四、夢の虜囚

 ナーベラル・ガンマは、足元から沈み込むような感覚に襲われて、とっさに臨戦態勢を取った。


「ど、どうしたでござる? ナーベラル殿」

「しっ、黙って」


 油断なく辺りを見回す。


 ここは第九階層だ。

 アインズの命令にしたがい、訓練を終えたハムスケを伴って大浴場に向かう途上である。

 荘厳な廊下を歩みゆく至福を邪魔されたことに、彼女はひどく苛立っていた。

 同時に警戒と、いかにして逃走するかという思案が頭に上る。


 この第九階層まで、なんの前兆もなく侵入者が踏み込んだなどとあり得る話ではない。

 しかしあり得ないにしろ、いまなにかが起きたことは確かなのだ。


 異変の兆候はいまだ見られない。

 景色には変化がなく、どこにも敵の気配はなく、しかしゆえにこそ早くアインズに知らせなければと焦りが募る。


 じりじりと待ち合わせた場所に向かおうと、四方八方怠りなく警戒しつつ、ハムスケをかばうように気を配りながら――


「てい」


 頭をぽかりと軽く小突かれた。思わず「うみゅう」だか「くぎゅう」だかよく分からない声が漏れ、頭を押さえて振り返ったそのときには、ナーベラルの顔にこぼれるほどの笑顔が浮かんでいる。


 いつの間にかそこに出現していたのは、腰に二本の刀を差した覆面忍者だ。手刀を見せびらかすようにひらひらと振ってから、腕組みをする。


「油断大敵、しかして油断していなくても安全とは限らない。……よし、今日もかわいいナーベラルの悲鳴いただきました」

「お喜びいただけるのなら、この頭がかち割れるまで幾度でも、いえ中身を引きずり出して脳髄の隅々まで叩いてくださって構いません」

「おいおい、グロいよ。だいたい俺は背後から忍び寄ってひそかに静かに片付けるのがモットーなんだ。そんな拷問吏みたいなことは別の奴に譲る」

「そ、そんな! 私は御身に始末していただけるのならこれにまさる死はありません。他の至高の御方々の手ずからというのも、身に余る光栄と受け止めねばならぬことは承知の上で、不敬といえども私は御身に……! わ、私の何が不足で、どなたかに譲るなどと……っ」

「あーうん。たぶん不足しているのはおつむだな」

「ではいますぐに! 新しい頭部を探してまいります! たぶんそのへんのモンスターの頭を切り落とせば! 一つくらいはうまくくっつくかと!」

「……うん、とりあえず落ち着こうね。深呼吸して、ほら。すーすー、はー」

「すーすー、はー」


 言われるままに両腕を広げ、しっかり深呼吸したナーベラルは、覆面忍者――己の創造主の前に跪く。


「弐式炎雷様、お気を付けくださいませ。いまは敵の気配は感知出来ませんが、なにかこのナザリックに異変があったものと思われます」

「うんうん、そうだね。気にしなくていいよ」

「……は?」

「説明が必要?」


 ナーベラルは表情を引き締め、かぶりを振る。


「不敬をお許し下さい、弐式炎雷様。至高の御方々が我々に告げる必要なしと認められたことに関して、不埒ふらちな詮索をいたしました」

「そこまで畏まらなくてもいいんだけどね。まあ、ともかくおいで。お茶でもしようじゃないか。そこの巨大なハムスターといっしょに」

「そ、それがしの種族を――」

「知ってる気もするが配偶者捜しは無しってことで。いや、俺もそっちのあてはないから」


 しょんぼりするハムスケの、頭をぽんぽんと撫でてやり、くるっと背を向け歩き出した彼のうしろを嬉々として追いかけるナーベラルだが、数歩進んだところではたと立ち止まる。


「お待ち下さい、弐式炎雷様! あの……アインズ様より、大浴場に来るようにとご命令が」

「なにっ!? 俺のナーベラルにあんなことやこんなことをさせようっていうのか! モモンガさん許せん! よし、では俺もいまから大浴場に行って油断している隙を突き抹殺して」

「おおおおおおお待ちください、弐式炎雷様! やっぱり大浴場は私の気のせいだったかもしれません! お茶に参りましょう、お茶に!」

「はは、冗談だよ。モモンガさんは急用で来られないんだ。だから俺がお前のところに来たんだよ」

「そ、そうだったのですか。愚かなこの身をお許しください。至高の御方直々に私をお誘いくださいましたことに、心からの感謝を捧げます」


 歓喜に涙さえこぼしかねないナーベラルを、ぽかんと眺めていたハムスケだが、はっとしたように彼女をつっつく。先に歩き出した創造主についていきながら、彼女はちらりと肩越しに振り返り、目つきだけで何かと問う。


「ナーベラル殿、あの御仁はどなたでござるか?」

「まだ紹介していなかった? まあ……あの御方は気配をとらえることも難しいから」


 奇異の念はすぐさまどこか遠くへ押しやられる。

 なにもおかしなことなどない――至高の四十一人は常にナザリックと共に在ったし、これからもそうだ。


 ナーベラルは誇らしげに胸を張り、声にもどことなく常より弾んだものをしのばせて、


「心して聞きなさい、ハムスケ。あの御方は至高なる四十一人のお一人、弐式炎雷様。私を創造してくださった偉大なる御方よ」

「ではナーベラル殿のお父上でござるな!」

「ち、父だなんて、そんな……」

「? こ、これは失敗したでござる! お母上でござったとは、それがしも見抜けず」


 真っ赤になってあわあわとなるナーベラルは、どこからどう否定していいかも分からなくなっている。

 ハムスケがむむっと考え込んだ、その後頭部にやわらかく手がぽんと置かれる。


「こら」

「! い、いつの間に……」


 前を歩いていたはずが、ハムスケの背後に移動している。

 というかこの弐式炎雷とかいう御方は人の背後をとることに情熱を燃やしてでもいるのだろうか。


「俺を勝手に性転換させてんじゃない。お母さんとかな、そういうのを男に言って許されるのは相手がモモンガさんのときだけだ」

「ア、アインズ様はお母様とお呼びしてもよろしいのですか!」

「ん? うん、いいんじゃないか? だいじょーぶだいじょーぶ。あの人はナザリックのおかんだ。うんうん」

「お……おかん……」


 ハムスケは衝撃に身を震わせ、ぐっと両の拳を握り、その目に強い輝きを宿す。


「なんと力強く、邪悪な響きでござろうか……! さぞかし高名な魔王の名でござろう?」

「えー……まあそれでもいいよ。おかんにはだれも勝てない」

「そ、そうなのですか、弐式炎雷様! では私も御身に最大限の尊敬を込めて『おかん』と」

「呼ぶな」

「御心のままに」









 テーブルには薄桃色のカップが置かれている。ソーサーはクマさんの形である。そのカップを、ごつい指で苦労してつまみ上げていた半魔巨人ネフィリムは、やって来た覆面忍者に挨拶しようとしてカップを握り潰してしまった。


「あー……」

「こんにちは、やまいこさん。いやあ、脳筋な挨拶に感激ですよ」

「こ、これは不幸な事故だよ! あーあ、このカップかわいかったのに……」


 うなだれる凶悪な人相の怪物に、ハムスケはすっかり震え上がって、ナーベラルのうしろに隠れている。彼女は小さく微笑んで、ぽんぽんとハムスケの小さな手をなだめるように叩く。


「この御方はやまいこ様、至高の四十一人のなかで三人だけおられる女性のお一人。心配はいらない。慈悲深い御方よ」

「そ、そうでござるか……」


 ハムスケはきりっとした顔つきで、勇ましく前に出、ぺこりと頭を下げる。


「それがしはハムスケと申す者でござる! 殿とそのお仲間の方々に、誠心誠意の忠義を捧げることを誓った身でござれば、どのようなご命令も――」

「かわいい」


 ぽつり、と言ったあとに、がばっとやまいこは立ち上がる。

 その勢いのあまりに、テーブルが破砕する。

 あちゃあ、と覆面の上から目のあたりを手で覆う弐式炎雷を尻目に、ずんずんと進み出る。


 ハムスケは尻尾までぶるぶるである。

 その身体を上から下まで舐めるように眺め回し、さらに華やいだ明るい声で「かわいい!」と叫ぶ。


「はじめまして! ボクはやまいこだよ。ね、ね、肉球ぷにぷにしてもいいかな? いいでしょ? あ、そうだ。餡ちゃ――餡ころもっちもちさんには会った? あのひと、ほんとにかわいいもの好きだからなあ。きっとハムスケのこと大好きになると思うよ。それはそうと、ちょっと肉球ぶにぶにしていい? だめ? いいじゃない?」

「それがしの足裏にあるのは、肉球とは似て非なる部位でござる。それに見た目ほどぷにぷにしてござらぬが……」


 ナーベラルがきっとハムスケをにらみ、


「いいえ、肉球よ。ぷにぷにした肉球。至高の御方が『肉球ぷにぷに』したいとおっしゃるからには、そうでなければならない。いいわね?」

「そ、そうでござったか。申し訳ないでござる。しかし……」


 戸惑い顔のハムスケだったが、ナーベラルの視線に殺気が混じるに気付いて震え上がり、慌てて何度も頷く。やまいこが手をわきわきしながら近付いた。


 鋭く弐式炎雷が「よせ、やまいこさん」と制止する。刀で斬りつけるにも似たその響きに、やまいこはぎょっとしたように振り返り、


「な、なんですか。ボクはただ」

「やまいこさんは力加減をしっかり覚えてから生き物に触れてください。あ、アンデッドもですけど」

「……ボクは、この子をかわいがろうと」

「かわいいと叫んで抱き締めたぬいぐるみがどんな末路を辿ったか、俺にいまここで詳しく言葉で再現してほしいんですか?」

「や、やめてっ! つい数分前に生まれたばかりのボクのトラウマをほじくり返さないで!」


 身悶えする半魔巨人ネフィリムのうしろから、きりっとした女性の声が「みなさま、お茶の仕度ができました」と告げる。

 眼鏡をかけ、メイド服に身を包んだ彼女は、プレアデスの副リーダーであり、やまいこによって創造されたNPC、ユリ・アルファだ。


 壊れたテーブルは撤去されたらしく、新しいテーブルが鎮座している。その上には香り高い紅茶の入ったカップが人数分あり、それぞれソーサーに載せられている。美しい黄金色の縁取りの、白のカップソーサーが四つと、クマさんソーサーが一つ。椅子のサイズもしっかりそれぞれに合わせてあるようだ。


「ユリ姉様! 言ってくれれば、仕度を手伝ったのに……」

「構わないわ、ナーベラル。さあ、皆さんどうぞお席に。幾種類かのパンもご用意してあります。ご所望のものがございましたら、なんなりとお申し付けください」

「お、お申し付けくださいっ!」


 ナーベラルが負けてはならじと、走って姉の隣に向かい、急ブレーキで止まって軸足に負荷をかけてぐるりとこちらに向き直り、叫ぶように言った。


 ユリが眼鏡を押さえてかぶりを振るのを横目にして、ナーベラルは真っ赤になってうつむいてしまう。


 弐式炎雷は笑って「かわいいかわいい、さすが俺のナーベラル」と褒め、やまいこもうんうんと頷き、ナーベラルは途端に笑顔満面、一方のユリはすこしばかり妬ましげな色を瞳に宿しながらも、咳払いして気を取り直す。至高の御方の前でなければ、指示棒でばんばんテーブルを叩いて、「では皆様、早くお席へ」などと言うところだ。


 至高の二人が席に着いたのち、遠慮するハムスケをプレアデスたちがメイドの意地で先に座らせる。

 皿にお望みのパンを載せていくなど給仕をしてから彼女らも席に着く。


 やまいこがふと弐式炎雷を見やり、何気ないふうに尋ねる。


「モモンガさん、来ると思う?」

「どうでしょうね。俺は……来るといいなと思いますよ」

「ボクは来ないと思うんですけどね」

「賭けますか?」

「面白いじゃない。でも、刺激が足りない。ここはひとつ、賭けの前哨戦として殴り合いをしましょう」

「なんか自然な流れっぽい感じで無茶ぶり言わないでください。俺が紙装甲なの知ってるでしょ。いくらやまいこさんが攻撃力それほどでもないと言ったって、腐ってもレベル100なんですから……すぐ終わっちゃいますよ」

「一瞬にすべてを賭ける! やばくなったら回復してあげる!」

「拳を握りしめるのをやめましょう。暴力教師はPTAに訴えますよ」

「せ、生徒に手を出したりしないもん!」

「せんせーがいじめるーひどいよおとーさんおかーさん」

「うわあああああああトラウマがあああああああ」

「……前科あるのかよ」

「ううう誤解……誤解なの……ボクはそんな教師のクズじゃないんだから……」


 ユリは最前から、落ち着かぬげに紅茶のカップを持ち上げたり下ろしたりしていたが、ついに我慢しかねたと見えて、押し殺した声で、


「弐式炎雷様、恐れながら少しばかり、ご無体が過ぎるのではないかと」

「なっ、ユリ姉様! それは聞き捨てなりません!」


 ばっと立ち上がるナーベラルに、ユリはやりどころに迷っていたらしい苛立ちを注ぐ。


 売り言葉に買い言葉ははじめこそメイドとしての自覚に和らげられていたが、徐々に激しさを増し、互いに立って喚き合い、ほとんどつかみかからんばかりの勢いだ。


「どうするんですか、やまいこさん。場外乱闘始まりましたよ」

「これは……乱入するしかない」

「いやそれは――って俺の話を!」

「あんたたち! ボクを放って楽しいこと始めてんじゃないよ!」

「や、やまいこ様?」「至高の御方に攻撃することなど……」

「いいからいいから! 今日は無礼講っ!」


 嬉々として襲いかかるやまいこに、二人はともかくも逃げる。


 もちろんレベル100のやまいこにかかれば、彼女ら二人がかりでもまったく歯が立たないはずだが、そこはそれ、さすがに少しは力加減も覚えてきたらしい。

 というかこの機会にしっかり自分の腕力を把握し掌握しようという魂胆かもしれない。


 残されたのはハムスケと弐式炎雷だ。後者はどういう作用でか覆面ごしの食事をしている。あるいは素早く、あまりにも素早く覆面を取り払い、パンを口に入れてから、覆面を戻している、ということなのかもしれない。


 ハムスケは気が気じゃないといった様子で、落ち着かなく目を動かしているが、はっきり言って彼女らの動きをまったく捉えられていないようだ。


「だ、大丈夫なのでござろうか。それがし、どなたかお呼びしてきた方が?」

「あー、平気平気。どう見てもやまいこさん一人が暴走しててあとの二人は協力して逃げ回ってるだけだから」


 もっとも、ユリもナーベラルも必死で気付いていないだろう。

 喧嘩していた相手と、いまやすっかり当然のように手を組んでいるということに。

 やまいこが楽しげに笑うのには、たぶんそういうことも含まれている。


「……ま、なんだかんだで姉妹だよな」

「? なにがでござる?」

「いいや。家族っていいねえ、って話」

「そうでござるな! それがしもナザリックに来て、たくさん家族ができたでござる!」

「家族、か。……家族。うん、いい響きだ。よし、ハムスケ。俺たちもちょっくら無礼講といこうじゃないか」

「そ、それがしのレベルでは……」

「そう難しく考えるなって。お遊びだよ、お遊び。俺はいろんなゲームで上級者だからね。初心者相手の手抜きも慣れたもんだよ」

「む……それは特別に稽古をつけてくださるということでござるか」

「まあ、そういう理解でもいい」

「ではよろこんで! お言葉に甘えるでござる!」


 ぴょん、と跳ねるようにハムスケはテーブルから離れる。

 弐式炎雷は素手のまま、ゆらりと立ち上がり、腕を組む。それからふと、思い出したように言う。


「なあ、ハムスケ」

「なんでござろう?」

「俺はさ、お前に会いたかったよ。この世界で」

「? 会っているではござらんか」

「ああ、そうだね。会っている。……だからこそ、いまこのときがいとおしいんだ。俺も、やまいこさんも」

「に、肉球ぷにぷにでござるか!? 弐式炎雷殿も、やはりそれを狙って……!」

「うん? あ、いいなそれ。よし、狙おう」

「やぶ蛇でござった!?」





 やまいこは巨体に似合わぬ速度で、二人の戦闘メイドを翻弄する。

 彼女は楽しげに笑う。楽しげに、ただひたすら楽しげに。

 そうしていないと、別の感情が溢れてしまいそうになるから。


「うん、いい連携! もっとわくわくさせてちょうだい。そんなものじゃないはずでしょ!」

「くっ、やまいこ様! これは、いくらなんでも……」

「わ、私たちの行動が不快だったのなら、謝罪いたしますから……」

「不快? まさか! ぜんっぜんそんなことない。

 ねえ、みせて。キミたちの戦いを。その強さを。ボクたちが造ったNPCが、どんなに素晴らしいのかを」


 見せて。魅せて。ぜんぶをみせて。

 いつかこの夢が覚めるのだとしても。

 夢から覚めれば、何一つ残らないのだとしても。


 この一瞬一瞬が、ボクたちの生きた証になる。

 だれもがそれを否定しても。否定を否定するためのボクらは消えてしまったとしても。


 キミたちと触れ合い、キミたちと過ごす時間こそが、

 まがい物のボクらに許された、唯一のリアルだ。

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