事件 二〇一三年 秋 一

 その年の春に六十二歳になった木之本(きのもと)亮平(りょうへい)は、三十歳後半から今まで、人の手とその動きを見、声と足音を聞くことを仕事にしてきた。

 手の殆どは男のものである。ごつごつとして肌の荒れた、何となく薄汚れた感じを受けるものが多かった。

 目の前に空いた隙間から差し出される時の動きも、どこかおどおどとしており、遠ざかる二人分の足音は静かである。

 中には足音さえ憚るような静かな者もいたが、これは倫理的に問題があるケースだろう。

 時には、女の手のように肌理の細やかな男の手もあった。これは恐らくホストか何かだ。手の動きはどこか手慣れていて、大抵、女の嬌声と足音が一緒に遠ざかっていった。

 稀に女の手が差し出されることもあり、こちらは例外なく肌が荒れていた。いろいろな意味で、一日何度も手を洗っているのだろう。

 加えて、マニキュアが剥げていたり、爪の手入れが十分ではなかったりする。それをする余裕すらないのだ。

「ここまできて、今更何言ってるの」 

 そんな声と共に足音が遠ざかることもあった。

 最新の施設では、受け渡しが全自動というのも多いと聞く。しかし、ここのオーナーは昔気質で、問題がありそうな客を早めに察知するために、いまだに係の者を置いていた。

 その中で、木之本は特に優秀である。長年この仕事を続けてきた彼は、客の顔を直接見なくても手とその動きを見、声と足音を聞けば、背景にある大体のことを推測することが出来るようになっていた。

 心中覚悟でやってきた客を、諭して送り返したことも何度かある。客のためではなく、仕事としてやったことだが、後日丁寧な礼状を受け取ったこともあった。


 ところが、その日やってきた客達はいずれも奇妙だった。


 まず、午後五時前に相次いで二組の客がやってきた。

 いずれも、落ち着いた声に迷いのない手の動き、遠ざかる二人の足音も確信に満ちている。

 そもそもこんなところに来る客のものではない。市内のもっと高価な施設のほうがよほど似合いのように、木之本には思われた。

 続いて、午後五時をすこし回ったところでやってきた客は、どう考えても未成年だった。

 上ずった声で番号を指定する。受け取る時の手は戸惑いに満ちていた。足音は二つとも性急で、即座にこの場から姿を消したがっていることが分かる。

 しかし、死に急ぐ様子ではなかったので、木之本は黙って応対した。職業柄、必要以上に人のことに介入することは避けている。

 ところが、それと同じような手がさらに二件続いたので、木之本は頭を捻った。

 春から夏にかけてであれば、それほど違和感は受けなかったかもしれない。そういう気分になりやすい季節だし、卒業式の後から入学式の前にかけては特に多い。

 それから真冬。宿がなくなって流れてきたケースである。

 秋というのは、外で何かするというよりは自宅に閉じこもることが多くなる、客足が遠のく季節である。その季節に客が一時間で五件というのは珍しい。彼はこれまで経験したことがなかった。

 さらに、その後にやってきた客の声には聴き覚えがあった。

 既に幾度となくここを利用したことのある、常連の男性である。木之本は三回聞いた声は忘れない。

 落ち着いた、しかしどこか機械的な声。続いて手入れの行き届いた手が、迷いなく狭い隙間から差し込まれてくる。女の肌を撫でるのに慣れた滑らかなものではなく、それなりに働いていることがわかる手である。事務職か何かだろう。

 手慣れたその動きから、このような施設を利用することに慣れていることが窺える。先を歩く自信に満ちた足音と、それに続く頼りなげな足音。

 随分と軽い音から、小柄な女か未成年だろうと木之本は推測する。

 彼は顔を顰めた。

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