第2話 夢現 -1-

 今時の子供っていうのはお受験も珍しい話ではないよな、なんてことを思いながら、私は自分と同じ制服姿の中学生を見ている。夏の陽射しを受けて緑の葉がキラリ。目にうるさく輝くのが、うざったらしい。

 私はその制服を中学生の時には着ていなかった。至って普通の区立小学校、区立中学校の卒業で、この高校には一般入試で入ってきた手合いだ。

 ピアノの道に進む気満々だった私は、特別なことを考えることもなくこの高校に進学していた。

 成績的に中学校の教師からは進学校を勧められたりもしたが、部活強制入部とかいう時代遅れも甚だしい校風だったり、課外とかいう時間泥棒制度があったり。

 そういうものには反吐が出る。それだけあっさり三者面談の場で伝え、私はできる限り自由に過ごせる時間、イコール、ピアノに向き合う時間を増やせる学校を選んだのだ。その選択は、間違っていなかったと思っていた。

 校門をくぐれば、気が重たい一日の始まりだ。実際は、朝の訪れに目を開けるその時から、既に言葉に言い表せない程に気が重たい。

 靴の中に画鋲が仕込まれている。なんてことはない。そんな直接的な暴力という頭の悪い行動を取るような連中ではない。

 特進クラスに進学できたことを誇りに思う連中というのは、一体どれくらいいるだろう? 親、親族なんかはまだ喜ぶのもいるんだろうが。……私の親は、違ったな、とか。

 そんな断片的な、無関係なのかちょっとくらい関係のあるのか、そんなこともわからない、というか、どうでもいい、断片的な思考を廻らせながら歩いて教室へ向かう。

 あぁ、今日は早起きしたはいいけど、ピアノ弾けなかったな、というか、何を律儀にピアノ禁止令遵守じゅんしゅしているんだろ、私。

 それも思ったけど、ため息しか出ない。運動不足気味の腕、手首、指をぶらぶらさせては、ハァ。またため息。教室のドアに手をかけて、横に動かす。すると、

 ボスン、という音も立てずに黒板消しが私の目の前数センチ先を通り過ぎ、床に落ちる。

「…………」

 何も言わない。何も言えない。

 私はただそれを拾って、元の位置に戻す。

「んだよ〜。結局引っかからねぇんじゃねぇかよ〜」

「だろーよー! ま、これで私の勝ちだから〜!」

「ちきしょ〜持ってけ泥棒!」

「やったね今日の昼飯ゲット〜!」

 背後で流れる下卑げびた声をBGM背景音にしてやり過ごしながら。−−願っても無駄とはわかっているがもう少し洒落た音を鳴らすことはできないのだろうか−−

 もう、こういう手合いに筆談器を向ける気分には到底なれない。ここは、制服が可愛い、学費高い。特進は学費免除。女子校で。お嬢様学校なんて言われているそうだ。

 現実の姿がこちらになります。拡声器片手に叫び出したいような気持ちになったことが去年はあったが、もう今やそんな風に思うこともなくなった。

 ここは私の居場所じゃあない。去年の話。そう思わせるだけの話が去年あっただけ。−−私の音楽を邪魔しないで。何もわからない癖に−−去年も私は勝てなくて。芸術を、私の音楽を、理解できない連中に親切にされまして。

−−あなた達と一緒にやろうっていうのなら、私一人でやった方がまだマシな演奏ができるわ−−

 その後ろで、その陰で、結局あいつは勝っていった。今日家に帰る頃には到着しているだろうか。瀧中琥太よしなか こた。はとこで幼馴染。

 私とは、違う存在。

 私があいつと違うのは何だろうか。三歳の頃、思い切り抱きつかれた時、あいつが男の子であることや、私と比べて随分とデカいこと。真っ先に思う『違う』はそこで。

 そんな表面的な部分だけで気づきが済めば、それがベストで、ハッピーだ。そりゃあそうだ。親戚ではなくて、もうあの抱きつき事件以来二人が出会うことがなければ、琥太が赤の他人同然の人物であれば、今私が思うような気分にのめり込むこともなかっただろう。

 もう何度繰り返したかわからない問答、暗闇に纏わり付かれたまま浮かび上がることも許すことができないまま、私は今日という一日を過ごした。

 どういうやり取りだったか今更思い出すこともできないが、朝のホームルームが終わった後、一体何故なのかわからないが私が一人で床を雑巾がけしていた。ため息を吐く若い女教師と、一時限目、移動教室の授業に遅れたことが、どういうわけか脳にチクチクと不快な刺激を与えるイメージを残していた。

 家路に向かう道の途中、時間的にもう新緑のうるささを感じることはなくなったが、どうしたって私の中にその緑を受け入れる度量などある訳もなく、やっぱり私はイライラしていた。

 そのイライラは別段周りを攻撃するような感じでは一切ない癖に、妙に私のことだけは念の入ったしつこさで付き纏い、私を淀んだ暗がりへ連れ込んで行く。

 あれ、私ってこんなだったっけ? なんて、らしくもないような感じの気持ち。

 小学生の時、柚眞ちゃんは強いから良いな、なんて言われていて、その意味がよくわからないまま、中学生になって、いや、その前から、そう。もっと前から。私、強いと言われ続けていた。母から。近所の人達から、弟から。学校の友人、教師、気づけば、私はその言葉に流されるようにして強いと思い込んでいたような気がする。強い人だと思うようになった気がする。鼻の奥に、ツンとした刺激を感じて。

 だから私、今自分のことを、『いつの間に、どうしてんだろう』なんていう風に思ってしまったんだ。

 もう何度目のため息かなんて数えていられない。嫌になる程積み重ねたため息の後、私は家の門を開ける。それと同時に、


「おっかえりー!」

 と私を出迎える上半身裸の大男。去年よりまた更に大きくなったのではないか。

「そろそろじゃないかなって思ってだがっ!」

 発言の途中でも構わず顔面を殴りつけてやる。勿論筆談器でだ。全力で。でも自身の拳は守らないといけない。

「いたいー! 出会って三秒未満で殴られたよ?」

 どうして殴られたのか理解できない様子で能天気に顔を押さえる琥太は叫ぶ。

『何故裸なんだ。どういう了見だ。野生児か。東京から出て行け田舎者カッペが』

「すんごく責められてる! なんかよくわかんないけどごめんなさい!」

 すっかり腰が引けた様子の琥太を尻目に、私は玄関を乱暴に開ける。気が重たい時に、また目にも気分にも悪いものを見てしまった。玄関を開けた先には、

「うっす。一年振りだな」

 先の奴よりはずっと紳士的に挨拶してくるケビンがいた。服装も、まぁ薄いTシャツ一枚に短パンという出立ちではあったが、野生児スタイルよりかは遥かにマシ、というところだろう。こちらも、あいつ同様また体が大きくなっているように感じた。

「仕方がないんだよ。稽古の時に服着てると落ち着かないんだもん」

 貫太相手に何かの申し開きでもしているのかぐちぐち言いながら琥太が玄関に来る。

「だーから言ったろ? 服着ろって」

 金色の、少しだけ癖のついた髪の毛をいじりながらケビンが呆れた口調で言うと、

「いやいや。ケビンが言ったんじゃん。裸で一発稽古かますくらいワイルドな方がインパクトあってモテるって!」

「だからそれを真に受けて実行に移すからお前モテねーんだってこのデーテーが」

「何を! というかそれお前もだろうがクソデーテー!」

 二匹の豚––と呼ぶのは豚に失礼か?––が喚くその隣で、

「デーテーって何?」

 と貫太が聞くが、

「「子供にはまだ早い!」」

 と二匹が同時に鳴いた。オーインク。オーインク。

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