第18話 助けて

もう一度、千冬の携帯を呼び出してみる。

 やはり、千冬の携帯は電源が切られているようだ。千冬が今、本当に病院に居るのなら、病院の中では一般的に携帯の使用を禁じられているから、携帯の電源は切ってあって当然だが、けれども、彼女は今本当に病院に居るのだろうか? 

 夜月は、何故だか良く分からないが、彼女が実は病院には行っていないような気がした。確かに千冬は、出がけに病院に行くとは言っていたが、今更ながら、その言葉は信用出来ないように思えた。

 今朝、彼女の表情に陰りはなかっただろうか?

 彼女は自分に嘘を吐いてはいなかったか? 

 最近、彼女が避妊するのを嫌がっていたのは、病院に行くという言い訳の伏線を張るためではなかったのか。携帯という、いわば夜月からの監視装置から逃れて、誰にも邪魔されずに自殺を決行するという状況を立ち上げる為の、それらしい彼女の手口だったのではないか。 

 千冬はどこかの時点で携帯の電源を切る必要があった。携帯の電源が切ってあっても不自然でない状況を作り出す必要があった。なぜなら、万が一、夜月が携帯に電話をしてきた場合に、彼女がそれに出ないとなると、彼が心配して家に戻ってきてしまう可能性があったからだ。

 ちゆ――!

 胸騒ぎがひどくなった。彼は、どうしても千冬の安否を確認せずにはいられなくなった。

 衝動に突き動かされて、夜月は狂ったような勢いで更衣室を飛び出した。更衣室を出てから誰かにぶつかったような気がしたが、そんなことはどうでも良かった。脇目もふらずに店内を駆け抜けて、仕事着のまま猛然と外へ飛び出した。駅前のターミナルでタクシーを捕まえて、早口で家の住所を告げた。

「済みませんが急いで下さい! 人の命がかかってるんです!」

 車が赤信号で停まる度に、夜月は苛々ともどかしい思いをした。

 この心配が杞憂に終わってくれるのであれば、その時はそれでいい。自分が古田にちょっと怒られれば、それで済むことだ。

 だが、もしも現実の事だったとしたら……。

 運転手はかなり車を飛ばしてくれてはいたものの、それでも夜月には普段のたっぷり倍は時間がかかっているように思えた。

 やっとタクシーが家に到着して、料金をお釣を断って支払い、彼は車を飛び出した。

 後ろで車のドアが締まる音がして、タクシーが発進しようとしているのを聞きつけてから、思い直して慌てて車を止めに戻った。

「済みません。しばらくここで待っていて下さい」

 夜月の必死の形相に、運転手はそれを了解してくれたようで、うんうんと首を縦に振って、手を払って早く急げという合図をしてくれた。

 踵を返して、夜月は家に向かって走った。

 ポケットから取り出した家の鍵を握り締めて、階段を駆け上がる。息を切らしながら玄関にたどり着き、鍵を鍵穴に差し込んだ。手が震えていて、なかなか鍵が奥まで入っていかない。苛々しながらも、夜月は強引に鍵穴に鍵をねじ込んだ。手首をひねって鍵を開け、ドアを開けて大声で叫ぶ。

「ちゆ! ちゆ! 居るのか? ちゆ! 何処だ!」

 頼む、ただの俺の勘違いであってくれ!

 玄関から見たところ、リビングの電気は点いておらず、彼女が家に居るかどうか良く分からなかった。ひょっとすると、本当に病院に行っているのかもしれなかった。

 リビングを覗いたが、そこにもキッチンにも千冬の姿はない。急いで寝室に向かう。この間、千冬は寝室で自殺を図った。

 ドアを開ける。

 居ない……。

「ちゆ!」

 最後に残った洗面所をチェックする時点になって、夜月はようやくそれに気が付いた。

 風呂場の電気が点いている!

 まさか……ちゆ!

 頼む! やめてくれ!

 足元が靴下で滑って、床をしっかりと捕まえてくれない感覚が、まるで、悪意がたっぷりと溶け込んだ濃度の濃い水の中を走っているようで、もどかしい悪夢を見ているようだった。

 転びそうになりながらも、夜月は風呂場に向かい、閉めてあった脱衣場へのドアを開けた。

 その中に千冬が居るであろうことは、もう間違いなかった。

「ちゆ!」

 呼んでも返事は返ってこない。

 動悸が早まり、寒気がして、身体中を震えが駆け抜ける。

浴室のドアノブに手を掛けて押した。

 ……! 

 鍵が掛かってる!

 夜月は絶望感で、泣き出しそうになった。

 喘ぐように呼吸しながら、ドアノブをガチャガチャと何度も回す。

 はあっ、はあっ、はあっ……。

「ちゆ! 開けろ! 開けてくれ! ちゆ……!」

 依然として、返事はない。

 中から返事がないのが、手遅れのイメージを突き付けてきて、一際怖ろしかった。

 夜月は思い切り、浴室のドアを足で蹴った。

 スチール製のドアは、二、三回蹴り込むと鍵が壊れて、すりガラスにひび割れをいかせながら、向こう側へ勢い良く開いた。

 彼の目に、最初に浴槽の赤色が飛び込んできた。

 千冬は、がっくりと首を後ろに反らせて、両手をお腹の上で組んだまま、気を失っていた。右手にはバタフライナイフが軽く握られ、左手の手首からは恐いぐらいに大きな傷口がぱっくりと顔を覗かせていた。そこからは今も血が流れ出し続けていた。

「何やってんだ!」

 夜月の顔が大きく歪む。

 ――嫌だ! あんな傷は嘘だ! 人間の手首には、あんな大きな傷口は無い! あんなのは嘘だ! 嫌だ、嘘だ、嫌だ!

 夜月は、千冬の頬を激しく何度も叩いた。

「ちゆ! おいっ、ちゆ、ちゆ!」

「ん……んん?」

 良かった!

 まだ息はある。

 しかし、今度ばかりは本当に拙いような気がした。手に触れる千冬のその身体は、異常なまでに熱を帯びていて、このままでは血が止まりそうにない。

 夜月は、千冬が本当に死んでしまうかもしれないという恐怖に駆られて、一瞬パニックを起こしそうになった。

 早く止血するんだ! 血を止めろ!

 頭の中で声がして、夜月はその恐怖を振り払うように必死に頭を振った。とりあえず、彼女を湯船から出す必要があった。身体の下に腕を差し入れる。

 大量の血を失っているのを目にしているせいなのか、千冬の身体は信じられないぐらいに軽い気がした。まるで、羽毛を持ち上げているよう。

「ちゆ! おい、ちゆ! 目を覚ませ! 目を覚ましてくれえ!」

 夜月は必死に呼びかけながらも、再び千冬の頬を思い切り何度も叩いた。

「……う、うん……」

 彼女は、何とか少しだけ意識を取り戻して、うっすらと目を開け、夜月の顔を見つけて微かに笑った。

 声にはならないが、千冬の唇が夜月の名前を型取って動く。

「しゃべらなくていい! 大丈夫か、ちゆ?」

 目は開いているが、夜月の問い掛けに、彼女の反応は無い。

 夜月はドアに吊ってあったバスタオルをむしり取って、彼女をそれでくるみ、バスタブに凭れかけさせた後、脱衣場から数枚のタオルと新しい石鹸を持ってきた。そして、手首の傷口を、タオルを一枚当てた上から、もう一枚のタオルで強く縛った。上腕の動脈部分には石鹸をあてがい、その上から腕と石鹸をタオルで一緒にきつく巻いて止血した。こんな時の為を思って、夜月は応急処置のやり方を前もって調べていたので、それらの作業は滞りなく俊敏に行うことが出来た。

 しかし、そうしている間にも、手首に巻いたタオルの下からは、どんどんと赤い血が滲み出してきていた。夜月には、それが怖ろしくて堪らなかった。

 何よりも、最も怖ろしかったのは、千冬が、今回ばかりは完全に本気で死のうとしていた事だった。

 血が途中で止まってしまわないように、きちんと熱いお湯に浸かって手首を切り、更には夜月を欺く為の携帯の予備工作までしておいて、そうして彼女は、本気で夜月の知らない世界へ行こうとしていた。夜月は、目の当たりにしたその事実に、吐き気を覚える程恐怖した。

 千冬は薄目を開けてぼんやりとしたまま、夜月にされるがままになっていた。意識が朦朧としているようだった。

「待ってろよ! 死ぬなよ、ちゆ!」 

 夜月は家を一旦飛び出して、表の通りに、まださっきのタクシーが停まってくれているかどうか確認した。タクシーはちゃんとそこで待ってくれていて、運転手が車に寄り掛かりながら心配そうにこちらのアパートを見上げているのが見えた。夜月は、家の中へとって返し、千冬を抱き抱えながらタクシーまで走った。

 運転手は、夜月が彼の姿を確認したことに気付いており、運転席に戻って後部座席のドアを開け、すぐに病院へ向かえる手はずを調えてくれていた。

 夜月がタクシーに乗るが早いか、車はすぐさま病院へ向かった。タクシーはタイヤを軋ませながら、もの凄いスピードで道路を飛ばし、夜月のアパートの目と鼻の先にある県立医大の救急用の入口に滑り込んだ。  

 夜月が千冬を車から降ろしている間に、運転手は通用口のドアを開けておいてくれた。

 夜月は、ありったけの大声で叫んだ。

「誰か! 先生! 助けてくれ! こいつの命を助けてやってくれえぇぇぇぇ――!」

 千冬を見つけてからの夜月の対処は、驚くほど正確で素早かった。店を飛び出してから病院に着くまでの間、夜月の一連の行動は、もうこれ以上無いというぐらいに機敏なものだった。 

 千冬が手術室に運ばれて行ってから、長椅子にぺたんと座り込んだ夜月は、今までの全てが、まるで悪い夢でも見ているかのようで、現実感がまるっきり飛んでいってしまっていた。

 早くこの夢が覚めればいいのに……と、繰り返し馬鹿みたいに、夜月はそればかり考えていた。

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