第四章 自己追究の果てに

第1話

 啖呵を切っておきながら俺たちはあの後すぐに〝あの場所〟へ行くなんてことはせず、まずは小樟の自宅へ戻った。


 我が武器《村雨》を俺は小樟宅に置いたままだったのだ。だからそれを取りに帰った。あと、小樟の死体。裏路地にそのまま彼女の死体を置いておくのは可哀想だ。だからそれも持って帰った。


 警察を呼んでそいつらに任せればいいんじゃないかって思うかもしれない。でも、任せてどうなるのだろう。小樟の家庭は複雑だ。母親は死に、浮気性の父親は愛人と引っ付いて、そして邪魔者となった小樟楠夏はこのマンションで一人暮らし。彼女は言った。自分は父親に半ば捨てられたようなものだって。ならば、そんな父親は彼女の死体をどうするんだろうか。もしかしたら彼女を愛していない父親は彼女の弔いをしないのかもしれない。そんな父親に彼女の死体は渡せない。そんな気がする。


 これは俺の驕りだろうか。たぶんそうだろうな。だいたい小樟の父親が本当に彼女のことを愛していないだなんて根拠もないのだ。


 まあそれにこんな頭と両腕だけの状態で弔われるのは酷だと思う。小樟だって五体満足な状態で埋葬されたいに決まっている。あ、これも俺の驕りだな。


 とにかく父親に引き渡すにしろ何にしろ、五体不満足のままでは小樟も浮かばれない。小樟の復讐を兼ねて彼女の肉体も取り戻す。


 俺たちは小樟宅で準備をする。決戦前の準備ってやつだ。


 陽は暮れていて、部屋の中に陽光は射し込んでこない。暗い。


 小樟の死体は彼女の寝室のベッド上に置いておいた。


 そして俺たちは、今まで借りていた部屋へ行く。本棚に詰められたいっぱいの本が印象的な部屋。俺と橘花は少しの間だけどここで寝泊まりをしていた。


 部屋の真ん中には布団が二つ並べられていて、枕も二つ並んでいる。俺たちが寝起きしていた布団だ。


 その一つの枕元には本が一冊。俺がここに来てから読んでいた本でまだ読み終わっていない本。小樟から借りた本。


 自分探しがテーマと思われるその本。結局、最後はどうなったのかわからない。この本の主人公はアイデンティティを確立することができたんだろうか。読む暇もない今、それはもうわからない。


 自分探し。アイデンティティの確立。


 俺がこの本にハマったのは俺がこの主人公に共感できたからだろうと思う。


 俺もこの主人公同様自分が何者かを知らず、そしてそれを気にしている。


 俺はこの本を全部読んでいないから、主人公が最終的にどうなったかを知らない。だから俺はこの主人公に代わって自分という存在を追及してやろうと思う。


 本はその人の人生を表している。俺の人生が本になったとき、その本の主人公はきっと俺だ。俺でなければならない。


 自分のことでああだこうだと悩むのは主人公の特権だ。


 だから悩む。悩んで悩んで、そして俺は俺になる。


 今は何もわからない。でも、やりたいことだけは決まっている。やらなければいけないって思うことはある。だから俺はそれをやる。やりたいことをやりたいようにやって、そうすることで人生/物語は紡がれると思うので。


「橘花。お前の肉を貰うぞ」


 俺はそう言って刀《村雨》を鞘から抜く。水気を帯びたその刀身は冷たい印象を与え、それを鞘から抜いたことで当たりの気温が気持ち低下する。


「うん。いいよ」と橘花は言う。「楠夏ちゃんのために。わたしのすべてを使ってくれて構わないよ」


 橘花はそして服を脱ぎ始める。服を、脱ぎ始める。……え、なんで!? 俺は目を丸くした。


「ちょ、服を脱ぐ必要はないんじゃないか!?」


 シャツのボタンを二つほど外したところで彼女は手を止め、俺にこう言う。


「竜杜くんは服ごとわたしを斬るつもりなの?」


「そうだけど。何か問題が?」


「問題大有りだよ。そんなことをしたら服が破けちゃうじゃん。わたしの身体は再生するけど、破けた服は再生しない」


「服なんてほかにもあるんだから一着くらいダメになってもいいんじゃないのか」


「いいわけないじゃん。ほかにも服があるっていうけど、全部違うデザインの服なんだよ。だいたい服が破けるって初めからわかっているんだから、それを避けたいって思うのは当たり前の考えだと思う。誰だって破れたり壊れたりするのは嫌だ。そうでしょ?」


 破れたり壊れたりするのは嫌だ。それはつまり何かを失うのは嫌だってことになる。


 服は破れたら着られない。道具は壊れたら使えない。人は死んだら生きられない。


 服や道具や人。それらの機能が停止したってことは、それらを失ったのと同義。


 失うことは嫌だ。小樟を失ったとき、俺は悲しいと思った。そういうのは確かに嫌だ。負の感情は気持ちを沈ませるのだ。沈んだ気持ちは辛いばかりでそればかり。


 服と小樟を同列に扱うわけではない。しかし、服であれ、小樟であれ失うってことは気持ちを沈ませるのだ。


 とにかく失うのは嫌なのだ。


「それは確かにお前の言う通りだな」


 俺はそう言った。そう言って、こう続けた。


「でも、服を脱がれると俺は目の遣り場に困るのだが」


「そ、そんなの」と言って橘花は頬を赤らめる。「そんなの、わたしだって恥ずかしいよ……。でも、服を脱がなきゃ服が破れるから。し、仕方ないじゃん」


 照れた様子の橘花を見ると、なんか俺まで照れくさくなってつい視線を逸らしてしまう。


 橘花はシャツのボタンを外していく。そしてすべてのボタンを外してシャツを脱ぐ。その肌が露わになる。絹のように白い肌だった。胸はやっぱり慎ましかった。上半身下着状態で目の遣り場にとても困るけど、彼女を今から斬る以上は彼女の方を見なければいけない。


 橘花はその赤面した顔をこちらに向け、上目遣いで俺を見る。


「……ぶ、ブラも、取るの?」


「い、いや。いいよ。いただくのは腕だけだから」


 下着まで脱がれたいよいよ俺はお前を直視できない。だからむしろやめてくれ。


 俺は《村雨》を掲げる。橘花は右腕を水平に上げた。


《村雨》をスッと振り下ろす。橘花の右腕――その二の腕の真ん中辺りにその刃は接し、そのまま皮膚を裂いて肉を斬り込んでいく。いずれ刃は骨に当たり、その骨すらも斬っていく。そして彼女の右腕は彼女の身体と分かたれた。切り口からは血が散って、その血は床に壁にと飛び散った。白い壁に赤い血が霧のように付着して、まるで一種の絵画のように思えた。


 右腕はぼとっと床に落ちた。でも俺はまだその腕を拾わない。


「左腕も出せ」

 俺はそう言った。


 苦痛に顔を歪めている橘花は「え?」と驚いたような表情をちらりと見せる。だから俺は言った。


「魔力は十二分に補給しておいた方がいいだろ。腕一本じゃ足りない」


「わ、わかっ、た……」


 橘花は左腕も水平に上げた。俺はそれを右腕同様に切断。血が噴き出てそれはやっぱり壁や床を染めた。


 橘花は膝から崩れ落ちるようにしてその場に座り込む。両腕を失ったためその切り口を手で押さえることはできない。切り口からは未だに血が流れおちていた。「ぐぐぅ……」と痛くて呻いて蹲った。


 俺は《村雨》を鞘に納めて、床に落ちている二本の腕を取り上げる。取り上げて、それを喰らう。


 はむ、と。俺は手羽先を食うみたいに橘花の腕を喰う。何の調理もせずに喰らう人肉は弾力があって噛み切るのが大変だ。それでも噛み切って、口の中に含み、咀嚼して、ごくんと飲み込む。


 俺が橘花の肉を喰らっていたら、その当の橘花が失った両腕を再生させる。切り口から骨、筋肉、血管、脂肪、皮膚と再生していき、切断されたはずの両腕はトカゲの尻尾よろしく元通り。


「ふぅ」と痛みから解放された橘花は息を吐いた。そして生え変わった自分の腕の調子を確かめる。うん、と頷いたところを見るに新しい腕に問題はないようだ。


 俺はそんな橘花を傍目にひたすらに人肉を喰う。はむはむ。


 俺が淡々と人肉を喰っていると橘花が言った。


「ねえ竜杜くん。初めてわたしの腕を斬ったときのこと憶えてる?」


「ん、ああ。そりゃ当たり前だろ。つーか、この前のことだし」


「そのとき竜杜くん、男の肉より喰いやすいみたいなこと言ってたけど、そもそも人肉って美味しいの?」


「美味しくはない。でも、格別不味いわけでもない。だいたい何の処理もしてないから血の味がほとんどを占めている。それに、俺が今喰っている腕の肉はほとんどが筋肉だから筋張っているんだ。食感としては最悪だよ。まあ、お前の腕は女である分脂肪もあって男よりはマシな食感をしてるけど」


「そんなこと言われてもあんまり嬉しくない」

 そう言って橘花は口を尖らせた。


「女子は痩せたがり過ぎなんだ。少しぐらい肉付きがいい方が喰らう側としては嬉しいね」


「食べられるために肉付きをよくする女の子なんていないよ。わたしを含めて」


「喰われるのは嫌か?」


「んー。そういえばそこら辺あんま考えたことなかったなー。痛いのは確かに嫌だけど、別にわたしの肉が食べられることに嫌な気分はしない。たぶん食べてくれる人が竜杜くんだからだよ」


 そう言って微笑む橘花。


「なんだよそれ。意味がわからん」


 意味わからんけど、そう言われると少し照れる。俺は自分の頬が朱に染まるのを自覚した。


 ひとまず右腕を喰い終わった。残った骨を床に置き、次に左腕の肉を喰らう。


 左腕を喰いながら俺は思う。


 俺って狂人だなって。


 そりゃあ、人肉食なんていつの世もタブーとされる行為だ。だからこんなことをしている奴は狂人だ。俺の場合、人肉を食すことでしか魔力を供給することができないから仕方なく喰っている感が否めないけどそれでも人肉を喰っていることには変わりなく、この行為はやっぱりタブーなのだ。


 俺は何だ? 狂人なのか? わからない。けれど、『俺は何?』っていう問題の答えの一つに、『狂人』という選択肢を加えてもいいと思った。


 左腕も喰い終わる。げぷ、と。俺は胃に溜まったガスを吐き出した。


 準備は完了である。


「よし」と意気込み俺は言う。「じゃあ行こうか。今度こそ【此岸征旅】をぶっ潰しに」


「うん」と覚悟を決めたと言わんばかりに力強い声で橘花は言った。


 けれど。


「ところで」と橘花は言う。「どこに行くの? どこに【此岸征旅】がいるのかわかったの?」


 あ、そうか。そういや橘花に話していなかった。


「とりあえず、それについては例の場所へ向かう道すがらに話そう」


 俺と橘花は小樟の自宅を出る。


 かつてはここが俺の居場所じゃないかと思ったことがあった。この場所は、俺が笑っていられる場所で、笑っていられるってことは幸せってことで、だからここが俺の居場所なんじゃないかって思ったことがあった。


 でもそれも今となっては違うとはっきりわかる。


 この場所の主である小樟楠夏は死んだ。それにより俺と橘花はここにいる理由を失った。小樟のいないこの場所に意味はないのだ。たとえ無理してここに残ったところできっと俺たちは幸せになれない。ただただ悲しいだけだろう。感傷に浸るだけだろう。


 思い出の場所で感傷に浸るぐらいなら、俺や橘花から小樟を奪った【此岸征旅】に復讐をした方がよっぽどいい。行動を起こした方がよっぽどいい。


 玄関の扉を開け、外へ出る。


 ここはもう俺の居場所ではない。橘花の居場所でもない。ここは思い出の場所となった。


 もうここへ戻ることはないかもしれない。でも、もし戻れるのなら、そのときはことがすべて終わったその後だ。


 ガチャン、と。俺は玄関の扉を閉めた。

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