年端もゆかぬ娘は見た。

自らが慕うお師匠様が、鮮血を噴いて倒れる様を。

その眼前にいる、紅く濡れた刀を下げ、シャボン玉を吹き散らすなんとも気怠げな目をした侍の姿を。


……


その日、いつもはのほほんとして穏やかな様相であるはずのお師匠様は、珍しくどうにも険しい顔つきで諭すように娘に言ったのだ。

「今日は、悪いけれどこの押入れに隠れていてくれるかね。ちょっと、とある人が訪ねてきたのだが、その人はどうも危ない人らしい。本当は、近くの家に貴方を避難させたいところだが、それはどうも叶わない。だから、本当に申し訳ないが、ここに隠れていてほしいのだ」

お師匠様らしくはないその必死そうな口ぶりに、娘は頷くしかなかった。いつものお師匠様にはない、どこか飲まれるものを感じずにはいられなかった。

しかし、たとえお師匠様がどのようなことを言ったとしても、この娘はその言葉に従っていたでだろう。

親に捨てられ、捨て子として野垂れ死ぬしか未来の無かった娘を救い、寺に引き取り今の今まで育ててくれたこのお師匠様。そんなお師匠様を心の底から慕う娘にとって、お師匠様の言葉は絶対なのである。

故に、その娘は今の今まで、押入れに隠れて息を潜めていた。初めこそは、なんの騒動も見られぬもので、お師匠様の言いつけと雖も若干退屈に押入れの中で過ごしていた娘。早くお師匠様の言う危ない人というのが帰ってはくれないか、早くお師匠様にまた文字を教えてはもらえないか、などと思いつつ健気に待ち続けていた。

押入れの中は酷く暗く、時が経つにつれて次第に心細くなるものを感じずにはいられなかった。それもそのはずだ、まだ娘は十にも届かぬ歳である。それがどうして、このような押入れの雰囲気に耐えられるというのか。だが、それでも耐えてみせたのは、ひとえにお師匠様を慕うその心が故か。

しかして、そんな健気な娘の前に聳え立った現実は、その心を酷く憎々しげに踏みにじる。


「うぐぁっ?!」


娘のいる押入れにまで、劈いた悲鳴。その尋常ならざる声を聞いて、それまで健気にじっとしていた娘は、反射的にその押入れの戸を開けてしまっていた。それこそ、思考のしの字もないほど。

それもそのはずだろうか、その悲鳴は己が心の底から慕うお師匠様の声だったのだから。いつもなら、優しく教えを諭し、時には叱り、しかし最後は優しく導いてくれるお師匠様の声。その声が今、尋常ならざる悲鳴を上げている。

その事実に、娘がいてもたってもいられる筈がない。確かにお師匠様の言葉は絶対だ。あの戸を開けてはいけない、それは娘の絶対である筈だった。

だが、娘にとってはその言葉以上に絶対なのは、お師匠様自身。


「お師匠様?! 大丈夫でございますか!」


娘は駆けた。

いつもは走るなと言われた寺の廊下を無我夢中に駆け、本堂へと躍り出る。お師匠様の身に何かあったら、もしものことがあれば私自身の命でお師匠様を。それは、あまりに健気、あまりに純真だった。

だが、全ては遅かった。遅すぎた。事は既に終わりを迎えてしまっていた。


「……んが、この寺にゃ娘もいたんかぇ」


そして、全ては冒頭へと立ち戻る。


……


娘は、ただ呆然とするしか無かった。広がった血の海に沈む、お師匠様の身体を前に、呆然とするしか無かったのだ。

蹌踉めきながらも、紅く沈むお師匠様に触れる娘。その首はひどく垂れ、瞳からは先ほどまでの純真さが失われ、ただただ虚ろぐばかり。


夢だ、これは押入れの中で眠ってしまった私が見ている夢なのだ。そうじゃなければ、こんな突飛な話、あるわけがない。


あまりにも現実味がない現状に、娘はそう思わずにはいられなかった。或いは、そう思い込まなければ、自らの正気など紙細工のごとく崩れゆくことを分かっている故か。

今まで、その娘の世界にはお師匠様しか無かった。いつか捨て子となっていたその娘は、世界に目を向けなくなった。あの雄大に聳え立った山も、水面を煌めかせている川も、色めいた花々にうつろう蝶々どもも、皆々全てが娘をいらないと言っているような気がしてならなかったのだ。

この常世から捨てられた捨て子、いつしかそう娘は思うようになってしまっていた。

だが、お師匠様は言ったのだ。


「御仏は人を見捨てはしない。誰もが救われるように、この世を見ておられる。……けれど、例え御仏すら貴方を見捨てたとしても、今この場で私は見捨てない。決して、見捨てない」


そうして包んでくれたお師匠様の体は、ひどく優しくて、ぬくもりがあって、今まで堪えてきた涙がとめどなく溢れてしまったのを、娘はよく覚えている。いつしか忘れてしまっていたそのお天道様よりも優しいぬくもり、それを思い出させてくれたのは他でもないお師匠様。

その日から、娘の世界には、お師匠様しかいなくなった。例えこの世の誰もが、何もかもが自分をいらない捨て子と言おうと、お師匠様が見捨てないと言う限り、私は生きていけるのだ。

しかして、触れたお師匠様の体からは、かつて自分を救ってくれた温もりが失われつつあった。まるで、お師匠様の魂が天に連れていかれるような、そんな感覚。引き戻そうとしても、もはや触れることすら許されない。

その実感が、これは夢ではないと無言で、しかし非情な程に突きつける。


「おんしは、この寺の娘かぇ」


刀の血を拭いながら、言葉をかける気怠げな侍。のんびりとした口調は、今まさに人を斬ったとは思えないほどである。

「娘がいる、なんて話は聞いちょらんかったからなぁ……。いやはや、ちいと娘にゃ酷なところを見せたのお。いや、すまんすまん」

などと、慰めるかのようにその手を娘の頭に伸ばす。

だが、触れるか触れないか、その寸前でその手は娘によって弾かれる。血によく濡れた、小さな手だった。

「……ねえ、お侍さん……聞かせてください。……どうして、お師匠様は斬られなければいけなかったの……お師匠様は……何か悪いことでも……していた、の……」

俯いた表情からは、その色を察することはできない。だが、その声は酷く戦慄いてはいた。

しかして、侍は口を開かない。ただ、淡々と娘とお師匠様を見返すのみ。あえて言うならば、ついでにシャボン玉を吹かし散らしてるくらいだ。

沈黙は続く。既にお師匠様の体の温もりは失せ、酷く冷えてしまった屍に、いまだに娘は触れ続けている。

「答えては、くださらないんですか……」

娘のその言葉は、酷く静かなものだった。そんな言葉に対し、その侍はうむ、とだけ頷くのみ。

「どのような理由であれ、おんしが納得するとは思えんしの。それにめんどくさい。……まあ、一応手だけは合わせるが。墓はおんしが作ってくれるんじゃろう? そこは任せるがな」

侍は、お師匠様の屍に近づき、そっと傅くと静かに手を合わせる。静かに目を閉じ、吹かしていたシャボン玉もやめ、確かに鎮魂を願うかのような仕草。そこだけは、まるで慣れたように礼儀正しい。

しかして、その行為こそ、何よりの油断だったのかもしれない。


「もう、いいです」


刹那、その向けられた鋭い殺意に、侍は慌ててその遺体から……否、その娘から離れてみせる。しかして、その侍は先程の気怠げな雰囲気は失せており、ただただ驚愕の表情で娘を見やる。

「おんし……正気かぇ」

「……正気じゃ無いのは、あなただと、私は思います」

「いや、どうかの。……わりゃにゃ、おんしの気が狂ったとしか、思えんがな」

「じゃあ、そう解釈しても構いません……どうせ、私にはもう……何もありません、ので」

その娘の手に握られたのは、片手で持てるくらいの小刀であった。だが、ただ握られているのでは無い。その切っ先は、確かに侍の喉元を狙い向いている。

その小刀は、いざという時にお師匠様に持たされていたものであった。


「殺しはいけません。人を殺すということは、自らもその罪によって地獄へ引きずられますからね。だからと言って、戦うなとは私は言いません。自分の身を一人で守らなければいけない時、その時にこれを抜きなさい。……まあ、抜かなければただの御守りですよ。ですがそうですね……私がそばにいないときは、これが私の代わりだと、思いなさい。この御守りがある限り、私はあなたを守り続けますよ」


そんな言葉とともに、渡されていた小刀だった。だが、今の娘はその言葉に反して小刀を抜いた。

自分を守りなさい、娘にとってそんな行為は無にも等しいものだった。娘はお師匠様が全てである。そのお師匠様がいなくなった今、娘に自分を守るという意味など、ついぞ一つもない。

ただ、あるとすれば、それは無惨にもお師匠様を殺したこの男に、相応の報いを与えなければならないという、罰の意識。或いは、自らの全てを奪った侍に対する、復讐か。

ただ、その男に向かうのが怖いのは確か。その証拠に、その小刀を握る手も、侍に向かう足もわななき、今にも涙は溢れんばかり。

それでもなお向かってみせるのは、全てを奪った侍を殺さなければ、自らがどうにかなってしまいそうだからか。


「お師匠様の、仇だ……仇だ……か、た、き、だぁっ……!」


娘は駆ける。その小刀を、侍の心の臓に突き立てんとばかりに向ける。

全てを奪った相手に、己が手でその全てを奪う。幼い憎悪が、今まさに侍に迫り行く。


「おんし、立ち塞がるんなら後悔するなよ」


その言葉は、指先すら触れられぬ氷の如く、冷たい代物であった。


……


「……お前、やってくれたな」

苦々しげに呟く同僚、坂口金吾の言葉を前に、御坂正一はなおものんびりとしている。再び血に濡れた刀を拭うと、そこに転がっている二つの屍に手を合わせる。

一人は、老年期に入りかかったであろう寺の和尚。もう一人は……。

「まだ、歳は十かそこらの娘じゃないか……。どうして、この娘まで始末する必要があった」

和尚の傍、血の海に沈む娘を目にした金吾の顔は、酷くやりようの無いものがあった。

正一の容赦のない性格は知っている。立ち塞がるもの全てを斬る、そんな正一の性格はよくよく知っている。もう長いこと正一の隣で仕事をしていたのだ、骨身に染みるほどに知っていた。しかし、それでも年端のいかない子供を斬り捨てたその所業を喉元に飲み込めというのは、無理な話。

「……俺はな、正一……今ほどお前という男を、友として恥に思ったことはないぞ……」

「恥、かぇ」

「……ああ」

金吾のあまりに悲痛な言葉を向けられてもなお、正一は淡々と物言わぬ屍をその肩に背負う。相変わらず、殺した人間の墓くらいは作るらしい。それはそれで、死者に対する彼なりの礼儀、だとでも言えばいいのか。

だが、そんな正一の背中を眺めても、金吾にはいたいけな娘を殺したという事実を拭い難かった。

「……確かに、この和尚は不逞浪士を匿ってはいた。故に、この世の中の仇となる人間であることには変わりない。その和尚を斬るのはまだしも、どうして……どうして娘まで、斬る必要があった」

正一は、その金吾の問いには答えない。

一人無造作に寺の庭に穴を掘ったかと思えば、二つの屍を寄り添い合うように入れる。一見すれば、幸せそうに眠る家族にも見えなくはない。そんな屍どもに、ある程度の盛土を被せ終わると、手頃な石をその盛り土の上においてみせた。墓、とでもいうのか。それは立派とはいえない、むしろ雑な代物でしかなかった。

「また、墓か……」

「ほんとは、娘に作らせるつもりじゃったんじゃがな」

「お前の斬った娘、か?」

「ああ、そうがな」

寺の中の手頃の線香を探して、火をつける。煙立つ紫煙は目に染みるけれど、正一には涙など終ぞ見られない。不器用にそれを盛り土に差し入れると、それなりに墓としての体裁はなったように思える。


「娘は立ち塞がったんが。刃を向け、わりゃに立ち塞がった。じゃったら、わりゃも本気で斬り捨てるだけじゃけ……死にとおないからな」


その言葉に、懺悔の色などなかった。ただただ淡々と、まるで当然だと言わんばかりに正一は語ってみせる。

そんな正一の躊躇いのなさに、金吾は一種の恐怖が背中を這うのを感じずにはいられない。

人を斬り捨てるのに、一切の罪悪感など、正一は持ち合わせていない。むしろ、己が生きる為ならばどのようなものも斬り捨てる、それを至極当然としている。その姿に、人としてどこか大事なものを欠落しているかのような、そんな印象を抱かずにはいられない。

だが、その根底には、死にたくない、何が何でも生きねばならぬという意思がある。それはまた、金吾にも共通すること。金吾にも、何が何でも生きねばならぬ理由がある。そこだけは、金吾にも共感し得るものがあった。

それでも、やはり目の前のその男のように生きれるだろうか。正一のように戸惑いなく、己を殺さんとした年端のいかぬ娘を、斬ることなどできるのだろうか。

その問いに、金吾は沈黙せざるを得なかった。


線香の紫煙は天へと昇り逝く。まるで、それはかの和尚と娘への手向けとばかり。そんな墓の前で、正一はシャボンを吹き散らしながら一人手を合わせる。

金吾はただ、目の前にいる遠い背中を、眺め見ることしかできやしなかった。

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シャボン玉キチの正一 一齣 其日 @kizitufood

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