突拍子もない救助要請をしてしまった 4

 ――何? 何この水しぶきおかしくねそんなにここ水張ってないのにって折角着替えたのに意味ないじゃんあんなに恥ずかしかったのに――

 突然の事態にまとまりなく思考が回る。

 咄嗟に顔を腕で覆うとあっという間にジャージの袖が濡れて重くなった。

 位置的には俺のすぐ後ろに先輩がいて、何かが俺の前方二、三歩先に落下したらしいが、いまだ腕を水しぶきが凄い勢いで叩いてくる。

「ふぇぁっ!?」 

 そんな中、いきなり腰を掴まれたかと思ったら身体が宙に浮いて、俺の喉から素っ頓狂な声が零れる。

 浮遊感は数秒で終わり、慌てて腕を下ろして前を見ると先輩の腕が俺の腰から離れるところだった。

 どうやら先輩に抱えあげられて、落下物から距離をとったらしい。立ち位置も落下物と俺の間に先輩が立ち塞がるかたちに変わっている。

 そこでようやく水しぶきも治まり、俺は先輩の身体越しに漸く何が落ちてきたのかを視認することが出来た。

「――っ!」

 確認した瞬間、背筋を冷たいものが走り抜ける。

 落ちてきたのは人だった。うずくまっててわかりづらいけど、多分、男。黒髪で白いシャツに細身の黒いズボンを履いている。

 それ以外の情報が頭に入らない。


 男の側に落ちている巨大な刃物に意識も視線も吸い寄せられたからだ。


 もしこれがファンタジックに鞘に納められた剣や刀なら、逆にもう少し落ち着けたかと思う。

 けど、その刃物は刀身がむき出しで包丁を巨大化させたような形をしていた。濡れた刃近くの水が僅かに赤く染まっていくのが、淡い床と柱の明滅でもわかる。

 手にしていた血まみれの巨大包丁を落下の勢いで落とした。そうとしか思えない目の前の男の状況に、俺の身体は硬くなる。

「せ、先輩……」

「…………」

  最悪の事態が頭に浮かぶ。もしあの刃物で襲われたら、二対一でも負ける可能性の方がずっと高い。

  俺も先輩も体育の成績は上の方だけど、それが対人戦闘の役に立つとは思えない。

 逃げた方がいいのはわかるけど、その逃げる場所がない。

 男と俺たちの距離はほんの数メートル。

 男が襲いかかってきたら、あっという間にやられる距離だ。

 せめて距離をとろうと先輩の腕に手を伸ばした瞬間、男が派手に咳き込みはじめて、俺の背筋を再び恐怖が氷塊となって滑り落ちていった。

 男はうずくまったまま何度も咳き込み、それが治まると大きく息をついて、無造作に刃物を掴み立ち上がった。

 そして、俺たちを見て瞳を見開く。

「あぶな……っ」

 刃物の柄を握る男の手に力が入ったのが見えて、俺は咄嗟に先輩を守ろうと前に躍り出る――はずが、伸ばされた先輩の腕に阻まれてしまった。

「ちょ、先輩どいて下さい!」

「…………」

 丁度俺の胸の辺りに突きだされた先輩の腕が邪魔して、先輩の前に出られない。両手で掴んで持ち上げようとしたが、細いけど引き締まった腕はびくともしない。

「せ、ん、ぱ、い~っ!」

「だめ」

 俺の全力は、先輩の腕一本とその一言で止められてしまう。

 場違いな苛立ちが俺の中で湧き上がった。

 ――もし俺が男のままで先輩が女子のままだったら、とっくに先輩の前に出ることが出来たはずだ。


 今の先輩のように。


 それは本来なら俺がするべき役目だ。

 性別が逆転したくらいで譲るわけにはいかない。

 だから、

「――!」

「えっ?」

 数年ぶりの口にした幼馴染の呼び名。それに驚いて力の抜けた腕を両手で持ち上げて潜り抜けると、俺は「彼女」の前に仁王立ちして両手を広げた。

 正直怖かったが、自分より先に小さい頃から一緒にいた幼馴染が傷つく方がよっぽど怖い。

 そう思い、俺は小さくなった身体で大きくなった「彼女」を守る決意を目にこめて、前方の男を睨みつけた。

 驚いた表情を浮かべたままの男と目が合い、そのまま十数秒、向こうと視線が絡み合う。

「あ~……」

 すると何故か男が気まずそうに呻き、手に持っていた刃物をゆっくりと床に置いて両手を上げた。

 いきなり降参のポーズをとられるとは思わず、俺は両手を広げたままパチパチとまばたきを繰り返す。そのはずみで頬を熱いものが流れたけど気にしてる場合じゃない。

「な、なに?」

 刃物と男へ交互に視線をやる。

 戸惑う俺に、男は両手を上げたまま口を開いた。

「――すまない。取り乱した。危害を加えるつもりはない」

「…………まじか」

 男の言葉に、俺の脳みそがショックでぐらぐら揺れた。

 その内容が衝撃的だったわけじゃない。

 耳から入ってきたのは、聞いたこともない言語。なのに頭の中でその言葉の意味が理解できた。

 そんな今までなかった自身の翻訳能力に、ますますこの状況の異常が嫌でも伝わってくる。

「うわ~…………」

 背中に未だ聞きなれない声がぶつかる。俺と同様に理解できないはずの言語が理解できたことに混乱してる――

「二か国語できる人ってこんな感覚なんだろうね」

 わけではなく、ただ感心しているだけだった。

 受け入れるのが早すぎないか?

 思わず振り返ろうしたところで、再び男に話しかけられた。

「どうして、こんなところにいるんだ? どうやってここに来た?」

「えーっと、それはですね」

 思いっきり日本語で話しかけてしまったが、特に聞き返されることがなく男は続きを促す様に軽く頷いている。

 よくよく見ると、向こうは俺たちと同年代くらいで何故か時折俺の頭上に視線を動かしていた。

 その理由はわからなかったし、言語の謎も、派手な登場の仕方も刃物についても、相手の事は何一つ分からない状況だ。

 それでも待ち望んでいた自分達以外の人間との出会いに、俺の口はさっきまでの危機感はすっかり忘れて滑らかに動き――


「気が付いたらここにいて、多分違う世界から迷い込んできちゃったみたいなんですけど、どうにか助けてもらえませんか?」


 そんな突拍子もない救助要請をしてしまった。



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