7-2

 いつの間にか外は小さな雪が音も無く降っている。

 風に乗って降りかかってくる雪を掻き分けるようにして部屋の前まで駆け上がると、先生はドアを叩くようにノックした。


「朋子さん!大丈夫ですか?」


 部屋からの返事はなかった。

 もう一度先生がノックをしたが一向に誰も出て来る様子がない。

 ノブに手を掛けると軽く回ってドアが開いた。

 チェーンも掛かっていない。

 部屋の中からは一条の明かりも漏れてこなかった。


 先生と僕は目で頷きあった。

 明らかに何かがおかしい。

 じっと中の様子に目を凝らしても暗闇の中に人の姿は見あたらない。

 咄嗟に強盗という言葉が頭を過ぎった。

 この闇の中で飢えた強盗が母子を人質にしてこちらを見ているかもしれない。

 空気は肌を刺すように冷たく部屋着のトレーナーのままでコートさえ羽織っていないのに僕は手にじっとりと汗を感じた。


「朋子さん、大丈夫?入るよ」


 先生と僕はゆっくりと部屋に足を踏み入れた。


 部屋のつくりは僕の部屋と全く同じなので、先生も僕も明りがなくてもそれほど不自由なく動ける。

 しかし、部屋の中の様子は全く窺い知れない。


 とにかく明りを点けなければ。

 僕は壁にあるスイッチに手を伸ばした。

 隣に居ると先生の息遣いがはっきりと分かる。

 先生は息を詰めて頷き、僕はスイッチを押した。


 パッと明りが点いてきれいに整理されているキッチンが眼前に現れた。

 奥の部屋に台所の光が差し込んで誰かが壁にもたれて立っているのが分かった。


「朋子さん?」


 声を掛けても彼女は身動きせず俯いている。

 僕は駆け寄ってコート姿のままの彼女の肩に手を掛けた。


「朋子さん。何かありました?」


 僕が揺り動かしても彼女からの返答はない。

 先生が部屋の明りを付けてあっと大きな声を出した。

 振り返ると木製の四角いテーブルの上にりょう君が寝転がっていた。

 白目を剥いている。

 りょう君は意識をなくしていた。

 先生がりょう君の口元に耳をやり手で脈をとった。


「大丈夫。息はある。脈もしっかりしてる」


 僕は慌てて朋子さんを振り返った。


「朋子さん!どうしたんですか!」


 僕の声にようやく顔を起こした朋子さんは笑っていた。

 彼女は僕の手を振り払って腹を押さえて奇怪に笑い出した。

 りょう君を抱きかかえた先生も僕も彼女の様子に呆気にとられて立ちつくした。


「投げたのよ。放り投げたの。私がね、ぽいっとね」


 僕は耳を疑った。

 彼女は気がふれたように大きな声を出して息苦しそうに笑いながら壁にもたれてずるずると倒れこむように腰を下ろした。

 笑いながらもハー、ハーと大きく息を吐き出して呼吸を整えようとしたが、笑い上戸の酔っ払いのように、まもなく彼女はこみ上げてくる笑いをこらえ切れない様子で肩を揺すり再びクククと不気味に押し殺すように笑い出した。


 僕は気付いたときには彼女の正面にしゃがみこんで彼女の頬を平手打ちしていた。

 乾いた音と共に笑い声がぴたりと止んだ。


「村石君!」


 いつも冷静な先生だが、さすがに今回は僕の行動に驚いたようだった。

 朋子さんは僕に殴られた頬に手を添えて固まっていた。

 乱れた髪が顔を覆っていて彼女の表情が全く掴めなかった。


 ポタッと微かな音がした。

 ベージュ色のカーペットが何かで滲んだ。

 よく見れば彼女の顎に光るものが伝っていた。


 僕は自分の右手と朋子さんの涙を交互に見た。

 加減したつもりが、それでも女性にはきつかったのかもしれない。

 僕は初めて自分のしたことに驚いていた。

 今までの人生で女性を殴ったことなど一度もない。

 新聞の家庭内暴力の記事を読んでも自分は万に一つも女性に手を上げることなどないだろうと思っていた。

 しかし、間違いなく僕が朋子さんを殴ってしまったのだ。

 痣になってしまったらどうしようか。

 これが原因で朋子さんが男性恐怖症になってしまったら。

 僕は持ち前のマイナス思考で次々と自分を追い込んでいった。

 先生の顔を見上げられなかった。


 すると朋子さんが急に僕の膝に抱きついてきた。

 そして大きな声をあげて泣き出した。

 それこそ親に叱られた子供のように。


 ずっと彼女は泣きたかったのかもしれない。

 誰かを頼って頼りきって我儘に泣きたかったのだろうか。


 僕が撫でるように彼女の頭の上に手を添えると彼女は僕の腰に抱き付いた手に一層力を込めて泣き出した。


「とりあえず病院に行ってくるよ。大丈夫だとは思うけど頭を打ってるみたいだから。一段落ついたら朋子さんの保険証を持って来て」


 先生は近くの病院の名前を僕に告げると、りょう君を毛布に包んで抱え雪の中へ出て行った。


 朋子さんは何年分かの涙を一気に流しきるかのように止め処なく泣いている。

 その泣き声は梅雨時の雨のように止む気配がなかった。

 僕の膝は絞れるぐらいになっているだろう。

 僕の手の下で泣いている朋子さんは小さくて愛しかった。

 今彼女はこの広い世界で唯一僕だけを頼りに涙を流しているのだ。

 そう思うと僕が彼女を泣き止ませ幸せにしてあげなくてはいけないという気持ちになってくる。

 諦めて先生に全てを託そうとしていた僕はもうどこにもいなかった。

 「好きです」と言い切ったことにも後悔の気持ちもなくなっていた。

 今は自分の気持ちに一点の曇りもなかった。


「さあ、病院に行きましょう」


 朋子さんは涙を拭き、鼻をすすりながら何度も頷いた。

 保険証を持つと朋子さんは走るように外に出た。

 タクシーはすぐにつかまった。


「あの子の父親に会ったの」

「え?」

「別れた前の夫に会ったの」


 朋子さんは少しずつ言葉を紡ぎだすように選んで話し出した。


 離婚前からノイローゼになってしまい精神科に通っていること。

 前夫に今日いきなり電話で呼び出されたこと。

 彼が寄りを戻したいと言ってきたこと。


 朋子さんは自分の心の中を整理するようにゆっくりと筋道立てて話していく。


「朋子さんは何て言ったんですか?」

「絶対に嫌だって。これ以上あの人に私の人生をかき回されるのは耐えられないから。やっとりょうとの暮らしにもリズムが出てきたところなのよ。あの人が現れたら私もりょうも無茶苦茶になってしまう」


 朋子さんの話から推測すると離婚の原因は前夫にあるようだった。


 彼は全てにおいてだらしなかった。

 朋子さんの知らないところで遊ぶ金欲しさに多額の借金を作り、朋子さんの妊娠中に不特定多数の女と関係を持った。

 そのうちの一人には妊娠させて中絶させている。

 朋子さんは借金返済に加え浮気相手への慰謝料のためにも身を粉にして働き、りょう君を流産しかかったらしい。

 暴力を振るわれたことも少なくなかったようだ。


「これ以上あの人と関わるのが怖くて仕方ないの」


 一度は恋に落ちて将来を誓いあった二人なのに今は相手に恨みさえ抱いている。

 悲恋とはこういうものを言うのだろうと僕は思った。

 たとえ別れることになってしまったとしても、相手のことを好きだったという気持ちまでは否定したくないと思う。

 その気持ちを否定することは、そのときの自分を否定することになる。

 過去の己を否定するのは今の自分を否定することに繋がる。

 過ぎ去った恋は大切な思い出として心の隅に美しく飾っていて欲しい。

 二人の思い出が恐怖や絶望の灰色に染まってしまっている朋子さんの恋は本当に悲しいものに思えた。


「もう、少しも愛してないんですか?」


 僕の問いに返してきた朋子さんの薄紅い目は何だか悲しそうに見えた。


「今思えば馬鹿みたいなんだけど、私、あの人のことが好きで好きで家出するようにして彼についてこっちに来たの。私、このあたりの出身じゃないの。もともとは関西の人間なの」


 僕は朋子さん母子と初めて一緒に鍋を突付いた日、彼女が先生を関西出身だと言い当てたことを思い出していた。

 あのとき朋子さんも、いろいろある、と言っていた。


「私が元には戻れないって言ったときあいつ何て言ったと思う。『だったら、金よこせ』って。私、鞄振り回して叫びながら走って逃げてきちゃった」


 彼は朋子さんのことを金づるとしか思っていないのだ。

 朋子さんは震えていた。

 それが恐怖からなのか悔しさからなのかは分からなかった。


「私、もう狂っちゃいそうなの。気を抜いたら自分が何をするか、自分のことが分からないの。本当はもう狂ってるのかもしれないわ。何もかもが怖くて不安で一思いに死にたくなるのよ。胸が詰まって息が出来なくなって涙が止まらなくて私……」


 朋子さんは震える手で頭を抱えた。

 僕は黙って見ていることに耐えられず、そっと朋子さんの肩に手を掛けて抱き寄せた。

 小さな朋子さんは僕の腕の中で小刻みに震えるばかりだった。


「これから一人でちゃんとあの子を育てていけるのか、あの男がまた現れて私を殴らないか、私の気がふれてしまわないか、あの人の血が流れているりょうを愛し続けられるのか……。りょうには何の落ち度もないのにどうしても冷たく接してしまうの。毎日何かに心を縛られているような圧迫感を感じたり、身体が中から張り裂けてしまうような感覚に襲われたりする。耐えられなくなるのよ」

「大丈夫ですよ、大丈夫」


 僕は優しく朋子さんの肩を抱き頭をなでた。


 僕は何となく満ちた気分だった。

 力なく僕の肩にもたれかかる朋子さんが全てを僕に預けてくれたようで、その重みが僕の心に喜びをもたらしている。

 タクシーがこのまま二人を乗せてどこまでも運んでくれればと思った。

 これからは僕が朋子さんを支えていこう。


 程よい暖房と優しい振動が眠りを誘うほど心地よかった。

 窓越しに見える夜空に雪が舞っている。

 真っ黒の空から白い雪片が無尽蔵に生み出されてくる様子は神のいたずらかと思えるほど美しい。

 黒いアスファルトの上に氷の結晶はもろくはかなく溶けていく。

 その脆弱な美しさはまるで朋子さんのようだった。


 りょう君は大丈夫だろう。

 根拠はない。だが先生が大丈夫だと言ったから僕は何も心配していなかった。

 先生の優しい口調にはいつも揺るぎない自信の裏打ちを感じる。

 りょう君は何事もなかったようにすぐに元気に母の胸に飛び込んでくるだろう。

 きっと明日にはあの無邪気な笑顔を見せてくれるはずだ。


 タクシーが病院に着いてしまった。

 朋子さんはドアが開くと、「りょう」と一言つぶやいて雪を掻き分けるように駆け出していった。

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