第7話 水没図書館

 こんな夢を見た。


 既に足の膝まで冷たい水に浸かっている状態だった、片手には湿った重い洋書を握っていて、革の良い装丁であるが、本を開くと湿気のせいで、紙がうねっていて、とても状態が悪い。私は、円形の、やたらと複雑に階段が入り組んだ図書館の一階に立っていた。

 目の前には地下へ続く階段があり、階段の両脇にもびっしりと本棚が備え付けられていて、その中に本が並んでいるが、どれも洋書でタイトルがわからない。"洋書"と表現しているが、文字はアルファベットに似て非なるはじめて見る形をしている。そして、階段は薄暗い水の底に伸びていた。下の蔵書はみんな水没しているようだ。

 ふと脇を見れば、本棚につめられた本の中に、今私が持っている洋書をねじ込むには丁度良い隙間が開いている。別段、深く考えることもなく、その隙間に本を入れようとするが、湿気のせいか、本が膨張してなかなか全部本棚に収まりきれない。出したり押しこんだりしていると、湿気で両隣の本の表紙が張り付いて、本を抜き取ったときに下に落ちてしまった。

 本は、水音を立てて、階段に溜まった水面に落ちる。

 しまった、と思いながら急いで本を自らとりあげると、開いて落ちた本の間から、何か黒いものが水の中に泳ぎ出ていくのが見えた。一瞬、ゴミか虫かと思ったが、本から泳ぎ出たのは、文字だった。「魚」という文字が、滑らかに水面を滑ったあと、階段の奥へ奥へ潜っていく。

 その様子を唖然と見ていると、水底に沈んでいたもう1冊の本のページの隙間から、湧き上がるように文字が水中に泳ぎだしていった。どの文字も、優雅にくねりながら、階段下へ泳ぎ去っていく。それを見届けたあとに、文字が泳ぎ去った本をとりあげ、ページをめくれば、細かく敷き詰められた文章のところどころが抜けていることに気づいた。

 文字が逃げてしまったのは仕方がないので、水の中に落ちた三冊を拾い上げて、適当に水気をはらったあと、本棚にあらん限りに力で押し込んでしまった。これでようやく、図書館の探索ができる。


 図書館はどこにでもあるような、円形の吹き抜けの形をしている。中央に何かの展示スペースがあり、そこを中心にして五段階にわけて階層があり、壁は全て本棚だ。そこを上にいったり下にいったりしながら、階段が細かく複雑に繋いでいる。

 中央の僅かなスペースには、ガラスケースに入った羽ペンと、虹色の光沢を反射する真っ黒なインク、古びた紙の束があり、その脇に小さな机と椅子が備え付けられている。羽ペンを見た瞬間から、私の頭の中は、本から泳ぎ出て行った文字たちのことでいっぱいになった。もしかしたら、このインクで書いた文字が、あの不思議と水へ逃げるようになるのではないのか。

 ガラスのケースは鍵がついているが、施錠はされていなかった。中から羽ペンとインク、紙の束を出して、適当に文字を書く。水中に泳ぎだすのだから、きっと水に暮らす生き物がいいのではないのか?

 思いついたのが、「鯛」だった。

 紙を出来るだけ小さめにちぎり、そこに羽ペンとインクで「鯛」という文字を書いた。そのまま階段へ向かい、文字を書いた切れ端を、水面へそっと置く。しばらく水面を漂っていた切れ端はやがて一気に水を吸い込むと、水底へ落ちて行く。そして、水底につくかつかないかぐらいで、「鯛」の文字は紙切れを離れ、滑るように階段の下へと消えていった。

 羽ペンのせいなのか、それともインクのせいなのか。紙を含めた全てが一式揃ってこの不思議な力を発揮するのか。不思議の根源は不明だけど、楽しいことは確かだった。

 改めて図書館を見渡すと、入り口がないことがわかった。ここに来るまでの道程は、今の所水没した階段ぐらいしかない。天井は、よく見えないが、ここまで光を届け、全体を照らすだけの照明があるようだった。窓はない。複雑な階段を上り下りして、隅々まで確認するが、やはり、出入り口は、あの水没した階段しかない。

 私はここでようやく焦りはじめる。

 羽ペンと、インクと、紙。

 水の中に入れると、泳ぎだしていく不思議な文字たち。ここの蔵書の全ての文字が水の中に泳ぎだすものだとすれば、数え切れないこの本たちは、この羽ペンたちによって、誰かが書きしたためていったものだろうか。誰が、どうして、どうやって。そして、その人物は、どこに行ったのか。

 そこまで思いついたとき、視界の端に今まで見えなかったものが映りこんだ。枯れた手だ。骨に皮膚がこびりついて、乾燥し尽した手が、本棚の影から見えている。本棚の側面にもたれかかって、腕だけ床に投げ出されているように見える。

 それが、転々と二階、五階、階層のところどころに見える。

 慌てて、水没している階段を下り、腰のところまで水に浸かる。進んだとしても、どこまで水没しているのか、どれほどの距離があるのかわからないが、とにかく咄嗟にそこまで降りてしまった。途端に足にぴりっとした痛みが走り、のろのろと階段をあがってみてみれば、そこには細かい切り傷があり、血がにじみでている。

 「剣」「刃」という文字が水面まで上がってきて、私の様子を伺っているように、ぐるぐると泳ぎ回っている。鮫のようだ。もしかしたら、「鮫」もあるかもしれない。

 図書館の中央へ戻り、紙に考え付くだけ、自分に有利そうな文字を書き出していく。私は、ここに来たときに、三冊も水の中に本を落としてしまった。泳ぎだしていった文字で確認できたのは、「魚」と自分で書いた「鯛」という文字だけ。三冊分、どれだけの凶暴の文字や、危険な文字たちが、水の中に泳ぎだしていったんだろうか。

 文字は漢字限定で泳ぎだすのか?

 英語はどうだろうか、ここの蔵書は見たこともないけど、英語に似た文字の形をしているし。

 必死になって文字を書いていると、階段に溜まっている水の水面が、細かく波打ちはじめた。今まで本から逃げていった文字たちが、水面に集まって、蠢いているのだろうか、中央から確認するだけ水面は真っ黒に見える。

 そういえば、階段の壁もびっしり本棚であり、そこにはたくさんの本が詰め込まれていた。どれだけ多くの文字を書いて、水の中にいれれば、私は無事この図書館の外に出ることができるのだろうか。

 その時、私が一心不乱に書き出していたのは、「無」という文字だった。

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