五話「スーリヤ」


 灼熱の太陽。陽炎が揺らめく大地に一人で立ち、掌を目の上にかざして光を遮る。

 神話世界に再び降り立ったミコトは、あらためてこの世界の熱量に打ちのめされていた。

 濃密な空気や大地と空の鮮やかな色彩や豪快なまでのだだっ広さ等など、全てのものに力がみなぎっているようだった。

「……暑い」

 ――ほらほら、ぼんやり突っ立っていないでさっさと調査しなさいよ。今回は前より接続時間が長いはずだから、じっくりと調査できるわよ。

 と、いうことは、この暑さの中で前にも増して長時間活動しないといけないわけだ。

 気楽に言ってくれるよなぁと思いつつ、ミコトはとりあえず周囲に視線をさまよわせる。

 目的の遺跡は後方にあった。幸い、前回よりも距離が近い。

 複雑な彫刻が大量に彫られているのが見てとれる。だが、先ほどまで居たコナーラクの太陽神殿とは形が違っていた。太陽神殿は基壇ブーミ部分に車輪の彫刻があり、その上に本殿が立っているような形なのだが、目の前にある建造物は神殿というよりは砦に近いイメージだ。

 岩山と岩山の間に巨大な壁がそそり立ち、壁面には車輪や神々の姿が彫刻され、その上には複雑な形状のでこぼこした塔がいくつも立っている。近くで見るとやはりでかい。

 耳鳴りがしそうなほどの静けさの中、時折思い出したように熱風が通り過ぎていく。

 あまりの巨大さに呆然と砦を見上げていたミコトだったが、とにかく近寄らない事には始まらないと思い、足場を確かめながら前へと踏み出した。

 熱風が砂を巻き上げ、視界が黄色く染まる。ミコトはカッターシャツの袖で口元を覆い、砂を吸い込まないようにした。汗に砂がまとわりついてじゃりじゃりする。

 いくらも歩かないうちに体力はみるみる奪われていく。砦は近づいているのだが、あと少しと思ってからが長い。比較対象が何もないために距離感が狂っているようだ。

「……喉、渇いた」

 ――まだ二十分も経ってないわよ。しょうがないなあ……じゃあ、何か飲むモンでもそっちに送ってあげるから、ちょっと待ってね。

「送る?」

 それからどれほど経った頃か、再びリンカの声が聞こえてきた。

 ――はい、お待たせ。ちゃんと受け取りなよ。

 何事かとミコトは足を止める。

 何の前触れも無く目の前にビン入りのペプシコーラが唐突に現れ、ごとんと落ちた。

 幸いな事に下にはくすんだ色の草が茂っており、衝撃を吸収してビンは割れずに済んだ。

 ――受け取れって言ったのに。

「そんな急に言われても無理です……これって、こっちの世界でも飲めるんですか?」

 ――そうよ! こっちの身の回りにある物は、あんたの意識という回廊を通してそっちの世界にも出現させる事ができるのね。手に持てる大きさの物に限られるけど。

「便利ですね。これ、ありがとうございます。どうせなら炭酸が入っていないほうが嬉しかったんですけど……」

 ――贅沢言うな! それ、わざわざ買ってきてあげたんだからね。ありがたく飲みなさいよ!

「は、はい! ありがとうございます」

 ミコトはペプシコーラのビンを拾い、ビンの水滴にくっついてきた砂を払った。てのひらにひんやりとした感触が伝わり心地よい。腕や頬に押し当て、冷たい感触を楽しむ。

 いざ飲もうとして、ある事に気付いた。

「栓抜き持ってないや……」

 ビンの口には金属のフタが付いている。指で触ってみた。ギザギザが痛かった。

 途方にくれる。

 ――歯で開けろ。あたしが子どもの頃なんか、いつも歯で開けてたよ。余裕だって!

「簡単に言ってくれますね……」

 しばしビンとにらめっこしていたミコトだが、喉の渇きに負けておそるおそる歯でビンのフタをくわえてみた。がっちりとした感触が返ってくる。思い切ってフタの端に歯を当て、力を入れてみる。ギリギリとフタが歪むが、同時に歯も折れそうだ。歯ごと抜けそうな恐怖と戦いながら悪戦苦闘すること三分。ようやく隙間が開きフタが外れる。

 同時に中身がプシュッと噴出した。

 見る間に泡がこぼれていくのを慌てて口ですくう。ほとんど泡になっていたが、渇いた喉には少しの潤いでも甘露のように染み込んでいく。

「うまい……」

 おそらく、生まれてから一番コーラをうまく感じた瞬間だった。こぼれて砂に吸い込まれてしまった染みを名残惜しそうに見つめながら、空になったビンから最後の一滴を舌に落とす。

 ――はい、飲んだら調査再開ね!

 水分補給をして人心地つき、未練たらしくビンを覗いていたミコトは、ビンに映った影を見てふっと振り返り、そして硬直した。

 いつからそこにいたのか。

 体毛は煮えたぎるような血の赤。黄色の目に細長い瞳。前足をやや前傾にして、今にも獲物に飛び掛らんばかりに身構えているこの動物は、虎――だろうか。

 動物園で見た事がある虎よりも遥かに大きく、獰猛な活力に満ち溢れている。目の前の新鮮なエサをどう料理してやろうか、と言わんばかりにミコトを凝視している。

「あ、あ、あの……なんかいるんですけど」

 ――……がんばれ。

「それだけ……ですか! 何か使えそうなもの送ってください!」

 ――えーと、何かないかなぁ、うーん、何もないなぁ、制汗スプレーとか効くと思う?

「僕に聞かないでくださいぃ!」

 おたおたとパニックになる獲物の様子を観察していた虎が、ゆらりと前に出た。ミコトの首筋が総毛立つ。この構え、見た事がある。猫が獲物に飛び掛る前の構えだ。後ろ足に力を溜め、頭を下げてまっすぐ獲物を睨む。まったく音を立てないしなやかで力強い挙動。

 ミコトはまったく動けず、蛇に睨まれたカエルのように固まっている。

 目を合わせてはいけないのか、それとも逸らしてはいけないのか、急に動くとやばいのか、弱気を見せるとやばいのか――混乱の果てに愛想笑いを浮かべてみるが、どうも通用しないようだった。

 虎がぐっと腰をかがめた。

 リンカは土壇場のネコ型ロボットのように何か無いか何か無いかと探しているようだったが当てになりそうにない。

 逃げるか――

 じりっ……

 ミコトの足が後ろに下がると同時に、虎が一息に飛び出して――


 ずだんっ!…………


 ミコトと虎の間に、長い棒が斜めに生えていた。

 柄の部分が衝撃に震えている。先端は完全に地面に埋まっているが、おそらく槍だろうか。

 虎は前足で急制動をかけ、踏み出すのを留まっていた。彼も驚いているようだ。

 槍の長さはミコトの身長ほどもあり、これだけ地面に深ぶかと刺さる威力からして、投擲したのは相当な力の持ち主だと思われるが……

 恐る恐る、槍が飛んできたと思われる方向に視線を向ける。

「君は……」

 太陽の光を反射してきらきらと燃え上がるかのようなプラチナブロンド、小柄な手足は健康的な小麦色。大きな岩の上に立ち、じっとミコトを見ているその少女は、前にこちらへ来たとき、遠目に確認した子に間違いない。歳はミコトと同じくらいに見えた。

 少女は岩の上から身軽に飛び降りた。虎に負けず劣らず野性的でしなやかな動きだ。槍を投げたのがこの小柄な少女なら、常人離れした力の持ち主と思われる。

 この子はインドの神様なのだろうか?

 無表情のまま、黙ってすたすたと歩いてくる。足首につけた小さな鈴がちりちりと鳴る。

 胸元にオレンジ色の布を巻き、腰を覆う布には獣の尻尾らしきものを巻いて垂らしている。歩くたびにその先端がぴこぴこ揺れて、本物の尻尾のようだった。肩ほどまであるプラチナブロンドの髪は頭の後ろで無造作に束ね、こちらも尻尾のように揺れている。

 近くまで来た少女は、初めて虎に目をむけた。虎は借りてきた猫のようにおとなしくなり、大きな体を縮こまらせて顔を伏せている。心なしか目元もしょんぼりしているようだ。

「サーデュラ、これは食べ物じゃないよ」

 初めて少女の声を聞いた。透き通ったよく通る声。縁側で揺れる風鈴のような、清涼感のある声だった。サーデュラというのは虎の名前だろうか。

 虎は申し訳無さそうに頭を垂れたまま、ゆっくりと向きを変えて歩み去っていった。

 その後姿を見送っていた少女がミコトに向き直る。

 角度によって深い青にも青紫にも見える不思議な色の虹彩。強い日差しの下では儚すぎるようにも思える色彩だったが、平然と陽光を反射してミコトをまっすぐ見つめていた。

 その無垢で邪気を感じさせない無防備な視線に、ミコトは心の中を見透かされそうな落ち着かない気持ちになった。

 しばしの沈黙の後、声をかけあぐねていたミコトに先んじて少女が口を開いた。

「おまえ、何?」

 なんと答えたものか。「えっと……」焦って視線を落とす。少女の胸元では、布地を押し上げるささやかな膨らみの上で色とりどりの飾り紐が呼吸に合わせてかすかに上下していた。

「衿家ミコト……人間、です」

 なんとも間抜けな答えだが、相手は神様かもしれないんだから仕方ない。

「ふうん」

 それに対する返答は拍子抜けするほどそっけないものだった。ミコトはもっと何か言わないといけない気がして、慌てて言葉を継ぎ足した。

「あ、ミコトでいいです。フルネームだと長いし……」

「ミコト……? 私は、スーリヤだよ」

 スーリヤ。どこかで聞いた事があるような……

 ――すごいわよ、スーリヤってのはあれよ、コナーラクの太陽神殿で祀られている、太陽の神様の事よ! スーリヤって一般には男神とされてるけど、地方によっては女の子の神様と信じられている所もあるのかな? 

 興奮気味のリンカの声が脳内で響き、ああそうか、そういえばそう聞いたな、と思い出した。

 と、いうことはやはり神様なのか。

 神様ってどう接すればいいんだろう……

「ミコトは何でここにいるの?」

 率直な質問だ。率直すぎて何と答えればいいのか迷う。

「えっ……と。探し物……かな」

「ふうん」

 またしても淡白なリアクション。ミコトは、いつの間にかもう少し会話を続けたいと思っている事に気付いた。

「あの……アカシャの眼っていう石がこの辺にあるかもしれないって聞いて。できれば見てみたいなーとか思ったり……」

 大事な宝なら、いきなり聞いて教えてくれるとも思えないが……

「アカシャの眼なら持ってるよ」

「やっぱりそうですよね……って、ええええ!」

 ――ええええ!

 ミコトが驚く声と脳内でリンカが驚く声が重なった。

 ――もっと話を聞いて! 隠し場所がわかれば、あとは現実の世界でその場所を探すだけだよ。案外あっさりと発見できるかもね!

 そうは言っても、大事な宝の場所をおいそれと教えてくれるとは思えない。なんと切り出すべきだろうか……

「見たい?」

「えっ……見せてくれるの?」

「いいよ」

 見せてくれるらしい。思いもよらぬほどあっさりと快諾され、逆に困惑してしまう。

「えっと、じゃあ、お願いします」

「うん」

 スーリヤはついてこいと言わんばかりにくるりと身を翻した。胸と腰を覆っただけの衣服は、腹や太ももなどの健康的な地肌が大きく露出しており、ミコトは目のやり場に困って思わず顔を逸らす。

「こっち。近道」

 スーリヤは岩がごつごつと突き出した斜面を身軽に駆け上っていく。後を追おうとしたミコトはその後ろ姿を見上げた。スーリヤがぴょんと跳ねた際に腰の布がひらりと翻り、太ももが大きく露わになる。

 ――ミコト、どうしたの? 固まっちゃって。

「リンカさん……大変です……」

 ――な、なによ?

「インドの神様……ぱんつ履いてないです!」

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