3-1

 今日もまただめだった。

 一体これで何回目になったのだろうか。

 そしてこんなことがあと何回続くのだろうか。

 あの面接官はいくつぐらいだろう。

 三十代だろうか。ひょっとすると二十代かもしれない。

 あんな若いやつらに好奇の目で嬲られるのはもうやめにしたい。


 水野明彦はスーパーで二人分の惣菜を買い、家路をとぼとぼと肩を落として歩いていた。


 今日の面接は社名も聞いたことのない、起業まだ間もない介護用品のメーカーだった。

 今まで明彦はある程度歴史のある企業に的を絞って採用面接を受けてきた。

 長い年月存続してきた会社にはそれだけ自分に同じぐらいの年齢の社員が多く、その分自分の価値を理解してくれる人がいるかもしれないと思っていたからだ。


 明彦は同年代が相手ならまだまだ負ける気がしなかった。

 自慢ではないが今までいくつもの修羅場を潜り抜けてきたのだ。

 営業で培ってきた経験は伊達じゃない。

 体力的にも精神的にもスタミナなら自信がある。


 しかし、どこの企業の面接を受けても五十に手が届いてしまった人間を中途で雇う気はないようだった。

 コースから外れた中年を同情で雇うほどどこも景気は良くないのだ。

 給料は高く、パソコンは十分に使えず、新しいものを創造する力もない。

 それだったら給料が安くすむ高卒の人間を一から育てる方が利につながるというのは当然の発想だった。

 そのことは受けている明彦自身も当然理解している。

 理解はしているのだが、だからと言って自分と妻の口を糊していくためにはいつまでも就職しないわけにはいかなかった。


 だから今回は考えた。

 ベンチャー企業の新しい発想を持った人間のほうが逆に自分の良さを理解してくれるのではないか、若さだけを売りにして勢いで社会の荒波に挑戦している彼らこそ熟年の経験と知識を求めるのではないだろうかと。


 その会社の求人情報は三十歳までと謳っていた。

 そこを敢えて明彦は挑戦した。

 若さしか求めていない相手に自分を評価させてみたかったのだ。

 何となくだが、今回はうまくいくような気もしていた。


 面接会場に行くと当然他の若い応募者から白い目で見られた。

 字が読めないのかとわざと明彦に聞こえるように揶揄する輩もいた。

 そして受付係の人間にあからさまに不快な顔をされても明彦は頭を下げまくって面接のチャンスをものにした。

 「分かりましたよ」と相手が半ば呆れたように折れたとき、営業で培った根性はまだまだ捨てたものではない、と明彦の胸は久しぶりに高鳴り自分でも持て余すほどの熱を帯びた。

 「見たか」と誰に言うでもなくひとりごちた。


 しかし、結果は惨憺たるものだった。

 もちろん淡い望みだったということは分かっている。

 面接を受けさせてもらっただけでも有難いと思うべきなのだろう。

 だが自分よりもはるかに若い人間に必要ないと評価されることは明彦に予想以上のダメージをもたらした。

 自分の半分ほどの人生しか経験していない人間に頭ごなしに要らないと言われることはこの上ない屈辱だった。


 面接官は明彦に一分半の自己アピールをさせ、その場で間髪いれず不採用と宣告した。

 呆気にとられる明彦に面接官の一人が一枚の履歴書を手渡した。

 赤いボールペンで大きく「採用」と書かれたその履歴書の写真に明彦は目を疑った。

 そこには髪はぼさぼさでひげ面のTシャツ姿のむさくるしい男がいた。

 年齢は二十六歳と書いてあるが、その写真の生気のない顔には二十代の若々しさは微塵も感じられなかった。


「何故この人が採用で、水野さんが不採用だと僕が判断したか分かる?」


 その面接官はまるで友達に話しかけるような馴れ馴れしい口調で明彦に尋ねてきた。


 明彦には全く理解不能だった。


 履歴書の写真というものは面接官に対して第一印象を与える。

 限られた時間内での面接において優劣を付すにはその第一印象が大きな意味を持つ。

 この履歴書の写真からは非常識、怠惰、傲慢といった悪いイメージしか窺い知れない。

 明彦が面接官なら面接を受けさせることなく不合格を決定しただろう。

 どうしてこんな写真を使うのかと説教の一つでもしてやりたいくらいだ。


 明彦が答えに窮しているのを見て彼はその栗色の長い襟足をいじくりながら皮肉な笑みを浮かべた。


「水野さんってさ、あれでしょ?いわゆる昔ながらの『足を使ってかせぐ営業』ってやつの経験しかないんでしょ?これからはそんな経験なんか要らないんだよね。うちの会社は今後世界を相手にしようと思ってるわけ。足を棒にしてお得意先を何件も回ってせせこましく商品をアピールするなんて時代錯誤の手法はうちではやらないのよ。インターネットで情報を世界に配信して時刻に関係なく世界中の人から注文を受けるのがうちのやり方。この人はボランティアで世界各地を回って医療行為の補助を行ってきた。水野さんって海外に行ったことある?英語なんてしゃべれないでしょ。世界のニーズを理解し、しかも介護についての知識も彼は持ってる。失礼だけど水野さんを雇うメリットはうちにはないの。仮にこの人の半分の給料でも雇わないだろうな」


 侍ならば刀に手を掛けただろうか、と明彦は思った。

 水野家は古くは武士の家系だった、と幼い頃祖母に聞いたことがある。

 武士は受けた恥辱屈辱を刀で返す。

 明彦は遠い祖先を思い描いた。

 このちゃらちゃらした面接官を一刀両断にし、すかさず自分の首筋に刃を立てる。

 それができない明彦にご先祖様は恥を知れと草場の陰で泣いているかもしれない。


 しかし、俺は武士ではない。

 リストラに遭った中年男は何の力も示せず我慢するだけだ。

 啖呵を切って椅子を蹴飛ばし会場を後にすれば少しは溜飲が下がるかとも思ったが、そんなことをしても無職という苦境は改善されない。


 明彦は面接官に深々と頭を下げて礼を言い、きびきびとした動きで退室した。

 それが明彦なりの意地というものだった。


 閉めたドアの向こうからは失笑が漏れ聞こえてきた。

 明彦は唇を噛締めて会場を後にした。


 明彦はまだ太陽が見えるうちに家に帰るということがこんなに惨めだとは思っていなかった。

 お天道様に申し訳ないというわけでもないが、だらしない感じがして自分に嫌気がさしてくる。

 ばちが当たりそうな後ろめたい気持ちだ。

 しかし仕方がない。これも自分の人生なのだ。


 明彦はこれから二ヶ月前に引っ越したマンションに帰り、買ってきた惣菜で妻と夕飯を済ませ、午後七時から道路の工事現場で交通整理をすることになっていた。

 最近めっきり冷え込んできてアスファルトの上での立ちっぱなしの仕事は腰に応えた。

 冬の交通整理のつらさには明彦は内心驚いていた。

 天気が悪い日は最悪だ。

 本当に身体の芯から冷え切ってしまい、指先の感覚など全くなくなってしまう。

 まもなく冬の寒さはピークを迎えやがて雪も降ってくるだろう。

 もしこのまま職が見つからなければ雪の降る深夜に立ちっぱなしで交通整理だ。

 さすがに身体を壊してしまうかもしれない。

 妻も最近顔色が優れない。

 自分が寝込んでしまっては誰が働きに出るというのか。

 そう思うとますます憂鬱になってくる。

 早く仕事を見つけなければ。

 しかし気持ちは焦ってもこの二ヶ月の間事態は何一つ好転していなかった。


「人でなしっ!」


 明彦がマンションにさしかかったとき矢のような鋭い声が辺りに響き渡った。

 明彦は思わず顔を上げて声の方向を見た。

 聞き覚えのあるような女の声だと思った。


「誰が人でなしよ!あんた頭がおかしいんじゃないの?」

「まあまあ、二人とも落ち着いてくださいよ。ね、ゆっくり話し合えば分かるんだから」


 どうやらマンションの一階で女性が二人言い争っているようだ。

 今にも相手に殴りかかろうとしている二人の女性の間に男性が二人入り込んで必死になだめようとしている。

 しかし、一端火がついてしまった女性二人に冷静さを取り戻させるのは容易なことではない。

 男同士の喧嘩なら少しぐらい手荒に対応しても何とかなるが、間に入っている二人の若い男性も女性同士の喧嘩だけにどう収拾したら良いか分からない様子だ。


「夫を返しなさいよ。この、泥棒猫!」

「だから、知らないって言ってるじゃないのよ!何度言ったら分かるの!」


 彼女たちは仲裁の二人を揉みくちゃにしながら互いに手を伸ばしとうとう相手の髪を鷲掴みにして引っ張り出した。

 四人が複雑に絡まりあって事態はますます混乱の度合いを深めていくようだった。

 間に入っている男性二人の必死に張り上げる声が空しく響く。


「抑えて、抑えてくださいっ!」


 明彦は愕然とした。

 口論をしているうちの一人は妻の君江だったのだ。


 こんな時間にまだパジャマ姿のままのその相手はどうやら隣の102号の住人らしい。

 最近マンションのゴミ捨て場で何度か立ち話をしたことがある三十代半ばの女性だ。

 彼女には夜の商売をしている女性特有の怠惰な雰囲気がある。

 明彦も何度か仕事の接待でそういう場に足を踏み入れたことはあるが、何度行ってもどうも落ち着かなかった。

 自分が下戸だからということだけではなかった。

 金を使って女をはべらせ淫らな手を彼女たちに這わせながら浴びるように酒を飲み汚い言葉で下品に罵りあう男たち。

 そういう場にいると、「己の今の無様な姿を鏡に映して恥を知れ」と明彦は怒鳴りつけたくなるのだ。

 そしてそういう愚かな男たちにたかって金を搾り取るようなホステスという人種にもへどが出るような思いがする。

 この女も生理的に好きになれないと明彦は思っていた。


 君江が人と喧嘩をしているところなど明彦は見たことがなかった。

 彼女は虫も殺せない性格の優しい人間なのだ。

 しかし、二十年以上連れ添った妻を見間違うはずがない。

 明彦はスーパーの袋を放り投げて駆け出し、仲裁している大学生ぐらいの男性に制されて手足をばたつかせている君江を後ろから抱きかかえた。


「何をやっているんだ?どうしたんだ、君江」

「あなた……。この女と一緒じゃなかったの?」


 君江は自分を抱きすくめる明彦の顔を見て絵に書いたように分かりやすい驚きの表情を見せた。


「何を言ってるんだ。仕事に決まっているだろう」

「ほら御覧なさい。言いがかりを付けるのもいい加減にして頂戴よ。今度馬鹿なこと言い出したら本当に訴えるわよ」


 102号の住人は髪を振り乱し鼻の穴を膨らませまるで仁王像のような憤怒の形相を浮かべている。

 しかし、君江にはその怒りの声が全く聞こえていないようだ。


「ああ、あなた。良かったわ。私は心配で心配で」

「何を心配していたんだ」

「ううん。なんでもないの。あなたがいれば」


 君江は目を閉じたかと思うと力無く明彦の胸にもたれかかった。


「君江」


 明彦は倒れ掛かる妻を両腕で抱きかかえた。

 君江は顔から完全に血の気が引いていて一人では立てない様子だった。


「夫婦漫才なら勝手にやってよね」


 102号の住人は吐き捨てるように言うとそっぽを向いて部屋に戻って行った。

 明彦は彼女の背中に向かって「すみませんでした、ご迷惑をおかけしました」と声をかけ、仲裁していてくれた二人の男性にも頭を下げた。

 とりあえず妻を部屋に寝かせようと明彦は君江を抱えなおして玄関のドアを開いた。

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