11

 鍋がぐつぐつとおいしそうな音を立てている。

 「そろそろかな」と先生が言うのを待って僕が鍋の蓋を開けた。

 湯気が入道雲のように立ち昇った。

 「わぁっ」とりょう君と朋子さんが嬉しそうに顔を見合わせている。

 鍋の中には鳥肉の団子が美味しそうに浮かんでいた。


 僕の風邪が完治したのを祝おうと言ってくれたのは朋子さんだった。


 306号で結の殺人未遂の騒ぎがあった後、朋子さんは電話での約束どおりに僕の部屋に看病に来てくれた。

 しかし、そのときは騒ぎに駆けつけて結の裸を見てしまったのが原因なのか、僕はひきかけの風邪が一気に悪化して三十九度を超える熱を出してしまい、せっかく朋子さんが側にいてくれるのにも関わらず完全に眠り込んでしまったのだ。

 目が覚めると朋子さんの姿はなく「りょうが拗ねますので今日は帰ります。熱が下がらないようでしたら電話してください。一分で来ますから。明日また様子を見に来ます。早く良くなってね。治ったら快気祝いをしましょう」と書いた置手紙があった。


 手紙のとおり朋子さんは翌日もそしてその次の日も僕の部屋に顔を出してくれた。

 僕は朋子さんの顔を見るたびに元気になっていくようだった。

 完全に治るまでは時間が掛かったが、徐々に体調が回復していくのが実感できてくると今度は治りきってしまうのが惜しいと思うようになっていた。


 ようやく普通に食事ができるようになり、大学にも行けるようになると今度は階下で未遂ではない殺人事件が起こってしまった。

 同じマンションで何かを祝うということが不謹慎な感じがして快気祝いは一旦取りやめになったのだが、十日が過ぎて「もう、ばちは当たらないでしょ」と先生が朋子さんに声を掛けてくれて今日ようやく開催されたのだ。


 先生は「こっちも、もう大丈夫」とビールを持ってきてくれた。

 僕は特に今日は体調が良く、いつもは苦いと思うだけのビールも爽やかな味がした。


「あつ、あふ、ふ」


 りょう君が朋子さんに取ってもらったものを悪戦苦闘しながら食べている。

 手にしたフォークがまだ上手に使えず、食べたいものをなかなか口の中まで運べない。

 それでも鍋がすっかり気に入ったようで、脇目も振らず白菜や白滝と格闘しているりょう君の様子には思わず誰もが微笑んでしまう。


「えらいね、野菜もしっかり食べてる」


 先生が目を細めて感心している。


「不思議とお鍋のときは何でも食べるんですよ」


 そう言って朋子さんがりょう君の頭を撫でた。

 りょう君は母親の手にも気付いていないのか無心で鳥団子を口に運びその熱さに目を白黒させている。


 僕はりょう君が脳震盪を起こして病院に駆けつけた日のことを思い出した。

 あのとき以来朋子さんがりょう君を折檻する声は聞こえなくなっていた。

 僕に頬を平手打ちされ、僕の膝の上でこれ以上出ないというくらいに涙を流して、朋子さんは上手い具合にストレスが発散できたのかもしれないと僕は勝手に思っている。

 朋子さんが過去の境遇を語ってくれたタクシーの中の様子を僕は心の中で甘い秘め事として押し花のように大切に保存し先生にさえ話していない。

 あのときのことを思い出すと僕と朋子さんが付き合うことになってもまんざら不釣合いではないように思う。

 酔いも手伝って思わずにやにやとしそうになる頬に慌てて力を入れて僕はさりげなく朋子さんを盗み見た。


 今、りょう君を見つめる朋子さんは慈愛に満ちた母親の顔になっている。

 りょう君は満腹になって眠たくなったのか、朋子さんの膝に寄り添う形で横になり執拗に目を擦っている。

 朋子さんは目を細めてりょう君の頭を優しく撫でている。

 その顔を見ると朋子さんとりょう君の間に入るのは無理なようにも思えてくる。

 

 朋子さんにはりょう君しか見えていない。


 そう思わずにはいられないほどりょう君を見つめる朋子さんの目には愛情が込められていた。

 その横顔はどこか神々しいくらいの輝きを放っている。

 僕は朋子さんに女を見ようとする自分の目が卑しく汚らしいように思えて咄嗟に俯いた。

 顔を起こすと朋子さんと目が合った。

 彼女の目は僕の様子を体調が悪いと勘違いしたのか「大丈夫?」と聞いている。

 僕は朋子さんしか見えなくなり、呆けた顔で頷き返した。

 朋子さんに心配されていると思うだけで僕はもう胸が一杯になっていた。


「誰か来たみたいですよ、村石君」


 僕の淡い恋心に冷水を浴びせるように先生が僕を呼んだ。

 嫌なタイミングで声を掛けるものだと心の中で先生を睨んだが、僕も確かにドアがノックされたような気がしていた。


「こんばんは」


 若く元気な女性の声がドアの向こうから聞こえてきた。

 僕の知っている人間でこんなに陽気な声を出す奴は妹の由紀ともう一人しかいない。


 僕がドアを開けると案の定、結が立っていた。

 相変わらずセーラー服を着ている。

 本当の高校生ではないことを知っているから、高校生を演じている結が少し滑稽に思える。


 よく見ると結の後ろの薄暗がりの中に顔に見覚えのある男性が立っていた。


「刑事さん!」


 結の後ろに立っているのは先日酒井さん殺しの事件を捜査のために僕の部屋にも事情聴取にきた太い眉の刑事だった。


「先日はどうも。自分は横山と言います」


 寝入り端のりょう君が起きてしまいそうな大声での挨拶だ。

 彼も風邪が治ったようで今日は声が鼻にかかっていない。

 そのせいか先日の聞き込みのときの頼りなさそうなイメージはなかった。

 背筋をしっかりと伸ばした直立不動の姿勢の彼は今にも敬礼をしてきそうだ。

 真っ直ぐこちらを見つめる視線に彼の硬派で真面目な人柄が表れている。


「ちょっと、助けてよ。お願い」

「何?どうしたの?」

「先生もいるんでしょ。ちょっと上がらせて」


 結は僕の脇をすり抜けて勝手に部屋の奥へ入っていった。


「すいません。自分も失礼いたします」


 結の後を離れるものかという感じで横山刑事も僕を押し退けて部屋に入ろうとする。

 僕は訳が分からず不承不承彼も部屋の中に入れた。


「あら?先生って結婚してたの?」


 勘違いして当然だと僕は思った。

 しかし、結の目には朋子さんが先生の妻として映ったのが僕としてはやはり悔しかった。


「違う、違う。彼女は302号の橋本さん。彼はりょう君といって橋本さんのお子さん。俺とは血は繋がってないよ」


 先生が説明すると朋子さんは結に向かって軽く会釈した。

 結も大げさに頭を下げて挨拶を返した。

 横山刑事も結に倣って深々とお辞儀をした。


「このマンションの住人ってみんな仲がいいのね」

「みんなじゃないよ。俺と先生と橋本家は特別なの」

「あら、私もみんなと仲がいいじゃない」

「結は住人じゃないだろ」

「固いこと言わないの」


 会うのは二回目だが、僕は結に対しては驚くほど気兼ねすることなく話せた。

 同い年というのもあるだろうが、それよりも最初の出会いが強烈過ぎて今さら畏まる方が不自然だからだろう。

 僕にとってはこんなにフランクに話せる女性は家族以外で結が初めてだった。


「私、何だかお邪魔かしら」


 急に割り込んできた二人の迫力に圧されたのか、朋子さんが所在無げに完全に眠ってしまったりょう君を抱きかかえて座っている。


「そんなことはないですよ。朋子さんが気にすることなんかありません」


 僕は慌てて朋子さんをひき止めた。

 結のために朋子さんと一緒に居られる時間が削られるなんて僕には我慢できない。


「そうそう。どうぞ気になさらずに。かえって聞いてくれる人が多い方がいいわ」


 朋子さんは「じゃあ、とりあえずりょうを寝かせてくるわ」と言って部屋から出ていった。

 僕は仕方なくテーブルの上を片付けて全員分の紅茶を淹れた。

 横山刑事は正座をしたまま固まっているので「楽にしてください」と声をかけたが、「ありがとうございます」と言っただけで一向に足を崩そうとはしない。

 彼は何か意を決した深刻な顔つきをしていた。

 後には退かないという気合がその太い眉の辺りに漲っているように見える。

 容易な事態ではないことが分かって僕は心を身構えた。


「ちょっと聞いてくれる?」

「聞いてるよ」


 僕はこの二人が今から何を言い出すのかはさっぱり読めなかった。


 結は売春をやっている。

 その結が刑事と一緒に居るのはただ事ではない。

 しかし、横山刑事は結を捕まえようとはしていないように見える。

 二人の様子を窺うと明らかに結の方が立場が上に見えた。

 先生は興味津々と言った様子で二人に熱い視線を送っている。

 きっとこれから二人が話すことをヒントに官能を追求するのだろう。


「この人ね、私と結婚したいって言うのよ」

「結婚?」


 驚いた声を出したのは先生だった。

 僕はあまりに突拍子もない話に飲みかけた紅茶をまるで漫画のように吹き出してしまった。


「ちょっと。汚いわね」

「ごめん、ごめん。あまりに話が唐突だったから」


 僕は謝りながら慌ててティッシュで紅茶が飛んだところを拭き取った。

 幸い誰にも僕の放水の被害は及んでいなかった。

 僕は胸を撫で下ろし、紅茶を被ったコタツ布団やカーペットを念入りにティッシュで押さえた。


 本気なのだろうか。


 僕は訝って、手は動かしながら結と横山の顔をチラッと窺った。

 しかし横山刑事の神妙な顔を見れば結の言っていることが冗談ではないことが分かる。

 彼は真っ直ぐに結の横顔だけを見つめていた。


「結ちゃんはこの刑事さんと知り合いだったの?」


 仕切りなおすように先生が口を開く。

 僕もそこが知りたかった。


「知り合ったのは十日前」


 結はそのときのいきさつを相変わらず惜しげもなくあけすけに話した。

 横山刑事が聞き込みで結の部屋を訪れたこと。

 結がその横山刑事を客と勘違いしたこと。

 彼が刑事と知って開き直った結の行動。

 されるがままだった彼の様子。

 結の話は聞いているこっちが赤面してしまう。

 当の横山刑事は顔から火が出そうなくらいに首まで赤く染めて小さく俯いていた。

 僕は朋子さんが居なくて良かったと思った。

 こんな話はとても朋子さんには聞かせられない。


「本当に初めてだったんですか?」


 先生は生き生きとした顔で横山刑事に質問している。

 横山刑事は目を上げることなく頷いた。

 とても相手の顔を見て返事をするなどできないという様子だった。


「感動しました」


 彼はぼつりとつぶやいた。

 その大きな身体には似合わない消え入りそうな声だ。

 さっきまでの威勢は完全に消えてしまっている。


「そんなに良かったんですか」

「はい」


 即答する横山刑事に初めて結が少し照れた様子を見せた。

 はにかみながら横山刑事を流し見る結の潤んだ目が妙に大人の色香を醸し出している。


「そりゃあ、私が本気でサービスしたんだからね。感動もするでしょうよ。でもね、それは私が売春をやっていて、あなたが警察手帳を見せたからであって、あなたのことが好きだから丁寧にしてあげたわけじゃないのよ。分かる?」


 結の諭すような声に横山刑事はさらに小さくなっている。

 主導権は完全に結が握っている。

 どちらが刑事で犯罪者なのか疑いたくなるような構図だった。

 仮に結婚したらと想像すると僕は横山に考え直すことを勧めたくなった。

 彼が結の尻に敷かれて彼女に毎日のように小言を言われている姿が滑稽なくらい鮮明に目に浮かんだ。


「でも、自分は結さんに惚れてしまいました。もう結さんが他の男性に同じ事をするのは耐えられません。だから結婚していただくしかありません」

「これなのよ。私はまだ結婚なんて全く考えてないし、自分の身体を商売に使うのも好きでやってるの。ねえ。この人に何とか言ってあげてよ」


 結は完全に呆れ顔だった。


 きっと結は警察に捕まりたくない一心で横山刑事を組み敷いたのだろう。

 自分の経験と持っている技を総動員した結の奉仕はそのときは功を奏したかに見えたが、免疫の全くない彼には効き過ぎてしまったのだ。


 僕は横山刑事とコンビを組んでいた四角い顔の刑事を思い出した。

 横山刑事もまさか捜査の相棒が客として金で結の身体を買い、先日その結を絞め殺そうとしたなどとは夢にも思っていないだろう。

 この刑事のコンビは結の身体で繋がっている。

 仮にこの二人が結婚したらあの大野という刑事はどんな顔をするだろうか。


 そこへりょう君を寝かしつけた朋子さんが帰ってきた。

 僕はどうやって朋子さんに事の次第を話すか悩んだ。

 この二人の関係はオブラートに包みようがない。

 先生もどう説明したらいいか分からないようで、僕と先生はしばらく思案顔で見つめ合った。


 僕と先生の様子に痺れを切らしたのか結が大きな声で沈黙を破った。


「初めまして、結と言います。奉仕作業をしているフリーターです。こっちは横山さんっていう刑事さんです。一階で起こった殺人事件を捜査しているみたいです」


 「奉仕作業」という言葉に先生が唸った。

 一本とられたという顔をしている。


 僕は結の言葉で酒井さんの事件を思い出した。

 後で警察が誰を犯人だと見ているのか彼に聞いてみたいと思った。

 水野夫婦はまだ姿を消したままで逮捕されたというニュースは見ていない。


「高校生じゃないの?」


 朋子さんは「フリーター」という言葉に疑問を持ったようだった。


「違います。年齢は保君と同じ二十歳です。セーラー服は私のユニフォームのようなもので……」

「夜のお仕事っていうこと?」

「まあそのようなものです」

「へぇ。私も少し前まではクラブでホステスしてたのよ。でも結ちゃんはそれとはちょっと違うみたいね」

「私の場合は正確にいうと売春です」

「なるほど。それでこちらがお客さん?」

「そのとおり」


 結と朋子さんは見つめ合って笑いだした。

 馬が合うというのか二人の会話はまるで旧知の仲のようにテンポよく弾んでいく。


 僕は朋子さんが「売春」という言葉にも顔色一つ変えなかったことに驚いた。


 僕と先生が気を揉む必要など何もなかった。

 朋子さんは僕なんかよりもはるかに人生の辛酸を味わっている大人の女性だった。

 男女の惚れた晴れたどころか将来を誓い合った男性との離婚まで経験してる苦労人なのだ。


「で、どこで結ちゃんはこちらの二人と知り合いになったの?もしかして……」


 朋子さんが意味深な目で僕と先生を交互に見る。

 彼女が何を考えているかは明白だった。


「違いますよ!」


 僕は大きく手を振って否定した。


「その慌て方はますます怪しい」


 朋子さんは疑いの眼差しだ。


「ちょっと、誤解ですよ。ねぇ、先生。結も何とか言ってよ」


 朋子さんから疑いを掛けられても先生は顔色一つ変えず、まるで他人事のように僕を見て笑っていた。

 どうして平然としていられるのか分からない。


「そういう関係なんですか?」


 横山刑事まで誤解している。

 腹に響くどすの利いた声で僕を圧迫する。

 目がすわっているから怖くて仕方がない。


「だから違いますって」

「二人は私のお客さんじゃないわ。この辺りで私が暴漢に襲われそうになったのを助けてくれたのよ」


 結は先生と僕の盗聴を隠しつつ朋子さんと横山刑事の誤解を解いてくれた。

 朋子さんは最初から冗談のつもりだったらしくすぐに笑って謝ってくれたが、横山刑事は納得いかないところがあるのか、まだ険しい目つきで僕を見ている。


 結は勢いに乗って横山刑事との出会いを再び事細かに朋子さんに語って聞かせた。

 朋子さんは特に頬を赤らめるわけでもなく、適度に相槌を打ったり軽い質問を交えたりして結の言葉に耳を傾けていた。

 横山刑事はまた顔を真っ赤にして、穴があったら入りたいという感じで小さくなっていた。


「結婚かぁ……」


 朋子さんは腕組みをして少し遠くに視線をやった。

 僕はその眼差しに歯痒い嫉妬を感じた。

 朋子さんの目は前夫を見ている。

 今の形はどうであれ、彼女が一人の男を愛して、その結果結婚し家族となって子供を生んだ事実がある。

 その事実は僕がどれだけ朋子さんを愛しても拭い去ることはできない。

 万が一、朋子さんと結ばれることになっても、僕は彼に対する羨望と嫉妬を常に心のどこかに飼い続けるのだ。

 僕は怖いような気持ちで朋子さんの次の言葉を待った。

 朋子さんが結婚についてどう語るのかは少なからず僕の恋愛に影響を与えることは間違いない。


「私ができちゃった結婚したのも今の結さんの年齢のときだわ」


 そうなんだ、と結は大げさに驚いた。

 結婚などしたくはないと言いながら結の目は結婚について語る朋子さんに集中している。

 横山のプロポーズがあまりにも突然だったのに驚いただけで、結もまんざらではないのかもしれない。


「長続きしなかったけどね。二十歳そこそこで結婚して子供を生んで……。今思えば生活に余裕がなかったんだわ。毎日精神的に一杯一杯だった。やっぱり若すぎたのかもしれないわね」


 そう言って朋子さんは苦笑した。

 僕も先生もただ聞いているだけだった。

 朋子さんの苦しみは朋子さんにしか分からないと思った。

 下手に慰めるのは薄っぺらく聞こえてしまう。


「言い訳ね」


 いつの間にか結が怖いほど冷ややかな目になって朋子さんを見下ろしている。

 結の顔から血の気が失せていた。


「結!」


 僕は小さく早く結を叱りつけた。

 「いいのよ」と朋子さんが僕を制した。

 一端青ざめた結の顔は逆に見る見る紅潮し目は怒りに満ちていく。


「りょう君はどうなるの。親のエゴで生まれて親のエゴで親をなくしてるのよ」

「結!朋子さんもすごく悩んだんだ。俺にもお前にも朋子さんの苦しみは分からないんだよ。他人が勝手なことを言っちゃいけない」

「確かに分からないわよ。でも私はりょう君の気持ちは分かるわ。親同士が勝手に憎みあって、父親が離れて暮らしていて、実の父親なのに会うのを制限されて、母親は精神的に不安定で、父親のことが母親との会話ではタブーになって……。そんな不思議な誰にも言いたくない環境で生きていかなきゃいけないりょう君の気持ちが私には分かるのよ!」


 結は目にうっすら涙を浮かべて声を張り上げた。

 それでも結は唇を噛み気丈にも涙を流すことはなかった。

 常に笑顔しか見せない結が目に涙をため顔を朱に染めるほど怒りを露わにしているのは信じ難い光景だった。

 結の両親が結がまだ幼い頃に離婚したということは容易に想像できた。

 結の心に両親の離婚によってできた深い傷が未だに癒えていないということも。

 今まで黙って俯いていた横山が結の傍らに寄り結の背中に手を当てて、「落ち着きましょう」と声を掛けた。


「うざいのよ!」


 結は横山の手を叩くように払いのけて立ち上がると、そのまま走って部屋から出ていった。


「結!」


 僕が立ち上がったときすでに横山は僕を制するように手を上げ結の後を追っていた。

 ドアが閉まる音と同時に冬の夜の冷え切った風が部屋に入り込んできた。


 僕は二人が出ていったドアを見つめたまま朋子さんを振り返ることができなかった。

 結に最も痛い傷口をえぐるように叱責された朋子さんに何を言いどんな目で見れば良いのか分からなかった。


 先生はさっきから一言も発していない。

 今も口を真一文字に結び目を閉じて何か考えている。

 朋子さんに掛ける言葉を必死に探してそれでも見つからない僕とは違い、先生は何も口に出さない方が良いとじっと沈黙を守っているように見えた。


「結さんの言うとおりだわ」


 朋子さんは明るく言った。

 しかし、声は微かに震えていて、努めて明るく振舞おうとしながらも動揺を隠しきれていない様子が痛々しかった。


「きっと結も結婚したら朋子さんのつらさが分かると思います」


 何度も何度も考え抜いて口にした台詞だったが、あまりに空々しく響いて僕は思い切り後悔した。

 これでなおさら朋子さんを見ることができなくなってしまった。


「ありがとう……。私……結婚した事を後悔はしてない。ましてやりょうを生んだ事を悔いたことはないわ。りょうの父親のことはもう愛してはいないけれど、愛するりょうの父親だと思えば嫌いになったり憎んだりもしない……。今、私が思うのは物事には順番があって、その順番を乱すと物事はどうしても上手くは行きにくいってこと」


 僕はぬるくなったビールをあおった。

 口の中に鈍い苦味が走り僕はそれを一気に喉の奥に送りつけた。


「空気を入れ替えよう」


 先生は立ち上がって窓を勢いよく開けベランダに出た。

 鋭い冷気が重く淀んだ部屋の雰囲気を切り刻むように次から次へと入り込んでくる。

 僕も立ち上がってベランダに出た。

 先生と並んで見上げると街の明りのために星は少ないが黒く美しい夜空が広がっていた。


「空がきれいです」


 僕の言葉に朋子さんもベランダに出て空を見上げた。


「本当に」


 見上げる朋子さんの真っ黒い瞳は冬の夜空のように凛々しく美しかった。

 僕はただじっと見とれてしまいそうで慌ててまた空に目を移した。

 朋子さんは何かを思いついたような顔で部屋に戻っていった。


 朋子さんはいつか再婚するだろうと朋子さんの背中を目で追いながら僕は思った。

 朋子さんは前夫を憎んでいないと言った。

 それはきっと朋子さんの中で一度目の結婚と離婚を過去のこととして整理がついたからだろう。

 これからの朋子さんは恋愛を恐れることなく普通に人を好きになれる気がした。

 その相手が僕なのか先生なのか、それとももっと別の人なのかは分からないが、朋子さんはいつの日か遠くない将来誰かと結ばれて今度こそ幸せになるに違いない。


「あの二人どうなるでしょうか」

「村石君はどう思う?」

「結もまんざらではなかったように思いますが、大野という刑事のことが……。うまくいったとしても横山さんが可愛そうな気がします」

「知らぬは主人ばかりなり、か」


 苦笑する僕と先生の間に朋子さんが強引に割り込んできた。

 胸に缶ビールを抱えている。


「飲み直しましょ」


 朋子さんはまず僕に缶ビールを押し付けてきた。

 先生よりも先に僕にビールをくれたことが僕はちょっぴり嬉しかった。


 やがて静かな夜にプルタブを開く音と美味しそうな嘆息が三度ずつこだました。

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