第19話 幸せとは何か?

 千冬は、どうにか一命は取り留めた。

 夜月の発見があともう三分遅かったなら、間違いなく死んでいただろうというぐらいのぎりぎりのタイミングだった。

 病院の個室で千冬の側に座りながら、夜月は赤い鞄のことについて考え続けていた。

 掛け布団の中に手を入れて、千冬のか細い手を握る。

 丸二日間、千冬は昏睡状態が続いていた。彼女は、ベッドの上で眠り続けたまま、ずっと意識を取り戻さなかった。その寝顔を見ていると、夜月には、千冬の意識はもうこの世には戻ってこないのではないだろうかと思えて、やり切れない気持ちになった。

 ちゆ……。 

 やたらと淋しかった。

 千冬はこの自分を捨てて、遠くへ離れていこうとしたのだ。彼女は、笑顔で毎日を過ごしながらも、実際には彼の元から消え去ることだけを考え続けていた。

 それを思うと、胸がずきずきと痛んで堪らなくなった。辛い気持ちを少しでも慰めて欲しいと、千冬の手を強く握るが、彼女の手は握り返してきてはくれない。

 彼女がどうしてまた自殺を図るようになってしまったのか、昨日になってようやく夜月にもその理由がはっきりした。自分と千冬の分の着替えを家に取りに戻った時、ふと留守電が入っているのに気が付いて、その内容から、千冬が以前に彼女の父親と出くわしてしまっていたらしい事を知った。

 数カ月前に突然自殺を図ったあの日、おそらく千冬は、この世で最も忌むべき父親とこの町のどこかで遭ってしまっていたのだろう。再会した父親は、電話の様子からすると、昔と変わらず、執拗に千冬を暴力で支配するつもりでいるようだった。

 あの吐き気を催すような父親の猫撫で声を聞いて、夜月は初めて、彼女の父親の偏執的な人間性を肌で感じ、そうして、千冬がずっと味わい続けてきた恐怖を真に理解することが出来たような気がした。

 千冬でなくても、あんな気の狂った父親につけ狙われたなら、誰だって死んでしまいたくなるだろう。父親と出会った時点で「もうおしまいだ」、千冬はそう思ったに違いない。生きる勇気が湧いてきていた千冬を、再び死のどん底へ叩き落としたのは、彼女の父親が原因だった。

 それを知って、彼は何が何でも赤い鞄を手に入れなければならなくなった。

 夜月が、うとうとしかけていた時、千冬の手がぴくりと動いた。

「んん……」

 そのすぐ後に、毛布の中で寝返りを打ってから、千冬が意識を取り戻した。

「ちゆ! 大丈夫か、ちゆ?」

「夜、月……」 

「そうだ、俺だよ。分かるか?」

 千冬がこくりと頷く。

「待ってろ。今、先生を呼んでやるからな」

 夜月は、枕元のナースコールを押した。すぐに看護婦と担当の医師がやって来た。

 看護婦は要領良く千冬のバイタルを測って、その間に医者は千冬に、気分は良いかとか、吐き気は無いか等の、一通りの問診を終えた。

「多分、もう大丈夫でしょう。峠は越えましたよ」

 その医者の一言で、夜月は心の底からほっとした。

 彼らが引き上げていった後、夜月は千冬に話し掛けた。

「大丈夫か、ちゆ? 気分はどうだ? 何か食べたい物はあるか?」

 彼女はゆっくりと首を横に振った。

 天井をぼんやりと見上げながら、千冬が残念そうにこう言った。

「あたし、また助かっちゃったんだね……」

 夜月の胸の中には、言いようもない寂寥感が広がった。

 言葉が出てこない。

「夜月が、あたしのこと見付けてくれたの?」

「ああ……」

 千冬の穏やかな笑顔から、夜月は少し目を逸らした。

「どうして分かったの? あたしが病院に行ってないって。仕事、行かなかったの?」

 夜月は首を振った。

「何か急に胸騒ぎがしてな、全部放ったらかしにして家に帰ったんだ」

「そう……。あたし、また夜月に迷惑掛けちゃったんだね。ごめんね。あたし、あのまま死んじゃえれば良かったんだけど……」

「なあ、ちゆ……。ちゆは、本当に俺と別れてしまいたいのか? 死んでしまって、俺と離れてしまって、本当に平気なのか?」

 千冬は、とても緩慢にしゃべっていた。舌が上手く回らないようだった。

「……ううん。夜月の事は大好きだよ。世界中で一番好きだよ。でもね、あたしは、夜月になんにもしてあげられない。甘えるばっかりで、夜月を支えてあげることも出来ない。ほらっ、普通のカップルって、お互いを支え合って生きていくものでしょう? あたしは、夜月の重荷になってばっかり。あたしは夜月を幸せにしてあげられない……。夜月は気付いていないかもしれないけれど、ほんとはあたしなんか居ない方が、夜月は今よりもずっと幸せになれるんだよ……」

 夜月は俯いて顔をしかめた。

 彼女のその言葉は、彼にはひどくもの悲しいものだった。

 あれ以来ずっと、精神状態が回復しつつあるかのように見えて、千冬は笑顔を取り繕いながらも、本当は心の中ではそんな風に思っていたのだという事が、これではっきりした。彼女は本気で離れていこうとしていた。夜月はこんなにも彼女のことを必要としているというのに。

 顔を上げてから、夜月は言った。

「ちゆが、どうして自殺しようって気になったのか、俺にもやっと分かったよ。家で、留守電を聞いた。前に自殺しようとしたあの日、お前はどこかでお父さんに会ってたんだな。言ってくれたら、俺があいつを殺してやったのに」

 千冬は、また首を横に振った。

「ううん。あたし、夜月にそんなことさせたくない。夜月に人殺しなんかになって欲しくないもの。あたしのことは、ほんとにもういいの。お父さんは、近い内にあたしの所へやって来て、そのせいで、夜月の生活も滅茶苦茶になる。それできっと、夜月はすごく苦しむことになると思う。あたしなんかのせいで、夜月にまた辛い思いをさせることになるんだよ。あたしは、そんなのはもう嫌なんだ。だったら、いっそのこと、あたしさえいなくなれば……」

「俺がいくら頼んでも、ちゆは俺と一緒に居てくれないのか?」

「あたしは……あたしは、夜月と一緒に居たいけれど、でも、夜月はそれじゃ幸せになれないよ。あたしと一緒に居る限り、夜月はいつまで経っても幸せにはなれない。好きな人に幸せになって欲しいって思うのは、当然のことでしょ? あたしは夜月に幸せになって欲しい。でも、それには、相手はあたしじゃ駄目だし、夜月はあたしと別れないといけない。けど、夜月が居なくなったら、あたしは生きてはいけないから、だから、ああやって……」 

 夜月は、軽く吐息を漏らしてから、こう切り出した。

「……ちゆ、幸せって何だと思う?」

「ん……? 何? 幸せ? 幸せか……。何だろう? あたしには良く分からない。安らかに死ぬ事かな……。今のあたしにはね」

 皮肉っぽく微笑む。

「もっと真面目に考えろよ。幸せって一体何なんだ?」

「そうね、愛する人とずーっと一緒に居ることかな……?」

「……なら、何故そうしてくれない? どうしてちゆが俺のことを幸せに出来ないだなんて、そんな事を勝手に決めつけるんだ? 俺は、ちゆが居ないと幸せになれない」

「夜月がそう思い込んでるだけだよ……。だって、あたしは本当に夜月の事を幸せに出来ないもの。あたしにはそれが分かる。それにね、夜月だって、こんなあたしなんかとずっと一緒に居たら、いつかきっと疲れちゃって、今あるあたしへの気持ちだってどっかへ飛んでいっちゃうよ。いつかあたしの事が重荷になって、きっとあたしの事が嫌いになる。あたしは、夜月にだけは嫌われたくないの」

「それは、俺がちゆの事をちゃんと愛してやれないってことか? 将来的に、俺がちゆのことを好きじゃなくなるって。裏返して言うなら、ちゆは俺の気持ちが信じられないってことなのか? ちゆは俺の事が信じられないのか?」

「ううん。そうじゃないの。夜月の事は信じてるよ。でもね、あたしなんかよりも、もっと他に愛せる人がいる筈だって言ってるの」

「いないよ、そんな子。ちゆ以上に愛せるやつなんて、この先も出てきやしない。俺には、ちゆ以外に考えられない」

「今だからそう思うのよ……」

 いくら言葉を重ねても、夜月の言葉は千冬には届かなかった。

 彼女は、自分の全てを否定してしまっていた。それが故に、夜月の彼女に対する愛情も、千冬にとっては信じられないものになってしまっていた。自分なんかの事を、夜月が愛してくれる筈がないのだと。

 千冬が、自分自身に肯定的な感情を持てない以上、夜月の気持ちは永久に彼女に届きそうにはなかった。

 夜月にも、彼女が言っている言葉の意味が良く分かっていた。

 自殺ばかり繰り返す厄介者の自分なんかとはさっさと別れてしまって、もっと付き合い易い子を選べばいいのだと。しかしながら、夜月にとっては、本当に千冬よりもいい相手などいなかった。夜月は、千冬のそういった弱い所も全部まとめて好きだったからだ。

「ちゆ、この町に赤い鞄の言い伝えがあることはお前も良く知ってるだろ?」

「うん……」

「赤い鞄は、ただの言い伝えなんかじゃなかったんだ。実際に存在しているものだったんだ。俺はその証拠をこの目で見た。ここのとこ、ちゆには内緒でこっそりとあれを探し回っていて、やっと手に入れられそうなんだ。中に入っているものが、お前の気に入るかどうかは分からないけど、俺は赤い鞄を手に入れて、きっとお前を幸せにしてみせる。だから、それまで俺を信じて待っていてくれ」

 赤い鞄に絡んだ話しは、普通の人であれば一笑に付して終わりそうなところだったのだが、千冬は、夜月の言った事を、何の疑いもなくそのまま信じたようだった。

「そうなの……。赤い鞄、か……。赤い鞄の中には、何か入っている。ねえ、夜月。ほんとは中には何が入ってるの?」

「それは、今はまだ言えない。でも、俺達は赤い鞄で幸せになるんだよ、ちゆ」

 彼女は焦点の合わない目で、天井を見つめたまま、何も言わずに穏やかに笑っていた。その様子からすると、夜月の言った言葉の、幸せという部分を、彼女は信じていないようだった。

「もう少し眠るか? 側に居てやるから」

「うん……そうする。赤い鞄か……。中には幸せになれる何かが入っている……」

「そうだ。俺がそれを手に入れて、俺達はそれで幸せになるんだ」

「幸せ……?」

 千冬は不思議そうにそう言いながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。

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