弥生 二〇一五年 春

 Nは「希望」であり、「福音」であり、「浄化」であり、「正義」である。

 Nは「絶望」であり、「呪詛」であり、「壊死」であり、「悪夢」である。

『神聖喜劇(La Divina Commedia)』に曰く。

「この門を潜る者は一切の希望を捨てよ」

 但し、地獄は彼岸のみにあらず。

 此岸にもある。

 然しながら、諸君にはまだ救いの手が残されている。

 それを手にするか否かは、諸君次第であるが。

 我々「C.O.N.」は、救済の天使である。

 諸君の望みを叶えるため、この世に降りた戦士である。

 さあ、此岸の地獄に喘ぐ子供たちはこの門を潜りたまえ。

 その地獄はNの子供たちには相応しくない。


 ~ ENTER ~


 *


「……何この気持の悪い文章」

 読んだ瞬間、弥生はそう吐き捨てるように言った。彼女は空手好きの武闘派少女だが、読書は嫌いではない。正確に言うと子供の頃は嫌いだったが、悠太の影響で本を読むようになった。

 帰国子女である悠太は、その反動で日本の古典文学から現代文学まで、日本語を味わうように読んでいた。弥生もその影響を受け、現代女子高生にあるまじき渋い読書傾向を保持している。

 三島由紀夫の『金閣寺』

 谷崎純一郎の『春琴抄』

 志賀直哉の『暗夜行路』

 中勘助の『銀の匙』

 弥生が今でも繰り返し読んでいる小説のタイトルである。

 本人はあまり意識してはいなかったが、読むという行為における弥生のセンスは極めて優れており、従ってその時も彼女は事の本質を端的な言葉で表現した。さらに武道家の習性で、彼女は止めを刺しにゆく。

「言葉のイメージだけが先行する内容のない空回りの文章から、ナルシシズムが下水の匂いのように立ち昇ってくるような、そんな感じがする」

「これまた随分と手厳しい感想だね」

 クラスメイトの佐々木(ささき)優奈(ゆうな)は苦笑いしながら、タブレット端末を手元に引き寄せた。

「それでね。ENTERのところに触れると、次の画面に移るんだけど」

 画面が切り換わり、入力画面が表示される。項目は上から順番に以下の通り並んでいた。


 生年月日

 国籍

 氏名

 性別

 住所

 連絡先電話番号

 連絡先メールアドレス

 相談内容

 相手に関する貴方が知る限りの個人情報すべて


「ここに自分が殺したい相手のことを書き込むと、実際にその人が死んでしまうんだって」

 優奈の幼い声で「殺す」とか「死ぬ」とか言われると、弥生は胸がどきどきしてしまう。

「これ、住所と電話番号とメールアドレスを収拾するための詐欺サイトじゃないの?」

 弥生は殊更何気ない調子でそう言いながら、頭では別なことを考えていた。

 ――入力項目がなんだかおかしい。

 最初のうち、それは単に言いようのない違和感でしかなかったが、次第に具体性を帯びてくる。

「これ、なんだか変だよね」

「えっ、どこがどんな風に」

「だってさあ――」

 弥生は画面の一点を指差す。

「普通、生年月日は入力項目の一番最初にこないよね」

 優奈はきょとんとした。

「それってそんなに変なことかな」

「えっ!?」

 思わぬ異論に弥生はたじろぐ。

 彼女は、幼いころから「空手道場」という特殊な環境に馴染んでおり、それゆえ「自分には一般的な女子高生としての常識が欠けているかもしれない」と感じることがあった。

 例えば、弥生は空手着の有名メーカーならばいくらでも答えることが出来る。かなりマイナーな手縫いの職人情報まで押さえてある。

 しかし、渋谷や原宿で今流行っているブランドについては全く分からない。その話になると途端に会話に入り込めなくなる。だから、女子高生の一般常識を問われると途端に自信がなくなった。

「何も考えずに並べただけじゃないのかな。ほら、国籍と住所が離れ離れになっているでしょう。これも普通はセットだよね」

「まあ、そう、かな」

「それに電話番号だって、今時は固定電話と携帯電話の欄を分けるよね。一つだけって有り得ないよね」

「ああ、そう、だよね」

「弥生ちゃん、何だか固まってない?」

「ああ、ごめん。大丈夫」

 弥生は引きつった笑いを浮かべながら両手を胸の辺りで振った。

 優奈は普段穏やかな性格なのに、とても勘が鋭い。危ない、危ない。

 幸いなことに彼女は物事に拘る性格ではなかったから、

「それでね。私の昔からのお友達がこの謎を追いかけているんだ」

 と、話を別な方向に持っていった。

 同時に優奈の指が画面上の、何もないはずのところを順番に手慣れた調子でなぞる。

「これも彼女から教えてもらったことなんだけどね」

 画面が切り替わり、一覧表が表示された。

「これって――」

「多分、入力された相談内容と相手の個人情報の一部じゃないかな」


 *


 優奈が横浜市郊外にある一軒家の呼び鈴を押すと、中から女性の声がした。

「はあい、今いきまーす」

 その底抜けに明るい声に、弥生は意表をつかれる。

 昨日、優奈から聞いた話では、この家の現状はとても楽観的なものとは思えなかった。

 玄関のドアが開く。

 中から、

「優奈ちゃん、いつも有り難うね」

 と言いながら、ふっくらとした笑顔が似合う中年の女性が現われた。

「こんにちは、都(みやこ)さん。麻衣(まい)はいますか」

「いるいる。もう、絶賛自宅警備中だよ。さあ入って入って」

 都の満面の笑みに迎えられて、弥生は戸惑った。

「あの――」

「あ、紹介するの忘れてた。こちらは私の学校のお友達で、笹宮弥生ちゃんです」

「どうも初めまして。笹宮です」

 弥生は頭を下げる。

「ふうん」

 何だか不思議な反応に驚いて弥生が顔を上げると、都は穏やかな笑みを浮かべて弥生を見つめていた。

「今日は有り難うね、弥生ちゃん」

 都は嬉しそうに目を細める。弥生はその、決して不快ではない距離感の近さにどきどきした。

 迎え入れられた玄関は、いつも細かく手が入れられているのだろう。すっきりと片付いていた。

 だから余計に、片隅に寄せられていたゴミ袋の山が目立つ。

「あ、麻衣ちゃん掃除したんだ」

 と、それに気がついた優奈が嬉しそうな声を上げると、

「そうなのよ。今日は朝から一日中、それでてんてこ舞いしてました」

 と、都も負けず劣らず嬉しそうな声を上げた。

 続けて玄関の天井が、

「どすん」

 という重い音を響かせ、都と優奈はくすくすと笑い始める。

 しかし、弥生は全然状況が呑み込めない。


 都に先導されて、優奈と弥生は階段を上る。

 午後五時過ぎの春の日差しは少しだけ翳っており、何気なくこの家の闇を浮かび上がらせる。

 二階には個室が東に二部屋、西に一部屋あり、都はそのうち西側にある部屋の扉を叩いた。

「麻衣、優奈ちゃんと弥生ちゃんが来たよ」

 中から鍵を空ける音がした。都さんに目で促されながら、優奈と弥生は部屋の中に入る。


 部屋の主は、肌の白い、弥生と同じ年齢にしては随分と幼く見える少女だった。


 前回いつ切ったのか分からないほど長い黒髪を、後ろで無造作に纏めている。

 白いTシャツの首回りや袖口から先にある彼女の身体は驚くほど華奢で、ちゃんとご飯を食べているのか心配になるほどだった。

 小さな顔に、大きな瞳と具合の良い鼻、大きめの口がバランスよく配置されている。

 念入りに手を入れたら、大変な美少女になるに違いない。

 そして、その印象的な彼女の大きな瞳は、御主人様を見つめる子犬のように潤んでいた。

 視線は弥生に注がれている。

 麻衣は鈴を転がすような可愛い声で言った。

「本物の笹宮弥生さんですね。嬉しい! 是非ご本人に一度お会いしたいと思っていました!」

 ――ああ、しまった! これは詰んだ!

 弥生はその視線に見覚えがあった。

 それは、入門志願の少女達が見せる瞳の輝きと全く同じものだった。

 ということは、麻衣は弥生の「お宝流出動画」を見たことがあるに違いない。

 ――さて、どうやって優奈にその事実を隠し通そうか。

 と、弥生が素早く頭を巡らせていると、優奈が、

「実物の『美しすぎる格闘少女』に会うのに、部屋まで大掃除したんだって? 私の時はそのままなのに」

 と言ったため、弥生は思わず吹き出してしまった。

「あの、優奈さん。『美しすぎる格闘少女』というのは一体何かなあ?」

 弥生がなおも白を切ろうと試みると、優奈は止めを刺しに来た。

「ああ、そうか。本人が知らないこともあるんだね。学校で有名だよ、弥生ちゃんの空手動画」

 なんのことはない。入学時点で弥生の過去はすっかりばれていたのだ。


 *


 この部屋の主、三嶋(みしま)麻衣(まい)は一種の天才である。小学六年生の段階で高校三年生までの学習を独学で終えており、現在は大学の博士課程レベルの研究を独学で行っている。

 小学生の頃は、隣の賃貸マンションに住んでいた優奈と同じ学校に一緒に通学していた。そして、麻衣の事情をよく理解していた優奈が間に入ることで、麻衣は外界となんとか接触を取ることが出来た。

 ところが、小学六年生になる前に優奈の一家は自宅マンションを購入して転居する。それでも六年生まではなんとか一緒に過ごせたものの、別な中学に進むことになってからが大変だった。

 優奈というフィルタを持たない麻衣は、あちらこちらでコミュニケーション不全を引き起こした。

「態度がでかい」

「言い方が上から目線」

「わがままで人の言うことを全然聞いていない」

「頭がいいからって、それを鼻にかけている」

 麻衣自身は意識していないものの、知識の差はそのような誤解を生み出すことがある。特に最後の言葉は、麻衣からすると心外なものだったが、そのような細々とした非難が周囲に積み重なっていった。

 学習能力は高くとも、感情面では幼い少女であるから、そのような圧力に耐えきれるはずがない。麻衣は中学一年生の夏休み前に不登校に陥った。

 夏休みがよい冷却期間になってくれればよいのだが、と周囲の大人は考えていたが、実際は真逆である。学校に行かなくてもよい時間が積み重なることで、更に登校は難しくなる。

 以降、麻衣は部屋に引きこもって、両親と三日と空けずに訪ねてくる優奈の他には、誰にもリアルで会おうとしなくなった。

 学校からは「義務教育ですから登校するように」という連絡が定期的に届いていたが、それは両親が穏やかに対応していた。

 麻衣が一番最初に、

「学校に行きたくないの」

 と言い出した時、両親は驚いた顔をしたものの決して通学を無理強いしなかった。以前から麻衣の生き難さに気がついていたのだろう。

 そして、すべての事情を了解した上で麻衣の心に寄り添って、それを尊重することに決めたのだ。麻衣にはそれが涙が出るほど有り難かった。

 幸い、両親は先祖代々の資産を受け継いでおり、さらに父親の雅彦は大企業のサラリーマンで、平均よりもかなり高い収入がある。そのため、母親の都が外で働く必要はなかった。

 もともと天真爛漫な都は、麻衣の引きこもりをオープンに扱い、徹底的に笑い飛ばした。麻衣の性格にはそれが最も望ましいと考えたからである。

 実際それは、ともすれば自己憐憫や自己卑下に陥りそうになる麻衣の心を、明るい面に引き留める役割を果たした。

 加えて、優奈が外からの風を麻衣の世界にもたらしてくれる。ネットの世界で自閉せずにすんだのは、二人の存在が大きかった。


 弥生の動画を麻衣に見せたのも優奈である。

「高校で同じクラスになった子なんだけどね」

 そう言いながら優奈が再生した弥生の動画に、麻衣は引き付けられた。

 画面の中では「本当はこうなりたかった」と思う自分の理想像が躍動していた。

 本人が知らない間に撮影された動画には、弥生の普段の姿が映し出されていて、それが更に麻衣の心を打った。

「いつかこの人に会ってみたい」

 麻衣が、思わずそう優奈に洩らした時、優奈はこう答えたという。

「分かった。それじゃあいつか必ず連れてくるからね」


 *


「あの、それは非常に光栄なことなのですが、私みたいな者でいいのですかねえ」

 弥生は顔を赤らめる。

「親からよく、もう少し女の子らしくしなさいと言われますが」

「そこがいいのです」

 麻衣も顔を赤くしながら言う。

 その二人のやりとりを見つめながら、優奈は考えていた。

 ――やはり、麻衣ちゃんと弥生ちゃんの組み合わせはベストだ。

 精神の発達に身体の発達が釣り合わず、その齟齬が解消できない麻衣にとって、精神と身体のバランスが見事に整っている弥生は最高のお手本である。

 しかも、懐の深い弥生は麻衣の奔放さを臆することなく受け入れている。弥生の国語能力の高さは、麻衣の言葉足らずな面を補ってくれることだろう。

 ――二人は生涯に亘る親友になるに違いないな。

 優奈はそんな確信と共に、微かな羨望を感じた。自分ではこんな風には上手く出来ない。彼女は既に麻衣の保護者のような位置づけに嵌り込んでいた。

 彼女の周りにいて、静かに見守ることは出来ても、いつの間にか一緒に転げまわることが出来なくなっていた。

 ――弥生ちゃんには申し訳ないけれど、麻衣ちゃんのために利用させてもらう。

 優奈は穏やかに笑いながらそう考えていたが、彼女は知らなかった。


 弥生と麻衣の化学反応は、この後、日本全体を巻き込むことになる。

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