最終話・霧崎麻述と桐島怜⑥
私を微睡から覚ましたのは、柔らかい風だった。
「……お、やっと起きたか」
目を開けると、うちわを持った霧崎君が、私の頭の隣に座り込んでいた。
「きゃ、きゃわっ!」
慌てて、飛び退いた。
半分ほど寝ぼけていたせいもあり、私は、海に遊びに来ていたことなど、すっかり忘れていて、目の前の霧崎君の上裸が、ただただ、卑猥なものとして映ってしまったのである。
「ちょっと当たりきつくないか? ずっと煽いでやってたのに、俺」
ビニールシートの外に尻餅をついた際、砂浜の熱っぽさが随分失われていることに気づき、後ろを振り向いた。
赤い夕陽が、丁度水平線に口づけていた。
濃いオレンジ色が広がっていて、それは、夜の闇が、陽の光の中に徐々に染みだすことによってつくられているように思える。白と黒が混じれば、灰色になるとは限らない。夕焼けは、まるでなぞなぞだった。
この海岸に着いた時、まだ日は高かった。つまり、とんでもない時間、私は眠りこけていたことになる。
悪いことをしたな、という気持ちがこみ上げてきた。
「熱中症とか、脱水とかもあるから、起こした方がいいかと思ったんだが……ずいぶん気持ちよさそうに寝てたし、大丈夫だったよな」
彼は、勝手に眠りこけた私を、ずっと気遣ってくれていたのだ。泳ぐ時間がほとんど残っていないのはいいのは自業自得であきらめもつくが、それに彼を付きあわせたことに対しては、さすがに申し訳なく思う。
はにかむ彼の顔に、眠っている女性に対する、年相応の邪念の残滓も無かったことも、その気持ちを加速させていた。それが、私に魅力がないだけであったとしてもだ。
こういう時素直に謝れないのは、私の悪い癖だった。
「……つまらなかったでしょう」
相手に自分を責める権利を与えることで、謝罪の代償にする。霧崎君は、私の子どもっぽさに、気付かなかったのか、それとも見て見ぬふりをしたのか。
「飽きなかったよ」
霧崎君は、意地悪に笑うだけで、終わらせてくれたのだった。
貸し借りがゼロになった余韻に浸りながら、二人で、黙ってしばらく夕日を見詰めた後、彼が、呟いた。
「……不思議な人だな」
「私ですか?」
ああ、と、彼が頷く。
「だってそもそも、こんなところに来るためだけに、何でもお願いを聞いてくれ、なんて条件受け入れるか? 今だって、油断しまくって、眠りこけてるし」
「なっ……君の自制心を信用した私がやはりバカでしたっ。え、えっちなことは、もっと大人になってからです! せめて運転免許を取れるようになってから、出直してきてください! ぷいっ!」
「不思議な人だよ、先生」
再び、彼はその言葉を繰り返した。どこか途方に暮れているようだった。何度引き返して、道を選び直しても、行き止まりにしかたどり着けない、迷路の中にいるみたいに。
「先生がさ、あの時、来年はって言った時……なんだかすごく、ほっとしたんだよな」
「来、年?」
何のことだろう、と一瞬思ったが、心当たりにたどり着くのに、時間はかからなかった。彼は恐らく、林間学校の時のことを言っているのだ。『来年は……私も泳いでみましょうかね』。私は、雨が降る前の浜辺で、彼にそう言った。
「これまで先生、そういうこと、あまり言わなかっただろ? 不安だったんだ。根無し草の人って、ずっと一緒にいればいるほど、離れてく気がするから。だから、その……う、嬉しかったんだっ。来年も、百合屋先生、居てくれるんだって」
根無し草の知り合いが、昔も居たんだろうか。だが私には、他ならぬ彼自身も、根無し草に思えた。ハーレムを望みつつも、内心誰にもなびかず、依存する先を求めない彼の在り方が、そう思わせた。
熱い風がゆっくりと、私と彼の間を過ぎ去った。寄せては返す波の動きも、昼間より鈍重に感じられる。
「なぁ、どうして、平気でいられるんだ?」
「なんのことです」
「月給百万だぜ?」
「はい」
「俺といたら、そのうち殺されるかもしれないって、言ってるんだけど」
私達は何も考えずに、ただただ見詰め合った。目を逸らせない。聞くべき時がある。聞かなければならない時がある。私が彼に、彼が殺人鬼である理由を尋ねた時のように。
「……私も、君と同じだからですよ」
「先生も、殺人鬼なのか?」
自分と同じ境遇というものが、この世に無いことを、彼は受け入れていた。彼自身が、自分を孤独だと感じていないのは、彼が大勢の人間に囲まれているからだろうか、それとも、気付いていないだけなのか。
「着替えてきます。……そして、あの崖の上に、行ってみましょうか」
「え? ここまで来て、海入らないの?」
「もともと泳ぎは、そこまで得意じゃないので」
水着から、私服に着替えた私たちは、桐島怜のいた崖に向かって、林の中を歩いていた。
「それにしても、先生にばれるなんてな」
「そんなに、私に知られるの、嫌だったんですか?」
「校長先生に、口止めするくらいには」
霧崎君は、自然に、私の一歩先を歩く。別に彼が、枝を払いのけてくれるとか、そういうことをしてくれているわけでは無いのだが、一人で歩くより、随分歩きやすい気がした。
「嫌って言うかさ……校長って、俺の保護者みたいなもんだから、そう言う部分さらけ出すのもそれなりに平気なんだけど……百合屋先生は、その、なんだろうなぁ……」
そこに続く言葉に、私は少なくない興味を持ったが、彼は溜めるだけ溜めて、結局尻すぼみにしてしまった。お友達教師と言い切られるよりはマシだったけれども。
「……俺の中で、一番情けない思い出だったんだよな、桐島怜のことは。なんで情けないって思うのかは、よくわからねーけど」
霧崎君は、桐島怜のことを、フルネームで呼ぶ。フルネームというのは、人の口から出てくると、ラベルの名前が読み上げられているみたいに、記号的になる。女好きの霧崎君が、あえて彼女をフルネームで呼ぶことに違和感があったのだが、彼のそれは、どうやら後ろめたさ故だったようだ。
「ま、それと同時に、思い出深い殺人でもあるんだけどな。あれが、最後だったわけだし。あの後、校長が連れてきたやつは、殺す必要がなくなったから、リリースしたわけだから」
人を稚魚みたいに言う彼には、ほとほと脱帽である。
「最後って、何がですか?」
「俺が、ラブコメに手を出す前の、最後の殺人」
「……」
「……百合屋先生?」
歩みを止めた私を、訝しがり、彼が振り返る。私は、ただ足元の小石に気を取られただけの振りをして、再び歩きはじめた。
そうだ、二年前、と言えば、霧崎麻述がラブコメに出会った年でもあるのだった。それと同時に、私が作家デビューした年でもある。私のデビュー作が書店にならんだのは、今から二年前、桐島怜が崖から飛び降りたのと、ほぼ同時期だった。何もかもが懐かしい。私の作家デビューは、どこか空虚だった。何もかも編集から指示されて書いた一作だったというのもある。しかもそれに加え、新人賞組では無かったからか、新刊にも拘わらず、どこの本屋も平積みしてくれなかったのである。こんなことってあるのかと、私はいたくショックを受け、せめて一軒くらい無い物かと、一日中本屋めぐりをしていたのだった。だって、嬉しかったから。デビューしたあの日から、ずっと、私にとって、自分の小説が本屋に並ぶ以上の快楽はこの世に無かった。それは、筆を折った今でもそうだ。私の小説がこの世に出る、という事態を、私の他にも、お祭りとして楽しんでくれる誰かを、あの時も求めていた。
だから霧崎麻述が、私の処女作たるラブコメディを見出したのも、書店の本棚の端の方だったに違いない。
「桐島怜を殺した次の日に、俺はラブコメを読み始めたんだ。ほんの気まぐれだったんだけどな。はは、最初本屋で見かけた時は、ダサすぎる嫌がらせみたいな長文タイトルに釣られて、明日、友達との笑い話の種にでもなればいいって思ってたんだけど」
「ぐふぅ」
「? ……でも、読んでてすごいと思った。一瞬で惚れ込んだよ」
「ふ、ふぁわわぁん……」
「その擬音は初めて聞くな。どうしたんだ」
「な、なんでもありませんっ!」
周囲の木が高いのを、私は恨んだ。もっと夕焼けが差し込んでいてくれれば、頬が染まっているかどうかなど、気にせずに済んだものを。
「ちなみに、ど、どんなところに」
「こんな優しくて、刺激的な世界があるんだ、って。いじめとも、社会問題とも無縁で、愛と笑いで、全部回る世界。そこでは全部の悲しみが、ハッピーエンドの前振りなんだ」
フィクションというのは、所詮つくられた世界だ。だがこの世だって、実はそうなのだ。この世界は、いつだって作り替えられ続けている。言うなればこの国だって、何億もの人間の手による合作である。日本を作った人間がいて、江戸を明治に変えた人間がいて、帝国主義から民主主義にシフトさせた人間がいる。否、そんな大げさな話より、私達にとって大事なのは、倫理も日々流動している、と言う話だ。
「俺の回りも、そんな風になればいいなって、思った」
彼は、そう思える自分を誇れるかのように、照れながらも言ってのけた。彼が殺人鬼である限り、どんな平和に対する願いも矛盾するというのに。
「……先生は知ったこっちゃないだろうけど……あのラブコメさ、桐島怜みたいなやつも、出て来てたんだよね」
知っている。クーデレなんて、ラブコメでは古典ジャンル。それが現実では、ただの根暗だとしても、霧崎麻述は私の書いたラブコメの中に、桐島怜が受け入れられる世界の可能性を見出していた。
彼は、後悔していた。
私達は、よく似た生き物だった。
私達の中には、人の死に無関心な自分と、誰かを大事にしたい気持ちが、混ざり合うことなく、同居している。
なぜ霧崎君が、桐島怜に直接手を下さなかったにも拘わらず、彼の発作が止み、桐島怜の死体が見つからなかったのか、分かる気がした。
きっと、自覚なのだ。彼が、『自分が殺した』と思うことが、彼の能力のトリガーになっているのだ。
霧崎麻述は、以前、『殺したい相手と殺したくない相手がいて、自分にも人並みの情がある』と語っていた。彼は恐らく、出会ったばかりにも拘わらず、桐島怜を殺したくないと、思ってしまった。もしあの時、桐島怜に出会っていたのが、今の自分だったらと、彼は後悔している。後悔しながらも、勿論彼は、同時に理解もしている。あの時、彼は殺人衝動に突き動かされていた。例え今の自分が、あの時と同じように、桐島怜に出会っていたとしても、彼女を救うことは出来なかっただろう。だが、どうしようもない、変えようもなかったことに対しても、「こういう風に望んでいれば」と思ってしまうのは、後悔の最たる物のような気もする。
桐島怜を救えなかったという後悔が、桐島怜を殺したのは自分だという罪悪感に、形を変えたのだ。これまでとは全く違った、殺した、という自覚。
私も最近、同じ様な後悔を経験していた。
もし、『彼女』と出会っていたのが、昔の私だったら。自著を探して、書店から書店へと駆けていたころの私だったら。崖の上で最後に『彼女』に、別の言葉を投げかけていたはずだった。
『私の本を、読んでください』
きっと私は、そう言ってのけることが出来たのに。
霧崎麻述という殺人鬼、ひいては彼のもたらす被害を見逃しながら、平穏に教師なんてものになれると信じていたにもかかわらず、『彼女』に何もしてやれなかった自分を、私は悔やんでいた。
命の価値は、私と霧崎君の中で、捻じれていた。
だが、私達が極端なだけで、誰だって本当は、他人の命を自分の中でランク分けして生きているのではないか。何の死が重く、何の死が軽いのか。なぜ私たちの中に、それを勝手に判断してしまえる機能なんてものが備わっているのか。人間は、自分より下の価値が無いと、生きていけないのだろうか。犠牲を、最下層民を求める、人間のコミュニティというシステムに、メスは入れられるのか。通じ合うべきものと、通じ合うべきではないものは、どうやって決まるのか。心はどこまで開けばいい? 全てさらけ出して、相手も全てさらけ出していたとしても、決して交われない箇所が明らかになるだけだとすれば。結局、人は、自分が存在しているという事実にしか、感情移入できないというのだろうか。だとしたら、共感には一体何の意味がある? 小説に感じる共感は、どこまで行っても自己完結を促すだけで、何一つ現実的な問題を解決することはないのだろうか。
もしそうだとすれば、エンターテインメントと文学は、ジャンルごとに貴賤まで決定づけられる必要がどこにある? 純文学は? 海外文学は? ミステリーは? 冒険小説は? サイコホラーは? ラブコメディは?
どれが清らかで、どれが汚いというのだろう。
私の最後の作品は、確かに血と猟奇に満ち、とても高尚なんかじゃなくて、醜かったかもしれない。だが私は、願っていた。あの作品に込めた怒りや、悲しみに、共感してくれる人間がいてくれることを。あの作品でしか癒されない孤独がこの世にあるんじゃないかと思いながら、書き上げたのだ。上辺だけの温かい言葉より、どんな形であれ、共感こそが人を救うのだと、私は信じていた。
決して、人を傷つけたかったわけでは、無かった。
「お、着いた着いた」
視界が開け、私達は崖の上に足を踏み出した。
「あれ、パラソルとか椅子とか、無くなってるな。台風来た時に飛ばされたのか……こんなところまで来て、掃除してくれる人がいるとも思えないし……まて、あれ、なんだ?」
夏の夕焼けは長く続く。赤く染め上げられた崖の上、その縁に、黒い影があった。一見すると、夕日の影で黒くなっているせいで、出っ張ったただの岩に見える。しかし、風が吹くたびに、輪郭が所々めくれ上がる様にはためくことから、それが決して、岩石では無いことは疑いようがなかった。
その物体に、近づいてみる。
「本……の、山か? これ。そう言えば前来た時も、こんなのあったような……」
今となっては、カビと土埃に覆われた、汚らしいゴミの山だった。インクはとけだし、背表紙の芯までふやけているにも関わらず、まだ、形を保とうとするそれらはまるで―――
「えいっ!」
私は、一蹴り、思い切って繰り出した。落魄した見た目からは想像つかない、強い感触が返ってきたが、それでも山の一角は崩れ、崖の下へと落ちて行った。
満面の笑みを浮かべて、私は言い放った。
「海はいいですね」
「今のアクションに対する説明は?!」
「道の終わりなのに、途方もなく続いています。しかも限りなく美しい。ありがちですが、エンディングシーンに使えば、それだけで綺麗にまとまった気分にもなります」
夕日に背を向け、崖を後にしようとする私の後を、霧崎君が、ばたばたとついてくる。
「でも、まだやることが残っているのです」
「な、何?」
「砂山を作って、遊んでから帰りましょう」
上機嫌なのか不機嫌なのか、はっきりしてくれ。後ろで霧崎君が、そんなことを呟いた。
強いて言うならどっちもだったが、彼に教えるつもりはない。肘から先が、たまらなく疼く。指先が、痺れるように熱い。これまで何度も繰り返したようで、それでいて、まるで初体験のような感覚。ジェンダーがシュレディンガーしている私だけれど、それでも分かった。
本気の恋っていうのは、きっと、こういう感じなのだ。
霧崎麻述と桐島怜・了
百合屋かおる子と霧崎麻述・了
殺人鬼とラブコメ 白乃友。 @shilatama
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