Far Distance = Deep-Linked.

柊 恭

Far Distance = Deep-Linked.



 十月も半ばに入ってくると、庭の枯葉がちらほらと目立ってくる。吹く風は日を追うごとに冷たくなっていき、彼女の黒く長い髪を厳しく撫でていった。この土地の秋は好きになれないな、と彼女は思う。黄金色の小麦も刈り尽くされてしまい、景色もどこか物寂しく感じるから。

 イングランド南部のノーフォーク地方は、ロンドンから車でおよそ二時間の距離。大きな川こそ流れていないものの海が近くて、小麦畑と休耕地とがまだらになった農地が広がる。そんな自然豊かな土地にある一軒のヴィクトリアンハウスで、鳥野蓮(とりの れん)はメイド業に勤しんでいた。

「お洗濯は、これで良し……っと」

 彼女が籠に洗濯物を詰めて外へ持っていくが、今日はあまり乾きそうにない。風はやはり肌寒いし、つい先程まで照っていた陽射しもそのなりを潜めてしまった。何か悪いことが起こりそうな予感がして、蓮は腹いせに雲へ向かって舌を出す。嫌な胸騒ぎが彼女を苛んだ。

 名前が表すように、蓮は十八歳の日本人女性だ。髪も瞳も漆のような艶のある黒をしているし、肌も他のメイド達と比べたらベージュの色素が色濃く出ている。背は平均的だが輪郭も少し丸みを帯びていたので、実年齢よりは一、二歳ほど幼く見えた。レースが編み込まれたシックなメイド服は、そんな彼女にあまり似合っていない。

 それが何故遠く離れたイギリスで家事手伝いをしているかを説明しようとすると、彼女の境遇が深く関わってくる。蓮は元々日本育ちだったが両親の都合でイギリスに移住、しかしその両親が事故で鬼籍に入ったのが五年前。異国の地で身寄りのない彼女は流れ流れてこのノーフォークに辿り着き、十六歳の時から住み込みメイドとして雇ってもらうこととなったのである。

 現在の彼女の生活に、不満な点は何一つ無い。食事と寝床は保証されているし、同僚との仲も良好だ。仕事も卒なくこなしていて、この前まで路頭に迷っていたことがまるで嘘のよう。

 それに、彼女が仕える『ご主人様』は――。

「蓮、早くいらっしゃいな。若様がご出立になるのですから、アナタも見送りをしないと」

「はーい、今行きますー!」

 老齢のメイド長に急かされて、蓮は洗濯物をてきぱきと干す。それが終わると駆け足で門の方へ向かい、同僚のメイドたちと共に整列した。やがて、屋敷の扉が開き。

 そこから姿を現したのは、黒のタキシードを纏った御曹司だった。

 凛瀬(りせ)・エスプレイ。この屋敷の所有者であるエスプレイ家の子息で、年齢は二〇歳とまだ若い。背丈は平均的な男性よりもやや高く、髪は濡羽色のナチュラルショート。線の細い輪郭とガーゼのように白い肌を有しているが、整った顔立ちの中で瞳の鉄黒色だけが異彩を放っている。

 コーカソイドのようでいて、その部分だけ人種を異にしている。彼の美しさは、おおよそ完成品であってどこか儚く脆い『病的』な性質を表していた。

 蓮は総合的な雑用も勿論こなすが、基本的には凛瀬に直接仕える召し使いだ。理由を凛瀬から直接聞いた訳では無いが、恐らく屋敷の中で唯一日本語が話せるメイドが彼女だからだろう。他界した彼の母親は日本人だったらしく、そのため凛瀬は日本語を扱うことが出来る。凛瀬の書斎で蓮が紅茶を淹れる時など、二人きりの際は日本語で会話をしているほどだ。

 この屋敷で最も凛瀬に近しい召し使いは、間違いなく蓮だ。だから彼女は同僚からも一目置かれているし、彼女自身もそのことに一種の誇りを抱いている。凛瀬の身の回りの世話は蓮が一番詳しいし、彼の父親であるお館様を除けば彼女が最も凛瀬と会話を交わしている。

 そのためか蓮は、今凛瀬の手を握っている上流階級の女のことが気になった。

 最近、この女性をよく見かける。ブロンズの髪には煩いほどのウェーブがかかっていて、恐らく凛瀬よりも少し上くらいの年齢。緋色のドレスは均整の取れたプロポーションを惜しみなく強調し、唇のルージュは蓮が逆立ちをしても手に入れられないようなモノを使っている。その女性がこの屋敷を訪れる際は大抵凛瀬の隣に陣取っていて、彼に対しまるで恋人のような馴れ馴れしい態度を見せていた。

 女性が凛瀬と腕を組み、扉から門へとこちらに向かってくる。ただのメイドに過ぎない蓮は指をくわえることくらいしか出来なくて、様々な感情を抑え込みながらマニュアル通りに腰を曲げた。凛瀬の近くに自分ではない別の女が飛び回っていると意識すると、どうしても不自然で型にはめたような動作になってしまう。そんなぎこちない礼が目に障ったのか、例の女性が蓮の前を通り過ぎる際に小言をぶつけてきた。

「有色人種が紛れてるのね……しかも東洋人」

 怒りで思わず声を上げそうになるが、蓮はその気持ちをぐっと堪える。あからさまで理不尽な差別を受けたけれども、使用人は上流階級の人間に口答えをしてはいけない。ここで相手の顔を殴り張り倒してしまっては、主人である凛瀬の名を汚すことにもなりかねない。彼に迷惑をかけるのは避けたかった。

「……そうだよ、この屋敷で雇ってる。そんなことよりもレイス、早く行こうか」

 彼女の怒りを察してくれたのか、レイスと呼ばれたその女性の注意を凛瀬が蓮から逸らしてくれた。レイスは興ざめでばつの悪そうな顔をしながら、凛瀬に連れられて門へと再び歩き出す。

 今度、彼には謝辞と感謝を伝えなければ。蓮はそう思いを巡らせながら静かに頭を起こして、凛瀬とレイスがロールスロイスの車内に飲み込まれてゆくのを見届けた。


 蓮が凛瀬の書斎で紅茶を淹れていたのは、それから数日が経った後だった。

「どうぞ。砂糖は少なめでよろしかったんですよね?」

「ありがと、僕の小難しい注文を覚えてくれて」

「いえ、これが仕事ですから。それに……ご主人様の好みですし」

 さっぱりとしたダージリンを、凛瀬はミルクも入れずにストレートで味わう。カウチに背を預けながら目を閉じて感じるその味は、一体どのような気分を彼に提供しているのだろう。横に立ちながら、彼女はそう思案する。イギリス人らしからぬ彼のその姿は、異邦人として長い間孤独だった蓮にとって親近感を覚えるモノだった。

「やっぱり蓮の淹れた紅茶が、一番僕の口に合ってるかな」

「そ、そんなお言葉……っ! そのっ、あのっ、あっ……ありがとう、ございます……」

 あまりにも唐突に褒められたので、蓮は照れて委縮してしまった。顔も紅潮しだしたので、手元のティーポッドで隠す。目も合わせられないそんな彼女を見て、凛瀬が小さく笑みを零した。

「すっ、すいません! 何かご主人様のお気に召さなかったなら――」

「そんなことは無いよ。ただ、小さくなってるキミが面白くて」

 嬉しそうに出した凛瀬の言葉が気になって、蓮は口元に人差し指を当てて考える。

「面白い、ですか……ご主人様が不快でないのならそれで十分ですけど、それって私は素直に喜んでいいんですか?」

「可愛らしかったから、少なくともネガティブな意味合いじゃないよ。第一僕をこんな楽しい気分にさせてくれるのだって、蓮ただ一人だけだから」

 そう言葉を締めくくった後、凛瀬がふと浮かない顔をティーカップの紅茶に映した。思い詰まっているような表情の彼を見て、蓮がどうしたのかと怪訝に思う。

「この前――僕と女の人が肩を並べながら外へ行ったこと、蓮は覚えてる?」

 凛瀬がいつの出来事を指しているのか、蓮はすぐに心得た。レイスとかいう上流階級の女性に目を付けられてしまい、その苦境を凛瀬に助けてもらった時のことだ。その際のお礼をまだ彼に伝えていないことを思い出し、彼女は深々と頭を下げて丁寧な言葉遣いで詫びを入れる。

「え……っと、その節は誠に申し訳ございませんでした! 私の無礼を、ご主人様にフォローして頂くことになってしまって……」

「あれは蓮が気に病むことじゃ無いから、安心して。頭に来たのは僕も同じだから……それで、キミに小言を言ってきたその女性。名前はレイス・ロールズっていって、財団のご令嬢なんだけどね。彼女が僕の悩みの種なんだけどさ」

 ブレスを挟んで言葉を区切り、凛瀬が次の事実を落ち着いて告げる。

「僕は今度、そのレイスと籍を入れることになった。いわゆる政略結婚ってやつ」

 そう伝える彼の瞳はくすんだ真珠のように輝きを失っていて、全く嬉しくないのだろうことを蓮はすぐさま感じ取った。親の決めた結婚。自分の力が及ばない事情に、彼女の主人は振り回されている。

 そして嬉しくないのは、何も凛瀬だけでは無い。

「……そう、なんですか」

 蓮もまた、このことを歓迎できなかった。彼女と凛瀬との間にあるのは、ただの主従関係だというのに。他の使用人とのそれと、何ら変わりないはずなのに。それなのに、彼が他の女に取られるということを蓮は受け入れられなかった。

「それで、ロールズ家の方がウチよりも権力を持ってるから。僕は婿養子としてあっちの家に入ることになって、だからこの屋敷を出ていくことになる。蓮、キミと離れ離れになっちゃうんだ」

 ただでさえ凛瀬の結婚が許せないのに、更なる追い打ちが彼女を襲った。恐らく一生、もう会えなくなる。少なくとも、このように会話をすることは二度と無い。近しい間柄、およそ友人に似た関係である今の状況がズタズタに引き裂かれて、二人は物理的にも精神的にも遠い存在となってしまう。それは、とても哀しいこと。

「ご主人様と……ずっと、一緒に居たいのに」

 蓮の口から零れ落ちたその言葉は、呟く程度の声量だった。凛瀬に届くかも分からない、心の底にある彼女の想い。ずっと秘めていたその気持ちは、別れると知って初めて声に出すことが出来た。

 聞こえているかも分からないそんな蓮のセリフを、しかし彼はしっかりと受け止めてくれる。

「……僕も、蓮とは離れたくない。こんな望まない結婚は嫌だし、蓮とこうして話せなくなるのも嫌だ。だから」

 蓮の瞳を見据えながら、凛瀬が彼女へ向けて言葉を綴る。

「――人を、殺してくれないかな」

 凛瀬の発したその音色に、蓮はただ陶酔した。



 なけなしの理性を動員して、蓮が凛瀬の放った言葉を聞き直す。

「ご主人様、今なんて……?」

「レイス・ロールズを殺す。蓮、その手伝いをキミにやってもらいたいんだ」

 決して空耳などでは無い。目の前の主人ははっきりと、人殺しに加担するよう誘ってきた。予想だにしていなかった状況に、彼女は心の一部で戸惑いを感じる。しかし他方では、これを喜ぶ感情もあった。

 目障りな女を消せる、蓮にとっては絶好のチャンス。それも、ご主人様は自分を指名してくれた。しかしその方法はいささかリスキーで、危ない橋を渡るモノ。纏まらない思考をかき集めながら、蓮が一つの質問を成形した。

「どうして……ご主人様にそこまでさせるのは、一体どういう事情なんですか?」

「レイスのことが嫌いなんだ。純粋に、生理的に」

 そう告げる彼の声色は、二年間仕えてきた中でも聞いたことが無いような、とても凍てついたモノだった。

「彼女の驕った高圧的な性格が、まず嫌い。家柄の力関係としてしょうがないのかもしれないけど、僕に対してあそこまで上から目線で接するのはね……僕の気持ちを、あの女は全く考えてくれない」

「で、でもそれだけだったら……無理かもですけど、縁談を破棄すれば済む話ですよね? 何も、殺すことなんて」

「それだけなら、ね。最悪僕が我慢すればいいことだけど、この話にはまだ続きがあるんだ」

 蓮の紅茶をまた一口啜って、凛瀬が話を掘り下げる。レイスを想起する彼は、まるで家畜を屠殺するような眼をしていた。

「蓮も被害を受けた通り、あの女は重度のレイシストだ。特に東洋人がお嫌いらしく、僕のことを見下してるのはそれも大きく関係してるんだと思う。僕の母親が、日本人だったから」

 レイスの言葉を、蓮は思い起こす。彼女は蓮のことを『有色人種』と、死語同然の単語で蔑んできた。選民思想の高さがその一言だけでも十分に伺えるし、凛瀬はもしかしたらそのような言葉を彼女以上に浴びせられたのかもしれない。

「前に一度、僕の名前について二人で話題になったことがある。ヘンな名前だってレイスが言ってきたから、僕は母親から貰った名前なんだってちゃんと説明した。そしたらあの女、何て言ってきたと思う?」

「センスが無い、とかですか?」

「そんなに生易しいモノじゃ無かったよ。東洋人は野蛮なんだって、そう言ってきた。lesion(傷)に発音が似てるって。そんなに似てないと思うんだけどね、殆どこじつけだよ。そこまでして僕の母親を冒涜したいのかって」

 自身とその親を侮辱されては、普段温厚な凛瀬が殺意を抱くのも当然だった。上流階級にある家柄の誇りも、そして彼の矜持そのものも傷付けられた。レイスは単なる差別だけでなく、エスプレイ家まで汚したことになる。

「そんな、あんまりじゃないですかそれ……! 私は奥様との面識はありませんけど、奥様を侮辱するってことは私を拾って下さった旦那様を侮辱するも同然で、つまり使用人の私たちまでけなされたってことになりますよね?」

「そう、エスプレイ家というよりもこの家に関わるモノ全員を汚した。だからレイスを始末して、罪を償ってもらわないと気が済まない……最も、これは建前だけど」

「建前、ですか……?」

 静かな怒りと並行して凛瀬の中に存在する、もう一つの感情を彼女は観測した。おおよそそれとは対極的な、もっと柔らかい気持ち。

「好きな人が居るから、駆け落ちするためのきっかけを作りたい。これが本音」

 その言葉をひょうひょうと放つ凛瀬は、けれども蓮の瞳をしっかりと見据えていた。彼女が心を射抜かれた感覚に陥る。明言はなされていないけれども、蓮と凛瀬はこの時にようやく繋がれた気がした。

 ――ご主人様は、誰でもない自分を誘っている。

 ――人を殺すだなんてこと、自分には到底出来そうもない。

 ――けれども、このご主人様に近付ける。

「もう一度問うよ。蓮、僕と一緒にレイスを殺してくれないかな」

 凛瀬の感情と自らの願望とがないまぜになったその誘いに、蓮は身も心も全てを委ねてしまった。


 そして、運命の日。

 すっかりと冷えた夜、その寝室には暖炉の火がポツリと小さく灯っているだけで薄暗かった。キングサイズのベッドには、凛瀬とレイスが二人で仰向けになっている。結婚式は、明日だった。

「ねぇ、凛瀬……起きてる?」

 レイスが顔を凛瀬に向けて、気だるげな声で話しかけてきた。それに対し彼は相槌で返し、上半身を起こして首をレイスに向ける。

「どうしたのかな……明日は早いんだから、アナタももう寝ないと」

「それは凛瀬も同じでしょう? それと、『アナタ』じゃなくて名前で呼んで。私はもう、凛瀬の妻なのだから」

 苦虫を噛み潰したような表情を凛瀬が隠せたのは、部屋の薄暗さのおかげだった。躊躇いを含んだ声で、彼がその単語を発音する。

「……レイス」

「私ね……凛瀬との結婚は、初めのうちは反対してたの。いくら許婚だからって、東洋人と契りを交わすなんてゴメンだって」

 凛瀬の呼びかけにも反応せず、レイスが自分勝手に話を始める。まるで独り言のように。その声は水を貰った花のように生き生きとしていた。彼は頷きの一つもしていない。

「でも実際に凛瀬に会ってみて、考えが変わった。アナタは悪い人じゃない。私たちの血が半分混じるだけで、アナタのような人は生まれてくるのね。凛瀬が素敵な人だったから、私は親の決めた結婚でも受け入れたの。これも人生かな、って」

 どれだけ凛瀬が黙りこくっていても、レイスは言葉の噴水のように喋り続けた。反応がいまひとつの相手に自分を認めてもらうため、自らの内面を暴露する行為。結婚前夜にはよくあることだが、それが彼にとって逆効果であることをレイスは知らない。

 眠りと覚醒のまどろみの中で、レイスが上体を凛瀬に向ける。なるべく相手の目を見て話そうとしているのだろうが、薄闇はそれを許してくれない。

「凛瀬……私はアナタの半分が嫌い。でも、もう半分は好きなの。私に対して紳士的なところも、私を抱いてくれたその腕も。例えどんな形であろうと、私はアナタを受け入れてあげる」

「僕は――アナタの全てを、受け入れたくない」

 その凛瀬の言葉を合図にして、寝室に潜んでいた蓮はレイスの背中をナイフで刺した。

「っ――な、にが」

「レイス、アナタはレイシストであり過ぎた。僕にはそれがどうしても許せなくて、だからアナタのことを殺す。或いは、アナタを駆け落ちの口実にする」

 蓮の気持ちと凛瀬の気持ち、その両方をナイフに込める。握る両手の力は緩めず、もっと奥深くへ突き刺そうと押し込んだ。何も考えずに。何かを考える余裕なんて無かった。

 レイスが後ろを振り返って、薄闇の中でも蓮と目が合う。レイスの瞳には驚きが、蓮の瞳には恐怖が宿っている。被害者と加害者。これはレイスの差別という攻撃に対する反撃なのだ、と彼女は自分に言い聞かせた。洗脳でもするかのように、何回も何回も。

 だというのに、レイスへ向けた罵声の一つも蓮は上げられなかった。何も喋れない。声を出すことも出来ない。人を殺している、このことだけで蓮の頭はいっぱいだった。

「ア、ナタ、は……っ!」

 一方のレイスは、蓮へと怒りの呻きを浴びせた。この召し使いが誰なのかを思い出したらしい。ついこの前、自らが小言をぶつけた相手だと。そんなレイスを煽るかのように、凛瀬が冷笑しながら口を割った。

「そう、その通りだよ。この子の名前は鳥野蓮、アナタの嫌いな東洋人のメイド。僕に協力してくれて、一緒にアナタを殺そうってことになった」

「凛瀬、アナタは……私よりも、東洋人のメイドを選ぶというのっ?!」

「違う。驕った貴族よりも蓮を選んだ、ただそれだけ」

 蓮がナイフを一度引き抜き、今度は別の部位を突き刺す。レイスの腎臓を狙いたいけれども、薄暗いためによく見えない。骨に当たっては跳ね返されて、そして何度も違う肉を抉る。湧き出る血飛沫は間欠泉のよう。口も開かずただひたすらに、彼女は背中を繰り返し突き刺す。その度にレイスはパイプを捻ったような悲鳴を上げて、その痛みを凛瀬に訴えた。彼は蓮を見守るだけだ。

 大量の返り血が、蓮の給仕服を紅く染めてゆく。純白が汚されていくように。潔白が汚されていくように。

 もう、後戻りはできなかった。

 レイスの悲鳴が聞こえなくなったのは、もう五〇回以上もナイフで刺した頃だった。蓮は頭から爪先まで、レイスの血を被っている。濡羽色の髪は紅く湿って、白磁の頬を鮮血が滴る。まるで口紅をさしたかのように、彼女の唇も血で染められる。その生暖かさに背筋が凍り、身体が冷えている感覚に陥った。寒い。誰かに暖めてもらいたい。血ではない、別の温もりに。

 ベッドから凛瀬が立ち上がり、蓮へと言葉を掛ける。申し訳無さそうなその声は、この瞬間の彼女に限って聞きたくないモノだった。

「蓮……ゴメンね、そしてありがと。汚れ仕事をさせちゃって」

 つい先程までレイスだったそれを軽く蹴ってから、凛瀬が蓮の近くへと寄ってくる。彼は返り血を浴びていない。無垢な肌を持っているというのに、自分から穢れた彼女へと近付いてきた。

「ご、主人様……来ないで」

「そういう訳にはいかないよ。蓮だけに、罪を背負わせたくない」

「今の私は、とても汚いです……ご主人様まで汚くなることなんて、何も無いんです。ご主人様のためだったら、私はどこまでも汚れて見せます。だから、ご主人様は綺麗なままで――」

 光を失った瞳で語りかけると、凛瀬が蓮のことを優しく抱き締めた。

「ご主人様じゃなくて、凛瀬って呼び捨てでお願い。僕たちはもう、主従関係だなんて他人行儀な間柄じゃないから」

 彼に身も心も預けてしまう。凛瀬が着ていた月白色のシャツに、蓮の被った返り血の紅が移った。こうして凛瀬も穢れてゆく。彼女の罪を肩代わりするように。彼女と同じ色に溶け合うように。

「それに――蓮は、汚くなんかないよ。血まみれのキミだって、僕にとってはとても愛らしい。ずっと、胸の中に閉じ込めたくなるくらいに」

「……凛瀬」

 彼の名前を、呼び捨てで呟く。蓮の求めていた温もりを、彼は彼女に与えてくれた。脚の震えが収まるような、一種の安心感に包まれる。孤独から解放されたような。

 頭を凛瀬の胸にうずめる。全て彼に依存したくて、蓮は凛瀬にもたれかかった。そうすることで、思考も落ち着きを取り戻してゆく。

 もうここから離れたくない。凛瀬の胸から離れたくない。今独りになってしまうと、蓮は一瞬で崩壊してしまう。それを繋ぎ止めているのが凛瀬だと、彼女は彼の腕に抱き締められながら心地良い気持ちに陥った。

 ――自分の穢れてしまった部分を、世界でただ一人だけ凛瀬が受け入れてくれた。

 その心地良さの正体はこれだと、蓮は直感する。彼女の全てを知っていて、彼女の全てを受け止めてくれる。二人で秘密を共有していて、罪深い彼女を抱き締めてくれる。この時に初めて、蓮は他人に心を開くことが出来た。

「目を……閉じていて」

 凛瀬の言う通りに蓮がまぶたを落とすと、唇にしとやかな刺激を感じる。そこから流れてくるモノは、優しさや好意などのチープな感情ではない、もっと重い何か。二人の繋がりをより強固な関係にする、セメントのような一種の契り。

 ロマンチックを超越した、もはや呪いのような接吻だった。

 もっと近づきたいと、二人が身体を絡め合う。こんなに近くても、まだ足りない。今の蓮と凛瀬の精神は、もっと深いところで繋がっている。『人を殺した』という罪の共有で。

 蓮が目を開くと、そこにはキスを終えて顔を離した凛瀬が居た。彼の唇に目をやると、普段よりも赤みが強いことに気が付く。それが蓮にこべりついた返り血の口紅だと分かるまで、幾ばくかの時間が必要だった。

「――これで、共犯者だね」

 共犯者。その響きに、蓮は酩酊感を覚える。誰でもない彼女が打ち立てた、憧れのご主人様との唯一の関係。蓮にとっての共犯者は凛瀬だけで、凛瀬にとっての共犯者は蓮だけ。手に取って転がしたくなるくらいに、この関係が愛おしかった。

「凛瀬、私はアナタとずっと一つになりたかった」

「蓮と同じ時を過ごせたらなって、僕もずっと思ってた。それを叶えるには、こんな肩身の狭いところにいちゃダメだ。だから、一緒にこの屋敷を出よう」

「どこまでも、凛瀬に付いて行きます。だって、私は――凛瀬の、共犯者だから」

 もう一度、あと七二秒だけ、蓮と凛瀬が口づけを交わす。そうして十分に溶け合ってから、二人ともすぐに着替えて屋敷を飛び出した。

 十一月一日の夜に、その二人は駆け落ちをした。



 地中海の夏はカラッとしていて、洗濯物がよく乾く天気だった。

 八月六日、イベリア半島西部のリスボン。石造りの建物が密集している住宅地区の四階、あの晩秋の夜に屋敷から逃げた蓮と凛瀬は、年を越してからそこに部屋を借りて二人で暮らしていた。

 ノーフォークの屋敷とは打って変わって、彼女たちのアパートはオレンジの明るい屋根をしていて狭かった。真っ白な大理石で造られた住棟が密集するこの街は、サンタジュスタのエレベーターから見下ろせば壮大だ。しかしいざその中に住んでみると緻密というよりも窮屈で、建物に遮られて十メートル先が見渡せないような場面はざらにある。

 少し前までの豪華な生活からは想像も出来ないくらいに質素なアパートだったが、凛瀬は不思議と文句を一つも垂らさずに適応していた。本人は『蓮と一緒ならどんなことでも耐えられる』と口にしていたが、かといってやせ我慢をしているようにはとても見えない。放浪経験がある蓮は言わずもがなであるが。

「凛瀬、パスタを茹でるので鍋に水を張って火にかけてくれますか?」

「分かったよ、こっちでやっとく」

 洗いたてのシャツを干しながら、蓮が彼にこのような注文をする。最初の頃は家事も全て彼女がやっていたのだが、対等な関係になったのだから自分も手伝うと凛瀬が言い出してから早半年。今ではこのように、蓮が凛瀬に対して指示を出すほどに近しくなった。

 凛瀬が水を沸かしている音が聞こえる。これまた妙なことに、御曹司であったにもかかわらず凛瀬は家事を何でもこなしていた。どれだけ考えても答えは見つけられなさそうだったが、どうやら彼は要領が良いらしいと蓮は結論付けた。だから何をやらせても卒なくこなすし、どんな環境にだって適応する。

「パスタは固ゆでが好きなんでしたよね?」

「やっぱり蓮を選んで良かったよ、僕の好みを何でも把握してくれるから。強いて言うならば、ソースは――」

「カルボナーラでしたよね、ちゃんと用意してありますから」

 蓮が苦笑して、釣られて凛瀬も吹き出してしまう。言葉にしようとしているセリフまで把握していて、二人はまるで新婚の夫婦だった。『人を殺して追われている』という後のない状況だというのに、それでも二人はこうして内縁の夫婦をやっている。それがどうしてか可笑しかった。

 この季節の地中海は乾期で、外は気持ち良く晴れ渡っている。白いシャツが陽射しを反射して輝き、目下に広がる路地も人々の活気に満ち溢れていた。パンを抱える青年はせわしく老人を避け、黄色い路面電車は前を走るレクサスをのろのろと追いかけている。

 太陽の燦々(さんさん)と照るリスボンでは、誰の動きも伸び伸びとしていた。まろやかな陽射しに抱き込まれては、時間の流れも緩やかなカタツムリのように感じる。洗濯物越しに見る青空は、遠い海のように深い色をしていた。

 そんな呑気な街を窓から眺めていると、蓮はやたらと視線をあちこちに向けている不審な人物を見つけた。金色の髪をしたその婦人は明らかにゲルマン系で、ラテン系が多数を占めるリスボンの街に少しも溶け込めていない。遠目に見ても、蓮達と同じ異邦人であることがはっきりと受け取れた。

 どうやらその女性は、人か場所でも探しているらしい。手に持っている紙片には地図らしきものが描かれていたので、恐らく後者だろう。見慣れない住所と人混みに戸惑いつつも目的地を見つけたのか、今度は視線を前方に固定して歩き始めた。

 その女性に、蓮は見覚えがあったような気がする。はっきりとは思い出せない靄のような記憶だが、かつては金髪の彼女と幾度となくやり取りを交わしていたように思える。そう遠い昔ではない、確か屋敷に仕えていた頃の――。

 火にかけていた鍋から、水が噴き零れる音がする。

 彼女が屋敷で召し使いをしていた頃のメイド長だと、蓮ははっきりと思い出した。

「凛瀬、見つけられましたっ! すぐ下に屋敷のメイド長が居ます、早く裏口から逃げないと!」

 慌てて彼に報告すると、凛瀬がその言葉だけで全ての状況を把握する。まずは鍋の火を止めて、次に最低限の持ち物だけを身に着ける。財布とボストンバッグ、ハンブルク行のフェリーのチケット、そしてレイスを殺したナイフ。どれを持つか二人で分担してから、凛瀬は蓮の手を曳きながら部屋を飛び出した。普段は温厚な彼の焦った表情を見るのは、もしかしたら初めてかも知れない。

 屋敷のメイド長は確かに高齢だったが、退職するほどにはまだ老いていない。旅行に来たのだろうと仮定しても、リスボンの観光地なんて他にあるはずだ。こんな住宅街にメイド長が足を運んでいる理由は、たった一つしか考えられなかった。

 いくら『エスプレイ家の名誉を汚した者に対する報復』という大義名分があっても、蓮と凛瀬がやったことが殺人行為であることに変わりは無い。その上家柄を捨てて逃亡したのだから、二人の罪は相当大きなモノになっているはずだ。家の名誉を汚したのがレイスと二人のどっちなのか、もう分からない。

 ただの駆け落ちをしたかっただけでも、今の二人は重罪人だ。しかもそんな者がエスプレイ家から出たと知れ渡っては評判も落ちてしまうので、国家組織ではなくエスプレイ家が独自に二人を探し出して内輪で裁こうとしていると考えられる。ということは、どうにかして彼女たちの足を掴んだエスプレイ家が刺客としてメイド長を送り出した、というのが実情だろう。ならば二人が今すべきことは、別のところへと逃亡することただ一つのみ。

「ひとまず、港を目指そう。ハンブルクまで逃げられれば、後はドイツ国内でどうにでも出来る。手先がメイド長一人だけっては考えにくいから、逃げるのは難しいと思うけど」

「……それでも、私たちは逃げ続ける。そうですよね、凛瀬?」

「セリフ、また蓮に先を言われちゃったね」

 精神を落ち着かせるために軽口を叩きながら、二人はアパートの裏口から抜け出る。メイド長を撒くことに成功したことを確認しつつ、帽子を目深に被りながら坂を駆け降りていった。


 細い坂道を、二人で走る。人混みを掻き分けながら、手と手を堅く繋ぎながら。互いの息遣いをぴたりと合わせて、全力で海を目指して走った。

 路面電車が追い抜いていく。あれに乗ればすぐに港へと着くが、車内に逃げ場はどこにも無い。追手が車両に乗ってしまったら袋のネズミとなってしまう、それを避けたいから乗らなかった。

 この街において、車はその意味を殆ど成さない。ただでさえ勾配がきついというのに、路地の幅員がせいぜい一台分しか確保されていないから。トヨタやロータスのどんなスポーツカーであっても、ここでは全開のスピードを発揮することが出来ない。しかしこれを逆手に取って考えると、メイド長達も二人を追いかけるのに車は使えないはずだ。地理条件は蓮達に味方している。

 右側から、『居たぞ』と声を掛けられた。黒いスーツを着た男性、これも追手の一人だ。腕を掴まれそうになるもすんでのところで回避して、より速く坂を下って逃げる。これで何人目だろうか、もう四人くらいエスプレイ家の人間に出くわした気がする。

 道を左に曲がろうとすると、前方百メートルにサングラスの男性が横切っていくのが見えた。彼は見たことがある、数分前に彼女を捕まえようとした追手の二人目だ。向こうはこちらに気付いていないらしく、二人は慌てて道を引き返す。そして今度は別の路地に入って、四人目と思われる先程の黒スーツをやり過ごした。

 経路を慎重かつ迅速に選び取りながら、凛瀬が蓮の手を曳いて走る。重い荷物も相俟って疲れているだろうに、彼はその手を決して離さなかった。熱くなった肌から伝わるのは、強い執着心と蓮への病的な想い。この半年強で味わった凛瀬と、全く同じモノだった。

 自分の吐息に重なって、凛瀬の動悸が耳に届く。体力もそう長くは持たないだろう。港まではまだ距離がある。全力疾走をするだけでも大変だというのに、こうも追手の数が多いと埒が明かなかった。

「はぁ、はぁ――」

 建物の影に身を潜めて、蓮と凛瀬が一旦足を止める。タンクトップで細身をした、三人目の追手から目を盗むためだ。そのタンクトップが海の方角へ走っていくのを確認してから、凛瀬から蓮に対し一つの提案を出してくる。

「蓮……まだ、走れそう?」

「私は凛瀬に曳かれるがままでしたから、何とか……でも、凛瀬は限界に近いんじゃ」

「だから、二手に分かれよう。蓮はこのまま全力疾走で港に向かう。僕はここに留まりつつ相手の目を引いて、キミが無事に旅立てるまで囮になる」

 それを耳にした瞬間、蓮は目を大きく見開いて絶望の表情を呈した。彼の口にしたことは、あまりにも非情な作戦だ。思わず凛瀬の頬を叩いてしまいたくなったが、そこは流石に我慢する。

「そんな……分かってるんですかっ?! 私だけが船で逃げたりしたら、メイド長達はその情報を掴んですぐに港を徹底的に監視して封鎖します! そしたら凛瀬、アナタはどうやってここを離れるんですかっ!」

 リスボンのアパートまで割れたのだから、相手の情報収集能力は相当なモノだと捉えるべきだ。だというのに二手に分かれてしまっては、片方が一度使った経路は相手の監視下に置かれてしまい、もう片方がその道を使えなくなってしまう。つまりこの場合、凛瀬が蓮の後を追ってハンブルクへと海路で渡ることが不可能になるということだ。このことに対して、しかし彼は一応の対策を練っていた。東を向きながら凛瀬が答える。

「僕は、陸路を使う」

「陸路……船を使わないで、ピレネーを足で越えるんですかっ?! そんなの、無茶です!」

「それもいいけど、リスボン‐ハンブルク間の航路さえ使わなければ海を渡ってもいい。マドリードからミラノに渡って、そこから内陸を目指すことだって出来るから。方法はいくらでもあるよ」

「でも、別行動だなんてっ!」

 蓮が大声を上げたところで、彼女の口元を凛瀬が右手で唐突に押さえ込んだ。追手に声を聞かれてしまっては、二人の現在地が露わになってしまう。加えて二人きりの時は日本語を喋るので、ラテンの国では酷く目立っていた。

「声を抑えて。気持ちは分かるし、僕だってこんなことはやりたくない。僕の父上――イヴォーク・エスプレイから逃げるには、避けられないことだから」

「でも……でもっ!」

 声量こそ小さめにしたものの、凄まじい剣幕で蓮が彼をまくし立てる。二手に分かれるのが最善の策だということは、頭では理解していた。けれども、感情がそれを阻んでいる。凛瀬と繋いでいるこの手を放したくない。エスプレイ家に追われているということも、その時だけは頭の片隅に追いやられていた。

「凛瀬……私は、アナタと別れるだなんて考えたくもありません。二人であの女を殺して、二人で共同生活を何ヶ月も続けて、二人で同じ秘密を共有して。私はただの恋人なんかじゃない、私は凛瀬の共犯者ですっ! もっと深い関係で、私とアナタは運命で繋がっていて……! だから逃げるのも、例え死ぬときだって、私は凛瀬と一緒に――」

「ダメだよ、蓮が奴らに捕まるのはそれでもダメだ。キミは僕の指示に従ったに過ぎない、レイス殺害の首謀者は僕だ。だから、裁かれるのは僕だけでいい。蓮には無事で居てもらいたい」

 下を向く凛瀬、しかし彼女にはそれが受け入れがたい。

「けど、人を刺したのは私の方ですっ! あの秋の夜に何度も何度も、あの女の背中をメッタ刺しにして……無我夢中で、私は人を殺しました! メイド長達が追っているのは、凛瀬じゃなくて私に決まってます! 私だけ先に逃げるだなんて、そんなのは共犯者としてやりたくないんです……っ!」

 湧き出る感情とリンクするように、蓮の瞳から露のような涙が零れ落ちる。こんな時にどうして、と彼女は自分でも疑問に感じた。人を殺しても涙一つ流さないどころか、ロマンチックな気分に陶酔していた最低な女。だというのに、好きなヒトと別れるだけで急に乙女らしく泣く。そんな自分を客観視して、蓮は自己嫌悪に陥った。

 ――私って、最低だ。

 咽びながら、彼女は自信を失っていく。凛瀬に愛されていいような、そんな女では決して無い。路頭に迷って、人を殺して、逃亡して。こんなにも汚点だらけの人生を送っているのに、どうして彼は蓮と一緒に居てくれて、今こうして自分よりも彼女を優先しようとしてくれるのか。その答えが、途端に分からなくなった。

 そんな彼女の黒い髪を、凛瀬が優しく左手で撫でる。上目遣いで彼を仰ぐと、その表情はとても柔らかかった。涙越しだからひどく歪んで見えたけれども、それでも彼の眼差しにゆったりとくるまれていくのははっきりと分かる。ちょうど、今日の陽射しのような。

「ゴメンね……蓮を、こんな僕に付き合わせちゃって。あの時にキミを人殺しなんかに誘わなければ、蓮はこんな思いもしなくて済んだ。僕が消えるだけで良かったのに、いたずらに蓮を巻き込んでしまった」

「わっ、私は……でも、従ったのは私なんです。凛瀬と一緒に、人を刺して――私、凛瀬とずっと一緒になりたかった。書斎でお茶を淹れて話すだけじゃ、全然満足できなかった。もっと凛瀬に近づきたくて、もっと凛瀬と繋がりたかった。だから、私は凛瀬の共犯者になったんです」

 嗚咽が混じって、蓮の語調も大人しくなってゆく。凛瀬に頭を撫でられるのは心地良かった。勢いも、迷いも、忘れてゆく。蓮の心は目の前の凛瀬だけで埋まってしまい、他のことは一切考えられなくなる。だから気が付けば、彼女は凛瀬へずっと抱いていた想いを吐露していた。

 そんな彼女の告白を落ち着いて聞いていた凛瀬は、一つだけ安堵したように微笑んだ。

「……蓮、こんな僕をそこまで想ってくれてありがと。僕は自分で人も刺せなくて、隣に女を連れて行かないとまともに逃げられないような臆病者だ。そんな最低な男なのに、世界でたった一人だけ、蓮は僕を愛してくれる。だから僕は、僕を好きでいてくれる人に生きていてほしい。例え離れ離れになっても、ずっと蓮に想われていたい。その気持ちが、僕にとっての支えになるから」

 彼のそんな独白は、蓮のことをも救ってくれる。蓮も凛瀬も、犯罪者である自分に自信が持てなかった。けれども互いがそれぞれを愛することで、不安の穴を埋めていく。相手に想われているということだけが、今の二人の生きる糧だった。

「その気持ちは、私も同じです。こんな自分が、凛瀬に愛されていいのかなって……でも、凛瀬の言葉ですごく楽になれました。こんな自分でも好きでいてくれる相手だからこそ、失くしてしまわないよう大切にしたい。だから凛瀬、私もアナタに生きていてほしいです。凛瀬が私のことを想ってくれることで、私は明日もきっと逃げ延びられますから」

「――蓮」

 撫でる手を止めずに、凛瀬が蓮の唇をゆっくりと塞いで口づけをした。いつ捕まるかも分からない状況で、二人は頑なに離れようとしない。それを最後にしたくはないのに、まるでそれが最後かのように、じっくりと互いを味わった。

 共犯関係は、あくまでも過程だ。二人とも、その先にある繋がりを深く求めていた。レイスなんて女の名前は、セロリのような添え物に過ぎない。今交わしている接吻のためだけに、彼女たちは重い罪を背負った。

 ゆっくりと惜しみながら唇を離し、蓮と凛瀬が見つめ合う。彼女の瞳に、もう涙は流れていない。これからの道を受け入れて、長いキスで二人を繋いだ。それこそ、物理的な距離が意味を為さないくらいに。

「三年後の、十一月一日。僕らが契りを交わした日に、日本の名古屋で落ち合おう。僕の母親の出身がそこだって、前に聞いたことがある」

「不思議ですね、私も名古屋で生まれたんですよ。七歳の頃まで、そこに住んでました」

 蓮が小さく笑う。彼との共通点がまた一つ見つかって、こんな状況でも少しだけ嬉しかった。

「ちゃんと……また、逢えますよね」

「別に一生の別れって訳じゃ無いからね。僕だって、捕まる気は無いから。僕はとりあえず東へ向かって、エヴォラでも目指すよ」

 最後に、凛瀬が一度抱き締めてくれる。それだけでも十分に心が軽くなって、蓮も落ち着いてその言葉を放つことができた。

「それじゃあ――凛瀬、お元気で。また逢いましょう」

「うん。蓮、また名古屋で逢おう」

 彼の笑顔を脳裏に焼き付け、彼女は背中を向けて港へと駆け出す。後悔の残る決断だったが、でも凛瀬と蓮の想いは繋がっている。淋しいなんてことは、この先もきっと無い。

 けれども坂を下っている途中、凛瀬の顔が見えなくなってから、蓮は再び泣き出してしまった。



 菩提樹の落ち葉を一枚、蓮は手に取った。

 十一月一日。凛瀬との約束の日まであと二年を残したその日、彼女はベルリンのウンテル=デン=リンデン通りに立っていた。黄金色の落ち葉を吹き上げる風は冷たく、彼女の黒い髪とクロークを撫でて過ぎ去ってゆく。ホットにしたマウントレーニアも冷めてしまいそうなので、カップをミトンの手袋で覆って温める。今年で二〇歳になった彼女に、北ドイツの秋は容赦なく寒さをもたらしていた。

 彼女は今、この地で日本へ渡るための準備をしている。偽造パスポートも別のモノを調達しなければならないし、旅費だって稼がねばならない。ベルリンには西アジアから多くの労働者が移住しているため、彼女のような東洋人が溶け込んで働くにはもってこいの都市だった。

 背中の方から、そよ風が吹き付ける。冷たかったのに、反射的に蓮は振り返ってしまう。撫でるような風が、彼の感触を少しだけ思い出させてくれたから。

 ――凛瀬は今、どうしているだろう。

 ふと、そんなことを考える。もう何ヶ月も顔を見ていないし、それどころか文通だって不可能。だというのに、彼女は未だに彼のことを愛していた。例え、どんなに離れていても。

 凛瀬はあの時、蓮の想いが心の支えになると口にした。それは彼女も同じで、彼が自分を好きでいてくれると信じているから、ここまで逃げることが出来た。そうでなければ、今頃どこで野垂れ死んでいただろうか。

 隣に居ない凛瀬との関係は、傍から見れば仲が冷めきって別れたカップルだ。けれども実際はそうではなくて、二人の間には見えないけれどもとても温かい芯が通っている。相手への慕情は心の奥深くに流れていて、それが蓮と凛瀬とを赤い糸のように強く繋ぎとめている。

 二人の共有する、大切な気持ち。凛瀬がそれを忘れていないと信じているから、蓮もそれを忘れずに心の奥底で抱き続ける。

 ――どれだけアナタと離れていても、この想いは深く繋がっているから。

 二年後に名古屋へ行けば、きっと元気な凛瀬の姿が見られる。だから蓮は振り返ったその気持ちを大切に仕舞って、菩提樹の並木を前へと進み続けた。

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