第二話 承編「華への道」

 承編「華への道」


 母さんが入院してから一日が経ち、僕は学校が終わってから病院に訪れていた。

 誰にアピールしているか分からないけれど、微量に吹く風は学校の制服であるブレザー程度の防寒具ではまだ少し寒くて、吐いた息が白に染まる。

 見上げる空は綺麗に雲が散らばっていて、澄み渡る青一色の快晴より、よほど健康的に見えるのは、僕に悩みがあるからなんだろうか。

 一日経っても数分前のことみたいに、瞳の奥で描かれるのは、黄昏の夕日に淡く照らされていた春華さんの寂しそうな姿だ。たったひとり、この世界に住んでいる人の手も、声も届かないところにいる感覚さえ、その姿からは感じられた。

 もし、手も声も届かなかったとしても、僕は、あの姿に向けて声をかけられなかったことを、さも当然のように後悔していた。

 行動せずに後悔するより、行動してから後悔したほうがが良い。

 そんな風に昨日は心を動かし、春華さんの笑顔を見ることができて、心が浮きあがるみたいに、嬉しかった。でも、春華さんが別れの手を振った瞬間に、僕と春華さんの間で埋めようのない壁を感じたのだ。それが、僕を押し止まらせた。

 壁は触れれば柔らかく拒絶して押し返してくるのだ。昇ろうと思っても、こんにゃくみたいに壁に掴みどころはなく、上からよじ登って壁の奥に行くことはできない。そもそも、その壁はどこまで続いているのかすらも透明で、今の僕には分からないのだ。

 もし壁に掴めるところがあって上限が見えていれば、心があっさりと折れそうな困難な道であっても努力さえすれば、昇りきることができるかもしれない。でもそんなものが存在するはずもなく、迂回する道すらなく先へ進む手段がなかったら、僕はどうするべきなんだろう。

 昨日と、まったく同じように見える病院の広場を、空へ思い馳せながら歩く。

 実際は同じように見えて、昨日とはまた違う景色があるはずなのに、脳がそれを情報として認識していない。

 どうやら春華さん以外のことには、頭のリソースが割かれいないみたいだった。


「ほんと、僕はどうしたいんだろ……」


 空に問いかけても、空は雄大に瞳の中を流れるだけで何も返事はしてくれない。まるで、自分で考えろとでも言われているみたいだ。少し薄情な自然にため息をつきつつ、思考を続ける間にも、時間と体は、当然の如く進み続けていった。


 ……

 …


 僕はいつの間にか、春華さんの病室の前まで来てしまっていた。

 用事なんてないんだから、来るべき場所じゃないのは分かっている。それでも、この奥に、俯いている春華さんがいると思うと、息が詰まるくらい苦しかった。

 ここにくるまでの間、何度も僕が春華さんに対して、したいことを考えていたけど、そこに答えなんてものはなく、思いの用紙は未だ白紙のままだ。

 一度踏み出した勇気程度では、春華さんの気分を一時的に変えるしかできず、それが次の勇気を踏み出すのに足踏みさせる。

 今まで僕の人生という後悔を積み重ねてきた心は、一度程度の勇気では到底変えることができそうになかった。


「いっつもこうだ」


 自己嫌悪して呟く。

 虚しく廊下に呟かれた言葉に気づく人は誰もいなくて、答えなんて都合よく転がっていなかった。

 ここで後悔しないためには一歩進むしかないのに、それができなくて止まってしまう。

 どうにかしたいと足掻いても、勝手に後悔へ軌道修正してしまいそうになる心を恨めしく思いながら、僕は静かに目を瞑って病室から背を向けた。

 結局、僕は春華さんに会うこともなく、帰ることを選択してしまった。


「あれ、どうしたの智くん」


 振り向いた先で、彼女は空に差し込む眩い光みたいに立っていた。

 僕が居ることに驚いているのか、春華さんはきょとんとした顔を晒している。

 

「えっと……その……」


 どうして僕は、ここに居るのか。

 自分ですらまとめられないほど、何重にも絡みついた思考をどう表現すればいいのか詰まる僕に対して、春華さんは病室の扉の前まで歩き、扉を開けて言った。


「何しにきたかまでは分からないけど、私の部屋の前に居たってことは、私に用があったんでしょう。 入ったら?」

「……うん」


 春華さんに誘われて、自然と頷いてしまっていた。

 自分の中で答えすら出せていないのに、春華さんに何を話すというのだろう。

 そもそも僕はなぜ、ここにいるのだろう。

 昨日の春華さんみたいな寂しい表情ではなく、魅力ある笑顔を見たいから?

 笑顔になって欲しいから?

 不透明な壁の置くにある、寂しさの種を取り除きたいから?

 僕は、自分自身が望むことすら分からなくなってきていた。


 ……

 …


 僕は、ベッドの隣にある丸椅子に案内されて、座っていた。

 活発にシャーペンの走る音だけが、病室に響き渡り、定期的にシャーペンが細かく動き、止まる。

 春華さんはベッドで上半身を起こし、ベッドに備え付けられているオーバーテーブルにメモ帳を置いて、書き物をしているみたいだ。

 きっとメモ帳に物語を描いているのだろう。時折、考え込むように瞳を伏せてから思いついたようにシャーペンを迷いなく走らせている。

 その姿は見ているだけで、人の心を奪う魔性の絵画のように美しかった。僕は春華さんに見惚れ、その横顔を瞬きもせず見ていた。

 春華さんは僕がずっと見ていたことに気づいたのか、シャーペンを走らせるのをやめて、僕を見る。


「ずっと私のこと見てるみたいだけど、どうかした?」


 心臓が高鳴る。

 よく思えば人の顔をずっと見るなんて、ぶしつけなこと極まりない。

 僕も他人に顔を見られ続けたら恥ずかしくなるし、あまり見ないようにしなくちゃいけない。


「ご、ごめん……迷惑だったよね」

「迷惑ってわけじゃないけど……」


 言葉を区切りながら、春華さんは雪みたいに真っ白な頬に、紅いものを宿した。


「私の顔なんて見てて面白いのかなって思ってね」

「面白いってわけじゃないんだけど……その……綺麗だなって」


 言ってしまったあとに、自分が何をしてしまったのか、気づく。

 春華さんは僕の言葉に顔を俯けて、右頬を右手で覆っていた。

 あ~僕はどうして、こんなストレートに感想を伝えてるんだ?!

 いつもならもっと熟考してから口に出すはずのことが、春華さんの前だと何も考えず、本能のまま口が開いてしまうらしかった。


「智くん、あなたそういうの本人の前で言うのやめなさいよ……恥ずかしくなるから」


 春華さんは空気に溶け込みそうなか細い声を響かせる。


「ごめん……」

「ふふっ」


 申し訳なく思って頭を下げた矢先に、春華さんの笑い声が聞こえた。

 急なことに顔をあげて、春華さんを見つめる。

 そこには嬉しげに笑う彼女の姿があって、困惑してしまう。

 どうして彼女は笑っているのだろう? 僕はおかしなことをしただろうか。

 また自分でも気づかないうちに、変なことをしていないだろうか。不安になる僕をよそに、春華さんは口を滑らかに動かした。

 春華さんは言葉を紡ぎながら頬を僅かに紅く染めて、僕に真っ直ぐ微笑みかけてくる。


「謝る必要なんてないのに、智くんって本当に面白いわね」


 朗らかな風が、言葉と一緒に駆け抜けた気がした。

 窓から差し込んでくる光と笑顔の春華さんが織り成す光景に、息を呑む。

 海から顔を出す朝日のように、この世のものとは思えないほど眩しい姿が、そこにあった。

 ただ陽光に照らされて笑っているだけで絵になる姿からは、春華さんだからこそこうも瞳を奪われるんだろうな、と確信できる。


「黙っちゃってどうしたの?

 あっ面白いって言ったのは、別に謝ってるのが面白いとか悪い意味で言ったんじゃないのよ!?

 私は単純に、表情がコロコロ変わる君が面白くて……ってそれじゃバカにしてるみたいね。なんて言ったらいいかな」


 春華さんは真剣に考え込むみたいに、右手を握ってそれを口元に当てる。

 僕のことを思って、考えてくれている。それだけで僕は心が満たされたような気がして、嬉しくなる。


「大丈夫だよ、ちゃんと春華さんの言いたいことは分かるから」

「そ、そう、分かってくれるならいいわ」 

「あははっ、春華さんも面白いよね」

「智くんほどじゃないわよ」

「僕は春華さんほど面白くないと思うんだけど」

「そうやって自分を面白くないと思っている人ほど、面白いものよ」

「そうかなぁ……」

「そういうものよ」


 春華さんは問答に満足したらしく頷いて、再びメモ帳に向き直った。

 一端区切りを終えた会話に、空気が冷えることもなく、穏やかで自然な時間が流れる。

 それを確認してから僕は僕で、思考を深みにはめていく。

 今日の春華さんからは、昨日の陰鬱とした気配を感じられなくて、笑顔を咲かせてくれている。

 物語を紡ぐ姿は心から楽しそうで、見ているこっちですら楽しくなりそうだ。

 シャーペンが走るごとに、表情が百面相みたいに変わっていく。

 楽しいところを書いているときは、笑顔に。

 哀しいところを書いているときは、哀しそうに。

 辛いところを書いているときは、辛そうに。

 どれも自分で物語を紡ぐのが、至上の喜びとでも言うみたいに変化する。

 哀しさや辛さを帯びた姿から感じられるのは、至福という言葉だけで、昨日みたいに笑顔の裏から寂しさを見ることはできない。

 もしかしたら、僕が見た陰鬱としたものは全部、僕の勘違いなんじゃないかと疑いたくなるくらいだ。

 そんな風に、結論づけたときだった。


「……」


 太陽を隠す雲みたいに楽しさが陰り、春華さんの顔に寂しさが現れたのは。

 これだ……この表情だ。

 何にも期待してないと断言させるような、倦怠を抱え、空っぽな暗闇の瞳が僕に構うこともなく、晒されてる。

 思わず僕は口元を硬く結んだ。

 笑顔を見た人間を楽しさに引き込んでしまいそうになるくらい、楽しげな表情をしていたのに、一瞬で春華さんはそれを覆い隠してしまった。

 どんな楽しいことをしていても、春華さんから闇が払拭されることはないということなんだろうか。

 こういうとき、僕は何をしてあげられるんだろう?

 寂しそうな顔を、空っぽな瞳をどうにかして、笑顔にしてあげたい。

 自分を満足させるような欲望だけが、膨れ上がり心を縛り付ける。

 どうしようとも、僕が春華さんの笑顔を望むのは間違いない。でも、それは勝手なことで本人はそれと折り合いをつけている可能性がある。そうなれば僕のやることなんて、ただのお節介にすぎない。

 そもそも、こんなことを考えているのすらお節介だと思われるかもしれないのに――。


「そういえば、智くん」


 深みにハマる考え事をしながら、ピントの合わない瞳で春華さんを見ていたらしく、春華さんの声でピントが目の前に居る彼女を捉える。

 再び春華さんからは陰が取り除かれていて、瞳からは光が覗いていた。


「どうして病室の前に立ってたの?」


 春華さん自身は何気ない質問だったのだろうけど、その言葉に僕が考えていることを全て見透かされた気がして、表情を見せないように顔を俯かせてしまう。 


「別にね、私の病室の前に居たのはいいんだけど、何か用事があったのかなって思って思って」

「そ、それは……」


 答えようとして唇が震え、息が詰まる。

 喉まで出掛かっている言葉は、空気に押し戻されて口が動かない。

 僕にどんな回答が用意できるっていうんだ。

 ここで口を開いても言える言葉は、どうして春華さんは寂しそうにしているのか、なんて他人に配慮すらしない無遠慮な言葉だけ。

 ただの予測だけど、春華さんに闇が芽吹いている理由を聞いてしまったら、二度と彼女の前に居られない気がした。

 春華さんは僕が言葉に詰まっているのを見てか、穏やかに言う。


「無理に聞こうとしてるわけじゃないから、答えなくてもいいわよ。もう二度とこないと思ってたから、また会いにきてくれただけで……嬉しいからね」

「……」


 会いにきてくれただけでも嬉しい。

 その体を包み込むように優しくて、それでも今の僕には棘を持つ言葉が、耳の奥で何重にも反響して広がってく。春華さんが口にした文字の羅列は、ただ僕を心配するだけの言葉だけじゃない。

 春華さんの思いが詰まっているのだと、確信できた。

 僕は心からの言葉に返すほどの思いを持って、ここに来ただろうか。

 彼女の言葉に、僕は回答を用意できなかった。


「ごめん……ちょっと飲み物買ってくるね」


 僕は早口で言うと椅子から立ち上がって、そそくさと逃げ去るように病室の扉を開ける。

 自分自身が情けなさ過ぎて、誰にも邪魔されないうちに、とっととこの場から逃げ出したかった。


「いってらっしゃい」


 後ろでは春華さんの僕を送る柔らかな声が聞こえて、立ち去りたいとはやる気持ちが鈍る。

 でも、ここで立ち止まっても僕が春華さんに言えることは何一つない。だから、いってらっしゃいに返す言葉として最適なものを口に出した。


「いってきます」


 そうして僕は春華さんに振り返ることなく、病室の扉を閉めてため息をついた。


「はぁ……僕はどうしていつも逃げ出してるんだ」


 誰に言ったわけでもない弱々しい呟きは、心で後悔を広げながら反響し続けた。


 ……

 …


 スラックスのポケットに入っている財布の重量感だけを感じながら、階段を下っていた。

 手持ち無沙汰にしている手は、一段一段と階段を降りる衝撃に揺れている。

 まるで迷っている僕の心みたいに、ぶらん、ぶらんと動く。

 春華さんの病室は病院の三階にあって、行きはエレベーターを使ったけど、今はエレベーターを使うなんて気分になれず、階段で一階にある自動販売機を目指していた。

 まとまる以前に解れてしまう思考の糸を必死に束ねようとしながら、ひたすらに歩き続ける。

 春華さんの黄昏と同化しそうなほどに、寂しそうな表情を見て、そのとき何もできなかったから後悔して、病院に来たのは事実だ。

 春華さんのことを僕は殆ど知らない。何歳であるかも、どんな病状で病院に入院しているのかも、好きな食べ物も、好きな物語も、好みの男性も……ってそこは置いておこう。

 ともかく、僕は春華さんに何かできるほど彼女を知ってはいないのだ。

 何にも知らない人にできることなんて、何にもあるわけがない。ましてや、その人の抱えている壁だったり、陰鬱な表情をしている人を笑顔にしたりなんて、できるわけがないんだ。昨日笑ってくれたのは、春華さんが書いた小説を初めて読んだ人間が僕だったというだけ……のはずだ。寂しいことだけど。

 袋小路の自問自答を繰り返すうちに、僕はいつの間にか自動販売機を見上げていた。

 そして、当たり前にため息をつく。

 春華さんから逃げるように病室から立ち去って、思考をまとめようとしたのに、何も纏まってない自分が情けなさすぎたからだ。

 今日はため息ばっかりで、心身が勝手に疲労していく。

 駄目だ、駄目だ。何をしたいか分かってないなんて状態じゃ、いくら考えたって全て泡みたいになるだけだ。一度頭をすっきりさせる必要がある。

 適当に糖分を補給しようと、自動販売機にお金を入れてホットのカフェオレのボタンを押す。

 自動販売機の中で大袈裟な音を立てながら、缶が排出口に現れる。

 缶を排出口から取ろうとして、前かがみになって手を伸ばした。


「あら」

「……?」


 真後ろで声が聞こえて、前かがみのまま振り向く。

 純白のナース服を着込んだ女性が柔らかな雰囲気を携えて、そこに居た。

 この病院のナースさんなんだろうけど……僕を真っ直ぐに見つめて、興味津々と言った感じの嬉しそうな表情をしている。

 もしかして自分でも気づかないうちに、何かしてしまったのだろうか。表情から察するに、怒っているわけでもなさそうだから悪いことはしてないと思うんだけど……。

 体を巡る脈の鼓動が少しだけ自覚的に聞こえて、不安さが現れようとする僕をよそにナースさんは唇を綻ばせて言った。


「あなた、昨日も春華ちゃんの病室に居たお友達よね」

「えっと……?」

「あぁ、ごめんなさいね。突然言われても驚かせちゃうわよね。

 私は春華ちゃんのお世話を担当をしているの。

 春華ちゃんと一緒に居た君と少しお話したいなって思って、声をかけたんだけど時間いい?」


 春華さんの担当をしているナースさんは、どうやら僕に用があるらしい。

 何を聞かれるか分からないし、少し緊張するけど誘いに乗るのは悪くないはずだ。春華さんの担当をしているということは、僕がどうしたいのかって迷ってることに対する糸口も見つかるかもしれない。


「いいですけど……」

「ありがとう。ここで立ってても邪魔になるから、広場に行きましょうか」

「わかりました」


 僕は頷いて、静かに歩き出したナースさんを追いかけた。


 ……


 青から朱へ空が衣替えしようとするのを見上げながら、僕は病院の広場に点在しているベンチの一角に座った。

 ナースさんも僕から人一人分ほど距離を開けて、同じベンチに座る。

 夕刻にも差し掛かろうとする時間帯だからか、広場に人の姿は殆どなく、閑散としていて、空虚さが感じられる。昼間は人で溢れかえっていたのに、夕刻ともなると人も帰ってしまうらしい。

 元々の広場の住人である、人の手によって芸術的に整備された木々たちだけが、広場をさざめき賑やかしている。


「ごめんなさいね、こんなところにまで付いてきてもらって」

「いえ……」


 手のひらで先ほど買った缶コーヒーを弄りながら、僕は曖昧に答えた。

 夕刻の、肌を優しく撫でていく風を心地よく感じながら、考え始める。

 春華さんと一緒に居た僕に、少し話しがしたいと左隣に座っているナースさんは言っていた。

 果たして、僕に関して話しがあるのか。それとも春華さんのことについて話があるのか。

 どちらにしろ、何かしら春華さんに関係した話なんだろうと当たりをつける。


「……ありがとう」


 ナースさんが突然紡いだ言葉は、風に乗るみたいに軽く発せられたのに、耳から流れ出ず頭に刻み込まれる言葉として心に響き渡る。


「ありがとう……って僕はお礼してもらうようなことはしてませんよ……?」

「そ、そうね。少し気持ちが先走ってしまって……」


 そう言いながらナースさんは会話を区切るように、間を開けてから、再び短く言葉を紡いだ。


「春華ちゃんと一緒に居てくれて、ありがとう」


 主語を絡ませた言葉に、僕は驚きよりも不安を覚えた。

 春華さんと一緒に居て、僕が何かできたことがあっただろうか?

 僕は春華さんとただ単に、一緒に居ただけで。

 この二日間のことを振り返ってみても、僕がお礼をされるようなことを一度もした覚えはない。

 むしろ僕は春華さんに対して、お節介をやいてしまっているのではないかって不安になっているというのに。


「僕は……何もできてません。お礼をされるようなことはもちろんしてないし……春華さんと一緒に居たときも、空気みたいな存在だっただけです。

 ……何にも、できてなくて自分のやりたいことも何も分かってないんです」

 

 自分の不甲斐なさを乗せるように、両手を握り締める。

 僕は自分が何をしたいかも、分かっていない。そんな人間が他の人に何ができるというのだろう。

 何も、できるわけがない。

 善でも、偽善でも、悪であっても、自分のことを自分で決められる人は確固たる自分というものを持っている。でも僕には、それができない。

 何かを決めるとき、いつも不安に思ってしまうのだ。

 もし失敗したら――もし相手を傷つけてしまったら。

 そんな風に思うほど、体と心は、氷のように動かなくなっていく。そうなってしまう自分が恨めしくても、仕方ないと思ってしまう自分がいる。

 情けない。本当に、死にたくなるくらい情けない考えだ。

 ナースさんは言葉を受けてかそれとも、思考を巡らせて辛そうにしていたからか、いつの間にか握りこんでいた左手を包み込むように、ナースさんが手を置く。

 少しでも手を動かしてしまったら、消え去ってしまうのではないかと思うほど柔らかいのに、確かな安らぎを添えられた手のひらから感じた。

 それと同じくして、穏やかな風が流れ込んできて、崩れそうな心を支えようとする。


「あなたは、お礼されるようなことをしているわ。

 空気ってあなたは自分を表現したけれど、空気って私たちの生活には欠かせないものでしょう。もし、空気がなかったら私たちはどうなるかしら」


 優しく心に響く問いかけに、僕は自然と言葉を発していた。


「生きてられない……でしょうね」

「その通りよね。空気がなければ私たちは生きていけないわ。

 空気って言葉は存在感がないだとか、基本的に悪い意味で使われることが多いけど、もしあなたが、春華ちゃんの中で空気みたいな存在になっているとしたら、それはとっても良いことだと思えないかしら。

 空気は私たちが生きていくには欠かせない、人生の伴侶みたいな存在で、絶対にそこに居るって思える大切な存在なんだから」

「でも……僕は、春華さんと昨日会ったばかりなんです。そんな人間が、あなたの言う空気みたいな存在になれると思えません」


 ナースさんの穏やかで全てを包み込む海のように優しげな瞳を見て、きっぱり言い切る僕に、ナースさんは口元を綻ばせた。


「ううん、あなたは春華ちゃんを笑顔にしてくれた。

 それだけで、きっと春華ちゃんにとってあなたは、空気みたいに大切な存在になったと思う」


 そこでナースさんは言葉を区切り、僕の手に重ねた手を退けて、切なげに目を伏せる。


「春華ちゃんはね……まったく笑わない子なの」


 笑わない子と聞いて、春華さんの寂しそうな表情と空っぽの瞳が浮かぶ。

 誰にも期待していなくて、瞳の中に存在しているのはただの無とか諦めとかの負の感情だけで、倦怠と表現するのがしっくりくる。

 春華さんにとって笑顔は、身近に存在するものじゃなくて……。

 昨日の窓から空を睨んでいた何もかも、つまらなさそうな様子といい、辛そうで哀しい姿が春華さんの本質だというのだろうか。

 春華さんがひとりで寂しそうに顔を伏せている姿を想像するだけで、心を刃物で斬られたかのように、鋭く痛む。

 辛そうにしている春華さんは、想像でも見たくない……。

 僕の心に浮かぶ春華さんの姿を察するように、ナースさんは風に揺らぐ静かな言葉を続けた。


「私が六年前にこの病院に来たときも、そうだった。

 春華ちゃんは無愛想で何も楽しくないって顔をしてて……時々寂しい表情を見せることはあっても、誰にも笑うことはなかった。

 何か話そうとしても、淡々と模範的に返事をするだけで。

 元々春華ちゃんの担当をしてた先輩に話を聞いても、彼女が笑ったところを見たことがないって言ってたの。

 新任だった私は使命感に燃えてたんでしょうね。息巻いて、春華ちゃんを笑顔にさせようって色々したわ。お腹に訴えようとして、ケーキを買っていったこともあったし、一緒にご飯を食べたりもした。色んなことをして、春華ちゃんに歩み寄ろうと私なりに努力はしたけど、春華ちゃんは心を闇で覆いつくすみたいに……決して笑うことはなかった。

 笑わない日々が続いた、二年後のことだったわ。ふと、春華ちゃんの病室を覗いたとき、彼女が笑っていたの。

 私がどんなに頑張っても、絶対に笑ってくれなかったのに。

 その時のことは、今でも鮮明に覚えてる。朗らかに唇を緩めて、優しい瞳をしていて……本当に嬉しそうだったわ」


 春華さんが笑っていた。その言葉は嬉しいはずなのに、心が締めつけられて苦しくなる。

 昨日、彼女は小説を読んだ僕に向かって、笑ってくれていた。

 その笑顔がとっても嬉しくて、それで……次に寂しそうにしていた彼女を見てしまったから、僕は今日もまた来てしまったのに。

 勝手な理屈だけど、僕だけが彼女を笑顔にしたわけじゃないという事実を突きつけられている気がして、切なくなってしまう。

 僕だけが春華さんにとって、特別なわけじゃない。分かっていたじゃないか。

 きっとみんな……春華さんの寂しさの種を改善しようとして、できなかったんだ。そう思えば思うほど僕なんかにできることは、ひとつもないと、心が底なしの沼に沈みこんでしまう。

 まるで、目の前が真っ黒に染まってしまったかのように、周りが見えない。

 ナースさんはそんな僕を気にすることもなく、続きを口にする。

 これ以上、聞きたくない!

 耳を塞ぎそうになる。でも本能は体を制して、声を無条件に拾っていく。


「……春華ちゃんは、質素なメモ帳にシャーペンを走らせて――夕暮れに染まる誰も居ない病室で、何かを書いていたの」

「えっ……」


 か細い喉からの呻きが、緩く吹き抜ける風に混ざって掻き消える。

 ナースさんが口にしたことは、予想の斜め上を行くものだった。

 春華さんが笑顔だったのは、物語を書いていたからだって……?

 誰かと一緒に笑っていたんじゃないのか……。

 言葉の意味をもう一度確かめるために、僕は震えそうな唇を必死に押さえつける。


「その、春華さんは誰かと一緒に居て笑ってたんじゃないんですか……?」

「誰かと一緒に笑ってくれてたなら……そっちのほうがよかったでしょうね。

 何かを書くようになってからも、春華ちゃんが素直に笑うのはメモ帳に向かってだけだった。

 他は何をしていても、変わらない。ううん、以前よりも自分の世界に居ることが多くなったかもしれないわ。

 それからまた何年かすぎてから……君が現れて、春華ちゃんを笑顔にしてくれた。だから私は君にありがとうって言いたかったの。

 春華ちゃんが誰かと一緒に居て、笑顔になったのなんて見たの、あなたが初めてだったのよ。

 私じゃできなかったのに……ってちょっぴり嫉妬するくらいに嬉しいことだったわ」

「……すみません」

「謝られることじゃないわ。私には、できなかったってだけなんだから」


 そこで時が止まったみたいに、会話が途切れる。

 ナースさんに謝りつつも、心は黄金に染まる空へ思い馳せ、体を駆け巡る鼓動が高鳴るのを感じていた。

 僕は……春華さんを笑顔にできていた、ということなんだろうか。

 それなら嬉しくて、少しだけ迷いの袋小路に道ができたような気がした。でも……僕を根本的に悩ませているのは、春華さんを笑顔にできるかどうかじゃない。そのことに、もう自分で気づいている。

 僕は何がしたいのか。ただ、ひとつの物事を決めるだけの簡単な答えを出せなくて、立ち止まってしまっている。


「さてっと……そろそろ休憩も終わりね」


 ナースさんはベンチから立ち上がって、僕に振り向く。その瞳は快晴しているように清々しくて、自分の考えが分からないという迷いを抱える僕には直視できないほど、眩しいものに思えた。


「話、聞いてくれてありがとうね」

「いえ……」


 歯切れが悪い僕に、ナースさんはウサギでも触るような手つきで、ふわり、と髪を撫でた。


「あなたの顔、何か悩んでるみたいね?」

「えっと……はい」


 簡素な返事をしてから、話すつもりもなかったのに本能は、勝手に言葉を紡ごうとする。

 話を聞く限り、春華さんの担当を長年していて、少しは近しい関係にあるはずだから、誰かに悩みを聞いて欲しいという僕の本能が後押しされたのかも、しれない。


「昨日、春華さんと別れる間際に彼女の顔を見たとき、なんて寂しい表情をする人なんだろうって……思ったんです。

 僕が扉を閉めるまで、春華さんはずっと手を振ってくれていて、それなのに、僕は何も、その姿に声をかけられませんでした。会ってから、たった数時間程度の人間が、何かを言えるわけがない。そう思ったら、体も、心も動かなかった。

 そんな僕が春華さんのために、何ができるんでしょうか。僕が春華さんを笑顔にさせた最初の人間だとしても、とてもじゃないけど、何もできる気がしないんです。それに、僕は春華さんの傍に居て、何がしたいんだろうって、そう思っちゃうんです。それに、僕が何かしたら春華さんに迷惑がかかるんじゃないかって……」


 ナースさんは少し考え込みながら、僕の頭を撫で続け、最後に一撫でしてから僕の迷いに回答をくれる。


「私が言ったことは、あなたに、重荷を背負わせることだったのかもしれないわね……ごめんなさい。

 ……でもね、これだけは言える。春華ちゃんと一緒に居るのに、何かする必要なんてないでしょう? 人と一緒に居る理由なんて、一緒に居たいってだけで十分じゃないかしら。私は、心からそう思うわ」

「一緒に、居たいだけで……」


 反芻した言葉は不思議と、心にじんわり染み込んで、袋小路の思考に光明を作るように広がっていく。

 春華さんとの見えざる壁を取り除いたり、一時的にでも笑顔にさせたり……なんて、もしかしたら僕は、自分のやりたいことを難しく考えすぎていたのかもしれない。

 僕には、確かに春華さんに対しては、何もできないかもしれない。でも決して、それは問題じゃない。もっと単純に考えればよかったんだ、きっと。


「それにね、誰だって失敗するのは恐ろしいし、私だってこういう仕事してるから、人の機微には敏感よ。何か相手に迷惑なこと、嫌なことをしちゃうかもしれない。それでも、後悔しないように、精一杯その人のことを考えて動けば、例え失敗しても思いは伝わるものだわ。自分を信じるのも大事だけど、相手を信じるっていうこともきっと何か挑戦する上では、大切なのよ」

「……そういうものでしょうか」

「あくまで私にとっては、だけどね。

 ……そろそろ、私は行かなきゃいけないけど、君ならきっと、大丈夫。だから、春華ちゃんのことお願いね」


 そう言い残し、ナースさんは夕日と僕に背中を向けて歩き始めた。アドバイスとお礼をくれたことに、感謝しつつ、僕は俯いていた心と体をベンチから奮い立たせて、託された言葉に、僕の今出来る精一杯の返事をした。


「はい!」


 ……


 僕は再び、病室の前を訪れていた。

 手には、すっかり冷めてしまったカフェオレがあり、最早買ったときの温かみはなく、春華さんの病室から出て、およそ三十分ほど時間が経過していることを示している。


「遅くなっちゃったな……」


 飲み物を買いにいくと言っただけにしては、時間が過ぎすぎていて、どう説明したものかと考えながら、病室の扉を開けた。

 扉の先では、思わず目を細めてしまうくらいに、見事な夕焼けが照っていて、儚なく淡い中で、僕が出て行くまでとまったく変わらない姿で俯き、メモ帳に向かっている。

 俯いて物語を紡いでいる表情は笑顔なのに、ひとりで居る春華さんは、ひとり世界と隔絶されている存在のように思えて、楽しそうにしているのに、その姿に寂しさが伴っていると、自然に認識してしまう。

 春華さんは表をあげ、僕を見つけて驚いたようにまぶたを瞬かせた。


「飲み物買ってくるって言ってたのに、全然帰ってこないから、もう帰っちゃったのかと思ったわ」

「えっと、ごめん、ちょっと……人と会ってて遅くなったんだ」

「ふーん……そうなんだ」


 春華さんはその後、特に聞こうともせずに、再びメモ帳へ視線を向けた。

 僕はベッドの隣にある丸椅子に座って、すっかり冷めてしまったカフェオレのプルタブを開けて口に含んで、一息つく。

 買ったときの目的どおり、糖分を補給するにしては、冷たくなってしまっていて、甘みが足りない気がした。そもそも、買ったときの頭をすっきりさせようって目的もある程度達成できているから、意味のないものかもしれない。

 僕がカフェオレをちびちびと飲んでいる間に、春華さんは長い間メモ帳に顔を向けて疲労していたらしく、達成感のある疲れた表情を浮かばせて、後ろにある夕焼けに振り向きながら細い息で呟いた。


「ふぅ、もうこんな時間なのね」

「随分長い間書いてたみたいだね。えっと……もしかして、邪魔じゃなかった?」

「邪魔って……智くんが?」


 言葉に反応して、春華さんは振り返りながら聞いてくる。その瞳には、驚きが混じっているように思えた。


「うん。集中して小説書いてたみたいだから、邪魔じゃなかったかなって」


 春華さんは和んだように、口元に手をあてて微笑む。とても自然に紡がれた姿は、茜色に照らされて美しく、儚げだ。


「邪魔なんて、そんなことないわよ。私は君が居て、その、なんというか、そう、楽しいのよ」

「そっか……そうなんだ」

「そうよ」


 春華さんの直球を地で行く言葉が照れくさくて、言葉に詰まる。それは春華さんも同じようで、夕焼けによって顔色は分からないけれど、自分で言ったことに少しは照れているらしく、僕から目線を逸らしてメモ帳をぱらぱらと捲っている。

 何も会話せず、ただ一緒に居るだけなのに、気恥ずかしくも、穏やで居心地のいい時間が、ただひたすらに過ぎていく。

 この空気になってから、僕は改めて、ナースさんの人と一緒に居る理由なんて、一緒に居たいってことだけでいい、という言葉を実感していた。

 一緒の空間に居ながら、話さなくても、気まずくならない。僕が本当に心で考えていたことは、なんら複雑に考える必要もない、春華さんと一緒に居たいだけだった、そういうことなんだろう。

 空気と人間が当たり前のことながら、ずっと寄り添って一緒に居ることのように、不思議と春華さんとは、ずっと一緒に入れるような気がしてしまう。

 だから、僕は考えをまとめながら意思の通った言葉を怯えることなく、後悔しないように口にする。


「春華さん」

「なに?」


 春華さんは、何気なく乱雑に捲っていたメモ帳から表をあげる。そこに倦怠を抱える瞳などは一切なく、ただ呼ばれたことに対して疑問を抱いているようだった。 

「また、春華さんに会いにきてもいいかな」


 春華さんは僕の言葉を聞いて、雷に打たれたように、目を見開いてから、音もなく顔を伏せた。垂れた前髪で表情が隠れて伺えないけれど、その雰囲気からは途方もなく、陰鬱としたものが感じられた。


「……どうして? 私はただ、物語を書いているだけだし、私と一緒に居ても何が起こるわけでもない。私なんかと居ても、何も楽しくないでしょう」


 ついさっきまで、抑揚のある声で喋っていた春華さんが、突然に淡々とした声で言う。春華さんの闇とも言うべき部分が、言葉から垣間見えて、心臓がぎゅっと絞られたように痛くなる。それでも僕は、精一杯、自分の思いを伝えるために、一心不乱に感情を表す。

 

「そんなことないよ!僕は春華さんと一緒に居て、心が空まで弾むように楽しいんだ。きっと、他の人と一緒にいるだけじゃ、そんな風には感じない。そう思えるくらいなんだ! だから、一緒に居るために……僕はまた春華さんに会いにきたい。駄目……かな?」


 春華さんは、しばらく無言を貫き、答えがもらえるまでの間を、僕は合否を待つ受験生のように、待ち続けた。

 待ったのは、一分だったか、はたまた三十分くらいだったか、時間の感覚すらなくなった僕に、春華さんは葛藤するように俯いたまま、か細く消え入りそうな、僕の聞いたことのない期待や恐怖……そんな色々なものが入り混じっていそうな複雑な声色で言う。


「……私と一緒に居て楽しいなんて、そんな風に言う人、初めてだわ……。いいわよ、また来ても。何かおもてなしできるわけでもないけど、それでもいいなら」


 本当は、来てもいいと言われない可能性のほうが高いと思っていた僕は、飛び上がるように丸椅子から立ち上がって、大袈裟に頷いた。


「うんっ! そんなの全然構わないよ!」


 顔をあげ、僕の動きを見て、春華さんは小さく肩を震わせ、笑う。やっぱり春華さんは笑顔のほうが、似合う。


「ふふっ、随分大袈裟ね」

「全然そんなことないよ! 僕はすっごく、嬉しいんだ。ありがとう、春華さん! 絶対に明日また来るから!」

「うん、わかったわ。今日はそろそろ帰るの?」


 昨日別れた時間とアナログの時計の針が指す数字が、同じくらいだったからだろう、春華さんは何気なく、聞いてくる。


「うん、明日の準備もあるから、帰らせてもらうよ」


 明日からのことを考えると、思わず羽になって飛んでいきそうになる体を押さえ込みながら、僕は扉の前まで行って、春華さんに振り返って、告げた。


「春華さん、また明日」


 しばらく呆けたように、春華さんは口を開けて、はっとしてから唇を緩めた。茜から色を増した、黄金の夕焼けを背にするその笑顔は、自然が織り成す、どんな絶景よりも美しく、一生忘れられないような笑顔だった。


「また明日ね」


 承編「華への道」終わり


 転編に続く

 転編に続く

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