第13話 誠一

 今日は朝から冷え込みが激しく、ズボンの裾からは冷気が強引に押し入ってくる。夜月は中に着るシャツの枚数を一枚増やし、首にはマフラーを巻いて、千冬と一緒に家を出た。彼女は、今日は大学時代の友達の家に遊びに行くことになっていた。

「今日はだいぶ冷えるね」

「そうだな。風邪引かないように暖かくしてろよ」

「うん、大丈夫。夜月も仕事頑張ってね」

「ああ、ありがと」

 駅の手前で千冬とは別れた。

 千冬はこれからバスに乗って、その友達の家に向かう。

 彼女がバス停に行くのを見送ってから、夜月はそっと家の方に引き返し、スーパーには風邪で休むと電話を入れて、また赤い鞄探しに出掛けた。そうでもしないと、ここ最近の日程ではとても時間が取れそうになかった。

 夜月は車に乗り込み、またメモを頼りに次の行き先へ向かった。

 今までに、もう何人もの人間に会ってきている。今日こそは、何らかの情報を得て帰りたいところだった。もうこんな、子供の宝探しみたいなことはそろそろ止めにしたい。

 次の場所は今までで一番遠い所だった。車で二時間はかかりそうな場所。電車の方がいくらか早そうだったが、その後の機動性のことも考えて車にしておいた。

 一時間半ほども行くと、周囲の風景には建物が無くなり、いかにも町外れといった簡素な山道に入った。他に車が無かったので走り易かったが、所々に未舗装道路のあるぐねぐねとうねってばかりの山道は、運転するにはあまり楽しいものではなかった。

 ようやくメモの住所に到着する。人物の名は中谷誠一となっている。

 そこには、この辺りの風景には不釣り合いなような、一風変わった美術館があった。個人でやっているのだろうか、規模はそれほど大きなものではない。

その小じんまりとした美術館に入って、受け付けの所にあった呼び鈴を押すと、どこからか、どう見ても中学生ぐらいにしか見えないような幼い感じの少年が出てきた。この家の息子なのだろうか? しかし、夜月がそう思っていると、その少年が夜月に向かって手を差し伸べてきた。にこにこしながらも、その少年は、どうやら握手を求めてきているようだ。子供に握手を求められて、夜月は少し困惑したが、それでもその子の手を握り返した。

 少年は言った。

「ようこそいらっしゃいました。僕が誠一です。さっ、こちらへどうぞ」

 夜月は、いくらなんでも、これはあんまりだと思った。この時点で、完全に悪戯の匂いがしてきた。こんな子供が赤い鞄の秘密に何らかの関わりを持っている訳がない。夜月には、自分のやってきたことが、ここへきて全くの無駄に終わったような気がした。今まで出会ってきたみんなに遊ばれたのだと。

 少年はこう言った。

「まあ、そんな不満そうな顔をしないで下さいよ。僕は見た目はこんなですけど、以外とそうでもないんですから」

 少年に連れられるままに、美術館裏の一軒家に案内された。

 見た目には比較的小さな家だったが、中に入ってみると、室内は意外に広く感じられた。壁の一面が全面ガラス窓になっており、採光に気を配られたリビングは開放感があって部屋に居る者に心地良さを与えてくれる。

 夜月はその少年に対して、一つの疑問を抱いていた。

 この子の両親は、今どこに居るのだろうか。

 まさか、こんな田舎の一軒家で、この子が一人で暮らしている訳でもあるまい。両親は二人とも共働きで、家を留守にしているのだろうか。しかし、それでもこの子が学校に行っていないのがおかしい。今日は平日だから、学校は普通にある筈だ。ぴんぴんして歩き回っているのだから、風邪で休んでいる訳でもなさそうだ。

 何かがおかしい。

 その、誠一と名乗る少年は、夜月をソファーに座らせておいて、リビングと続きになっているキッチンで紅茶を入れ、クッキーと、それと何故だか、ペティーナイフとを乗せたお盆を持って戻ってきた。

「お待たせしました。さっ、どうぞ。このアップルティーは美味しいですよ。世界一だといってもいいぐらいにね。僕は紅茶が趣味なんです。クッキーも僕が焼いたものですよ。あなたがいつ来るのかと思って、毎日焼いておいたんです。さっ、食べてみて下さい。紅茶もクッキーもおかわりは沢山ありますから」

 夜月は、堪え切れずに訊いた。

「あの、君のご両親は?」

「居ませんよ。そんなものはとっくの昔にね……。僕はずっと、ここで一人暮らしです。まあ、もっとも、毎日こんな所にこもっている訳ではないんですが。普段はあちこちを転々として、日々の生活を楽しんでいますよ」

 夜月の不信感はますます募った。この少年の言うことが本当だとして、生活資金はどうしているのだろうか。学校は? 両親がいないって、いつからそんな状態で暮らしているのか? 

 誠一は、ゆっくりと紅茶を飲んでいた。

 幼さはあるものの、充分に男前だと言える顔立ち。髪はわざと無造作にしたままムースで固められている。声の質は少し高めで、声変わりの時期はまだ迎えていないようだ。体つきは、ほぼ中学生の標準といったところか。

 異様なのはその風貌よりも態度の方。中学生にしては、この子はやけに大人びた話し方をする。

 しかしながら、時折見せるその何の屈託もない笑顔には、どこか人を安心させるものがあり、その表情には彼の親しみ易い人柄が滲み出ているようだった。一見しただけでも、彼が好ましい人間であることが分かる。

 だが、どこもかしこも、やけに何かがおかしい。

 全体的なバランスが崩れているような感じがする。

 そうだ。バランスだ!

 夜月は、今まで出会ってきた人物達についても再び思い返してみた。彼らはみんな銘々に十人十色の人間達だったが、彼らから受ける印象には、ずっと何らかの共通点があるような気がしていた。どこがどうおかしいのか良く分からないでいたのだが、今になってそれがはっきりした。メモの人物は誰も彼もが、どこかしらバランスがおかしかった。普通の人とは人間的にどこかがずれているような。どこがどうだとは正確には指摘出来ないのだが、何かが微妙に変だったような気がする。今、目の前にいる少年から感じているのと同じように。

 夜月が次の質問をしようとした時に、先に誠一が口を開いた。

「まあ、色々とご質問もお有りでしょうが、そういった野暮なものはさて置いておきましょうか。あなたは赤い鞄の事でここを訪ねて来られたのでしょう? 早速ですが、本題に入らせて下さい。待ちくたびれて僕はもう、うずうずしていたところなんです」

 完全に相手のペースになっていた。彼に導かれるままに会話が進む。

「まずは、今まであなたが何度も繰り返してきたように、赤い鞄を探すに至ったあなたの身の上話ってやつを聞かせて下さい。ただまあ、ここまで来られたのですから、それなりに深刻な動機がお有りなのでしょうけれどね。普通はここまではなかなか辿り着けないものなんですよ。ここまで来れた人は、あなたで四年ぶりです。今更、動機の説明を求める必要性は全く無いのですが、でも、僕の為にも、もう一度だけお願いします。僕にも並々ならぬ関心がありますのでね。あなたの事情や人となりに関してね。あなたがそれを誰かに話すことになるのは、これでもう最後です。今までご苦労様でした。よく途中で諦めずにここまで来てくれましたね。今までかなり不安だったでしょう? でも、もう安心して下さって大丈夫ですよ。あなたはもう相当に赤い鞄の核心に迫っています。今日はね、あなたがずっと知りたがっていた、その赤い鞄の事についてお話ししましょう。さっ、その前にあなたの物語を聞かせて下さい」

 誠一が今何かとても重要な事を口にした。

 なにやら、ただならぬ雰囲気。段々と、部屋の空気が重みを増してきたような気がする。まるで、お化け屋敷に迷い込んで、そこに棲む幽霊かなにかと話しているような気分になる。

 夜月は勧められたソファーに座って、今まで何度となく繰り返してきた千冬と自分との経緯を、誠一に話して聞かせた。誠一の態度は今までで最も真剣なものであり、話しの途中に何度も質問を挟まれて、相当詳しい事柄まで根ほり葉ほり聞かれた。

 話している内に、目の前のこの少年がただ者ではないということが夜月にも分かってきた。しばらく経つと、夜月は誠一のその幼い見かけは全く気にならなくなり、それどころか、何歳も年上の頼れる人格者と話しているような気持ちになった。

 夜月が一通りを話し終えると、誠一はふーっと大きく息を吐いて、身体を後ろに倒してソファーに身を沈めた。

「なるほど、ここまで来れる訳だ……。人にはそれぞれ何か理由があるものです。何か、それなりの理由ってやつがね。誰もが理由を持っています。あなたが今まで出会ってきた人物達にも、何らかの理由があったし、もちろんこの私にもそれはあります。ですが、あなたの理由はそれらのものにも負けず劣らず、相当に深いものですね。いいでしょう……。今から、あなたに赤い鞄の秘密をお教えしましょう。ところであなた、赤い鞄には何が入っているのか知っていますか?」

「いいえ」

 夜月は首を振った。

「だったら、あなたは今の時点で、赤い鞄の中に入っているものは何だと思いますか?」

「うーん……」

 夜月は彼の質問に、首を傾げて少し唸った。

 誠一はしばらく、夜月のそんな様子を見ながら微笑していた。

「分かりませんか? でも、そうですよね。そんなことは、知っていなければ誰にも分からないことです。じゃあ、質問をちょっとだけ変えましょう。赤い鞄を手にした者は、必ず幸せになれると言われていますが、だとしたら、中に何が入っていれば、あなたは幸せになれると思いますか?」

 夜月は考え込んだ。今までも町をあちこち回りながら、ずっとそれを考え続けてきた。だが、これという答えは見つからなかった。千冬の自殺願望を抑制するものなど何も思い付かない。あえて挙げるとするならば、記憶を操作できる魔法ぐらいのものだ。しかし、記憶を操作できた所で、そんなことをして、千冬が千冬のままでいられるのかどうか良く分からなかった。千冬の過去の辛い記憶は、彼女の人格形成において重要な位置を占めている。そんな大事な部分の記憶をどうにかしてしまって、その後、彼女の内面がどうなってしまうのか、ちょっと見当がつかなかった。では、他に何か思い付くかと言われたら、全く何も思い付かなかった。

 それに、赤い鞄の中には、なにも千冬にとってのみに都合の良いものが入っているという道理も無かった。幸せになれるものとは、もっと万人にとって共通なものの筈である。

 幸せの基準は、人によって全くと言ってもいい程に違う。記憶を操作できる魔法云々は、万人には適合しない。ある者は金によって幸せを感じるかもしれないし、ある者は最高の生涯の伴侶を得ることで幸せだと感じるかもしれない。また、ある者は有名になることで幸せになるのかもしれないし、あるいは、自分の事ではなく他の大勢の人々を救うことで幸せになる者もいるかもしれない。それらの全ての人間の幸せを全部満たしてくれるような、誰もが満足できるような何かなど、夜月には到底思い付かなかった。

 中に何が入っていれば、人は幸せになることが出来るのだろうか。

 ――人の幸せとは、一体何なのか? 

 どういったことが、人間にとって一番幸せなことなのだろうか。

 生まれてくる子供か? 最愛の結婚相手か? 社会的地位か? 後生に名を残すほどの名声か? 複数を相手とした性的快楽か? 全てを支配する力か? 愛か? お金か? それとも――?

 一体、何が人を幸せにするのか?

 答えに困っている夜月に向かって、誠一は微笑みかけた。

「人はどうすれば幸せになることが出来るのか? これは、とても崇高なテーマであり、すぐに答えが出せるようなものではありません。おしなべて言うなら、幸せの定義は人によって全然違います。地位や名誉を望む者。財産を望む者。誰もが羨むような恋愛相手を望む者。他にも色々とあると思います。理屈だけで言うなら、これらが全部揃えば人は幸せになれるのだとも言えるのですが、案外そういう訳でもないのですよ。全部が揃って、それで完璧に満足がいくかというと、そうは問屋がおろしてくれないのです。その意味は、あなたにもいずれ分かる時がくるかもしれません」

 誠一は夜月にクッキーを勧め、自分も一枚口にした。

「さてと、では、いよいよ本題に入りましょうか。結論から先に、単刀直入に言います。赤い鞄は、この世に現実に存在しています。この町のどこかに赤い鞄があるのは、それはもう確かなことです」

 それを聞いて、夜月の体温は一気に上昇した。血がざわめき立ち、身体が熱くなってくる。掌に汗がじっとりと滲んでくる。

「そして、その赤い鞄の中には、正確には、実は人類の夢とでも言えるものが入っています。では、人類の夢とは一体何だと思いますか?」

 さっきから難題が続いていて、夜月は黙って考え込む時間が多くなっていたが、誠一は夜月のそんな様子を楽しんでいるようだった。

「人類の夢……ですか? 人類に共通した夢?」

「何でもいいですから、何か挙げてみて下さい」

「んーと、超能力ですか?」

 誠一が楽しそうに頷いている。

「いいですよ。それもその一つです。他には何か思い付きますか?」

 夜月は額に手を当てて考え込む。

 他には何だろう?

「宇宙旅行とか?」

「なるほど、それも面白いですね。それも一つに数えられるかもしれません。他には?」

「んー、後は、病気を完全に治してしまえる薬だとか」

 誠一はうんうんと頷いた。

「そうですね。病気がこの世から一掃されるなら、誰もが幸せになれると言えるかもしれませんね。言い伝えの内容とも矛盾しないですしね。うん。なかなか面白い。でも、それも少し違います」

 誠一は、手にしていた紅茶のカップをソーサーの上に戻した。

「そろそろ答えを言いましょうか。あんまりじらすのもなんですしね。どうもありがとうございました。私の遊びに付き合って下さって。でもね、これについて真剣に考えてみることは、赤い鞄を探す上でとても重要なことでもあるのですよ」

 いよいよ謎が解明されるとあって、夜月は身震いした。落ち着く為に紅茶を一口飲もうと思ったが、手が震えて上手くカップが持てない。

「武者震いがしますか? 私もそうでした。あれを手にした時はね……。じゃあ、お教えしましょうか。人類の夢とは、大別するなら次の三つです。まあ、他にも色々と考え方はあるとは思いますがね。一つは、あなたがおっしゃった超能力。もう一つは、時間航行。そして、もう一つ。それは――不老不死です。赤い鞄の中にはね、ダイヤでも、媚薬でも、そして、その他にも町で色々と噂されているようなものでもなく、これら三つの内の一つ、つまり、不老不死になれる薬が入っているのですよ」

 不老不死の薬……。

 それは、予想だにしていなかった答えだったが、夜月は、なるほどと思った。確かに不老不死とは、超能力などと同じで、誰もが生まれてから一度は夢に思い描くものだ。

 誠一はしばらく夜月に考える時間を与えてから、再び口を開いた。

「どうです、素晴らしいとは思いませんか? 赤い鞄の中には、永遠の命が入っているのですよ。赤い鞄を手に入れれば、中の薬があなたを永遠へと誘ってくれるのです。いつまでも生きて、未来に訪れるであろう人類の行く末を、その目で実際に見ることが出来るのですよ。誰もが見たくても決して見ることの出来ない人類の進化と発展を、その目で見ることが出来るのです。あなたも一度は、数百年後の世界を見てみたいとお思いになったことがおありでしょう?赤い鞄は、その願いを叶えてくれるのですよ」

 誠一は一息入れて、夜月の様子を窺った。そして、眉にかかった前髪を気にかけながら、さらに話しを進めた。

「それにまた、赤い鞄は死への恐怖からも解放してくれます。人間にとって、必ず訪れる不幸。それは言うまでもないことですが、死です。赤い鞄を手に入れることが出来れば、その人類最大の不幸から逃れることが出来るのです。万人にとっての不幸を回避できるということはつまり、誰にとっても幸せであるということです。また、生きていれば必ずいい事があると言うでしょう? あなたも千冬さんを慰める時に、彼女に何度もそう言ってきた筈です。そして、それは決して間違いではありません。それが真実であるということは、赤い鞄によって確約されるのです。たとえどんな人間の一生においても、何一ついい事がないというのはあり得ません。美味しいものが食べられたり、良い曲とめぐり会えたり、そういったほんの些細な幸せぐらいは、いくらなんでもある程度は転がっているものです。生きていれば、必ず何かいいことがあるのです。それはこの世の真理だと言ってもいいでしょう。そして、あの薬を飲めば、それはもっと現実的な意味合いを帯びてきます。生きていれば、この先、精神を医学的に操作する方法なんかも見つかるかもしれませんし、千冬さんはきっと、必ずや幸せになれることだと思います。当今のような調子で、飛躍的に文明が進んでいくことを考えれば、どういった事でもいずれは時間が解決してくれるように思います。人類が進化することによって、やがては時間航行も夢ではなくなるかもしれませんし、超能力の秘密も解明されるかもしれない。つまりは、極端に言えば、生き続けるということは、死という不幸を排除し、かつ、全ての幸せの条件を満たすことにもなるのですよ。どうです、素晴らしい事だと思いませんか?」

 夜月は、誠一の話しに圧倒されていた。

「彼女と永遠の生命を、そして、永遠の愛を手に入れてはみませんか? ただし、赤い鞄はそんなに簡単な場所にはありません。手に入れるには、少しの勇気が要ります。でも、あなたならきっとそれに打ち勝って、赤い鞄を手にすることが出来るでしょう。あなたの強い想いが彼女を救うのです。あなたの千冬さんへの想いは、赤い鞄を手にすることによって報われるのですよ」

 誠一の話しが一段落したのを見計らって、夜月はさっきからどうしても気になっていた事を誠一に訊いてみた。

「その、あなたは、かつて赤い鞄を手にした、といったような事を、さっきおっしゃっていましたよね?」

「ええ」

「だったら、もしかすると、あなたはその……あなたは、不老不死だって言うんですか?」

 夜月のその問い掛けに対して、誠一がゆっくりと頷いた。

 夜月の目が、驚愕に見開かれる。

 まさか! そんな! 

 嘘だ!

 しかし、だとするならば、目の前に居るこの少年について全ての辻褄が合った。

 見かけが幼い割に、やけに口調が丁寧で、大人のような話し方が出来るのも納得がいくし、その妙に落ち着いた物腰も説明がつく。どちらにしても、彼の堂に入った話しぶりは、演技などでどうにかなるようなものではなかった。その厚みのある立ち振る舞いには、紛れもなく長年かかって身に付いたといったような重厚な雰囲気が備わっている。

 目の前の人物の言うことを信じない訳ではない。彼は、嘘は言っていないだろう。しかし、相手がいくら嘘偽りのない真実を述べているのだとしても、目の前のこの少年が不老不死だとは、そんな事は容易に信じられるものではなかった。

「あなたが信じられないのも無理はありませんよ。誰だって、そんな突拍子もないようなことは簡単には信じられません。でも、これは真実なのです」

 夜月は唾を呑み込んで、そして言った。

「あなたが、不老不死であるという証拠は?」

「遥か遠い昔の、私が不老不死になるちょっと前の頃の写真なんかもあるにはあるのですが、そんなものは偽造だと言われたらそれまで。ちゃんとした確かな証拠にはなりにくいでしょう」

 誠一が、右手にあるマントルピースの上の写真立てを指差した。

「あれがそうなのですが、ちょっとあれだけでは信じられないでしょう?」 

 夜月は、確かにそうだと思った。今時、あんな写真などは何の証拠能力も持たない。

「写真の紙質の年代鑑定をすれば、あれが確かなものであることが納得して頂けるのでしょうが、それには時間がかかるし、それにね、そんなまどろっこしい事をする必要もありません。こうするんですよ」

 誠一は、先程お盆に乗せて持ってきてあったペティーナイフを手に取って、夜月の目の前で、自分のてのひらを軽く切り裂いて見せた。夜月はその突飛な行動に一瞬驚かされたが、次の瞬間、もっと驚くことになった。

 ナイフに切り裂かれた傷口は、信じられないようなスピードで閉じていって、わずか数秒後には完全に塞がれてしまった。今はナイフの切り口に沿って筋がほんの少し残っている程度で、まるで初めから何事も無かったかのよう。

「本当は、もっと劇的に、拳銃かなんかで頭を撃ち抜いたり、鉈で腕を一本切断してみたりしても良いのですが、どちらも普通の人と同じように痛みを伴ってしまうだけに、あまりやりたい方法ではありません。これにしたって、痛いことは痛いですからね。けれど、これでもう、あなたにも信じて頂けたでしょう?」

 夜月は、声が出せなかった。

「薬がどういう作用を及ぼして、私たちの身体を作り替えてしまうのか、それはまだ良く分かっていません。ですがまあ、一つには、体内の治癒能力がおそろしく高まるみたいです。身体のどの部分を切断してもすぐに引っ付きますし、特に脳細胞に関しては、壊してもあっという間に復元されてしまいます。恐いもの見たさとでもいいましょうか、私も一度だけそれを自分の頭で実験してみましたが、ピストルで撃ち抜いても全く大丈夫でした。ちょっとの間、気絶はしましたけれどもね。不老の方に関しても、それがどういう仕組みでそうなっているのかまだ明らかにはされていませんが、薬を飲んだ瞬間から、老化はぴたりと止まってしまっています。おそらくは、フリーラジカルによる身体の緩やかな酸化、それを抑制するメラトニンなどの抗酸化物質、または、細胞の自殺を意味するアポトーシス、などといった、色々と小難しい事柄と何らかの関係があってそうなっているのでしょうが、研究施設にでも行ってきちんと調べてみないことには、その辺りの詳しい事は分かりません。実験動物にされないという保証でもあれば、本当はそうしたいところなのですがね。しかし、不老不死だということがばれてしまったら、我々は後々生きづらくなってしまいます。私達はこの先もずっと、この世に適合して生きていかなくてはならないのでね。なるべく人目に触れず、それでいて世間と上手くやっていくというのは、これで案外難しいものなのですよ。私の場合は特に、この見てくれですからね。十年後にはもう同じ人と会うことは出来ません。その人は十年後に、何も変わっていない私を見て、きっとびっくりして奇妙に思ってしまうでしょうからね。悩みと言えば、それが悩みですかね。でもまあ、そんな事も、こんな田舎町であれば、そう厄介なことでもないのですが」

 夜月は黙って誠一の話しを聞いていた。

「もう充分に信じて頂けたかとは思いますが、あれだけでは何かの手品だと思われるやもしれません。もう一つだけ、不老不死であることの確かな証拠ってやつをお見せしましょう。さっきお話ししたような過激な方法は取れませんが、しかしまあ、それに似た程度のものならお見せすることが出来ますよ」

 彼はソファーから立ち上がって、近くの棚から注射器と出刃包丁を取ってきた。

「これからお見せするのは、ちょっと生々しいものではあるのですが、これを見て頂ければ、それで完全に信じてもらえると思います。私はもうこれには慣れっこになってしまいましたがね。それに、この方法なら私も苦痛が無いので安心です。夜月さんはホラー映画なんかは大丈夫な方ですか?」

「いえ、ちょっと恥ずかしいんですけど……」

「そうですか。それでしたら、今からお見せするものは、少しばかり応えるかもしれませんね。ちょっとだけ我慢していて下さいね。でもまあ、これをお見せするのが一番分かりいいのです」

 誠一は注射針のキャップを外し、左手の小指の先に注射を打ち始めた。

「麻酔です」

 これから誠一が何をするつもりでいるのか、容易に予想が付いたので、夜月はそれをあまり見たくはないと思ったが、黙って見ているより他になかった。それに、見ればそれで彼の言っている事が本当にはっきりする。

 誠一は注射を打ち終えて、しばらくの間、麻酔が効くのを待った。小指を動かして麻酔の効き具合を確認している。

「そろそろいいでしょう」

 そう言うと、誠一は小指に出刃包丁を当てて、何の躊躇いもなく力を込めた。

 夜月は、誠一の前置き無しのその唐突な行動に、その場から逃げ出したくなるような恐怖を覚えたが、必死にそれになんとか耐えて、彼の挙動を見守った。誠一がそれほど力を入れるまでもなく、彼の小指は鋭い出刃包丁によって、すぱっと簡単に切断された。包丁を持ち上げると、指の切断面からは血が吹き出してきた。とても見られた光景ではない。

 彼は余裕たっぷりに、切り放された自分の小指を右手で持ち上げ、夜月の目の前にかざして見せた。

「それでね、これを、こうすると……」

 彼はまるで、ちょっとした科学の実験でも楽しんでいるような様子だ。誠一は、手に持った小指の切れ端を、左手の小指の切断面に引っ付けた。早回しのビデオを見ているように、先程と同じように指はあっと言う間に繋がり、誠一はその小指をくいくいと動かして見せた。後にはテーブルに飛び散った血が残るばかり。

 夜月は驚きを隠しきれなかったが、これでもうはっきりした。

 ――彼は間違いなく、不老不死だ!

 信じられないという思いは依然として強くあったが、目の前で見せられたものを信じない訳にはいかなかった。

 赤い鞄は、現実に存在した。

 それは、ただの町の言い伝えなどではなかった。

 誠一は布巾で辺りの血を拭いながら言った。

「実を言うなら、あなたが今までに出会って来た者達にしてみても、殆どの者が不老不死なのです。彼らはみな、赤い鞄を手にして、そして永遠の生命を手に入れたのです。何故、あなたが彼らの所をわざわざ回って来なければならなかったのか? あなたが聡明であれば、いずれはその本当の理由が分かることでしょう。……さてと、今日私があなたにお話し出来るのは、残念ながらここまでです。あなたには、最後に後もう一人だけ会って頂かなくてはなりません。赤い鞄がある場所は、その人物が教えてくれることでしょう。さっ、もう一杯紅茶を飲みませんか? 今度はダージリンのいいのをお出ししますよ。せっかく来たんですから、ゆっくりしていって下さい。今日はもう、あなたが千冬さんの元に帰らなければならない時間まで、ずっとここにいて下さい。あなたには考える時間が必要ですからね。最後の人物の所へは、また日を改めて行った方がいいでしょう。それに、私としてもあなたを易々と帰したくはありません。赤い鞄だなんて馬鹿げた言い伝えを本気で信じて、それを真剣に探し求めるあなたみたいな方に出会えたのは、本当に久し振りのことですからね。あなたともっと話しをしていたい。後で、とびきりのランチをご馳走しますよ。まあ、とりあえずはもう一杯紅茶でも飲んで、私達の出会いを祝おうじゃありませんか。私は紅茶を入れてきますので、夜月さんはしばらくここでゆっくりしていて下さい。いきなり現実離れした話しを聞かされて、びっくりするようなものも見せられて、頭もちょっとばかり混乱しているでしょうしね。今日は、私自身のエピソードもいくつかお聞かせしますよ。不老不死ならではの、面白い話しがたくさんあるのでね。ふふふっ……」

 誠一に気を遣ってもらうまでもなく、夜月はもう既に、彼が不老不死の身体であるという事実を現実のものとして受け入れてしまっていた。赤い鞄がもうすぐ手に入るのだということにも興奮を覚えた。

 その後、夜月はまた紅茶を一杯ご馳走になり、それから裏手の山に連れて行かれて、誠一と一緒に散歩しながら、ランチの為のきのこ狩りを楽しんだ。彼の話しはどれもとても面白く、流石に長い年月を生きてきただけのことはあると思えた。

 山の散歩で一汗かいた後、誠一が作ってくれた遅いランチを食べて、食後にもう一杯紅茶を飲み、その後で彼の美術館を見て回った。

 短い時間ではあったが、誠一と一緒に過ごした一日は、とても充実したものだった。

 彼は帰り際に、いい香りのする紅茶の葉を沢山持たせてくれた。そして、メモを差し出して言った。

「さあ、あなたの探し物はもうすぐそこです。これが最後のメモです。あなたがここまで辿り着けたことを嬉しく思っていますよ。普通の人は、ここに来るのは到底無理なことなのです。あなたがここまで来られたということは、あなたの人間的な誠実さが彼ら全員に認められたということです。一人からでも不満の声が上がれば、あなたはここまで辿り着けませんでした。また、あなたがあのメモの循環ラインに乗れたのも、幸運だったとしか言いようがありません。いくら赤い鞄を探したくとも、彼らの内の誰かに出会わなければ、永久にその手掛かりは得られないのですからね。だから、相当な条件が揃わないことには、ここまでは辿り着けないのですよ。あなたは彼らに認めてもらえた。もちろん、私にもです。あなたには赤い鞄を手にする資格があります。検討を祈っていますよ。では、またお会いしましょう」

 誠一に見送られて、夜月は彼の家を出た。

 まだ興奮が冷めない。知られざる圧倒的な力を手にすることが出来るのかと思うと、身体がぞくぞくしてきて震えが止まらなかった。宝物を手に入れる前の子供のような気持ちで、夜月の胸は高鳴り続けていた。

 千冬の元へ向かいながら、車の中で、その赤い鞄の中身のことについて何度も良く考えてみた。千冬は果たして、この受け入れ難い事実を信じてくれるだろうか?

 ちゆ……。

 夜月には、良く考える必要があった。車に乗って、そうして考え込んでいる内に、夜月の熱は徐々に冷めていった。

 家に戻り、車を駐車場に停めてエンジンを切った。

 夜月は、最後には険しい顔をして車を下りた。

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