第3話 看取り

 こんな夢を見た。


 そこは病室だった。白で統一された清潔さを思わせる空間には、微かに消毒液の香りが漂い、機械のノイズのようなものが混ざって耳に届いている。窓の外は、灰色がかっているが、晴れ渡る冬の空が見えていた。

 目の前のベッドには、冬の枯れ枝のような老人が1人、呼吸器などのパイプにつながれて横たわっている。意識はあるのだろうか、焦点こそ定まっていないものの、目は薄っすらと開いているようで、骨に張り付くようにしている皮膚の下では、弱々しくも血管が脈打っているのがわかった。


 「ここから出よう」


 突然そんな感情がわきあがってきて、パイプ椅子から立ち上がる。パイプ椅子はたった今おろしたてのように、パイプの銀色も背もたれの青色も新品同然だった。私は持ったこともない白いハンドバッグを片手に持っていた。

 横たわる老人に一瞥もくれずに病室のドアノブに手をかけ、廊下へ出る。

 廊下へ出たと思ったら、目の前には老人の横たわるベッドがあった。咄嗟に元来たほうへと踵を返すが、やはりその先には、老人が横たわるベッドがある。そこで冷静に、部屋から出られないことに気がついた。ドアを薄く開いて、顔だけ出すと、そこは静かな病院の廊下が広がっている。看護師の姿も患者の姿もなく、ゴミ1つ落ちていない清潔な病院の廊下で、天井にはめ込み式になっている正面を見るかぎり、とても真新しい。

 自分の見ている景色に注意しながら、ゆっくりと廊下に踏み出してみる。注意深く見ていたのに、気づけば元の病室に戻っている。老人は相変わらず、弱々しく生きてベッドに横たわっていた。

 ベッド脇のサイドテーブルの上には、空の花瓶がひとつだけ置かれている。誰も見舞いに来た形跡が見られない個別の病室の一室から、私は出られない。縁もゆかりもないこの老人の臨終間際に、無理矢理つき合わされているのかもしれないと思いついた途端、無性に腹が立ってきた。

 こうなると俄然、病室から脱出してみたくなる。この老人が何者か関係ない。ただこの状況が不愉快でならなかった。


 病室から出ることなく、ドアを大きく開いて見る。やはり病室側から見ている分には、ドアの向こうは病院の廊下だ。四つんばいになって這って出てみる。行き着く先はやはり病室だ。

 またドアだけ大きく開いてみる。勢い良くジャンプして廊下側に飛び込むと、着地地点はやはり病室であった。

 三度ドアを大きく開き、廊下へ向かってジャンプしながら、空中で体を半回転させて後ろを見る感じに着地してみる。見えたのは、当然のごとくドアだったが、着地したのは病室の中だった。

 四度目に大きく開いたドアから、先ほどまで座っていたパイプ椅子を廊下へ放り出した。パイプ椅子は、廊下に備えてある、患者用の手すりの下に当たり、大きな音を立てて廊下の床に転がった。椅子を投げた後に、椅子を投げてしまったことを後悔して、次は病室側に足を残したまま、床に這い蹲るような姿勢で、廊下に転がっているパイプ椅子に手を伸ばした。

 さほど広くはない廊下だから、すぐにパイプ椅子に手が届いた。その時、ふと右側が気になり、首だけ動かして右側を見る。左側は廊下が延々と続いていたようだが、右側はかなり進んだ先が行き止って左右に廊下が分かれているT字路となっている。そのT字路の右へわかれる角から、白い顔が覗いてることに気がついた。

 私は目が悪い。

 目が悪いから、この距離のものは薄らぼんやりとしか見えない。だけどそれは、看護師の白い顔だとわかる。何の変哲もない、特徴のない顔で、ナース帽に黒い髪の毛を左右にわけている、女の顔だった。髪の毛をピンで左右留めているのも見える。無表情のその顔は、顔だけ半分、廊下の角からまばたきもせずに、こちらを見ていた。

 パイプ椅子を掴んで、出来うる限りの速さで病室に引き戻る。その反動で立ち上げれるほど体が弾んだ。パイプ椅子を床に放り出した直後、開きっぱなしのドアの影から、先ほどの看護師の顔が覗いた。反射的にサイドテーブルの上にあった空の花瓶を掴んで、その顔目掛けて投げる。花瓶は丁度看護師の顔へ飛んでいったが、寸前のところで、顔はドアの裏へひっこみ、花瓶が壁にあたって砕ける音と共に、ドアは乱暴に閉められた。閉まったあとに、ガチャガチャと施錠される音が聞こえ、やがて耳が痛くなるような静寂が広がる。


 閉じ込められた。


 看護師の顔の気持ち悪さに動揺して、立ち尽くしていると、静かになった廊下側から、陶器の破片の音とホウキで掃く音が聞こえてくる。先ほどの花瓶を、例の看護師が掃除しているようだ。

 後ろには依然横たわる老人。ホウキを掃く音を聞いていると、再び怒りが湧き上がってきて、どうも堪えられず、ドアに蹴りを入れる。と、その途端に、廊下側からドアをガンガン叩かれた。


 「看取れよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」

 「看取れぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!!!!」


 野太い絶叫を発しながら女が、「看取れ」「看取れ」とドアを狂ったように叩いている。普通なら恐怖を感じるところだが、私はこれで余計に憤慨した。何故こんなことまでされて、知らん老人の最期を看取らねばならないんだと。ドアは叩かれ続けているが、私はベッドを回りこんで、窓から外を覗く。ここが二階の病室であるとすぐにわかった。コンクリートとアスファルト整備されている地面と、寒そうにしている木々の奥には、見慣れない住宅街が見えている。

 窓から出ることを気取られてはいけない。

 ふとそんなことを思って、窓を開けた瞬間に思いっきり飛び降りてみた。二階ぐらいなら、飛び降りれると思ったから、躊躇はなかった。着地と同時に、前のめりになって両膝を地面に激しくぶつけたものの、なんとか立ち上がることが図来た。着地したのは、ひび割れたコンクリートの上で、病室ではなかった。

 脱出は成功した。

 だが、窓から見えていた整然とした景色は一変していた。木々の間から見えていた見慣れぬ住宅街の景色こそ変化していなかったが、剪定されていたはずの木々は、長らく放置されていたように伸び放題で、枝からは蔦が垂れ下がり、掃除が行き届いていたはずのコンクリートの通路とアスファルトの歩道は、ひび割れ、割れたところから雑草が伸びている。重なるようにして堆積している枝葉は、分解が随分と進んでいるのか、黒い腐葉土となっている部分が見れた。


 先ほど飛び降りた二階の病室を見上げる。

 建物は長く放置されていたのか、雨風の汚れそのままに、見事な廃墟となっていた。割れた窓ガラスに、歪んだアルミのサッシ。地面から壁をつたう植物が、血管のような模様となったまま枯れて張り付いている。

 二階の病室の窓枠に、灰色がかった老人の手がかかるのが見えた。

 それは、弱々しくも力を入れていて、窓から顔を出そうと体を窓に引き寄せようとしているのがわかった。気配となんとなく、病室のドアが開いて、病室の例の看護師が入ってきたことを感じとれる。


 そのとき、はじめて恐怖が起こり、目が合う前に、窓から覗く前に、私はそれに背中を向け住宅街へと走り出していた。なだらかに下る斜面、地面の上に深く体積した枯葉のせいで、少し滑るようだが、少しだけなので気にしない。緑のビニールでコーディングされた、どこにでもある、網目のフェンスを登り、住宅街側へ飛び降りる。フェンスの脇には溝があったが、ぎりぎりそれを避けて、無事道路に着地することが出来た。


 振り返った斜面の上には廃墟も病院もなく、そこには外壁の新しい団地が建っていた。

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