた、伊勢宗瑞の恤民政策。

 それを考えれば、国盗りの野心も、案外、ただの手段でしかなかったのかもしれない。荒次郎はそう思う。



「私の夢は、父と似ているようで、また違います」



 氏綱は言葉を続けた。

 その様子は静かで、おだやかで。伊勢宗瑞とはまた違った凄みを感じさせる。



「――私は関東に新たな秩序をもたらしたい。しかし、その手段として、自ら関東を差配することには、あえてこだわりません」


「ふむ。つまり」



 荒次郎は彼の意図を理解し、水を向ける。

 伊勢家の新たな当主はうなずくと、語気を強め、言った。



「ええ。貴方が築く鎌倉の新秩序を是とし、これに協力していく。まずは関東に。できればそれを日ノ本に押し広げていく。それが、私の真意です」



 視線はまっすぐ、荒次郎に向けられている。

 荒次郎もまた、伊勢氏綱を見る。言葉にも、瞳にも、一切のゆがみが無い。


 荒次郎は、わずかに不審を感じた。

 伊勢氏綱にとって、荒次郎は父の仇だ。例え己を理で納得させようと、こうまで奇麗に恨の色を消せるものか。



「今川家は。治部大輔じぶだゆう氏親どのは」



 荒次郎は、あえて別の質問をした。



「あの方には、すでにわが想いを伝えてあります」



 伊勢氏綱は答える。



「親の志を受け継がぬ私のことを、あの方は気に入らぬ様子でしたが……」



 ――好きにしな。俺様は俺様で、ちと他に天下取りやることができたんでな。関東は好きにするがいいさ。



 氏綱は、今川氏親の言葉をそのまま伝えた。



「それから、貴方に、伝言を……俺様は天下人になる。そうなってから俺様を担ぎたくなったら、いつでも頭を下げに来い。ただし、徹底的にこき使われることを覚悟しやがれ、と」


「豪気なお方だ」


「まさしく」



 と、二人は苦笑を交換する。

 そうしてから、ふいに荒次郎は聞いた。



「恨みはないのか」


「恨んでますとも」



 伊勢氏綱は直裁に答えた。

 恨、の一言にのみ、ぞっとするほどの感情が込められている。

 そのあと、伊勢家の新たな当主は、すべての感情を振り払うように、頭を振った。



「――でも、それ以上にまっぴらなんです。この戦乱が、永遠に続いてゆくことなど」


「参った」



 荒次郎は両手をあげた。

 それは、まぎれもなく降参の表現だ。



「――俺は三浦家を、相模を保つために、なんでもやるつもりでいた。そのための手段として、伊勢家との和睦も、視野に入れていたつもりだった。だが、貴方のほうから和睦を申し込んでくるとは、さすがに思っていなかった」


「一矢報いましたか」



 たがいに柔らかい笑みをかわしてから、伊勢氏綱がふいに提案した。




「荒次郎殿、私には娘があります。先の約束で失礼とは思いますが、あなたの子に嫁がせたい。そして、できることならば、伊勢家と三浦家は今後、ともに新秩序の樹立に尽力していきたい」


「望むところだ。伊勢家と協力し合えるなら、こんなに頼もしいことはない」



 荒次郎は膝を進める。

 常人並みの体格しかない伊勢氏綱の頭は、荒次郎の鳩尾程度までしかない。


 だが、荒次郎は感じていた。

 二人の視点が、同じ高みにあることを。


 荒次郎は手を差し出した。

 その手を、新たな同盟者はがっちりとつかんだ。



「関東に、新たなる秩序を」



 二人の口からは、同じ音が紡ぎ出された。


 こののち、伊勢氏綱は鎌倉公方に臣従を申し出て、これを許される。

 伊勢と三浦。たがいに多くの血を流しあった両者の同盟は、当初ぎくしゃくしていたが、しだいに強固なものとなっていった。

 外敵から一貫して相模を守り続けた三浦荒次郎は、相模諸衆の信望を一身に集め、これ以後、強固な主従関係を結んでゆくことになる。



「――こうなる気はしてたんだよな、実は」



 同盟について、大道寺盛昌だいどうじもりまさはつぶやいた。



「御当主。なぜだ?」



 大道寺家の荒武者、八郎兵衛はちろべえが、彼らしい武骨な問いを発すると、大道寺家の青年当主は説明する。



「三浦が古い秩序を捨てた時から、若殿は荒次郎について知りたがってた。たぶん若殿は、そのころから、三浦との融和を考えていたんじゃないかと思う」


「大殿の意に反して、か?」


「いや? 大殿が生きてるうちは、若殿は大殿の方針に逆らうようなことは一切してねーよ。というか、してたら俺も若殿を支持してねー。そのへん、ちゃんと筋は通してる」


「だが、大殿の遺志には逆らっておる」


「それが悪いことだとは思わないんだ。俺は。なんせ、ほら。時代も情勢も、この俺にすらわかるくらい、はっきりと変わってきてる。若殿が、これからの伊勢家のことを目いっぱい考えて、三浦との同盟に踏み切ったのなら……やっぱり支持するべきだと思うんだよ」


「だから、老臣どもとの調整役を引き受けたと? まったく、御当主も人がよい」



 苦笑を浮かべた八郎兵衛に、盛昌は明るく笑いかける。



「でもさ、八郎兵衛、俺は思うんだ。俺たちをあれほど苦しめた三浦荒次郎が、これからは味方になるんだ。スッゲー頼もしいし……ワクワクしないか? 俺も、六郎も、きっとみんなも、ハラではそう思ってるぜ!」



 戦国の扉は、既に開いている。

 それが万人に明らかになってきた戦国時代中期。

 伊勢と三浦の連帯はこの時より始まり……戦国期を通して続いてゆく。







 永正12年6月、相模国新井城。

 政務の暇を見つけて、荒次郎はこの城に帰ってきた。

 荒次郎にとっての、始まりの城。本来ならば、三浦一族終焉の地となるはずだった、城。


 荒次郎は深い感慨を抱きながら、城中を歩く。

 無言のまま、ともに歩くのは、境遇を同じくする仲間、猪牙ノ助。

 平時ゆえ、城には城代の佐保田河内守以下、数えるほどしか詰めていない。


 歩きながら、荒次郎は見晴らしのいい岬にたどり着いた。

 視界は一面海。雲ひとつない、晴れた日の光を移して、洋上は煌めいている。



「――なあ、荒次郎くん。吾輩たちはなぜここに来たのであろうな」



 猪牙ノ助が、ふいに問うた。

 数年来考え、答えの出なかった問いだ。



「わからん。だが三浦家には、俺たちが必要だった……当主と、その妻の身に替えても」



 ひょっとして。荒次郎は思う。

 絶えゆく古き血の叫びが、荒次郎たちを呼び寄せたのかもしれない。

 三浦家を滅びの運命から救ってくれる。そんな存在を。他の何を犠牲にしてでも。

 だとしたら、荒次郎たち三人は、その期待に応えた。滅亡寸前の三浦家を、見事立て直した。それは誇っていいことだろう。



「これからどうするね、荒次郎くん?」



 猪牙ノ助がまた問う。試すような口調で。

 親友、三浦道寸の本願――伊勢宗瑞討ち取りは果たされた。

 齢六十を越える猪牙ノ助は、残り少ない春秋を、これまで通り荒次郎の下で過ごすつもりらしい。


 すこし考えてから、荒次郎は言った。



「とりあえずは、伊勢家と協調し、鎌倉公方を盛り立ててゆく。“その先”がないことを祈りながら、な」



 鎌倉公方の勢力は、すでに関東の大部分を覆い尽くしている。

 現状に満足するならば、このまま安寧に暮らしていくことも、あるいは可能かもしれない。


 だが、荒次郎は心の中で首を振った。

 鎌倉公方体制は、複数の爆弾を抱えている。


 関東大戦において房総管領代、真里谷信保まりやつのぶやす、そして扇谷上杉家重臣、三浦荒次郎。このふたりの功績が、あまりにも大きい。

 関東管領、上杉朝興うえすぎともおきはこれを嫉視し、自らも武功を求めている。また、養父朝良ともよしにねじ込まれた養嗣子を疎んじ始めていた。


 房総管領代、真里谷信保は、房総を呑みこみ、北関東を蚕食しつつある。

 常陸南部の小豪族たちを呑みこむのには、さすがに苦労しているようだが、彼の築きあげた勢力はあまりにも大きく、単独で関東管領に匹敵する。すでに関東管領との対立の兆候も、見え隠れしている。


 また、北関東では旧来の勢力がいまだ温存されており、鎌倉公方、足利義明あしかがよしあきにあるいは従い、また背きながら、争いを続けている。いずれも、うかつに首を突っ込めば泥沼に引き込まれかねない癖者ぞろいだ。



「では、“その先”に備えて」


「ああ。また三人の知恵を合わせて、考えていこう。関東の新秩序の、あるべき形を」



 言って、荒次郎は海を見た。

 はるか広がる海のかなたには、一隻の船が見える。

 船には三角帆と縦帆が備わっており、三浦の船だとわかる。

 この新式帆は、じきに他家の船にも取りつけられていくことだろう。荒次郎たちが歴史を変えた、その象徴のような船だ。



「かかっ。いまのうちに道路整備に励んでおかんとのう」



 かねてよりの約束の通り、猪牙ノ助には道路工事の諸権限を与えている。

 猪牙ノ助は早速品川商人から多額の金子を借り受け、道路整備に着手した。

 鎌倉公方の旗を仰ぐ勢力は、江戸湾はおろか、品川、江戸川、利根川などの河川水運をも握りこんでいる。

 とくに、三浦、真里谷、太田の三家は強固な血縁同盟を築いており、関東の商人は、この三家には逆らえない。

 商人衆は彼らに、すでに相当の投資をさせられていた。当然おのおの、投資に見合った権益を与えられてはいるのだが。


 中でも三浦家の借金は飛び抜けている。

 その多くが猪牙ノ助による道路工事の費用だ。

 三浦家の財布を担う真里谷初音は顔を真っ赤にして怒ったが、猪牙ノ助はどこ吹く風だ。

 もとより、金が回っている限り、大名家がそうそう潰れるわけがない。そして金の流れを止めるような不手際を、猪牙ノ助は犯さない。

 それに、身代が傾くほどに三浦家に投資している品川商人は、すでに三浦家と一蓮托生だ。彼らのほうで、なんとしても三浦家を破たんさせまいと躍起になっている。これも猪牙ノ助の思うつぼだ。


 猪牙ノ助の道路工事は雇用を生み出し、また高速化された道は、三浦家の相模一帯に対する支配力を強めていく。

 それが鎌倉を、相模を、そして三浦を一層栄えさせることになるのだが、それはもう少し後の話。



「おーいっ! 荒次郎っ! じいさーん!」



 城の方から、金髪の少女が駆けてきた。

 長い金髪を後ろで束ね、小袖に打掛をした、美しいエルフの少女。



「おっ、大軍師さまのお出ましであるか」



 猪牙ノ助が笑う。


 彼女は、戦がひと段落ついたことで、未来の知識をこの時代で活用できないか、いろいろと試し始めた。

 それが成果として出てくるのは、まだまだ先のことではあるが、仕事量は前倒しで増えた。

 育成中の後進が役に立つようになるまで、彼女は三浦家の行政の中核であり続ける。

 軍師を志す彼女にとっては、極めて不本意なことではあったが。



「荒次郎! 城の中の丸太はなんだ!? また無駄遣いしただろっ!!」


「……無駄ではない。丸太は役に立つし、資産としても運用できる。蓄えておいて損のない、素晴らしいものだ」


「だめだめっ! 三浦家の財布番として、これ以上の丸太購入は許容できませんっ! というか売りますっ! 隠し丸太へそくり禁止っ!」


「なぜだ」



 怒る初音。愕然とする荒次郎。かかっと笑う猪牙ノ助。

 三者三様三人組。彼らの戦いは、まだ、終わらない。







 三浦という名の一族がある。

 滅亡寸前に追い詰められながら、不死鳥のように復活し、乱世の梟雄、伊勢宗瑞をも倒し、戦国期を通して勢力を拡大し続け、ついには関東の覇者となった一族。


 その初代、荒次郎義意よしおきの墓が、三浦半島の突端にある。

 立心尼荒次郎室・真里谷信勝女、三浦猪牙ノ助道露どうろと並んだ墓石には、奇妙な一文が刻まれている。



“奇縁にして来たり、戻れず。しかし後悔はなし。我が名は――”







◆用語説明

丸太郎……三浦義意の庶長子。玉縄三浦氏の初代。義時。


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