3-2

 このマンションに引っ越してから君江はどことなく様子が変だった。

 以前は常に物静かで穏やかな性格だったのだが、最近は思い込みが激しく、たわいのないことに過剰に反応するようになった。

 手を滑らせてコップを割っただけで自分の愚かさを嘆き、死にたいとまで言う。

 その割れたコップの欠片で軽く指を切っただけなのに、血が止まらないと青ざめる。


 精神的に不安定なのだろうと思うのだが、明彦には何もしてやれなかった。

 明彦自身も自分の将来を憂えて何も手につかなくなるときがある。

 このまま当てもなく不毛な生活を死ぬまで続けていくのかと思うと心臓が締め付けられ耳障りなほど動悸を感じるのだ。

 正直、明彦の方が慰めて欲しいぐらいだった。

 こんなときこそ妻にしっかりと内助の功を発揮して欲しかった。

 職を失って以降明彦のプライドはずたずただった。

 我が家にいるときぐらい心身ともにリラックスしたかった。


 静かに眠る君江の顔をじっと見つめているといつの間にか皺が増えてしまったことに気付く。

 顔色が悪いせいか肌も潤いがなくカサカサとしているようだ。

 苦労をかけているのだ。

 そう思うと明彦は自分の不甲斐なさが情けなく君江にわびたい気持ちになった。

 君江、すまない。

 思わず目頭が熱くなるが、客がいるのを思い出して明彦は大きく息を吸い込んで立ち上がった。


「先ほどは本当にご迷惑を掛けました」


 明彦は静かに寝間の障子を閉めて二人の前に座った。


「様子はいかがですか?」


 榊原と名乗った205号の住人が心配そうに尋ねてくれる。

 しかし、明彦は複雑な気持ちだった。

 心配してくれるのは有難いが、妻は病人ではない。ただ疲れているだけだ。

 哀れみの響きを多分に含んだ言葉は許せなかった。

      

 こう思ってしまうのは心が荒んでいるのかもしれないが


 今まで妻と二人きりで幸せに生活してきたのだ。

 心配される筋合いはない。

 それとも俺たち夫婦は他人が思わず同情を禁じえないというほどに落ちぶれてしまったということなのか。

 古ぼけたマンションの一室で、最低限の家具調度しかない薄暗いこの部屋で砂を噛んでいるような冴えない顔をつき合わせていると気持ちはどんどん沈んでくる。


 三十歳前後だろうか。

 この榊原という男もこんな明るい時間に家にいるということは、まっとうな仕事をしているとは思えない。

 俺が彼ぐらいの年のころはそれこそ馬車馬のように外を駆けずり回り汗水流して血を吐くような思いで仕事をしていた。

 最近本当に理解の出来ないことが増えた。

 それだけ自分が時代に取り残されてしまっているということなのかもしれないが。


「顔色は良くないですが、静かに眠っています」

「そうですか」


 ほっとしたような顔で村石という学生が明彦が淹れた茶を飲み始めた。

 いかにも頼りなさそうな学生だ。

 目に力がない。

 明彦は自分が大学生だったころを思い出していた。

 あのころは誰にも夢があった。

 希望もあった。力強い目をしていた。

 こんなひょろっとした青二才に助けられている自分という存在が実に情けなく思えてくる。


「いったい、どういういきさつであんなことになってしまったのでしょうか」


 明彦はずっとそのことが気になっていた。

 君江の方から喧嘩を仕掛けたのだろうか。

 102号の女性の口ぶりだとどうやらそのようだが。

 しかし、君江が誰かと口論するところなど結婚して二十年になるが初めて見る光景だった。

 目の当たりにしたのに未だに信じられない思いだった。


「私も事の始まりは分からないのですが、なにやら下の通路が騒がしいなと思って見てみたら、……そうしたら奥様と102号の方が、何と言うかその、取っ組み合いになっていましたので、慌てて止めに入ったという次第です」


 榊原の説明に同調するように村石が頷いた。


「家内は大変大人しい性分で人と喧嘩するなどということは考えにくいのですが、原因は何だったのでしょうか」


 明彦の質問に二人は目を合わせて困ったような顔をした。

 原因が分からないという雰囲気ではない。

 分かってはいるが口にすべきかどうか躊躇っているという様子だった。

 やがて年長者の榊原の方が意を決したような表情で口を開いた。


「原因はどうもご主人のようです」

「私が?」


 明彦は乗り出し気味に彼らの口元を窺っていた身体を思わず引いた。

 全く身に覚えがなかった。

 君江が口論していた相手とはたまに朝に顔を合わせて、立ち話をすることはあるが、それ以上のことは何もない。

 お互いに名前も年齢も知らないのだ。

 何の接点もないのにどうして俺が原因なのだ。


「奥様はどうやら、その……」


 先ほどから丁寧な口調の榊原がさらに慎重に言葉を選んでいる。

 明彦はまさかと思った。


「浮気を疑っていらっしゃるようです」


 見かねた村石がはっきりと言い切った。


「私が、お隣さんとですか。馬鹿な。名前も知らないんですよ」


 思わず言葉に力がこもる。

 冗談じゃない、と明彦は思った。

 しかし正面の二人はとても冗談を言っているとは思えない沈痛な面持ちで俯いている。

 明彦は怒りに頬を紅潮させた。

 どうしてそうなるのだ。俺が何をしたと言うのだ。


 この二人にいらだっても仕方ない。

 しかし、この二人は火のないところに煙は立たないぐらいのことは思っているかもしれない。

 こんな見ず知らずの世間を知らなさそうな若い人間にあらぬ疑いを持たれるのは沽券にかかわる。

 君江はいったいどうしてしまったんだ。

 妻の考えていることが全く分からない。

 明彦は言いようのない無力感に肩を落とした。


「たまにお見掛けするぐらいなのですが普段の奥様は上品で落ち着いた方だと思います。いつも清楚で立ち居振る舞いの美しい慎ましやかな印象でした。ですが正直に申しまして私が見たところ今日は奥様の方が相手をしようとしないお隣の方に食って掛かっていたようです。私達が何を言っても聞いていただけませんでした」


 たった二ヶ月の間にたまに見かけたぐらいで君江の性格を見抜く榊原の目は確かなようだ。

 明彦も半狂乱で罵り合っている妻を目撃してしまっている以上彼の言葉を信じないわけにはいかない。


「恥ずかしい話ですが、家内は最近精神的に参っているようで。事実、心ここにあらずということが多くなりました」

「失礼ですけど、その……更年期ということで」


 榊原の言葉に明彦は力なく首を横に振った。


「それも無いとは言えませんが、原因は他にあるのです。……私のリストラが家内にかなりの心労を与えているようです」


 明彦は自分が口にしている言葉に驚いていた。

 どうしてこんな見ず知らずの赤の他人に、しかも世間の苦労も知らないような尻の青い若輩者に己の情けない境遇を話しているのだろうか。

 しかし、明彦の意思に関係なく口から漏れる愚痴の奔流は留めようが無かった。

 まさに大河の雄々しい水の流れのようだった。


「私は某大手の食品メーカーに勤務しておりました。若いころから営業一筋で仕事に対し全身全霊を傾け、自慢ではありませんが営業成績も常にトップでした。そんな私に目を掛けてくださったのが当時の営業部長で、何かにつけて私を可愛がってくれました。私は部長を慕いその下で懸命に働き、その甲斐あって入社十年で課長になるという異例の出世をしました。その間部長もとんとん拍子で栄達され副社長になり次期社長の声も高まっていたのですが……」


 物珍しそうな顔をして二人の若者が明彦の言葉を待っている。

 明彦は胸が熱くなるのを感じた。

 誰かに話したかったのだ。話したくて仕方なかったのだ。

 しかし、妻は精神的に参っていて夫の愚痴に付き合える余裕はない。

 夫婦の間には慰めとなる子供もいない。

 友人にも話す気などしない。

 彼らは上辺だけだ。

 表面上は同情しているが内心では他人事で、自分でなくて良かったと胸をなでおろし、相手の不幸を面白がっているだけだ。


 結局今日の今日まで誰にも胸の内を明かすこと無く悶々と毎日を送っていたのだ。

 明彦は自分とは全く違う境遇の若い二人に導かれるように喋り続けた。


「ある日、私が指揮をとって手掛けていた製品が他社に出し抜かれてしまったのです。私達が売り出そうとしていたのは健康食品の一種で当時のブームを先取りして大幅に利益が伸びると確信していました。高額の開発費をつぎ込んではいましたが、近い将来社の主力商品に成長するだろうと誰もが期待していたのです。しかし我社が発売する二週間前にライバル社が全く同じものを突然発売したのです。どこからかうちの情報が漏れたとしか考えられませんでした。同じものを遅れて発売しても利益は上がりません。それどころかすでに出来上がっている商品は在庫となってしまい赤字は必至です。結局ライバル社の業績はうなぎ上りとなり、我社は二番煎じの烙印を押されてライバル社の後塵を拝する格好になってしまったのです。私は責任をとらされて左遷されました。そしてさらに私をバックアップしていた副社長もポストを奪われ降格となりました」

「そんな……。どこから情報が漏れたかは分かったのですか?」


 村石が自分のことのように悔しがっている。興

 奮している彼を見て明彦は冷静さを取り戻していた。


「噂では……。しかしそんなことは後の祭りです。運がなかったと言うほかありませんが、私は負けたのです」

「それで良いんですか?自分のせいじゃないのに。どこかに訴えるとか出来ないんですか」

「民間企業の内部抗争です。こういう足の引っ張り合いは珍しいことではないんですよ。私も同じように失脚していった人間を何人も見ています。出る杭は打たれるということです」

「ですが、水野さんはまだ年齢的にお若いですよね。いくらでも挽回が利きそうですが」


 興奮している村石とは対照的に榊原は落ち着き払っている。

 明彦は榊原に呼応するように冷静な視線を送った。


「確かに私はまだ若い。チャンスがあれば今回のマイナスを補ってさらに上に行くこともできたでしょう。しかし……」

「さらに何か?」


 まだ興奮冷めやらない村石が食ってかかってくる。


「副社長が急逝したのです。もう少しのところで頂点に立てたのに、その願いが叶わなかったショックが大きかったようです。あの方は年齢的にも最後のチャンスだったので……。私は中央に戻る足がかりを失いました。そして副社長の秘蔵っ子とも言うべき私の事を煙たがる取締役達は私をどんどん閑職に追い込んでいきました。いつの間にか私はリストラの対象になってしまい最後には人里はなれた地方の工場長として定年まで働くか、割り増しの退職金をもらって退職するかという選択を押し付けられたのです」


 明彦がそこまで言うと若い二人は何も言葉に出来ずうなだれてしまった。

 明彦の心境も想像できず、掛ける言葉も見当たらないといった表情だ。


 しかし、明彦は妙に晴れやかな気持ちになっていた。

 今まで誰にも話すことが出来なかったことを話し、世間を知らない若い二人に傷だらけの惨めな自分の姿をさらすことで、明彦は触り心地の悪い薄皮を脱ぎ捨てたような清々しさを手に入れた。

 それはべっとりと雨に濡れそぼった合羽を脱いで暖かく乾いた風に吹かれたときのような解放感だった。


 障子の向こうから布団のこすれる音がした。

 君江が寝返りをうったのだろう。

 そのとき明彦は裏切り者の後ろめたさを感じた。

 自分だけ心を晴らしたことが気を違えてしまうほどに心労をかけた妻に対して申し訳ない気持ちにつながったのだ。

 俺が君江に愚痴一つこぼさなかったように君江も俺に文句の一つも言うことはなかった。

 君江もどこかで心を裸にしておけば先ほどのように溜め込んだストレスを爆発させて他人と罵り合うことなどなかったのかもしれない。


「君江にはつらい思いばかりさせてしまった」


 明彦は懺悔の気持ちだった。

 教会で罪を独白する人の気持ちが分かるようだった。


「内側に溜め込んでしまわれたのかもしれませんね」

「その通りだと思います。……一番つらいのは君江なのです。帰る家まで無くなってしまったのですから」

「と、いいますと」

「彼女の母親は彼女が大学生の時に不慮の事故で他界していました。彼女にとって家族は父親だけになっていたのです」

「その父親というのが、まさか……」


 榊原は全てを理解して明彦の目を見た。

 村石は何も分からない様子で絶句した榊原の横顔を眺めた。


「そうです。亡くなった副社長です。彼女は最愛の父を突然失い、さらに夫が出世街道から一転リストラの憂き目に合うのを目の当たりにしたのです」


 社会の恐ろしさを知って暗い表情の二人は明彦と君江に何も言えず部屋を出て行った。

 外はいつの間にか日が没して闇に包まれている。

 北風が口笛を吹いている。今晩の冷え込みもかなり厳しそうだ。


 玄関を出たところで二人がこのマンションの住人らしき若い女性と立ち話をしだしたのが聞こえてきた。


「あら。こちらの部屋の方とお知り合いなんですか?」

「あ、朋子さん、今お帰りですか。さっきね、ここの……痛っ」

「別に何でもないんだよ。少しお茶をいただいただけ。……りょう君、こんばんは」

「こんばんは」

「上手に返事が出来たねぇ。おりこうさんだねぇ」


 階段を上がって行く音が聞こえる。

 口止めはしなかったが榊原は察して他言しなかったようだ。

 明彦はほっと胸をなでおろした。

 彼らがいつ誰に喋るかは分からないが、今この場で黙っていてくれたことに感謝したかった。

 出来ればこのままずっと胸の内にしまっていて欲しいが……。

 君江を止めてくれたあの二人は当事者であり他人とは思えないところがあるが、他の住人は全くの見ず知らずであり、そんな人達からリストラされた可愛そうなおじさん、更年期で頭が少しおかしくなった危険なおばさんだと思われるのは耐え難い。 


 障子を開けると君江がゆっくりと目を覚ました。


「気分はどうだ?」

「あなた。私……どうしたのかしら?……痛っ」


 君江は眉間にしわを寄せこめかみに手を当てた。

 顔が紙のように白い。

 明彦は君江の横に腰を下ろし布団を掛けなおしてやった。


「少し疲れがたまっているんだ。今日はこのままゆっくり休みなさい」

「でも……今何時かしら。ご飯の準備をしなくちゃ」

「今、六時を過ぎたところだ。飯は気にしなくていい。スーパーで惣菜を買ってきたし勝手に食べるよ」

「そう、ごめんなさいね。お言葉に甘えて今日は休ませてもらおうかしら。何だか頭が割れるように痛いわ」

「ゆっくり休むといい。薬を飲んだほうが楽になるぞ。今、水を持ってくる」


 明彦は立ち上がって台所に向かった。

 コップに水を汲んで君江のそばに戻ると君江は半身を起こし乱れた髪を撫で付けていた。

 明彦がコップを差し出すと君江は頭痛薬を二錠口に入れ水を全部飲み干した。


「あなた、もう一杯よろしいかしら。すごく喉が渇いているの」


 明彦が頷いて水を運んでくると君江はまた美味しそうに一気に飲み干してしまった。


「そんなに飲んだら腹を下すぞ。体調が良くないときは冷たい水は身体に毒だからな。俺は八時からまた仕事だから暫くしたら行くけどお前はゆっくり休めよ」


 君江は明彦の言葉に従って横になり、枕に頭を委ねた。

 顔に疲れがありありと出ている。

 今朝はこんな表情ではなかったはずだ。

 今日一日で一気に老け込んでしまった感じがする。

 明彦が布団を掛けなおしてやると君江が明彦の手を握った。


「あなた……私に何か隠し事してない?」

「何を隠しているって言うんだ。馬鹿なことを考えていないでゆっくり寝なさい」

「仕事って何の仕事なの?」


 君江が冗談で言っているのでないことは目を見れば分かる。

 君江の目は明彦の言葉を待って怯えているようだった。


 仕事のことは前にも説明してあるはずだ。

 昼間は職探しで夜に交通整理で働くと決めたじゃないか。

 君江は何をいまさら言い出すのか。


「本当に仕事なの?本当だったらあなたに今から出勤させるなんて許せないわ。あなた、もう課長じゃない。部下だってたくさんいるんでしょ?今度私から直接父にお願いするわ。誰か他の人にやらせてって」


 明彦は目の前が暗くなるのを感じた。

 君江の顔がものすごく遠くに感じる。

 何を言っているんだ。お前の父親は三年前に死んだじゃないか。

 課長だったのはもう十年も前のことだ。俺はリストラで仕事を辞めたんだ。


 君江は急に堰を切ったように泣きだした。


「私、あなたが浮気をしているんじゃないかって心配なのよ。最近私を抱いてくれなくなったじゃない」

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