10

 せいせいした。


 一つ大きく深呼吸をした横山隆は怒りを通り越した境地に入っていた。

 考え方を変え気楽になったのだと思えば、肩の力も抜ける気がする。

 あの常にしかめっ面で威張り腐った大野のぼやきにこれ以上付き合わないで済むのだから。


「しかし、寒いな」


 言いたくなくても思わず口に出てしまう。

 背筋に冷水が伝ったような悪寒が走って横山は反射的にコートの襟をすぼめた。

 世間は暖冬だと言っているが、いくら例年より暖かくても冬という季節はやはり寒い。

 おまけに横山は今朝から体調が良くない。

 何となく身体が重いし鼻水が止まらなくて頭がぼーっとする。

 つまりは風邪なのだ。

 横山は昔から毎年冬になると必ず一度は風邪をこじらせて熱を出し二、三日寝込まなくてはならなくなる。

 今まで例外があった記憶はない。

 この調子でいけば間もなく何をするのも嫌になるぐらいに熱が出て身体が動かなくなるだろう。

 すでに微熱があることは体温計を使わなくても毎年の経験で分かっていた。

 一度ひいてしまえば免疫が出来るのかある程度無茶をしても平気なのだが、その年に一度の風邪がけっこうつらい。

 一人暮らしで彼女もいない横山にとっては病気で寝込むということは生死に関わる事態だと言っても過言ではない。

 何か食べなくては治るものも治らないのだが作ってくれる人がいない。

 寝汗をかくから着替えなくてはならないが洗濯してくれる人がいないから着るものがなくなってしまう。

 掃除もしないし、換気もしない。

 全く不衛生な生活になってしまうのだ。

 横山はいつ寝込んでもいいように帰りに買えるだけの食料を買っておこうと思った。

 

 さっさとこの事件を解決させてしまわないと。


 そう思うと一度はおさまった大野への怒りが再び胸にふつふつとこみ上げてきた。


 大野と組んで捜査をするのは今日が初めてだった。


 今年は全国的にインフルエンザが猛威を振るっていて最近署内でもみんな高熱を出してバタバタと音をたてるように次々と寝込んでしまっている。

 結局残った寄せ集めの人手で捜査に当たることになり、真面目な横山は風邪を押して仕事に出た結果、大野と組まざるを得なくなったのだ。


「お前も風邪か」


 顔を見るなり大野は鼻水をすすっている横山に対して蔑みの色を浮かべた。


「すいません」


 横山は素直に謝った。

 周りの人間は寝込んでいるところを使命感で身体に鞭打って出てきたのだから同情や優しい言葉の一つでも、などというものは大野の口からは全く期待していなかった。

 事実として風邪をひいているのだから健康管理が甘いと言われるのは仕方ない。

 それに大野という人間についての噂は耳にしていたので、この程度の冷たい態度は予想通りだった。

 無理をして出てきたら大野と組む破目になったのは運が悪かったと思うしかない。

 せいぜい大野にうつさないように気を配ってこれ以上嫌味を言われないようにしないと、と横山は思っていた。


 事件は殺人だった。

 サクラビルという三階建てのマンションの一階に住む三十五歳の独身女性が何者かによって刺殺されたのだ。

 荒らされた部屋の形跡から強盗の線も無視できなかったが、被害者の刺され方から怨恨の可能性が高いように思われた。

 酒井という名の被害者は背後から果物ナイフのようなもので合計十一箇所も刺されていたのだ。


 捜査は年配の大野の指示の下に進められた。

 大野は現場の部屋の隅で椅子に腰掛けタバコを吸い、文字通り顎で横山を使った。

 大野は風邪をひいている横山の横顔に煙を吐きかけ、横山のやることに注視し、何か横山がミスをすると目ざとく見つけて「なっさけない」と連発した。


 横山はもともと体育会系の人間で学生時代には上下関係の厳しい環境で生活してきたので、就職してからも先輩の言うことには少々無茶でも従順に従ってきたが、大野の嫌味は腹に据えかねるものがあった。

 それでも午前中は何とかこらえ、大野のためにタバコまで買いに走った。


 昼に近くの中華料理屋でまずいラーメンを食べ、聞き込みを始めるころになると大野は何故かむっつり黙り込むようになり何か考え事をしている様子を見せ始めた。

 そしてサクラビルの二階の部屋を全部尋ね終わった後いきなり大野は「帰る」と言い出したのだ。


「腹が痛い、後はうまいことやっといてくれ」


 そう言うと大野は大仰につらそうな顔を見せ意味ありげに脇腹をさすり「おー痛え、痛え」と呟きながら一人で階下に下りて行ってしまった。

 横山が「大野さん」と呼んでも手を上げて見せるだけだった。

 寒風吹きすさぶ高台のマンションの二階から横山は小さくなっていく大野の背中を呆然と見送るだけだった。


 気がつくと鼻水が上唇の辺りまで垂れている。

 横山は慌てて手の甲でそれを拭った。

 するとすぐにくしゃみが出てまた鼻水が垂れてくる。

 「畜生」とつぶやいて横山は大野の後姿を思い出した。


 他人の風邪にはうるさいくせに仮病を使って仕事をさぼりやがった。

 横山は大野の腹痛は嘘だと見破っていた。

 大野には仕事をさぼる理由が他にあるのだ。

 それが何かは横山には見当がつかなかったが、もうそれもどうでもいいように思えてきた。

 なんと言っても一人の方が気が楽だ。

 この状況は自分にとってラッキーなのだ。


 犯人の目星はついていた。

 「101号の水野君江で決まりだ」と大野が偉そうに言っていたが、誰が見てもそう思うだろう。


 これまでの聞き込みの結果、数日前に彼女が被害者と激しく口論していたことは分かっている。

 そのときの彼女の狂乱振りは尋常ではなく、精神的に病んでいたとの情報もある。

 一昨日から夫の明彦と共に君江の姿が消えていることで犯人が彼女だということは決定的に思われた。

 令状をとって家宅捜索をすればはっきりするだろうが、捜査はすでに誰が犯人かではなく、水野夫妻はどこに消えたかが焦点になっている。


 大野はこれ以上の聞き込みが無駄足だと思ったから現場を離れたのかもしれない。

 横山も101号の家宅捜索で全ての決着がつくと思っている。

 凶器やら血のついた衣服やら精神病関係の薬やら君江の犯行を裏付けるような証拠が雨後の筍のように出て来るだろう。

 被害者の部屋から検出された指紋と君江の指紋が一致すれば確定だ。

 後は水野夫婦の過去を洗い交通機関や宿泊施設への聞き込みを行って二人の潜伏先を徐々に炙り出していくだけになる。

 しかし、だからと言ってこの三階の住人に対する聞き込みを放棄した大野の態度を横山は許せなかった。

 いくら大勢に影響が少ないといっても何らかの新たな情報が発見できる可能性がないとは言えない。

 可能性がある限りしらみつぶしにあたっていくのが刑事の職分だと横山は信じている。


 横山は鼻をすすりながら次々と呼び鈴を押していった。

 しかし、どの部屋も反応がなかった。

 平日の昼間である。

 普通の社会人なら仕事に出ていて留守が当たり前だ。

 仕方ないとは思っても横山は空気を掴むような手応えのない空しさを感じた。

 身体の重さが精神的な疲労を倍化させる。


 高台にあるマンションの三階からは遥か遠くの天地の境まで街並みを一望できた。

 眼下に広がる冬の景色はどこまでも灰色で寒々とした感を抱かせる。

 不意に大野の行動が正解だったという考えが頭の隅を掠める。

 仮病でも何でも使って今日は寝ているべきだったか。

 実際に俺は発熱という大義名分がある。

 いかん、いかんと横山は頭を振った。

 そんなことができない性分だというのは横山自身が一番良く知っている。

 今日はついていないと諦めるのが一番なのだ。


 大家によると305号は空室で、残りは306号だけだ。

 横山はさっさと終わらせて暖かい署に戻りコーヒーをすすりたくなった。

 不謹慎とは思いながらも、居留守でも何でもいいから出てこないで欲しいと願いながら、形だけのつもりで306号室の呼び鈴を鳴らした。


「はーい」


 すぐに部屋の中から若い女性の声がして横山の心は久々に感じた手応えへの喜びと帰るのが遅くなることに対する苛立ちがない交ぜになった。


 まもなくドアが開いて出てきたのはセーラー服姿の高校生だった。

 確かこの部屋は岡田という三十歳の男性が借主だったが、彼女は何者だろうか。


 彼女は幼さを印象付ける大きな目の可愛らしい顔立ちにその若さに似つかわしくない丁寧な化粧を施している。

 ボーイッシュなボブの短い髪がその妙に色っぽい化粧とアンマッチに見えた。

 足元はこの寒いのにもかかわらず生足に紺色のハイソックスだ。

 きっと風邪とは無縁の存在なのだろうと横山は思った。


 彼女は無言で横山を見上げた。

 彼女が何やら不機嫌そうなのは初対面でも分かった。


「あなた四角い頭の短足おじさんの知り合い?」

「えっ?ああ、大野さんのこと?知り合いと言えば知り合いだけど」

「遅いじゃない。寒いからさっさと中に入ってよ」


 大家から聞き間違えたのだろうか。

 女子高生が暮らしているなどという情報はなかったはずだが。


 横山が手帳を探っているとその女子高生は強引に横山の手を引っ張って部屋の中に入れドアを閉めた。


「ちょ、ちょっと君」

「何が、君よ。三十分も待ったのよ。それよりあのおじさんは?」

「君、大野さんを知ってるの?大野さんはちょっと腹痛で帰っちゃって僕一人なんだけど」

「ちょっと……三人でするつもりだったの?聞いてないわよ、そんなこと。こっちにも心の準備ってものがあるんだからちゃんと事前に言ってくれなきゃ困るわ。ったくあの親父ったらふざけるのもほどほどにしてよね」


 彼女は呆れ顔で首を左右に振りため息をついた。

 眉間に皺を寄せて何やらぶつぶつと独り言を言っている。


 横山は彼女が何を言っているのかさっぱり分からなかったが、それよりも彼女が大野を知っているのが不思議だった。

 それとも、大野と背格好の似た別人を待っていたのだろうか。


「まあ、いいわ。それよりもさっさと頂戴」


 彼女は横山の前に手の平を差し出した。

 どうやら何かを請求されているようだ。

 何を出せば良いのか皆目見当がつかず横山は首を傾げた。


「とぼけないでよ。ただでやるつもり?」


 みるみる彼女の顔が紅潮していく。

 大きくて可愛らしい彼女の目が少し吊り上った。

 横山は薄々事態が飲み込めてきた気がした。


 横山は左の内ポケットを探った。

 その仕草を財布を探っているのと勘違いしたのか傲慢な女子高生はさらに手を横山の顔に近づけた。


「こういう者なんですが」


 手帳を取り出して彼女に見せると彼女はさっと表情を強張らせた。

 心にやましいことのある人間特有の左右に落ち着かない瞳だ。

 彼女が売春していることは明らかだった。

 彼女が頭の中で必死に言い逃れる術の取捨選択を行っていることがよく分かる。


「そういうことなら仕方ないわね」


 彼女は開き直った表情になったかと思うと身を翻して部屋の奥に戻っていった。


「こっちにどうぞ。ゆっくり話しましょ」


 部屋の奥から暖かい空気が流れてくる。

 横山は彼女を追って自然に足を踏み出していた。


 彼女は売春を認めたようだ。

 こうなっては彼女を署に連れて行くしかないだろう。

 どういう扱いにするかは分からないが、少なくとも熱いお灸を据えておくことは必要だ。

 親にもきつく言わなくてはならない。


 部屋の中に入ると彼女はセーラー服のスカーフに手を掛けて横山を待っていた。


「じゃあ、ちょっと話を聞かせてもらえるかな」


 横山がそう言った途端、彼女はにこりと笑っていきなりセーラー服を捲り上げた。


「ちょっと、君!」


 横山の目に白い肌と水色のブラジャーが飛び込んできた。

 童顔な顔立ちに似合わない豊かな胸の膨らみに横山の目は釘付けになった。

 横山は顔が上気していくのが分かった。


 彼女は止めようとする横山に脱いだセーラー服を投げつけ、横山が怯んだ隙にスカートのファスナーを下ろした。

 彼女が手を離すと横山の目の前でサッとスカートが床に落ち、彼女の裸体を覆うのは下着とハイソックスだけとなった。

 横山は彼女の白く輝く裸体に生唾を飲み込んだ。

 全身が重く熱かった。


「私の言うとおりにしないと大声出すわよ。刑事が女子高生をレイプしたって言いふらすからね」


 横山は金縛りにあったように身動きがとれなくなった。

 彼女の言葉に尻込みしたわけではない。

 彼女の見事な裸身に目と心をすっかり奪われていたのだ。


 横山は女を知らなかった。

 二十五年間生きてきて女性と付き合った経験は一度もなく、友人の中に彼を風俗に誘う者もいたが、彼は頑として断ってきた。

 そういう場所に足を踏み入れること自体が恥ずかしくて耐えられなかったし、金を出して女体を求めるという淫蕩な行為を不健全で低俗なものと忌み嫌っていた。

 横山は愛を伴わない性交渉など考えられなかった。

 極端に言えば互いに未来を誓い合う結婚という儀式の後に初めて交わるというのが横山の理想であり、この歳になってしまってはその方が潔いとさえ思っていた。


 しかし、実際惜しげもなく瑞々しい肌を露わにしている女性を目の前にすると、横山は息が止まるほどの胸苦しい欲望を感じずにはいられなかった。

 今となっては禁忌も信念も風前の塵だった。

 横山は自分が刑事であることも目の前の女が法に触れる売春婦であることも完全に忘れてしまっていた。


「悪いようにはしないわ。必ず満足させてあげる」


 彼女はねっとりとした口調で直立不動の横山の耳に「座って」と囁いた。

 女子高生に肩を押されて横山は催眠術に掛かったように何の抵抗もなくベッドに腰掛けた。

 横山の心臓は口から飛び出しそうなほど跳ね回っていたが、身体は全く言うことを聞かず、身じろぎ一つできなかった。

 彼の目は獰猛な獣のそれのように獲物である彼女を中心に捉えて逸らすことができない。

 彼女はその横山の膝の間に割って入り、彼をさらに挑発するように眼前でブラジャーを外した。

 乳房の先端に咲いた小さく可憐な乳首が軽く揺れるのを横山は網膜に焼き付けた。


 彼女は腰を屈め横山に口付けた。

 彼女の唇が横山の硬く分厚い唇に重なると横山は全身から力が抜けていくのを感じた。

 そのまま彼女の甘い唇に押され彼女に乗りかかられると横山は気が遠くなるようだった。

 女性の肌のふくよかさは横山の想像を絶する快楽だった。


「舐めてもいいわよ」


 彼女は横山の頬に乳房を垂らした。

 その許可に横山の胸はさらに激しく高鳴ったが、喜びが大きい分二つの乳房を両の頬に感じてどちらの乳首を吸うべきか真剣に悩んだ。

 迷った末に彼女の左胸を選んだ。左の乳房の方が若干大きかったからだ。


 口に含んだ蕾は得も言われぬ感触で、横山は無意識に舌を使っていた。

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