第15話 嫌な予感

町はいよいよ、冬の訪れを受け入れ始めていた。

 吹く風は町の住人の露出した肌を冷たく切り裂き、木々は木の葉を枯らして、町にさびれた外観を作り出した。ひび割れしそうなぐらいに冷たい空気の中を、人々は息を白い煙に変えて歩き、時折降る雪の冷たさに、その頬は赤く染まった。

 夜月は、なかなか最後のメモの人物の所へ行くことが出来ずに、焦燥感の中でじりじりとしながら時を過ごしていた。

 しかしながら、そうしている間にも、千冬の表面上の様子は、ほとんど以前の状態を取り戻したと言っても良い程に回復していた。ただ、相変わらず夜眠れていないようだったのが、夜月には少し引っかかっていたのだが。けれども、元々千冬には多少不眠症の気があったし、そのあたりはあまり気にしていても仕方がないと思った。

 彼女が強く望んだので、夜月は依子に世話になるのを止めにして、千冬の生活を以前の状態に戻してみることにした。

 これにより、千冬はパートが無い日は、家で一人切りになる機会が出来ることになった。

 そうして、千冬が元の生活に戻ってから、数日が経った。

 その間もずっと、夜月は千冬を見張る意味もあって、一日に何度も千冬の携帯電話を呼び出しては、彼女の身の安全を確認していた。

 その日、夜月が仕事を終えて、疲れて家に戻ると、千冬がいつものように夕飯を用意して待ってくれていた。二人で食卓を囲んで、ゆっくりと夕飯を食べている時に、千冬が言った。

「ねえ、夜月。あたし、もう大丈夫だよ。だから、もう心配して何回も携帯に電話してきてくれなくても平気だよ。あたしの心配ばっかりしてたら、夜月だって仕事に身が入らないでしょ?」

「仕事なんかどうだっていいよ。俺には、ちゆのことが一番大事なんだから」

「でも、あたしはもう本当に大丈夫。死のうだなんて、もう思ったりしないから。だから、安心して。あんなに何回も何回も電話してくれてたら、今度は夜月の方が疲れてまいっちゃうよ。それに、前はあんなにも電話してなかったでしょ? 前の状態に戻すためにも、控えててもらった方がいいと思うんだ。あたしだって、もう一人で居ても大丈夫にならなくっちゃね! いい加減大人なんだし、夜月に甘えてばっかりもいられないもん」

「でも……」 

「ほんとに、大丈夫」

 夜月は、あまり千冬の言うことに反対ばかりも出来なかった。彼女の言うことをある程度は受け入れてやらなければ、自分がどことなく千冬を信用していないというような気持ちが彼女に伝わってしまい、それは却って、彼女から生きる自信を奪ってしまう結果にもなりかねなかった。今は、彼女に生きていく自信を養ってやる必要があった。

「そっか。だったら、電話はあんまりしないようにするよ」

「うん。あたし、頑張ってみるから。明日からは、ケーキ作りに凝ってみようかと思ってるんだ。あたしはやる気でいっぱいだよ」

 夜月は、千冬のその言葉を信じることにした。それにまた、夜月の中にも、ひょっとしたら千冬は、もうそろそろ本当に大丈夫なのかもしれない、という淡い思いが芽生え始めてきていた頃だった。

 それから毎晩、夜月が家に帰ると、前日とは違ったケーキが焼いてあって、それは夜月に、千冬が本当に生きる気力を取り戻したと思わせた。

 しばらく経つと、ほとんど電話しなくても、夜月は安心出来るようになった。

 そんな中、ちょうど二人の休日が重なったので、千冬たっての希望で、少し遠出して、大型テーマパークに遊びに行くことになった。

 その日一日中、千冬の機嫌は良く、夜月はそんな彼女の元気な様子を見て、自殺する前の、以前の千冬に戻れたと確信した。

 そして、その翌日、夜月が朝食を食べていると、千冬がこう切り出してきた。

「ねえ、夜月。最近ちょっと、あれが遅れてるような気がするんだけど」

 そう言われてみれば、千冬の生理は少し遅れているような気がしないでもなかった。

「もしかして、あたし、出来ちゃったかもしれないから、朝からちょっと病院に見てもらいに行ってくるね。ねえ、もしも出来てたらどうする?」

 そう言って、千冬は嬉しそうに笑った。

 それを聞いて、夜月は手放しで喜んだ。

 ……そうだ。子供が出来れば、千冬も生き甲斐が持てるようになって、この先、死のうだなんて思わなくなるだろう。そういえば、ひと月ほど前ぐらいから、千冬は夜抱き合う時に、避妊具を着けてするのを嫌がっていた。ここ最近、「今日はそのままして」と、千冬にせがまれることが多くなっていて、せがまれたら夜月は断れなかったし、また、断る理由もそれ程無いように思えた。何かの拍子で、仮に子供が出来てしまったとしても、それはそれで悪くはないと思っていたからだ。

 とにかく、もしもそれが本当だったとしたら、それは喜ぶべきことだ。

「そうか。出来てたらいいな」

「うん」

 朝食を食べ終えた夜月は、今日は遅番だった為、誠一に貰った紅茶を千冬と一緒に飲みながら、しばらくゆっくりして朝の時間を過ごした。

 程なくしてから、夜月は仕事鞄を持って玄関口に向かった。

「行ってらっしゃい」

「行ってくる。ちゆも、気を付けて病院に行って来るんだぞ」

「分かった。ありがとう。行ってらっしゃい、夜月」

 夜月は千冬のそのニュースに気分を良くして、いつになく明るい気持ちで家を出た。いつもの通勤電車に乗り、ふた駅先で下りて、スーパーへ向かった。

 店に着くと、桃香が声を掛けてきた。

「おはようございます」

「おはよう!」

 桃香が小首を傾げる。

「何ですか? 今日はやけにご機嫌ですね? 何かいい事でもあったんですか?」

「まあね」

 夜月は昂揚した気分のまま、仕事を開始した。

 店の裏の倉庫で一時間ほど商品整理をした後、ちょうど卵が配送されてきたので、それを出しに、店の中へ出て行った。卵のパックを日付の古いものが上にくるように順に整理しながら、夜月は、すぐ側で女子高校生らしき女の子の携帯が鳴るのを聞いた。

 今のこの時間に、こんな所に居るこの子は、ひょっとして学校をさぼっているのだろうか? そんなことを思いながらも、夜月はその女の子が楽しそうに携帯電話で喋っているのをそれとなく聞いていた。詳しい内容は分からなかったが、彼女は、今から彼氏と会う約束をしたようだった。その様子に少しばかり触発されて、夜月は急に、今すぐに千冬の声が聞きたくなった。

 卵のパックの整理を急いで終えてから、バイトの子達に次の仕事の指示を与えておいて、自分は更衣室に入って千冬の携帯を呼び出した。 

 トゥルルルル……。

 しばらく鳴らしてみたのだが、千冬は出ない。

 やがて、呼び出し音が切り替わって、電波が届いていないか、電源が入っていないという、お決まりのアナウンスが流れた。

 夜月は一瞬不審な顔つきになったが、今朝の千冬との会話を思い出して、それはすぐに苦笑に変わった。

 そういえば、ちゆは今朝、病院に行くとか言ってたっけ? ちゆに子供か……。本当に出来ていたらいいのにな。それなら、ちゆも今よりも、もっと元気になるだろうしな。子育てが、ちゆにとって辛いものにならなければいいけど。でもまあ、俺もかなりの部分でちゆを手伝って支えてやることが出来るから、きっと大丈夫だとは思う。これからは、あいつと二人で温かい家庭を築いていくことが出来るだろう。どうして、もっと早くこうしなかったんだろう。そうだ。さっさと子供を作ってしまえば良かったんだ。俺は、赤い鞄なんかを探している場合じゃなかった。本当の所、赤い鞄なんて全然必要なかった。それよりも、早くちゆの為に子供を作ってやるべきだったんだ。一体何をやっていたんだ、俺は? それ以上の解決策なんて無かったのに。けど……待てよ。なんで今までそうしなかったんだろう? こんなにも簡単なことだったのに。なのに、今までどうして俺たちは子供を作らなかったんだろう。いや、確か……俺は、ちゆにはまだ子供は早いような気がしていたんじゃなかったのか? それに、ちゆ自身もそう思っていた筈だ。そうだ、そうだったな。……けど、何でまた、ちゆは急に子供が欲しくなったんだろう。ここ最近はずっと、ちゆは避妊具を付けてすることを嫌がっていた。それは、ちゆが前々から子供を欲しがっていたせいなんだと思っていたけど、でも、それは本当のところは一体どうなんだろう? ん……? ここ一ヶ月ぐらいの間、あいつは一度でも、子供が欲しいだなんて、その口で言っただろうか? 最近二人でそういったような話しをしていただろうか。俺は聞いてない。そうだ、そんな話しは一度もしてない。それに……待てよ。昨日のちゆは、どこかはしゃぎ過ぎているようなところはなかっただろうか。確かに遊園地での一日は俺も楽しかったが、ちゆはやけに必要以上にハイになってはいなかっただろうか? 昨日のちゆの行動に、どこかおかしな所はなかっただろうか?

 ……!

 夜月は、嫌な予感がした。

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