第7話

 橘花に引っ張られ、連れてこられた場所は裏路地だ。ビルとビルの間の仄暗い、そして気味の悪い路地。近くにはスーパーマーケットがあった。


 こんな所に連れてきて、俺に何をする気だ? 襲うのかい? 襲われちゃうのかい、俺。


 と――そんなわけもなく、俺は〝あるもの〟を見せつけられる。


 それはとても凄惨なもの。目も向けられない。けど、そこから視線を逸らせることもできない。逸らすべきじゃない。


 見ろ。見るのだ。その光景から逃げるな。



 小樟楠夏の死体から視線を逸らすな。



 そこに転がっているのは小樟楠夏の死体であった。しかし、それはとても酷い死体だ。形がおかしくて、というか欠損が激しい。


 だって、そこにあるのは頭部と両腕だけなのだ。両腕を除く肢体がどこにもない。


 両腕を除く肢体。


 ピンと来ないはずがない。


 この状況は俺の推理というか想像というか、それに適合するのだ。


【此岸征旅】は魔法兵器製作のためにこれまでに頭三つと腕六本と眼球六つを集めてきた。そして最後に両腕を除く肢体を欲しているのではないか。これが俺の考えで、そしてこの状況はまさしく――。


 だから、俺はこう結論付けざるを得ない。


 小樟楠夏を殺害し、なおかつその身体を奪ったのは【此岸征旅】である。


 俺は死体に近づき、まじまじとそれを見る。


 小樟の頭部。眉間の部分に銃創が見受けられる。拳銃でバンと一発。それで彼女は死んだらしい。


 ――可哀想だ。誰がこんなことをしたんだ。いったい誰が!


 小樟の眉間の傷は拳銃によってつけられた傷。拳銃。俺はこれに心当たりがある。


 ユリウス・フリューリングという人がいた。彼は【此岸征旅】の一味で、連続殺人の犯人であった。しかしそいつを俺は見つけてボコボコにした。その現場に介入したもう一人の男がいた。そいつも【此岸征旅】の一味でユリウスの仲間である。なのに、そいつは瀕死のユリウスにトドメを刺した。もう必要ないからってユリウスを殺した。そのときにそいつが使用した武器が確か拳銃だ。


 金髪の中性的な青年。


 憶えている。拳銃を使っていた金髪の青年を俺は憶えている。


 もしかして、小樟を殺したのはそいつなのか。まさか、ユリウスの跡を継いで今まで殺人を繰り返してきたのか。


 まあいいさ。事を進めていけばそんなことはいずれわかるもの。


 俺はその場に腰を下ろす。瞼が開いたままだったので、俺はそれを閉じさせた。


 俺は小樟に詫びを入れようとしていたことを思い出す。連続殺人事件の目的をお前は見事的中させた。けどそれを俺は否定した。なのに結局正解だったのはお前の言ったものだった。


 だから詫びを入れようとしていた。だから、詫びを入れる。生きているお前に言いたかったこの言葉。けど、仕方がない。今、お前に言うよ。


「悪かった。そしてありがとう」


 俺は小さくそう言った。けどこの言葉は彼女の耳に届いていない。聞こえていない。もう彼女は死んでいるから、俺の言葉を聞いちゃいないし理解もしない。


 ふぅ、と。息を吐いた。俺は目を閉じ、己が内に得体の知れない感情が蠢くのを俺は自覚する。この感情はいったい何だろう。


 ――と。


「わたしが……」


 橘花がぽつりと言葉を発す。低くそして小さく弱々しい声で。


「わたしがトイレに立って、それで楠夏ちゃんを一人にして、それでそれで、それがなかったら、わたしがトイレに行かなかったら……きっと楠夏ちゃんがこんなことになることはなかった。わたしが、楠夏ちゃんと離れなかったらこんなことには……。わたしが……っ!」


 俺は橘花の方を向く。


 橘花は俯いているのでその表情は窺えない。でも、それでも俺には見えたものがある。それはきっと目から出たものだ。それは頬を伝い顎から落ちる。一つの雫だった。雫は滴り落ちて、そして地面の染みとなる。


 人はそれを涙と言う。橘花は涙を流していた。泣いていたのだ。


「どうしてお前は泣いている?」


 俺がそう問えば橘花は顔を上げる。その表情が露わになるけど、彼女のその表情はどこか怒っているものに見えた。


「どうして?」と怒らせた声で彼女は言う。「そんなの決まってるじゃない。わたしが楠夏ちゃんと離れなければこんなことにはならなかった。こんなことになったのはわたしの所為なのよ! わたしは悲しい。楠夏ちゃんが死んで悲しい。それで、わたしはわたしが赦せない。これはわたしの所為だから。わたしが悪いから。わたしが……わたしが……」


 泣く。泣きながらも彼女は言う。


「こんなの泣きたくなるに、決まってるじゃない。それなのに……それなのに竜杜くんは、どうして泣いているだなんてこと訊くし……。普通、普通訊かないでしょ。そんなこと。デリカシーなさすぎだよ……」


 また泣く。ぐずぐず、しくしく。言葉にならない言葉を発して橘花は泣いた。


 涙は地面に大きな染みを作る。それだけ彼女は涙を流している。


 仕舞いにはその場に蹲り、泣く。えんえんと延々に泣く。


 ……そうか。お前は悲しくて泣いていて、自分自身が赦せなくて泣いているんだな。


「……悪い。俺はお前が何で泣いているかわからなかったんだ。だから失礼なことを訊いてしまった。俺は滅多に泣いたことがなかったから。泣くって何かわからなかったんだ」


 人の死は悲しいものだ。たぶん己が内に蠢くこの感情の名前は悲しみ。


「お前の言葉を聞いて自覚した。俺もお前と同じ感情だ。悲しいよ」


 とはいえ、こんなこと言葉ならいくらでも言えることだ。悲しいと言ったところで、俺の感情が相手に伝わることはない。


 でも、俺は悲しいのだ。

 では、なぜ俺は泣かない?

 それはおそらく俺が涙の流し方を知らないから。

 そう思っていた。


「……ぁ」


 不意に俺は自分の頬に生暖かいものがすーっと伝うのを感じた。触ってみれば水のようなものだった。どこから流れてきたのかと辿ってみれば、それは目元から流れていた。


 涙ってやつだった。


 ああなるほど。涙ってこうやって流れるんだ。

 流し方を知らないから流れないんじゃない。流し方を知らなくても流れるのが涙なんだ。


 涙を流すのは俺ではない。涙を流すのは感情だ。流そうと思って流せるものじゃない。感情の作用によって流れるのが涙なのだ。


 なんだ。ちゃんと俺も悲しんでいるじゃないか。涙を流しているじゃないか。泣いているじゃないか。


 俺も泣けるんだ。少しだけ安堵する。けど俺は悲しくて泣いている。安堵している場合じゃない。


 ずずっと俺は鼻を啜った。その音に反応した橘花が顔を上げて俺を見る。


「竜杜くん、泣いてる」

 彼女は掠れた声でそう言った。


「ああ、泣いてるよ」

 震えた声で俺はそう言った。


 小樟楠夏が殺された。


 読書が好きな可愛らしい女の子。家庭環境は複雑だけど、それでも頑張っていた女の子。

 いろいろな知識をつけてこれからの人生を合理的かつ効率的に豊かに過ごそうとしていた女の子。


 そんな小樟楠夏が殺された。彼女がこれまで身に着けたすべての知識が無駄になり、すべての知識が否定された。


 これからの人生が彼女にはあったはずなのだ。彼女はそのために本を読んでいたのだ。


 それなのに。

 それなのに【此岸征旅】はそんな彼女の人生を奪った。奪ったのだ!


 赦せるわけがないのだ。


 悲しみは怒りに繋がる。この怒りの名は復讐。俺は小樟の仇を討たなければいけない。


 悪いのは【此岸征旅】だ。


「橘花。立て。そして前を向け」


 俺は言う。声はまだ震えているけど、俺は言う。


「座り込んでいたら何もできない。だいたいどうしてお前が悪いのだ。悪いのはすべてあいつらだ。お前は何も悪くない」


「でも、わたしが……離れなければ……」


「うるせぇ。そんなの関係あるか。とにかく、俺が言っているんだ。お前は悪くないって。だからお前は悪くない。お前は離れるべくして小樟から離れたし、こう言っちゃなんだが小樟は殺されるべくして殺されたんだ。それにお前がうだうだしたところで小樟は戻ってこない。戻ってこないならどうする? やることは一つだろう。――弔い合戦だ」


 俺は今怒っている。悲しいし、怒っている。悲しみが怒りに変換されたのではない。悲しみと怒りが俺の心の中に同居しているのだ。


 殴られて怒ったことがある。痛めつけられて怒ったことがある。でも、この怒りはそういう怒りではない。


 俺は小樟楠夏が殺されたことに怒っている。俺や橘花から小樟を奪ったことに怒っている。


 この怒りは然るべき奴らにぶつけなければ意味がない。


 だから弔い合戦だ。行くべき場所はすでにわかっている。


「うん」と一つ頷いて橘花が立ち上がる。目は涙で腫れていた。目尻にまだ涙が溜まっていた。でも、もう彼女は俯かない。彼女の瞳に映るのは覚悟だ。小樟のために戦う覚悟を決めたらしい。


 俺もいつまでも涙を流している場合じゃない。俺は袖で目元を拭った。


「行くぞ。橘花」


「行くって、どこに?」


「そんなのは決まっている。小樟の仇を討つために、【此岸征旅】をぶっ潰しに行くんだよ」

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