第7話 アタシハ幸セニナレナイ

 チャイムが鳴った。

 千冬は玄関まで飛んで行って、覗き穴から夜月の姿を確認すると、急いで鍵を開けて夜月を家の中へ招じ入れた。

「お帰りなさい」

 千冬が鞄に手を差し出す。

「ただいま」

 依子がエプロンを外しながら顔を覗かせた。

「お帰り、夜月。私はもう帰るわね。洗濯物がたまってるのよ」「ああ。ありがとう、姉ちゃん」

 依子は、ばたばたと慌ただしく帰って行った。

 依子が帰った後、千冬はどうしても、今すぐに夜月に抱いて欲しかった。今は、一日中でも夜月に側にいて欲しいところだった。そうでなければ、心が今にも崩れていってしまいそうだったからだ。彼女から見て、夜月はやはり疲れているように見えたが、それでも千冬は無理にでも抱いて欲しかった。

 生きる事への不安が、彼女を締め付けていた。抱いてもらうことで、生きているのだという事実を実感していたかった。ここのところ、彼女は毎晩抱いてもらっていたのだが、それでも今日は特に淋しさが募り、彼女は今すぐに、どうしても夜月に抱いてもらいたかった。

「一人にして悪かったな」

 夜月が言う。

「ううん。依子さんが居たから全然寂しくなかったよ……」

 夜月は、千冬に少し済まなく思った。本当は依子ではなくて、自分に側に居て欲しかった筈だ。愚にもつかない赤い鞄なんかを探していたことで、今日一日側に居てやれなかったということに対して自責の念を覚えた。だが、今は夜月は千冬の為に、彼女を決定的に救い出せるような何かをしてやりたかった。それがたとえ、赤い鞄などという曖昧模糊としたものであったとしても。

 千冬は、夜月を無理矢理ベッドの所まで連れていって、半ば強引に抱いてもらった。シーツの中で、千冬は何度も何度も彼を求めた。

 行為が終わって、千冬はそれで少しは安心したが、今日はそれから後も、夜月にべったりと引っ付いて離れなかった。夜月はいつものように、億劫がることもなくそれに応じてくれた。

 千冬は、一時も夜月と離れていたくなかった。夜月の肌にずっと触れていたかった。あの日以来、彼女はまた昔のように、過去の記憶をよく思い出すようになっていたからだ。

 今までなら、誰かと何かをしている時は、大抵は何も思い出さずに済んでいたのだが、今日は依子と一緒に居ても、少しでも間が出来てしまうと、昔の嫌な出来事を思い出しては、暗澹たる気持ちになっていた。

 時が過ぎて、そしてまた憂うべき夜がやってきた。

 夜月は、疲れからか、ベッドに入るとすぐに寝入ってしまった。

 千冬は再び、昔の事を克明に思い出す。


 あれは、千冬がまだ幼稚園に通っていた頃の事だ。

 そんな幼い頃の記憶がこれだけ鮮明に残っているのだから、その出来事は、千冬にとっては、数ある虐待の中でも特によほどショックな事だったのだと思われる。

 記憶のシーンは、彼女が洗面所と居間を繋ぐ廊下を歩いていた場面から唐突に始まる。その前に何をしていたのかは覚えていない。人形で遊んでいたのかもしれないし、絵本を読んでいたのかもしれない。あの時、千冬は廊下を歩いて居間に入ろうとしていた所だった。どうして居間に行こうとしていたのかということも全く覚えていない。

 廊下を歩いて、居間へのドアを開けようとした丁度その時、いきなり向こう側からドアが開いて、母親が慌てた様子で飛び出して来た。勢い良く部屋から飛び出して来た母親に突き飛ばされて、千冬は後ろへ倒れた。ぶつかった時に、母親の膝が千冬の右目にもろに当たった為、千冬はびっくりして目を押さえた。

 母親は、出て来たままの勢いで更に前進し、そこに倒れていた千冬を踏んづける形となって、彼女もバランスを失い、千冬と一緒に倒れてしまった。

「ごめ……」

 千冬が許された言葉はそこまでだった。

 謝る暇など無かった。母親は既にキレており、鬼の形相で千冬に襲いかかってきた。

「何やってんだよ! こんな所にいやがって。ボケが!」

 そう罵倒しながら、彼女は所構わず千冬を蹴りまくった。

「おらっ、おらっ、おらっ!」

 いくら女性だとはいえ、大の大人が幼稚園児の子供を蹴り回すのだ。母親のひと蹴り毎に千冬が受ける激痛は並大抵のものではなかった。千冬にはただ苦痛があるのみで、たった今自分の身に何が起こっていて、一体何がどうなっているのか、全く理解出来てはいなかった。

 そうやって、十数回千冬を蹴りつけると、母親は「待ってろよ!」と千冬に言い捨てて、どたどたと洗面所の方へ消えて行った。向こうでトイレのドアが閉まる音がした。

 はっ、はっ、はっ、はっ……。

 心臓が痛い。呼吸が苦しい。気が狂ってしまいそうなほどに身体が竦む。息を荒げながらも、千冬は何とか思考能力を取り戻そうとした。しかし、突如として起こった不測の災難に、思考は考えることを停止してしまっていた。母親がキレた瞬間から、心は外界との接触を拒み、交信を止め、スイッチを切ってしまっていた。

 だが、それでもどこかで警鐘が鳴っているのは分かった。

 ――逃げろ! と。

 もういくらもしない内に、母親は戻ってくる。戻ってきてしまう。

 ここから逃げなくてはならない。彼女が戻ってくる!

 しかし、千冬は怯え過ぎていた為に、起き上がることが出来なかった。それ所か、何度も蹴られたショックからか、身体がぴくりとも動かなかった。思考が四肢への交信も止めてしまっていた。また、お腹や頭の痛みが酷く、どちらにしろ起きあがれる状態にはなかった。

 逃げろ! あいつが来るぞ! 悪魔がここへやって来る!

 ――でも、何処へ逃げるの? 何処へ行けばいいの? 家の外?それとも、この町の外? ねえ、この世にそんな場所があるの? 逃げて安心する事の出来るような場所が、この世の何処かにあるの?

 逃げろ、千冬! 逃げるんだ! あいつが戻ってきたら、死ぬほど酷い目に遭わされるぞ!

 ――酷い目? どうせいつもの事でしょ? これ以上に酷い事なんてあるの? くすくす。面白い。今の状態以上にどんな酷い事があるっていうの? 

 起きろ! 立ち上がれ! ほらっ、あいつがやってくる!

 どすっ、どすっ、どすっ。

 苛立った足音が廊下をやって来る。

「千冬! よくも邪魔してくれたな。おかげで漏らしてしまいそうだったよ。何でそんな所にいたんだよ! 人に迷惑掛けるってことが一体どういうことだか、お前に良く教えてやるよ。嫌ってほど、その馬鹿な頭と身体に教え込んでやる。来な!」

 母親は、千冬の腕を引っ張って、居間の方へ連れて行こうとした。

「おらっ、何やってるんだよ。立つんだよ!」

 千冬はどうしても立ち上がりたくなかった。是が非でも向こうの部屋には行きたくなかった。それに、足がガクガク震えていたために、たとえ母親の言う通りにしたくても出来なかった。

 アソコヘハ、行キタクナイ……。

 千冬は腰を引いて、腕を自分の方へ引っ張って、精一杯母親に抵抗した。

 涙が溢れ、嗚咽が込み上げてくる。

 嫌ッ! 嫌ダ!

 アッチヘ行クノハ、嫌ダ!

「えっ、えっ……。嫌だ、お母さん。あっちに行くのは嫌だ!」

 千冬は思いっ切り首を左右に何度も振って、涙を流して母親に懇願した。必死になって抗った。隣の部屋の広い所に行けば、間違いなく酷い事をされるのだ。

 母親の腕を引っ張る力がほんの一瞬弱まり、千冬の頭上から、小さく息を吐く音が聞こえた。

 ……!

 上を見て確認するまでもなく、千冬には、母親が顔を赤らめ、怒り過ぎて頬をぶるぶると震わせているのが分かった。

 すぐさま右頬にビンタが飛び、左脇腹には足蹴りが飛んできた。

 それで終わりだった。千冬は全身の力が抜けて、無抵抗にずるずると居間まで連れて行かれた。

 果たして子供に、一人の人間としての人格は認められているのだろうか――?

 教育の限界とは?

 愛情と憎悪の違いは?

 お仕置きとは、実際には誰の為のものなのか?

 千冬は居間のカーペットの上に乱暴に倒された。

 母親は、スペースを広く取れるようにテーブルを起こして、それをキッチンの方へ押しやった。

 母親がテーブルを起こしたら、それは虐待開始の合図。

 この時点で、母親はもう既に狂っていた。少なくとも千冬には、彼女が狂っているようにしか見えなかった。

 母親は、倒れている千冬の足首を持って引っ張り上げた。そして、そのままもの凄い力で、千冬の身体を振り回し始めた。やせっぽっちの幼稚園児だったとはいえ、その時の千冬は女性にとってはそれほど軽くはなかった筈なのだが、それでも彼女は易々と千冬を振り回した。

 実の母親に両足首を持たれて、思い切りびゅんびゅん振り回されている時の気持ちが判るだろうか?

 遊びではないのだ。この後間違いなく、どこかへ放り出されて、床や壁に叩きつけられるのだ。

 千冬は恐怖のあまり、大声を上げた。

「わあああああっ……!」

 母親は千冬を部屋の隅の座布団の上に放り投げた。本当は壁に投げつけてやりたいところだったが、それでは千冬が死んでしまうと思って、彼女は座布団の上で我慢した。

 しかし、それでも千冬の受ける衝撃は穏やかなものではなかった。

 ショックと恐怖と、全身の痛みとで、千冬はわあわあと泣き続けた。この頃はまだ泣いていた。間を置かずに、母親が駆け寄ってきて、続けざまに平手で千冬の顔面を何度も力一杯殴った。

「きゃあ、きゃあっ、きゃあっ……!」

 千冬が泣き叫ぶ。

 最後の仕上げに、額に踵蹴りが飛んできて、それで一旦攻撃が止んだ。肩で息をしながら、母親は千冬の胸ぐらを掴み、顔を鼻先が触れるぐらいまで近づけておいてから、泣き続ける千冬にこう言った。

「黙れ!」

 その時の母親の声は、低くドスが利いていて、千冬には、怒鳴られたりするよりもよっぽど怖ろしく思えた。彼女は、身を竦ませて震え上がった。

 母親はその時、鬼気迫る形相に汗を滴らせながら、これ以上出来ないというぐらいに醜悪な表情で千冬の事を睨み付けていた。

 千冬はそれまでにももう既に、他人と視線を合わせるということが出来なくなっていたのだが、その時ばかりは、距離が近過ぎた為に、母親から目を逸らすことが出来なかった。あんなに怖ろしい目で睨まれた記憶は、千冬にはあれ以来ない。もっとも、そのシーンのインパクトがあまりに強過ぎただけで、それからも、母親には何度もそういった目で睨まれていた筈だった。

 あの時、母親に言われた言葉と、その怖ろしい顔、特にその目は、千冬が生涯忘れられないものとなった。

それからも、母親の殴る蹴るの虐待は続いたような気がするが、そこから先は大して覚えていない。

 母親のあの表情を見てしまってから、千冬のその時の思考回路は、完全にはじけ飛んでしまっていた。

 彼女は、無感動に母親に殴られ続けるだけのことだった。


 夜月が寝返りを打った。間近に彼の顔がくる。千冬はそれを見つめる。

 涙がふいに頬を伝った。

 大好きなこの人と今こうして一緒に居るのに。

 ――アタシハ幸セニナレナイ。

 千冬は夜月の手を握って、何とか眠ろうと試みた。

 しかし、彼女はまだまだ眠れそうになかった。最近の睡眠不足で、身体は眠りを欲している筈なのに、夜になると眠気は露と消えてしまう。その為、お昼は一日中気怠く、頭もぼーっとして良く働かなかった。しかし、だからといって、全ての神経がぼんやりとしている訳でもなく、嫌な事に限ってはしっかりと思い出すことが出来てしまっていた。

 それからも、様々な過去の辛い記憶が洪水の様に千冬の脳裏に押し寄せてきた。

 流す涙は、記憶を洗い流すのには何の役にも立たなかった。

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