第8話 メモ

 夜月は、早朝七時頃に目を覚ました。

 目の前には千冬の顔がある。その愛らしい寝顔に、夜月の顔は一瞬ほころびかけたが、彼の表情はすぐに曇った。

 また、泣いてたのか……。

 千冬は最近、夜中によく泣いているようだった。ついこの間、夜月が朝起きて千冬の顔を良く見てみると、彼女の頬に涙の跡がうっすらと残っていたことがあって、それ以来注意してよく観察するようにしていたのだが、一旦気が付いてみると、毎朝のように彼女の顔にはその形跡が見られた。今も彼女の目の周りは、少し腫れぼったく、赤くなっている。

 千冬の目元を、舌先で少し舐めてみる。

 やはり、塩っ辛い。

二、三日前、それとなく千冬に、彼女の目が赤いことを訊ねてみたのだが、「ちょっとさっき欠伸をしただけだよ」と、軽くいなされてしまった。

 夜月は、心底千冬の事を心配しているのに、千冬の前では、さして彼女を心配ではない風を装わなくてはならないのが辛かった。千冬がそうして夜月に心配をかけまいとして、気持ちを隠そうとすればするほど、彼女がどんどんと自分から遠ざかって行ってしまうような気がした。彼女が黄泉の国か何処かへ行ってしまうような、手の届かない所へ自分を置いて行ってしまうような、そんな気がしてならなかった。

 ちゆ、俺から離れていかないでくれ。ちゆは俺に迷惑をかけていると、そう思い込んでしまっているが、ちゆと離れたくないのは実は俺の方なんだ。一緒に居て救われているのは、本当は俺の方なんだ……。

 けれども、そんな夜月の気持ちは、たとえ何度彼女に言い聞かせたとしても、全然届いてはいなかった。

 夜月は昨日、あの男の家を辞去した後、教えられた住所へ向かった。そのメモの場所には、男のアパートよりも、もっと綺麗な一戸建ての大きな家が建っていた。

 玄関の呼び鈴を鳴らすと、中から二十代前半ぐらいの若い人妻が出て来て、夜月に応対した。

「主人は出て行っていますから、どうぞお上がり下さい」

 招かれるままに、夜月は広い応接間のソファーに座り、そこでもまた、あの男に話したのと同様に、身上調査にも似た事情説明を求められた。男の所で懲りていたので、夜月はもう下手な言い訳はしなかった。きちんと赤い鞄を探すに至った動機を説明し、相手に誠意が伝わるように努めた。

彼女も夜月の話しに納得してくれたようで、男以上に同情してくれて、夜月にまた一枚のメモ書きを渡してくれた。

「この人の所へ行くといいわ」

 またか……。

 人妻からメモを渡されて、夜月は再びがっかりした。与えられる情報は、赤い鞄の在処などといった事からは程遠く、二回とも次の人物への指示だけだった。

 昨日は夜月の予想通り、そこで時間がきてしまった。そろそろ帰らなければならなかったので、メモを財布に入れて、彼はそれからすぐ家に戻った。

しかし、夜月はほんの少しだけ、自分が何か重大な出来事に巻き込まれているような気がしていた。軽い気持ちで訪れた男の家から、予想だにしなかった展開になっている。男の家に行く前は、しばらく当分の間は、あちこちでいい加減なネタばかり掴まされて、東奔西走する日々が続くだろうと思っていた。それが、ひょっとすると何か裏がありそうな状況に巻き込まれている。

 彼らから伝わる雰囲気には、どこかただならぬものがあった。

二人とも、一見普通の人間を装ってはいるが、何か、何処かが普通ではないような気がした。まさに「何かを知っているぞ」、といった感じ。

 だが、夜月は彼らのくれる情報に対しては、まだあまり期待はしていなかった。この町に、赤い鞄について信じているらしい人間が、自分以外に最低でも二人はいることが分かったが、それでもそれが、赤い鞄の存在を証明することにはならない。赤い鞄の中身や場所等のそれらしき情報はまだ全く手に入っていないし、それに、彼らにしても、信じている振りをしているだけなのかもしれない。もの凄く巧みな芝居で、真剣な夜月の事をからかって。


 夜月は昨日に引き続いて、今日もメモの人物の所に行ってみたかったのだが、今日と明日は仕事がある為に、赤い鞄探しに出掛けることは叶わなかった。

 今日から、千冬が店に復帰する日だった。

 毎晩のように千冬が泣いているのはかなり気になっていたのだが、彼女の身体の方は着実に回復してきており、パートも問題無いぐらいに復調していた。店に出て、みんなと会って喋ってくれば、少しは気分的に楽になれるかもしれない。

 夜月は先に起き出して、朝食の準備をしていた。朝御飯の用意は、千冬だけでなく、日によってはこうして夜月がしたりすることもよくあった。

 いつの間にか千冬が起き出してきており、夜月を背後から抱きしめてきた。

「あっ。おはよう、ちゆ」

「おはよ……夜月」

 千冬は、今夜月が溶き卵を落としたばかりのフライパンが乗っているガスコンロの火を止め、夜月の手から菜箸を取り上げた。そして、夜月の背中を押して、寝室の方へと連れていった。

 千冬はパートに出て、久し振りにみんなと会うのが少しだけ恐かった。昨日の夜に、その覚悟はついていた筈だったが、今はまたその勇気が挫けていた。彼女は夜月に勇気を分けて貰わなければならなかった。

 夜月に抱いてもらっている間中、千冬はまるで、始業式の間際に母親から離れるのを嫌がってだだをこねている子供の様に夜月の背中に縋り付いていた。

「朝からごねちゃって、ごめんね、夜月……」

 ベッドの中で、千冬がしゅんとした様子で言った。

「いいんだよ。俺もちゆのこと抱けて得したしさ」

 笑ってみせる。

「……うん。ありがと」

 夜月は、心の中で思った。

 違うんだ、ちゆ。そうじゃないんだ。お前が謝ることなんて全然ない。一緒に居られて、お前を抱けて、嬉しいのは本当に俺の方なんだから。ちょっとぐらい落ち込んで甘えたからって、お前が謝ることなんて何もない。

 今までにも、夜月は何度も彼女に直接そう伝えてきたのだが、千冬にそれを納得させるには、まだまだ当分時間が掛かりそうだった。

 ――暗闇が邪魔だった。

 千冬に心の暗闇さえ無ければ、自分のこの気持ちは彼女にちゃんと届くのに。千冬が病んでしまっているばっかりに。

 朝食を終えた後、二人は揃って家を出た。

 夜月の出勤時間に合わせると、レジのパートが始まるまでの間、千冬にはかなり長い時間が空いてしまうのだが、出来るだけ一緒に居た方が良いと思い、自然と二人で出てくることになった。

 寄り添って歩く二人の吐く息が白い。朝方の空気の冷え込みは、日増しに強くなってきており、今朝も厚手のコートを着て出勤している人の姿が目立つ。外気は、寒いには寒いのだが、嫌になるほどの寒さでもなく、逆にきりっと身が引き締まる思いがする。

「気持ちのいい朝だね……」

 千冬が呟く。

「ああ……本当だな。こうして、ちゆと出勤するのも悪くないな。明日からは毎朝俺と一緒に仕事に行くか?」

「うん、そうだね。そうしてみようかな」

 千冬は機嫌良く返した。

 少しは気分的に余裕が出てきたように思える。

 夜月と千冬は二人してスーパーに向かい、裏口を開けて、まだ誰も居ない事務室に入った。

 静まり返った部屋の中で口付けを交わしてから、夜月が千冬に言った。

「今日は久し振りなんだから、無理せずに楽にしとくんだぞ。しんどくなったりしたら、いつでも言えばいいからな。ちょっとぐらいさぼったって融通利くしな。俺、副店長だしさ」

 少しおどけて見せる夜月に、彼女は小さく笑った。夜月は千冬の頭をぽんぽんと叩き、仕事に取り掛かった。彼女は夜月の後を付いて回り、手伝えるところは手伝った。

 やがて、他の面々がやって来て、それなりに時間もきた為、千冬も自分の持ち場に向かって行った。

 とりたてて何のトラブルもなく、その日もなんとか平穏無事に過ぎた。

 彼女は少し疲れた様子だったが、久しぶりの仕事に身体が疲れただけのようで、気分はかなりいい様子だった。千冬は夜月の仕事が終わるまで、事務室でバイトの子達とお喋りしながら待っていて、彼の仕事が終わると、また二人で家に帰った。

 帰り際の周囲からの冷やかしにも、彼女は軽く対応していた。

 夜月は、千冬のそんな様子を見ていて、そろそろ彼女がこの間自殺しようとした原因を聞き出してみてもいいものだろうかと考えていた。

「ねえねえ、夜月。今日ね、愛美ちゃんと一緒にお昼御飯食べてたんだけどさ、ほらっ、高広君って、今月いっぱいで辞めちゃうんでしょ? 愛美ちゃんね、高広君の事ずっと好きだったんだって。意外でしょ? あたし、全然気付かなかったからびっくりしちゃった。夜月は知ってた? 愛美ちゃん、今までそんな素振りは少しも見せなかったから、それがすごいなあって思ってさ。あたし、これでも勘はいい方なんだけどな。それでね、丁度いい機会だから、高広君に告白しようかどうしようか迷ってるみたいなの。あたしは、二人はお似合いだと思うから、思い切って告白しちゃえばいいと思うんだけど。高広君はこの前に聞いてた分では、彼女いないって言ってたから、きっと上手くいくと思うんだ。夜月はどう思う? あたしが高広君に直接訊いてあげてもいいんだけどね。それでね……」

 千冬はこの後もずっと、今日一日にあった出来事を嬉しそうに夜月に話して聞かせた。夜月は、千冬のその笑顔を見ながら、頭の半分ではまた別の事を考えていた。

 前向きに生きる気になっていた千冬が、突然自殺に走ったのには、何かそうなるきっかけがあった筈だった。

 以前から、なんとなく気分が落ち込んできていて、日増しにそれが溜まっていたからとか、そういったような曖昧な理由ではなく、起爆剤になった、しかるべき何らかの理由が必ずある筈だった。あの日の前日までは、千冬には何の兆候も見られなかったし、少しでも気がふさいだ様子でいたのなら、夜月は気が付いた筈なのだ。

 間違いなく何かあったに違いなかった。

 千冬を自殺に導いた何かが。

 千冬が退院してから、夜月はその事にはずっと触れずにきていた。あれからしばらくは訊ける状態になかったからだが、今はむしろ、彼女に何があったのかちゃんと聞き出して、それに対して何か解決策を講じてやった方が彼女を早く元気にしてやれるように思えた。

 しかし、今の千冬の楽しそうな笑顔を見ていると、とてもではないがそんな深刻なことを彼女に思い出させる気分にはなれなかった。せっかくパートにも復帰できて、また以前の生活が戻ってこようとしている。それに水を差したくはない。夜月は今夜のところは理由を訊くのを諦めて、徹底的に千冬と楽しく過ごすことに決めた。

「ちゆ、ケーキでも買って帰るか?」

「ほんと? うーんと、どっちかって言うと、あたしアイスの方がいいなあ。ラムレーズンが食べたい」

「そっか。ちょっと寒いけど、それもまあいいか」

 この分なら、なんとか以前の状態に戻ってくれそうだ。夜月はそう思って、少しだけ明るい気持ちになった。

 腕を組んで、二人は目的の店を目指した。

 けれども、千冬はまだ暗い心の森の奥深くを彷徨っていて、決して暗闇から出てきていた訳ではなかった……。

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