序章B面 臨床心理士 成川辰幸


「あー」

 

 口を開き、喉を広げ。

 

「あーあー」

 

 手の甲で目をふさぎ、ベッドの上で仰向けになり。

 

「あーあーあー」

 

 一定のリズムで、同じ発声を繰り返す。

 

 とあるアパートの1LDK。その寝室にて、Yシャツ姿の男性が、単調に母音を何度も発し続けていた。

 どれくらいの間、続けていたのだろうか。

 だんだん喉が痛くなってきたころ、ようやく男性は発音をやめ、起き上がる。

 

「……振られた……」

 

 一言で、現状確認が終了した。

 しかし、事前に心の調子を整えておいたので、何とか受け止めきることが、できた。

 

 時刻は既に深夜零時を回っていた。

 そろそろ寝なければ、明日に響いてしまう。

 理性はそう警告していたが、しかし彼の感情はまだまだ落ち着いていなかった。

 納得するには、言語にして整理しなければならない。

 

 のろのろとベッドから立ち上がり、机の上にノートを広げる。

 愛用の万年筆をケースから取り出し、ボトルからインクをコンバーターで補充する。

 考えをまとめるときは、ボールペンではなく万年筆。それが彼なりのこだわりである。

 準備こそ手間はかかるが、この手間こそが、意識を向ける丁度いい間となるからだ。

 補充が終わり、書き出すころには、既に思考は整理作業を始めていた。

 

 

 今日は仕事で隣街の私立中学校に行っていた。

 非常勤で入っているSC(スクールカウンセラー)は今年度で3年目。

 学校の内情にも慣れてきて、すこし油断していたのだろう。

 今日2件目のクライエントは、最近欠席が増えてきた2年生の女子。

 主訴は集中力の欠如だが、その根本は依存相手を見失っていたことによるものだった。

 4回目の面談で、ようやく心の内を現せた。成績が下がってきてから、親が冷たい。彼氏も部活で忙しい。

 誰かに頼りたいという依存傾向がやや強く、それでいて周囲への頼り方がわからない。

 自分が依存症の入口に足を踏み入れていることに気付いていなかったから、まずはその手続きを取ることにした。

 頼ることは悪いことではないが、度を越したら害になる。

 それを自覚させられれば、親や彼氏にどう頼ればいいか、自分で考えられるようになると判断した。

 身体的緊張が強く出ていたので、漸進的弛緩法によるリラクセイションに取り組んだ。

 

「……ここまでは問題ない」

 ぽつりと呟き、更に筆先を走らせる。

 さらさらと軽く流れていく先に、己の感情も溶けていく。

 

 肩の力が抜けたことにより気が楽になったようだった。

 それは彼女自身による功績だったが、どうやら女子は勘違いをしたようで。

 こちらに依存の矛先を向けてきた。

 そして女子には行動力があった。

 面談が終わり、業務が終わり、帰路に就いた。

 女子はこちらの後をつけてきていた。

 

「……なんで気付かなかったかなあ」

 ため息を吐き、ふと先輩の言葉を思い出す。

 ――思春期異性のクライエントは要注意。7割の成功を目指しなさい。成功しすぎると、面倒なことになりやすいから。

 

 気付いたのは、自宅のすぐ近く。

 ちょうど会いに来ていた交際相手がいた。

 女子が声を上げ、交際相手も気付いた。

 中学生に手を出したのかと罵られた。

 守秘義務があるため、クライエントについては話せない。詰んだ。

 振られた。

 女子は女子で交際相手がいることで冷めたようだった。気付けばいなくなっていた。

 交際相手は着信拒否になっていた。

 

「……なにこれ。笑えねえ」

 再び感情が大きくなる。慌てて筆先に乗せて滑らせる。

 

 彼女は最近、距離を取りたがっていた。

 承認要求が強いことは理解していた。そしてそれを満たせていなかった。

 友人の目撃情報。先日、派遣先の企業の上司らしき人と一緒に出掛けていたらしい。

 相手はこちらの年収の約2倍。

 乗り換える、丁度いいきっかけができた。

 振られた。

 振られた。

 誕生日プレゼントは購入済み。

 

「……ネットオークションで売るしかないな……」

 

 今後の予定。

 プレゼントの処分。

 私物の宅配。もしくは共通の友人に託す。

 根回しは不要。承認要求を満たせなかったのはこちらの落ち度。

 自分の精神状態の安定。週末に友人と飲みに行く。飲み会の場所を設定。

 いきつけの居酒屋か、先日オープンした比内地鶏を売りにしたところか。

 宅飲みという手もある。この前いとこから送られてきた長野の地酒があった。美味いらしい。

 最近チーズ料理にハマっているのもある。宅飲みを最有力候補にしておこう。

 

「よし……だんだん前向きになってきた」

 ふう、と一息。先ほどまで暴れくるっていた感情も、すっかり落ち着いてきてくれた。

 やはり荒れたときは言語でまとめるに限る。

 万年筆に心から感謝をしつつ、背を反らして大きく伸び。

 最後に明日の予定を書いて、落ち着くための儀式は終了である。

 

 

 と。

 そのとき。

 

 

 着信音。

 

 まさか彼女か!?

 と淡い期待を一瞬抱き、冷静にその可能性を除外する。

 

 鳴っていたのは、仕事用の携帯電話だった。

 

「……こんな時間に? 誰だ?」

 訝しみながら、相手の番号を確認する。

 が。

 

 非通知設定。

 今どき珍しい。

 

 もしかして、協力しているケースワーカーが、緊急で公衆電話からかけているのかもしれない。

 悪戯の可能性もあるが、そのときはすぐに切ればいい。

 そう判断し、電話に出ることにした。

 

 

「はい。こちら成川辰幸(なりかわたつよし)です」

 

 

 いつもの癖で名乗ってから、悪戯だったら不味かったかも、と反省した。

 でもまあ、そのときはそのときだと切り替えて、通話に集中することにした。

 

『――っ……! ――ぁ――』

「もしもし? すみません、電波が悪いようなのですが」

『本当に答えた!? えっと、聞こえますか?』

「!? あ、はい。聞こえますからもう少し小さい声でも大丈夫ですよ」

『わ、わかった。わかりました。えっと、ごめんなさい。相談に乗ってほしいんですけど』

「? はい。それは構いませんが――」

 

 電話の相手は何やらとても焦っている様子。

 とりあえず、名前と所属を教えてほしい。

 そう言おうと思ったが、その前に。

 

 

 

『――多くの人を巻き込んで暴れている奴がいるんです。止めるにはどうしたらいいですか?』

 

 

 

 真剣な口調で。

 なんだか凄い相談事が、飛び込んできた。

 

  

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