第三話 転編「開花の華」 part1

転編「開花の華」 part1


 さらさら、さらさらとシャーペンと時間が虚ろうように、流れていく。

 何かしているわけでもなく、決して天地を揺るがしたり、世界が窮地に落ちたり、僕にとって重大なことが起きるわけでもない。そんな、なんでもない日常だけが、流れていた。

 他の人から見れば、ふたりで居るだけの変哲もない暇にも思えそうな時間だけれど、僕にとっては、至上の幸福と言っても差し支えないほどに、穏やかで、心が安らぐ。

 春華さんにまた会いにくると言った翌日に、僕は言葉通り、病室を訪れていた。

 彼女はベッドの上で上半身を起こし、備え付けられたオーバーテーブルに、昨日と同じくメモ帳を載せて、物語を紡いでいる。

 ふと、春華さんはメモ帳に視線を落としたまま、今まで走らせていたシャーペンを手で巧みに回転させたりして、弄ぶ。


「……少し気になってたんだけど、智くんってさ」

「な、なにかな?」


 ずっと春華さんを眺めながら、中身のない考え事をしていた僕は話しかけられたことに驚いて、平静を装おうとして、言葉に詰まりながら答えた。

 特に意識しているわけじゃないけれど、春華さんが話し始めるときに、僕は緊張してしまうらしかった。誰だって、春華さんのような綺麗な人に話しかけられたら緊張すると思うから正常な反応だと思いたい。


「何歳なの?」


 問われて、今更ながら僕は、春華さんに年齢すら教えてないことに気づいた。それと同時に、僕も春華さんの年齢を知らないことに気づく。

 春華さんは吹く風がなくとも、ふとしたことで揺らめくほどにきめ細かく、腰にかかるほど長いさらっとした黒髪を持っていて、誰から見ても息を呑むほどに綺麗で、一度視界に捉えれば自己を忘れてしまいそうな容姿をしている。

 いつもの表情だけを見れば大人っぽい雰囲気があって、なおかつ冷静沈着のように見えるからどこか話しかけにくい雰囲気があるけど、喋ると、なんだか子供っぽくて茶目っ気もあり、綺麗な笑顔を持っている。けれど、心の底には得体の知れない何かが眠っている。それが二日間で培われた春華さんに対する僕の印象だ。

 つまるところ、僕よりも絶対に大人に見えるということで、一歳か二歳ほど年上なんじゃないかと思うけれど……実際はどうなんだろう?

 とにかく、考えたことを喉から出そうな辺りで停滞させつつ、質問に答えた。


「僕は17だよ」

「えっ、智くんって17だったの……? てっきり、16くらいだと思ってたんだけど」


 話しに集中するとためか、春華さんはシャーペンを弄る手を止めて、僕を黒い瞳で捉える。

 今は、春華さんの陰鬱とした姿なんて想像できないほどに、穏やかな雰囲気だ。

 そのことに嬉しさを覚える反面、一歳年下に見られていたことに、内心落胆する。


「なんかよく、僕って実年齢より下に見られるんだよね……どうしてなんだろう」


 会ってから、たった二日しか経っていないのに、春華さんには、なぜか自然に自分の考えを言うことができて、僕ってこんなにきちんと人に思いを伝えられたっけ、と思ってしまう。

 元々人と喋るときに感じる、ある種の恐怖心とも言える相手の反応にビクビクしながら遠慮がちに喋るというのが、今の僕にはなかった。でも、それは決して無遠慮に喋るとかじゃなくて、春華さんと居るとあくまで自然に、安らいで喋れるという意味だ。


「智くんって弱気な感じがして、顔も童顔に見えるから年下に見られやすいかもしれないわね。かくいう私も、そう思ってたわけだけど」

「そう見られるの、少しはどうにかしたいんだけど……って僕のことはいいから、春華さんはいくつなの?」


 気になって喉から出たがっていた言葉が、漏れ出してしまった。

 それを聞いて春華さんは、面白くなさげに眉をひそめた。


「女の子に年齢聞くって、智くんけっこう失礼じゃない?」

「ご、ごめん。でも気になっちゃって」


 春華さんは数秒間だけ目を瞑って、んーっと可愛らしく唸ってから、目を開けた。


「どうしても?」

「どうしても」


 春華さんは返答に対して、口元へ手をあてて、考える素振りを見せる。

 確かに、女の子に年齢を聞くのは失礼なことなんだろうけど、春華さんの容姿や雰囲気からして、年齢を気にする必要なんてないと思うんだけど……。そこは女心というものなんだろうか。


「しょうがないわね……。それじゃ、私が何歳か当ててみて」


 問いを当てたら教えてくれるということだろうか。正解がそのまま僕の質問への回答になるわけだけど、どちらにせよ、ここをどう答えるか重要なところだろう。

 でも、僕は既にその問いに答えを用意している。先ほどまで考えていた、二日間春華さんを見ていて思ったことを、そのまま迷いなく口にした。


「18か19くらいかなって思ってるんだけど……どうかな?」

「どうかなって、私はまだ17よ! 智くんと同じ年なのに……私ってそんな年増に見えるの……?」


 最初は大きな声だったけれど、段々とため息をつきながら尻すぼみしていく声に、春華さんが落ち込んでしまったという焦りが生まれ、被せるようにして僕は考える間もなく、口早に言葉を紡いでいた。


「ち、違うよ! 年増に見えるとかそういうんじゃなくて、春華さんは僕と全然違って大人っぽい雰囲気してるし、容姿だってとても綺麗で、時々見せてくれる笑顔にいつも目を奪われるし……この前だって、病室の前に立ちすくんでた僕に、声をかけてくれてくれた。僕なんかよりずっと頼りがいがあって、だから、そのくらいの年だと思っちゃって……」

「ふ、ふーん、そうなんだ……そこまで変に褒められると、さすがに私も反応に困っちゃうわよ」


 春華さんは愚痴るように言いつつ、どこか嬉しそうに頬と口元を緩める。どうやら、落ち込んでしまった気分もどこかに飛んでいってしまったらしい。安堵した矢先に、またとんでもないことを口走ってしまったと思ってしまう。

 なんだ、大人っぽい雰囲気で容姿もとても綺麗でって。心で考えるくらいならいいだろうけど、わざわざ口に出してまで言うのは、恥ずかしすぎることだ。

 本当に、春華さんと一緒に居れば良い意味で、自然に心のうちを喋れてしまいそうになる。


「17歳か……一応聞くけど、智くんの制服って、この病院の近くにある高校の制服よね?」


 僕の制服を下から上へ確認するように顔を動かしながら春華さんは言って、見終わってから、目の前に置いてあるメモ帳へ視線を移した。

 急に高校のことなんて聞いて、どうしたんだろう。一応聞いてきたってことは、どこの制服か予め把握していたみたいだけど。


「うん、そうだよ。でも、どうして?」


 聞くと、春華さんは残念そうでありながら、寂しそうな、複雑な顔をする。時折現れる陰鬱そうな空っぽを持つ表情ともまた違って、そこには明確な感情が複数介在していた。

 そのまま、春華さんは口元は寂しく、目尻は優しげに、僕を見つめる。


「私も智くんと同じ高校なんだなぁって思ってね。ちゃんと、通えてたらよかったんだけど」

「えっ!? 春華さん僕と同じ高校だったの?」


 驚いて椅子から浮き上がりそうになる足をなんとか押さえて、問いかける。

 17歳ということは、春華さんも高校に通っていてもおかしくはないかもしれないけれど、まさか、僕と同じ高校だとは思いもよらなかった。


「えぇ、そうよ。今は……一応2年4組だったかな」

「僕は2年3組みだからと、1組違うね」

「そっか。私が高校に行けていたら、廊下ですれ違ったりすることもあったかもしれないわね」


 もし、春華さんが高校に通っているという状況で、僕と春華さんがすれ違っていても、僕は春華さんのことをただ単に綺麗な同級生だと思うだけで、春華さんを知ろうなんて思わず、それ以前に話かけるなんてことすらしなくて、春華さんは僕のことなんて気にも留めなかったことだろう。

 そもそも春華さんが学校に通えていれば、きっと、春華さんは……陰鬱な表情をしない。彼女が陰鬱な表情をする理由は、未だに僕も分からないけど、それが病院に居る理由と関わっているんだろう。以前ナースさんに聞いた話では、春華さんはずっと前から病院にいて笑わない子だと言われていたし、そこにも僕の知らない何かがあるのかもしれない。でも無理にしろうとは思わないけど、いつか理由を話してもらえることもあるだろうか……。一緒になんとかできる問題なら、僕が少しでも手伝えるような問題なら、精一杯春華さんに尽くしたい。

 そこまで考えて、疑問が水底から、すくい上げられた。

 あれ……? どうして春華さんは一応、2年4組なんて言い方をしたんだろうか。二日間の様子を見る限り、春華さんは高校へ行っていないように見えたし、ちゃんと通えてたらよかったんだけど、と春華さんは言っていたのだから、学校には通えていないはずで、義務教育でもない高校で進級できるとは思えないけれど……。

 

「ちゃんと通えてたらって言ってた私が、なんで2年に進級してるのかって、聞きたい顔してる」


 僕が黙って、考え込んでいたからだろう。春華さんは当たりをつけて、聞いてくる。

 きっと、学校に通えていない理由には、病院に居る理由と春華さんがふと、空っぽで陰鬱とした表情をしてしまうことと、何か直接的な関係があるはずで、本当に聞いて良いものなのか、不安になってしまう。


「えっと……その、あんまり触れられたくないことだと思うんだけど……気になっちゃって」

「気にさせちゃうような言い方したのは私だから。別に聞かれても問題ないわ。ここ2日間で、智くんも疑問に思ったことがあると思うんだけど、私って、ずっとこの病院にいるでしょう……私が進級してるのは、それも関係があるの。あんまり楽しい話でもないだろうけど、どうしてか、聞きたい?」


 続きが聞きたいか問いかける言葉に、無言で、続きを聞くという意思を込めて頷き返す。

 春華さんは、それを受け取り、僕を哀しげな表情で一瞥してから、何かを空に思い描くように、天井へ視線を向けて、ゆっくり記憶の中に潜り込むみたいに、目を閉じ、しんみりと言葉を紡ぐ。

 

「私は、生まれてこの方、病院にいなかった年数のほうが少なくて、まともに学校なんて行ったことがないの。小学生に上がる前には、ずっと病院にいる日々だった。病院に何年も居たって、小説の中の出来事みたいに、珍事が起こるわけでも、ましてや、私を導いてくれる何者かが現れるわけでもない。ただの現実だけが、病院にはあった。

 私にとって、学校っていうのは創作のお話の中にだけ存在するもので、友達ってなんだろう、学校ってどんな楽しいところなんだろう、授業ってどんな気持ちで受けるものなんだろうって、心を躍らせられる存在だったの。

 そんな思いを抱きながら、私は15歳を過ぎて、ついぞ小学校も中学校も、一応通ってるはずの学校を見ないまま、卒業していたわ。

 このままじゃ嫌だなって思ってたときに、お医者さんから高校に行ってもいいって言ってもらってね、その頃は体調もすごくよくて、これまで暇なときは勉強をしていたりしたから、なんとか高校の入学試験に合格できて……あのときは凄く嬉しかったなぁ。でもね、私はまだ入学できた高校に一度も通ったことがない。

 高校に合格してから体調をまた崩し始めて、私は病院にいることを余儀なくされた。元々高校側は私が体調を崩す可能性も考慮に入れていたらしくてね、それからは、単位を特別にレポートを出すことで補って進級させてもらってるってわけなのよ」


 思わぬところで春華さんのことが聞けて、話が終わってからも、僕は言葉を発せなかった。

 落ち着き払ったように聞こえる言葉からは、底なしを思わせる孤独の中に、どこか諦めを感じさせるものがあって、僕が体験したわけでもなく、情報として聞いただけなのに、抗うことの許されない絶望を感じさせられ、言葉は鋭い刃を持った凶器のように、深い傷あとを体に残していくようだった。

 ただの言葉として語られているだけでは、到底計り知れないものが、春華さんの声色には宿っていた。


「……楽しい話じゃなかったでしょう」


 僕がしばらく黙っていたせいか、元から分かっているとでも言うかのように、寂しげな表情をしながら春華さんは僕を見据える。捉えられた黒の瞳からは、後悔らしきものが滲んでいる気がして、本能に急かされる。


「そう、だね。楽しくは、なかったかもしれない」

「でしょうね」


 春華さんは、項垂れるようにして、ゆっくりと僕に固定していた視線を外していく。その仕草からは、何か期待していたわけでも、言って欲しいわけでもないけど、何か言葉が欲しかったという矛盾を孕んだ心持ちが感じられた。

 話としては、決して楽しいものではなくて、聞いている人が落ち込んだりする暗い内容で、とてもじゃないが笑顔で聞けるような話じゃなかったのは確かだ。けれども、僕の意思は、話が聞けたこと自体を嬉しく思っていた。


「楽しくはなかったかもしれないけど、でも……春華さんのことを聞けて、よかったと僕は思ってるよ」

「どうして? 人の不幸話なんて、普通聞いてよかった、なんて思えないでしょう」

「ただの不幸話だけで、見ず知らずの人相手にだったら、そうかもしれない。でも、僕は春華さんのことを何も知らなかったから、話をしてくれたのが、とっても嬉しかったんだ」


 春華さんは僕へ向き直り、しばらく呆気に取れたように目を瞬かせてから、ふと頬を緩めて、僕からまた目線を逸らし、上気したみたいに赤い横顔を晒す。


「何よ、その言い方は。私のこと知れて嬉しかったってこと?」


 春華さんは横を向いているから、どんな顔をしているか分からないけれど、紡がれた声には柔らかな弾みがあって、嬉しげな雰囲気を感じることができた。それに呼応して、僕の気持ちも楽しげなものに変わっていく。


「うん。人に自分の過去を打ち明けるって、打ち明ける相手を信頼してなくちゃ、できないと思うんだ。だから、そういう意味でも嬉しかったんだけど……違ったかな?」


 自信あり気に言ったけれど、僕としては、内心不安だった。会って数日の人間に信頼関係など築けるだろうかって。僕は春華さんを信頼しているけど、それは本能的なもので、理屈のあるものじゃない。勝手な言葉で言うと、運命とか、そんなものを春華さんからは感じるのだ。

 僕が言い終わると、春華さんは間を置いてから、胸のところに右手を持って行き、噛み締めるように言った。


「信頼……そう。その通りだね。私は、智君を信頼してるのかも、ね」 


 過ぎた時間を表すように、黄金に染まった夕暮れの病室で、儚げに照らされた春華さんが紡ぐ言葉は、暖かな優しさがありつつも、一抹の哀しさを感じるものだ。

 僕はその姿に、胸の高鳴りと痛みを覚えながら、見つめ続けた。彼女の時折見せる、矛盾を孕んでいるとも言うべき暖かさと哀しさは、どこからくるものなのだろう。

 春華さんの儚げな姿を見るとき、僕の心には、得体の知れない焦燥感と不安が灯ってしまうのだった。


 ……

 …


 僕と春華さんが出会ってから、一週間がたった。

 2月もいよいよ2週目が終わりそうで、学校では学年末テストに先生たちが張り切っていて、学校全体に緊張感が現れ始めていた。ただし、生徒は先生と同じように張り切っているものも居れば、試験が午前中で終わるため、家に早く帰れると喜んでいる者もいた。 

 そんな中、僕は学校に行きながら、相変わらず放課後に春華さんのところへ訪れて、家に帰るという生活を繰り返している。でも時々母さんの元を訪れることも忘れていない。母さんは骨折の直りが遅いらしく、退院は3月の下旬頃になると言って、僕に家のことを任せていることをごめんなさいね~と軽く謝っていた。直りが遅くても構わないから、無事に直ってくれることを願うばかりだ。

 そんなことを考えながら今日も春華さん病室で、すっかり定位置となったベッドの横に丸椅子を置き、僕はそこに座って彼女を眺めていた。

 春華さんはいつものように、メモ帳へ視線を向けたまま、言葉を僕にやんわり投げかけ始める。大体、話の起点を始めるのは春華さんだった。


「智くんって、宿題とか出てないの?」

「出てるけど……それがどうかしたの?」

「いやね、最近ずっと私のところに来てるじゃない」

「うん」

「うん、ってそんな純粋に頷かないで。智くんのお母さんは入院しているし、家でだってやることがあるでしょ。それなのに、いつも私のところに来て、いつ宿題やってるのかなって気になったの」


 頭で言葉の意味を自然に理解しつつ、なるほど、と僕は頷いていた。

 春華さんは、母さんが入院していて、毎日家でやることも多いだろうに学校が終わってから自分の病室へ来て、いつ宿題をしているのかって心配してくれているらしい。

 僕のことを心配してくれていることに、思いを浮つかせながらも問いに答える。


「いつも宿題は寝る前にやってるから、心配しなくても大丈夫だよ」

「あーうん、いや、その……そこを心配してるわけじゃなかったんだけどね。智くんに限って、宿題やってないなんてことはないと思うし」


 春華さんは言い訳するみたいに言いながら、天井を仰ぐ。

 僕のことを心配してくれている、というわけじゃないのなら、何を心配しているのだろう。態度から見るに宿題に関することで、僕を心配してくれているのは確かなことだ。だが、春華さんの語った言葉から察するに、宿題をいつやっているのか、という問いかけられた言葉のほかに春華さんが心配していると思える箇所が見つからなかった。

 考えても分からなかったのなら、そのまま聞くしかないけれど、春華さんの横顔から見える頬が、朱に染まっているように見える。

 このまま勢いに任せて、話しかけてもいいのだろうか。

 目を細めながら思案していると、春華さんが先に口を開いた。


「しゅ、宿題で分からないところとか、ないの?」


 僅かな空気の振動が、音となって耳に入り込む。どうやら春華さんは、宿題をちゃんとやれているか、というよりは僕が宿題の問題に詰まっていないか心配していたらしかった。

 自分で言うのもなんだけど、僕はあまり勉強が得意なほうではなく、予習と復習を人並みにしながら一定の成績を得てきた、所謂ところ平凡な人間だ。適度に詰まることもあれば、思考がハマれば、問題をすらすらと解けることもある。


「分からないところは、あると言えばあるけど……」

「あ、あるのね。わかったわ」


 そこで、会話が途切れてしまった。

 心配してくれるのは、僕に少しでも意識を向けてくれているということの証明でもあるはずだから、嬉しい。でも、何の目的があって、春華さんは宿題で分からないところがあるか、なんて聞いてきたんだろう。

 春華さんは、あれから天井を向いたままだし、僕は僕で、どう言葉をつなげたらいいか、分からなくなっている。

 心配してもらって、嬉しかったのは確かなんだし、お礼でも言ったほうがいいんだろうか。


「で!」


 気づいたら春華さんは、相変わらず天井に顔を向けたまま、やけくそで搾り出したような声をだしていた。

 静寂に包まれていた病室の中で、それは瞬く間に波及していく。

 突然のことに、僕はオウムように言葉を返した。


「で……?」


 聞き返したことにより、自分の声が思ったより大きかったらしいことに気づいた春華さんは、汚れの一点もない純白で透き通るような、かと言って不健康そうでもない色をした顔を、耳まで真っ赤にしながら僕に振り向くと、矢継ぎ早に言葉を繋げ始めた。


「宿題、やらないの? 智くんはいつも私を見てるみたいだけど、そんな時間は湯水のごとく時間を消費して無駄なだけだろうし、時間をもっと有意義に使ったほうが――って違うの、私を見ている智くんを責めたいとかそういうんじゃなくて、見てられるのは別に困るとかじゃないからいいんだけどって、これじゃあ私が自分の容姿が好きなナルシストみたいじゃない! ち、違うのよ?」


 僕のほうが春華さんの目線からは下にいるのに、上目遣い気味に春華さんから見られる。こういうときの春華さんって、年相応というか、普段の落ち着き払ったような雰囲気からするとギャップがあって、少し心音が高鳴ってしまう。落ち着いた春華さんも見慣れたというほどではないにしろ、毎回話しかけるのに緊張感なんて持ってたら春華さんも困るだろうから、変に綺麗だとか可愛いだとか、そんな感想がでなくなって、少しだけ僕は安心している。

 でも確認するようでいて、緊張しているような口調で春華さんが言っていたことがおかしく感じて、僕は肩を震わせながら少しだけ笑ってしまった。


「あははっ。えっと、春華さんの言いたいことを要約するなら、宿題をここでやりなさいってことでいいのかな?」

「……そ、そうよ」


 春華さんは気分でも整えるように、唇の前で拳を作って空咳をする。

 折角提案してもらったんだから甘えさせてもらって、ここで宿題しようかな。ほんの少しだけ最近は手持ち無沙汰だなぁ、と感じることもあったから、丁度良い機会かもしれない。


「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

「うんうん、素直が一番よ」


 いつの間にか春華さんは、いつもの調子を取り戻していた。

 取り乱している春華さんはそれなりに新鮮で見ていて楽しかったんだけど、と言うと怒られそうなので、鞄から今日出された宿題を取り出した。しかし、そこで手が止まってしまう。

 勉強をする上では根本的な問題だけど、僕はどこで勉強すればいいんだろうか。春華さんがメモ帳をいつも載せているオーバーテーブルにでも乗せればいいのだろうか。

 僕が迷っていると、春華さんはオーバーテーブルに手を置き、優しく音が響かないように叩いた。

 どうやら、そこで勉強しろということらしい。

 オーバーテーブルの隅に宿題の紙と筆箱を置いて、勉強を始めたものの、数分後にはシャーペンを動かしていた手が止まってしまった。


「ん、手止めてどうしたの、智くん」


 僕と同じようにオーバーテーブルに向かい、メモ張を相手に奮闘していたらしい春華さんが、僕の手が止まったのを確認していたようで、声をかけてくる。

 

「うん、ちょっと分からないところがあって」


 その言葉で、春華さんの瞳に輝きが増したような気がした。


「どこ?」

「ここなんだけど……」


 手が止まってしまった原因となった問題を、シャーペンで指しながら答えると、春華さんは僕と隣り合うようにベッドの右側に寄った。

 春華さんが近づいてくるだけで、甘い花ような心安らぐ匂いがして心臓の鼓動が高鳴る。

 僕が内心、どきどきしているのにもお構いなしに、春華さんは宿題が書かれた紙を見続けて頷いた。


「うん、これなら分かるわ。これはね――」


 そう言いながら春華さんは、さらに僕へ近づいて、メモ帳と奮闘していたとき、既に右手に持っていたのであろうシャーペンを使い、僕が分からないと言った問題に説明を加えながら、紙に文字を書いてくれる。でも、僕は春華さんの書く文字や言葉での説明ではなく、春華さんの横顔に意識を集中させてしまっていた。

 ここ数日で、少し見慣れたような気もしていたけれど、奇跡的に調和の取れた、バランスよく配置されている顔のパーツは、誰もかれもを夢中にさせるような、不思議な魔力とも言うべきものを帯びているのだと思ってしまう。黒く透き通った瞳の中には、真剣な眼差しが浮かび上がっていて、穏やかで楽しそうに瞳の中に映りこむ。

 僕は相変わらず、春華さんが楽しそうにしてくれてると自分も楽しくなってきてしまうようだった。倦怠に覆われた瞳や空っぽな表情をしている春華さんは、彼女の一部であり今までの彼女を形成して司るものだとしても、僕は春華さんに笑顔で居て欲しいと思ってしまう。


「ちょっと智くん、聞いてる? 突然、物思いにふけるみたいに無言になるのは智くんの悪い癖よ?」

「……あっ、折角教えてくれてるのにごめん」

「もう一回言うわよ?」

「うん、お願い」


 駄目だ駄目だ。春華さんが僕の分からないところを教えてくれているんだから、変に考えたりせずにちゃんと聞かないと。

 そうして、しばらく僕は春華さんの懇切丁寧で頭にそのまま深く刻み込まれるような解説を聞きながら宿題を進めて、窓際に茜色の光が差し込み始めた夕刻頃に宿題は終わった。

 今日は明日が土曜日で学校が休みということもあって、普段より多めに出された宿題があったけど、滞ることなく終わったおかげで、明日からは春華さんの提案のおかげで、少し余裕を持った生活ができそうで、春華さんは頼りになる人だと再び認識できた。

 回答がびっちりと書かれた宿題の紙と筆箱を鞄に入れながら、春華さんに話しかける。


「ふぅ、なんとか終わったね」


 数十分ほど宿題をする僕に付き合って少し疲れたのか、春華さんは達成感を感じさせられるように吐きだされた息と共に、ベッドに体を預けながら言う。

 付き合ってもらったんだから、あとで何かお礼できたらいいな。


「智くんは飲み込みが早いから教えやすかったわ」

「春華さんの教え方が上手いからだよ。的確に分からないところの説明をしてくれるし、丁寧にやってくれるから分かりやすかったんだ」

「そ、そう? そんなに褒めても何も出ないんだけど、分かりやすかったなら嬉しいことね」


 春華さんはそこで会話を一区切りして「もう夕方か……少し休むわ」と空気に溶け込むような小声で呟いたのちに、ベッドに預けた体を丸ごと左に回転させて、僕に背中が見える体勢を急いだようにする。夕日が差し込む病室では、その光によって、ちらっと見える春華さんの横顔から顔色すら把握することはできなくて、どうして僕から体を背けたのか、窺い知る事もできない。

 僕の宿題に付き合って、疲れちゃったのかな、大丈夫だろうか。

 少し心配になって春華さんに話しかけようにも、話しかけるな、という雰囲気だけは背中越しに醸し出されているような気がして、少し休むと言っていたし、手持ち無沙汰な僕はどうしたらいいのか悩みながら、窓の外に視線を向ける。

 外では既に、住宅街の地平線へ夕日が沈もうとしていて、今日一日最後の輝きを放ち、夕焼けを構成している真っ最中だった。この病室から見る夕日は、なんてことのない、外からでも見れるいつもの夕日なのに、その光に照らされるひとつひとつの景色が、特別綺麗に思えてしまう。

 整備された区画、その住宅の屋根に灯る茜色の輝き、夕焼けを背に雄大に飛ぶ斑点のように小さな鳥たち、黄金の光を葉っぱに宿す病院の広場に居る木々、夕日に目を細めるように手をかざす人、夕日から伸びる長い自分の影を踏んで遊ぶ子供、探せばまだまだ夕日から見つかるものはある思うけど、僕が見つけた景色は、どれも等しく綺麗に瞳の中へ映りこんでいく。

 また明日も、こんな景色が見られるといいな。自然とそう思ってしまっていた。

 今の僕にとって、夕日は春華さんに一日の別れを告げるものであり、明日また会うことを約束するための合図だ。

 先ほどから僕に背中を向けている彼女は、夕日をどんなもののように思っているのだろう。何年もここで入院している春華さんにとって、ここから見る夕日なんて、なんら変哲のない、感想すら抱かないものだったりするのだろうか。

 少し気になるところではあるけど、僕の宿題に付き合って今日はもう疲れているのかもしれないし、また今度聞くことにして、最後に一声かけてから帰るとしよう。


「春華さん、そろそろ帰らせてもらうね」

「……」


 声をかけた背中は、定期的に動いているものの、返事がくることはなかった。寝てるのかな。

 できるだけ音を立てないように丸椅子から立って、鞄を右手で掴む。そして病室と通路を仕切っている扉の前で春華さんに振り返り、春華さんに届くか、届かないかの小声で言う。


「また、明日」


 返事があるかないか、少しだけ期待してから返事のないことに一抹の寂しさを覚えつつ、扉へ向き直って、慎重に扉を開ける。


「……智くん」


 細身の僕が身を捻れば通れるように思える程度に扉を開けたところで、極力、音を立てないようにしていた手は、背後から掛けられた一言で緩急をつけずにピタっと止まった。


「振り返らないでいいから、そのまま無言で聞いて。いい? 絶対に振り返らないで、何も言わないで、話を聞いたらすぐに出て行くこと」


 矢継ぎ早に言葉を紡がれて、言葉を返すこともなく無言でいることを僕は強制された。さっきから僕が話しかけていたときには、返事がなかったけど、わざわざ僕を喋らせないように、振り返らせないように念を押してまで言いたいことがあるらしい。

 感覚的なものだけど、春華さんの言い方は僕に一抹の不安を与えた。

 春華さんを怒らせるようなことをしてしまっただろうか、失望させるようなことをしたのだろうか、煩わしくなるようなことをしただろうか、どれもこれも頭の中で勝手にネガティブな想像を描いていく。

 不安になることを思考してしまうほどの長い空白の時間が経ち、ようやく空気が動き始めた。


「ぁ……明日、午後一時にこの病院に来て。それから街に出て、ふたりでデートしましょう。行く場所は私が決めてるから遅れないこと」


 聞いているだけだとうきうきできるような言葉とは裏腹に、事務的で冷静な声色で捲くし立てるように紡がれた。突然の僕を誘う言葉に、意味を把握できず、頭の中でできるだけ冷静に分かりやすく、単語ごとに考えをまとめようと努める。

 明日、明日は土曜日だから学校は休みだ。特に予定もないし、元から春華さんに会いにこようとしていた。何も問題は見つからない。

 午後一時、春華さんの邪魔になるかもしれないから、もう少し遅い時間に来ようとしていたけれど、普通に起きている時間だし、これも問題はない。僕の思考を止めたのは、やはりと言うべきか、次の単語だ。

 デート。この言葉を意味としてだけ捉えれば、男と女がふたりで遊びに出かけるという意味と考えても差支えがないけど、やはり僕としては恋人同士になった男女が行うものというイメージが強い――そこで春華さんが思考を遮った。


「は、はやく出ていきなさい!」

「わっ」


 後ろから押される形で、廊下に押し出されてしまう。気づいたときには、大きな音を立てて病室と廊下を隔てている扉が閉められていて、中の様子を窺うことすら許されない雰囲気だった。


転編「開花の華」 part1 終わり


転編「開花の華」 part2に続く

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