第24話 エンディング

「ねえ、夜月!」

「ん?」

「こっち来て。早く」

 部屋に入るなり、真っ先にテラスに出て、眼下に広がる景色を見下ろしながら、千冬が元気に夜月を呼んでいる。

 小高い丘の上に建てられた洋館風の小さなホテル。

 テラスのすぐ向こう側には、波打ち際に続いて、白い砂浜が見える。透明度の高い眩しいほどの海に、雲一つ無い青空。

 テラスに出ると、頬に当たる心地良い潮風が、海の向こうから磯の香りを運んできた。彼女はそれを鼻から胸いっぱいに吸い込んで、目を細める。そして、夜月の顔を見て、にんまりと笑う。

「ねっ、ここにして良かったでしょ」

「そうだな」

「でも、こんなにも眺めがいいなんて」

 千冬は、ほうっと吐息を漏らした。

 夜月は、白い柵に凭れ掛かっていた千冬を、後ろから抱きすくめた。彼女が首を後ろに曲げて、夜月の首筋に甘えたように鼻をすり付けた。

 二人は、あれからすぐに籍を入れて、ささやかながら教会で結婚式を挙げた。

 そして今日、町の寒い冬を逃れて、暖かい南国の島に新婚旅行に来ていた。

「早くあそこまで行こうよ。今すぐ行こ、夜月」

「ちょっと待てよ。いま着いたばっかりだぞ。ちょっとぐらい一服したって……」

 そう言って、夜月がベッドの端に腰を下ろそうとすると、千冬が彼の腕を引っ張った。

「駄目。今すぐ行くの」

「んー、ちゆが元気なのはいいんだけどなあ……」

 ぼやきながらも、夜月は荷物を部屋の隅に置いて、着てきた外套を二人分、備え付けのクローゼットのハンガーに掛けた。 

 千冬は、もう待ち切れないといった様子でいる。

「よし。行くか」

 腕を組みながら、二人は外へ出た。

 千冬の顔からは、始終笑みが絶えない。最近、彼女の表情は、今まで夜月が見たこともないぐらいに生き生きと輝いてきた。

 砂浜に出て、二人は裸足になり、まだ人もまばらなその波打ち際を、時折足を海水に濡らしながらゆっくりと歩いた。

「いい気持ち」

「ああ」

 千冬は、降り注ぐ陽の光を仰いだ。足元に寄せては返す波の飛沫を見つめながら、ふと彼女は、夜月が自分の為に泣き喚いてくれていた時の事を思い出した。

「夜月……」

「何?」

「夜月……あの時、泣いてたね」

「あっ、あれは、ちゆが泣かすようなことしたからだろ」

「ごめん……。でもね、夜月。あたし、あの時すっごく嬉しかったんだ。夜月が泣いてくれて。あたしは夜月が言ってたみたいに、誰からの気持ちも受け入れられずにいたから」

「仕方ないよ。ちゆみたいな子供時代を送ったら、誰だってそうなる。俺がちゆだったとしても、やっぱり同じ様に思ってただろうしな。だから、お前がそんな風に思う必要はないよ」

「うん……。ありがと、夜月。でも……、泣いてた時の夜月、すっごく恰好悪かったけど」

 そう言って、千冬は悪戯っぽく笑った。

 夜月は苦笑いしながら、すぐに千冬の首を絞めにかかった。

 ――千冬は喜びに満たされていた。

 生まれてこの方、こんなにも幸せな気持ちになったことは一度もなかった。

 それよりもまず、世の中にこんな幸せがあるのだという事を知らなかった。

 この世界には、こんなにも素晴らしい喜びがあった。

 二人はふざけてもつれ合った後、再び少し歩いた。

 何の前触れもなく、千冬が突然言った。

「ねえ、夜月。あたし、夜月の赤ちゃんが欲しい」

「ん……ああ、そうだな」

 そう言われて、夜月は泣き出しそうな程嬉しくなった。

「あたしね、赤ちゃんが産まれたら、その時は、その子を身体に傷一つ無い、きれいな子に育てるんだ。あたしみたいな汚い身体じゃなくてね」

 夜月の胸が少し痛んだ。

「ちゆの身体は、全然汚くなんかないよ。肌だって白くてつやつやしてるしさ。俺、ちゆの身体好きだよ。その身体は誰の身体でもない、ちゆの身体だ。ちょっとぐらい傷はあるかもしれないけど、それを気に病むことなんてないよ。それは、ちゆだけの身体なんだから。俺、その身体も全部含めて、ちゆのこと好きだよ」

「うん……」

 千冬が夜月の肩に頭を凭せかける。

「けど、そうだな……。子供は大事に育ててやろうな」

 彼女がこくりと頷く。

 寄せる度に足元を濡らしては、また返っていく海水が心地良い。

 ふいに、何かを思い出したのか、千冬は急に落ち込んだようになった。俯き加減で言う。

「……ごめんね、夜月。あたし、夜月のこと騙したりして。病院に行くって、嘘ついたし……」

 夜月が、千冬の言葉を遮る。

「もういいんだ、ちゆ……。何もかも全部、もういいんだ。ちゆが今、こうして横にいてくれるだけで、俺はもう満足だ。大切なのは、今のこの瞬間。今より前のことなんか、もうどうだっていい」

「夜月……。ありがと」

 千冬は安心したように、軽く息を吐いた。

 少し歩き疲れた二人は、波打ち際から離れ、砂浜に大の字に寝転がった。

 辺りに視界を遮るものは何もなく、目の前にはいつもの町とは色の違う真っ青な空が広がっている。

 千冬は思う。

 生まれてきて、本当に良かったと。

 ――あの時、夜月が泣き叫んでくれたことで、あたしは夜月の本当の心を見ることが出来た。

 もうずっと長い間、誰の想いも信じられずにいた。

 あたしは、自分の事が大嫌いだったから。

 ううん。今でもまだ相当嫌いだ。でも、夜月と一緒なら、少しずつ自分の事を好きになっていけそうな気がする。

 あたしは、夜月を信じる。

 その夜月が、あたしの事を好きだと言ってくれているのだ。だから、あたしもそれを信じる。夜月があたしを想ってくれているのと同じぐらいに、あたしも自分の事を好きになる。

 あの時、夜月が父親に向かって言ってくれた言葉の数々は、本当に嬉しかった。彼の言葉が、あたしの心を溶かしてくれた。

 でも、実を言うならあの時、夜月は一つだけ間違っていた。

 今のあたしにはそれが分かる。

 ――心の暗闇は、二度と逃れられないようなものではない。

 心に降り積もった暗闇は、きっと払拭出来るから。 

 大人に成長した後になってからでも、弱り切った魂を強く洗い直すことが出来る。

 誰かに、本当に必要としてもらうことで……。

 幼い頃に愛されなかった人間は、自分がこの世に必要でないと感じ、ひどい疎外感に襲われる。必要としてもらっていないのだから、当然親は自分の事を愛してくれていない。親が愛してくれていないのは、自分が必要とされていないからだ。そう思う。成長して、一旦暗闇を心に背負い込んでしまうと、魂が弱くなって、誰かの想いが受け入れにくくなってしまう。

 そうなると、少し前までのあたしみたいに、生きているのが堪らなく嫌になる。そして、この世から自分という存在を消し去ってしまいたくなる。

 でも、そう急ぐことはない。

 あたしはいつだって死ねる。

 その事を、赤い鞄に教えてもらった。いつでも死ぬことが出来るのだから、それを安心感として抱え持ち、これからを精一杯生きてみようと思う。

 その為には、本当は闇が少々邪魔になる。

 けれど、暗闇を打ち砕くのは、いつからだって間に合う。

 大切な誰かに本当に必要としてもらうことで、人はまた自分を取り戻す事が出来る。

 その、自分を必要としてくれる人は、実の両親でなくても一向に構わない。心からの愛情を与えてくれるのであれば、他の誰でもいい。その誰かの想いが、魂を洗い、強くし、命をこの世に繋ぎ止めておいてくれる。

 あたしが今、こうして生きていられるのは、夜月があたしの事を必要としてくれたからだ。

 だから、今度はあたしが夜月を必要とする者になろう。

 あたしが夜月を必要として、この世に繋ぎ止め、夜月を幸せにしてあげる。

 それは、なんて素敵なことなんだろう。

 あたしは、夜月をこの世に繋ぎ止めておく大きな楔になりたい。

 あたしが夜月の幸せになりたい。

 今はまだ、支えられてばかりで、あたしは全然頼りない。でも、あたしはきっとそうなる。なってみせる。夜月にあたしの魂を強くしてもらって、夜月はまた、そのあたしによって支えられる。そうやって、お互いがお互いを支え合ってゆく。

 彼があたしを支えたからといって、あたしに与えた愛情の分だけ夜月が疲れてしまって、元気が減ってしまうことにはならない。

 愛情は、二人の間で倍加し、どんどんと膨れ上がる。

 想いが想いを産むのだ。

 ――人がある決意を固めた時、誰にそれが止められるだろう?

 けれど、人の気持ちは変えられる。

 夜月があたしを本気で愛してくれたみたいに……。

 遥か頭上には、深みのある空が広がり、そこには白い昼の月が浮かんでいる。

 それを見て、千冬は何気なく呟いた。

「届いたのかな……」

 夜空に浮かぶ月も綺麗だが、ああして、青空に浮かぶ白い月も同じぐらい美しいと思う。

 晴れ渡った碧空に浮かぶ純白の月。

 漆黒の闇に浮かぶ金色の月。

 昼も夜も、一日中、月はいつだってずっと、あたしの事を見守り続けてくれていた。

 夜月が不思議そうな顔をして訊いた。

「ん?」

「ううん、何でもない……」

 遠くに、近くに、眠気を誘うように繰り返される静かな波の音。

 太陽からは、溢れんばかりの輝かしい光りの束が降り注いでくる。潮風が頬を撫でてゆく。

 すぐ側には、愛する夜月が居る。

 千冬は、身体を捩って夜月に覆い被さり、唇を重ねた。 

 夜月は閉じていた目を開けてそれに応じ、上になった彼女を下からしっかりと抱きしめた。

 力強く抱いてもらって、その安心感に浸りながら、彼女はまた胸の中に幸せが満ちてくるのを感じた。

 瞳が少し潤んだ。

 彼も同じように目を潤ませてくれているのを見て、堪らなく嬉しい気持ちになった。

 背中に降り注ぐ太陽の熱と、夜月の柔らかな体温に包まれて、その心地良さに、千冬は気が遠くなる思いがした。

 もう一度、彼女は心の底から思った。

 ――この世に生まれてきて、本当に良かったと。


               (了)

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赤い鞄 夏衣優綺 @natsuiyuuki

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