第3話

 そろそろ昼寝が恋しい午後2時頃、ケンは少しおしゃれをして街に出ようとしていた。色のバランスはおかしくはないか、着ているものはダサくないか、確認するため鏡に全身を写してみる。

 鏡で服装を確認して自分の耳もチェックした。大きさやそこから横への張り出しは機械じゃない生の耳と同じくらいの青と白の人工聴覚。普通の耳と同じようにくぼんでいて、そのくぼみの奥に音のたどり着く穴がある。少し無機質で人工的であるという見た目以外は普通の人が生まれながらにして持っている一般的な耳と大差ないそれはケンのお気に入りだった。

 上のほうが少しだけ髪に隠れたそれを、彼はまるで壊れやすいものにでも触れるかのようにそっと静かに小さく左手で撫でた。

 機械的な見た目が気に入らなかったケンの両親とは違い、無機質な見た目であることなど彼はこれっぽっちも気にしていなかったし、むしろその外見はかっこいい、クールだとすら思っていたので、今や文字通り彼の体の一部となった人工聴覚はケンにとって自慢に値する存在だった。

 愛おしい、なくてはならないものである自分の人工聴覚を鏡で見て恍惚とするのをやめて、彼は家を出た。


 今日これから行くところは決まっていた。目的地は手術前、よくコーヒーを飲みに行っていたあの喫茶店だ。

 そのお店は家から徒歩で問題なく通えるほど、そこそこ近い場所にある。真っ直ぐ行けばすぐに着くが、その日は心も晴れ晴れとするほどの晴天だったということもあり、散歩ついでと遠回りをすることを不意に思い立ったケンは、交差点を曲がり商店街があるなど街中でも特に活気にあふれるエリアへウキウキしながら向かった。






 商店街はその日も多くの人でにぎわっていた。若者向けのカジュアルなアパレルショップに温かみのある外装のパン屋、健康志向のファーストフード店、豊富で品揃えに定評のある書店、かっこいいおもちゃから可愛いおもちゃまで子供向け大人向け問わず置いてある玩具屋と多くの店が並ぶ。それだけでなく映画館やゲームセンターといった娯楽施設も充実しているので、一日遊んでも遊び足りないくらい楽しい場所であることは間違いなかった。

 以前の、聴覚障害者であった頃のケンはほとんどここに来たことはなかった。数回程度来たことはあっても、それは母親の買い物に付き合わされたりするだけで、ひとりでこの商店街に来たのは初めてだった。

 見るからに楽しそうな場所であるのに彼がほとんど来なかった理由は簡単、耳の聞こえなかった彼には楽しい場所だとは思えなかったからだ。

 昔、アパレルショップで服を見ていると店員に声をかけられたことがあったが、聞こえなかったので無視する形になってしまったし、その店員が自分に喋りかけていることがわかっても理解できなかったので、早々にその店を立ち去ったことがある。

 他の店にも興味が湧かなかった。昔のケンにとっては多くの店も味気ないただの背景物でしかなかった。ただの背景、風景の一部に注目する人なんてほとんどいないものだが、彼には一般人よりも多くのものが興味の非対象だった。とにかく商店街は彼にとって行く意味のない場所に過ぎなかった。

 だが、人工聴覚をつけた今は違う。

 通りを行き交う人々の喧騒、商店街に流れるアップテンポで楽しい旬の音楽が聞こえる。今まではわからなかった、存在しなかった音という要素が加わって初めて商店街が楽しいと思えた。

 たくさんの華やかな音に商店街は彩られて、自分の記憶にあった商店街と同じ場所なのに、まるで別の場所に来たような気がする。店や看板を彩る電飾のピカピカと人々が生み出す活気が合わさって、キラキラと光り輝いて見えた。


「いらっしゃいませー。焼きたてのおいしいパンはいかがですかー?試食もご用意しております」

 お姉さんといった感じの女性がパン屋の前で集客すべく、試食用に小さく切り分けられたパン乗せたトレイを持って声を張っていた。その声は喧騒の中でもよく通る声でひときわ目立っていたので、透き通る金色のようだった。

 商店街で集客するために声を出している人がいるというのがケンには新鮮だった。自分の記憶にはそんな人はいない。

 自然と引き寄せられるように彼女の所へ行き、試食用のパンをひとつ貰って食べた。

「どうですか?よかったら店内を見て行ってください。店内で食べられるスペースもご用意しております」

 小麦の甘さのある確かにおいしいパンだったので、どうですか?との問いに対しておいしいです、とにこやかに答えケンはパンを買うことにした。

「いらっしゃいませー」

 店内に入るとしっかりした女性の声が聞こえた。情熱的な雰囲気を纏ったその声は濃い目の赤色のようだった。

 入り口付近に置いてあるトレイと金属性のトングをカチャリと取って、いい匂いでいっぱいな店内をゆっくりと歩いて回った。どれもおいしそうだがとりわけ食べたいパンがケンにはなく、どれを買うべきか悩んだのでオススメと書いてあるカレーパンをケンは買った。

 店内のイートインコーナーにあるテーブルにつく。そして先ほど買ったカレーパンの包みを開き、大きめに開いた口でがぶっと一口食べる。サクッと軽い食感の外側がなによりも新鮮だった。一口食べた瞬間、初めて揚げられたパン独特の音が聞こえた。油に触れていなかった部分はもちもちしていて外側とは別の食感だった。中身のカレーは水分の少ないどろっとしたカレーで大き目のニンジンや肉が入っていて、辛くはないがスパイスが程よく効いておいしかった。

 中身のカレーもかなりおいしいこだわりのものだったが、ケンにとっては噛み付いた瞬間のサクッという音がカレーパンをおいしいと思わせる最大のスパイスだった。食べたときに音が出るだけでこんなにも料理がおいしいものに変わるなど、思ってもみなかった。

 今まで食事がこんなにも楽しいものだとは知らなかった。おいしい料理を食べて満足したことはあったが、このカレーパンに匹敵する満足度の料理はなかった。

 ケンはこの時初めて料理は五感で楽しむものなのだと思った。目で見て、匂いをかいで、ナイフやフォークあるいは箸で料理に触れて口に運んだら、耳で咀嚼そしゃくするときの音を聞きつつ口腔に広がる味を楽しむ、これがおいしいということ。どれかひとつでも欠けたならその楽しさは減るだろう。

 ケンは今まで音の欠けた未完成の料理を食べていたのだと後悔する。耳のある今なら、以前はそうでもなかった料理もおいしいと感じるのかもしれないと思った。

 彼は口の周りをペーパーナプキンで拭くと、初めての楽しさを味わったカレーパンの余韻に浸りながらパン屋を後にした。

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