7-1

 今にも何か降って来そうな鉛色の空だ。

 その不吉な空に突き刺さるように真っ直ぐレールが伸びている。

 後ろを振り返ると同じように線路が遠近法の絵の如く紅く燃え盛る大地の一点に向かって走っている。

 どこまでも続く赤銅色のレールに辺りを覆いつくす鉛色の空。


 どうしてなのか分からないが気がつけば僕の足は線路に同化して僕は身動きがとれないでいた。

 両手をじたばたさせるのだが足は全く動かない。

 どれだけ揺すっても鋼のレールは微動だにしなかった。

 このまま僕は一生レールの上から抜け出せないのだろうか。

 そう思ったとき僕はゆっくりと前に進んでいた。

 動きたいと思ったからでもなく、かと言って動きたくなかったわけでもない。

 ただ足が勝手にレールの上を前に進んでいくのだ。

 レールの上からは外れることが出来ない。

 後ろに戻る術も見当たらない。

 このままあの不気味な空に向かって行くだけだ。

 僕は動きたくないと思った。

 少しの間とどまって考えたい。

 しかし、足は言うことを聞かずただただ前進を続ける。


 僕はだんだん焦ってきた。

 このままレールに身を任せていたらいつかあの暗い空に飲みこまれてしまう気がする。

 色とも言えない無表情の鉛の空にたどり着いても何も見当たらないに違いない。

 満足感も、達成感も、挫折感さえも。


 ……嫌だ。


 このままだと僕は灰色に染まり灰そのものになってしまいそうだ。

 燃えることなく燃え尽きてしまうのだ。

 僕は何とかしてレールから逃げ出したくなった。

 脱線したい。

 それがたとえ事故であってもいい。

 身を滅ぼすような大事故でもかまわない。

 何とかしてこのレールから外れなくては。


 いつの間にか僕の右手には大きなハンマーが握られていた。

 いや、握っているのではなく右手そのものがハンマーになっていた。

 そんなことはどっちでもいい。

 とにかくこれで殴りつければこのレールは壊れるだろう。

 僕は右手を大きく振りかざした。

 ずしりと身体全体に重量感を覚える。

 振り下ろせばこのレールはひとたまりもない。

 そのとき一瞬僕の頭の中を、レールが壊れればどうなるのか、という疑問がよぎった。

 僕は右手を下ろしかけて躊躇した。

 このレールを殴りつけると僕はどうなるのだろう。

 線路端に投げ出されても前にレールはない。

 この足ではレールがなければ進みようがない。

 しかし、僕はもう一度右手を大きく振りかざした。

 そんなことは後で考えればいい。

 とにかく今はこのレールから抜け出すことが大切だ。


 一思いに僕はハンマーを線路に殴りつけた。

 大きく高い金属音とともに全身に鈍い感触が広がる。

 しかし眼下にはびくともしない鋼のレールが横たわっていた。


 僕は不意に背後からかすかな振動を感じた。

 地面に膝をつきレールに耳を近づけると、振動は確実に大きくなっていく。

 僕は焦った。間違いない。電車がやってくるのだ。

 僕は右手のハンマーで何度も何度もレールを殴りつけた。

 このままでは僕は電車の下敷きになってしまう。

 しかし、レールは僕をあざ笑うかのように鉛色の鈍い光を変わりなく発し続けていた。


 僕は前方に目をやった。

 眼前で線路が二又に別れている。

 その向こう数メートルのところに切り替えのポイントレバーらしきものが立っていた。


 後ろを振り返ると遥か彼方から電車が進んでくるのが見えた。

 僕は前に急いだ。

 結局レールの上を進んでいる自分に嫌悪の気持ちはなかった。

 とにかく今は生きなければ。


 僕がポイントを超えたところで背後すぐ間近から獰猛な電車の猛り狂う警笛が聞こえてきた。

 僕を喰らおうとする猛獣は恐るべきスピードですぐそこに迫っているのだ。


 もう間に合わない。

 僕は伸ばせるだけ手を伸ばしてレバーに向かって倒れこんだ。


 小指にだけレバーが引っかかるのが分かった。

 その左手の小指に全力を注ぎこみレバーが倒れるのと指の股が裂けるのを感じたとき、背後でポイントが切り替わる音がした。


 誰かが僕を呼んだ気がして僕は目覚めた。

 見渡せばいつもの僕の部屋だった。

 もうまもなく日が暮れるということはカーテン越しの赤褐色の光で分かる。

 全身に不快な汗をかいていた。

 脇に転がっている先日先生の処女作と一緒に買った本を見て僕は記憶を辿った。


「寝ちゃったんだ」


 チャイムが鳴っている。先生だろうか。


 最近僕は玄関の呼び鈴に嫌なイメージを抱くことがなくなっていた。

 僕はふらふらする身体を起こして玄関に向かった。


 ドアを開けると冷気が入り込んできて一瞬にして眠気が吹き飛んだ。


「良かったね、りょう君。お兄ちゃん、いたよ」


 先生と手をつないでいるのはりょう君だった。

 りょう君は嬉しそうに僕を見上げている。

 僕は思わずしゃがみこんでりょう君に微笑みかけた。


「何だか顔色が良くないよ。体調悪いの?」


 先生が僕の顔を心配そうに覗く。


「あ、いえ、ちょっと昼寝してて、急に立ち上がったら立ちくらみがして。多分そのせいです」

「だから出てくるのが遅かったのか。何度も鳴らしたんだよ。大丈夫?」

「大丈夫です。それよりも今日はどうしたんですか?朋子さんは?」


 僕は朋子さんがドアの影から顔を出すのを期待していた。


「ママ、お仕事」


 りょう君がつまらなさそうに報告する。


「今日は日曜日だから休みの予定だったんだけど、急に仕事が入っちゃったんだって」

「そうなんですか」


 僕は極力がっかりした様子を見せないように振舞いながらも、先生に妬みを感じていた。

 どうして先生が朋子さんの予定を知っているのだろうか。

 どうしてりょう君と一緒にいるのだろうか。


 駆け足で部屋の中に入っていくりょう君を見送って先生は僕に耳打ちしてきた。


「305から戻る途中で、出てきた朋子さんにばったり会っちゃったんだよね。肝をつぶしたよ」


 どうやら先生は盗聴帰りに、急な仕事で呼び出された朋子さんと遭遇して部屋に残されるりょう君の面倒を申し出たようだ。

 りょう君が一人、部屋で朋子さんの帰りを待つことは珍しいことではなかったようだが、それでも一人は寂しいに決まっている。

 りょう君が先生に飛びついて喜んだのは、先ほど僕がドアを開けたときのりょう君の屈託ない笑顔から想像に難くない。

 これからりょう君が一人になることがあったら、こうやって遠慮せずに遊びに来て欲しいと僕は思った。

 りょう君の来訪で朋子さんと話す口実ができることを期待している部分は否定できないが、子供嫌いの僕も天使を想像させる笑顔のりょう君だけは素直に可愛いと思っていた。


 それにしても先生はあっけらかんとしている。

 二階の住人が三階にいる不自然さを朋子さんにどう説明したのだろうか。


「ここからの景色が好きなんだって答えたよ」


 りょう君に絵本を読みながら平気な顔をして先生は言った。

 「嘘ではないから」と先生は平気そうな口ぶりだが、僕にはとても真似できない芸当だと思った。

 僕だったら朋子さんにどういう応対をしただろうか。

 ろくに挨拶も出来ず逃げるように部屋へ戻ったことだろう。

 日曜日の昼間から商売に励む高校生の女の子にもびっくりだが、図太い神経の先生に僕は改めて驚いた。


 りょう君は先生になついている。

 僕の存在など忘れてしまったかのように先生の膝の上で無邪気に飛び跳ねて笑っているりょう君を見ていると、先生に嫉妬すら感じてしまう。


 先生はどうしてあんなにりょう君に好かれているのだろう。

 この部屋で鍋をやったときから初対面なのに先生とりょう君は仲が良かった。

 先生の独身らしからぬ子供のあやし方のせいなのだろうか。

 それとも単純に馬が合うというものなのだろうか。

 そう考えているうちに僕は一つの答えに達した。

 りょう君は父親を求めているのだ。

 りょう君にとって、僕と先生とではどちらがより父親に近いかと言えばそれは間違いなく先生の方だ。

 彼の目から見れば先生の方が年齢は上だし、外見的にも僕よりは父親の落ち着きを持っているだろう。


 先生の膝の上で目を輝かせて持ってきた絵本に見入っているりょう君を見て僕は父を思い出した。


 はっきり言って僕は父親が嫌いだった。

 嫌いと言うよりも恐ろしいという表現が正しいかもしれない。

 こんな乱暴で傲慢な父親はいらないと思ったことは数え切れないぐらいあった。

 出来ないと知りつつ子供心に完全犯罪による父親の殺害を考えたこともあった。

 いっそいなくなればと思わない日はなかったが、それは父親を持つ人間の言葉だ。


 口には出さないがりょう君は父親のいない寂しさ、心細さを感じているのかもしれない。

 先生の膝に座ってりょう君は背中から父親の大きさ、強さ、温かさを存分に味わっている。

 出来ることならその役を代わりたいと僕は思ったが、あまりに先生とりょう君の様子が本当の親子としてしっくりいっているように見えて、いつの間にかうらやましさも消えていた。

 絵に描いた様な美しい父子の姿がそこにあった。


 朋子さんが帰ってきたのは十時過ぎだった。

 ドアを開けたときに見えた朋子さんの顔はひどく青ざめて見えた。

 夜の暗がりや、部屋の光の加減でそう見えるのかと思ったが、口数の少なさや何となく気だるそうな仕草がやはりいつもと違っていた。

 お仕事大変ですね、と声を掛けようとして躊躇った。

 朋子さんが排他的なオーラを身に纏っているのが分かったからだ。

 放っておいてと背中が言っているように思えた。


 りょう君は遊びつかれたのか夕飯を食べるとすぐに先生の傍らで眠ってしまっていた。

 朋子さんはぐっすり眠っているりょう君を少し乱暴に抱きかかえた。

 急に抱き起こされたりょう君は手足をじたばたさせてぐずり、朋子さんが「静かにしなさい」と太腿辺りを叩くと突然火がついたように泣き出した。

 それでも彼女は強引にりょう君を抱え小さな声で僕と先生に礼を言うとさっさと自分の部屋に帰っていった。

 朋子さんが出て行ったときにドアから忍び込んできた冷気が一層僕と先生を暗くさせた。


「朋子さん、少し様子が変でしたね。風邪でもひいたのかな」


 りょう君に掛けていた毛布を畳みながら僕が言うと、先生は珍しく難しい顔をして小さく頷いた。


「最近本当に寒い日が続いてるからね」


 先生は心配そうに天井を見上げた。

 そこからは部屋に戻ったりょう君の泣き声が微かに漏れてくる。


「先生」

「何?」

「朋子さんのことが好きなんですか?」


 僕は思いきって聞いてみた。前々からはっきりさせておきたかったのだ。


 僕は朋子さんのことが好きになりかけている。

 それは先ほどドアを開けて朋子さんの顔を見たときにはっきりと分かった。

 あの何かに疲れきったような朋子さんの顔に胸を焦がす愛しさを感じたのだ。

 すばやく彼女の手を引いて胸に抱きしめたかった。

 その冷え切った頬で僕の火照った心を静めてほしかった。

 僕のものにしてしまいたかった。

 それが出来なかったのは先生とりょう君の存在だ。

 先生の方がりょう君の父親に向いている、朋子さんの夫にふさわしいと分かっているからなのだ。


「どういう意味かな?」


 先生は小首を捻って僕を見ている。

 朋子さんの顔色、この空気、僕の表情。

 先生なら僕の言わんとすることが分かっているはずだ。


「朋子さんを愛していますか?」


 僕は真っ直ぐに先生を見つめた。

 相手をコーナーに追い詰めるボクサーの気分だった。

 答えを聞くまでは逃がしはしない。

 意味を問い返した先生の真意はこの場から遠ざかりたいということだ。

 落ち着いては見えるが、僕の言葉に先生は怯んでいるのだ。

 それはつまり先生も朋子さんを好きだと言うことに他ならない。


「いや、困ったなぁ。ハハハ」


 頭を掻いて笑う先生を僕は冷ややかに見つめた。

 先生は真剣な僕を見て気まずそうに笑顔を引っ込めた。


 僕は先生からの一撃を待った。

 心の中で奥歯をしっかり噛みしめ左の頬を先生に向けていた。

 その一振りで僕はノックアウトされるのだ。

 先生の口からはっきりと「朋子さんのことを好きだ」という言葉が聞ければ、僕はここで朋子さんを諦められる気がしている。

 それは僕が先生のことを敬愛しているからだ。

 悔しいけれど朋子さんには、そしてりょう君には先生こそが必要なのだと僕は納得してしまっている。


「愛しているのかどうかと問われれば、答えははっきりとノーだよ。俺は朋子さんを愛していない」


 僕はぽかんと先生を見つめた。

 そんな馬鹿な、と笑い出したくなった。

 実は一+一=二ではないんだよと教えられたような、自分の根底にある常識が揺さぶられた思いだった。


「嘘だ」


 僕は吐き捨てるように言った。

 嘘でなければいけない。

 先生と朋子さんが結婚するという確定した未来は明日も明後日も太陽は東から昇ることと同じ自然の摂理でなくてはいけないのだ。

 僕は半ばむきになって先生に食ってかかった。


「先生は朋子さんと結婚して、りょう君の父親になるべきです」


 僕は自分の気持ちを棚上げにして息巻いた。

 心の中の葛藤が余計に平常心を失わせる。

 しかし、先生は明らかに困惑の態で天井を見上げたり窓の外を眺めたりしている。


「愛してないものは愛してないから」

「僕に遠慮してるんですか?」

「そういうことじゃなくて、……村石君は朋子さんのことが好きなんだね?」

「好きです」


 勢いとは恐ろしい。


 先生は僕の返事にさもありなんという顔つきで頷いているが、僕は口にして自分の耳で聞いて初めて自分の気持ちを疑った。

 しかし今さら「冗談です」とは言えない。

 あまりに真剣に断定してしまった。

 気がつけば後には退けないジェットコースターに乗ってしまっていたのだ。


 僕は本当に朋子さんを好きなのだろうか。

 好意を抱いているのは間違いないが、冷静に考えれば愛情と思っていたものは実は同情だったのかもしれない。

 そして朋子さんとどういう関係になりたいのか自分で分かっていない。

 結婚したいとまで考えているわけではない。

 ただ、そばにいたい。そして彼女を癒してあげたい。

 この気持ちを言葉で具体的に表現するのは僕の語彙力では不可能だった。

 僕はどうしたいのだろう。

 僕はもやもやとした霧の中にいた。

 視界ゼロ。足元も見えない。迷子になったような焦りが僕の中に渦巻き始めた。


 そのとき階上から何かが落ちたような鈍い音が響いてきた。

 間違いなく音の源は朋子さんの部屋だった。

 聞こえていたりょう君の泣き声がぴたりと止んでいる。


「今の、何の音かな」


 先生は小首を傾げた。


「まさか倒れたんじゃ」


 ごまかしようのないほど青ざめていた朋子さんの顔色が思い出される。

 先生は僕の言葉を聞いた瞬間に飛び出していた。

 僕は先生の背中を追いながら、やっぱり先生は嘘をついていると確信した。

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