第十七話 修羅と春

「まずは、二ノ形の夜叉からお披露目することにしましょうか」

 俊夫はそう言うと、スーツの内ポケットから何か細長いものを取り出した。

「私が継承した羅刹は、何も持たない状態から相手を倒す一撃必殺の技が基本ですけれど、夜叉では最初から計画的に道具を準備して、使用します。しかも、使うものはおよそ武器に見えないしろものです」

 彼が取りだしたのは、筒にまかれた紙だった。

 確かに彼の言う通り、それが武器になるとは普通は誰も思わない。

「これは紙に見えるけれど普通の紙じゃない。ポリプロピレン樹脂を紙状に薄く伸ばした『合成紙』と呼ばれるものです。水に強く、丈夫で、しわになり難いから、選挙のポスターや投票用紙なんかに使われることが多いものなんだけどね」

 そう言いながら俊夫は紙を筒から外した。

 縦が一メートルほど、横が二十センチほどの真白な紙が現れる。

「これ、確かに堅いから切るのが大変なんだよね。まあ、慣れれば爪を使って端に切れ込みを入れて、割くことができるようになるんだけど」

 言葉通りに俊夫は合成紙を真ん中から縦長に切った。

 一メートルの紐状の長い紙が二つ、彼の手に残る。

「で、これが樹脂製だから切れ味抜群なんだよね」

 俊夫は無造作に駆け出すと、馬垣の間合に入り、紙の紐を一振りする。

 馬垣は咄嗟とっさに身をかわすが、彼の身体をかすめた紙の紐は彼のネクタイを上下に両断していった。

「ざっとこんな具合だ」

 後退して間合いの外に出た俊夫は、紙の紐を両腕で振り回しながら、自慢げに言った。

「さらに、気合いを入れるとこうなる」

 俊夫のこめかみに血管が浮き上がる。

 と同時に、両手に握られた紙が真っ直ぐに伸び、板状になった。

 白い剣――まるでセラミックで出来ているような白さの鋭い刃。

「さて、どうするよ?」

 彼はにやりと笑った。


 そして、颶風ぐふうが巻き起こる。


 紙の剣を持った俊夫は、山根に向って駆け出した。

 彼女は咄嗟とっさに両腕に持った継弓を構え、対応する。

 グラスファイバー樹脂製の継弓と、ポリプロピレン樹脂製の紙が触れ合う寸前、

「駄目、離して!」

 という空山の鋭い声が飛び、山根はそれに従った。

 紙の剣は継弓に触れた途端に、剣の形を失う。

 そして、紐となって継弓に巻き付き、山根が握っていた辺りを襲った。

 山根がそのまま持っていたら、上腕部を切り裂かれていたところだった。

「あ、惜しい。駄目じゃないですか、隣からアドバイスなんて」

 俊夫は、紙の紐でからめ取った継弓を後方に弾き飛ばすと、再び紙を剣とした。

 空山が一歩前に出る。

「山根さん、私の後ろに」

「はい」

「馬垣さん、その後ろで」

「分かった」

 短い指示に従って、三人が縦に並ぶ。

「それでは参ります」

 空山は踊り始めた。


 その動きを眼の片隅で眺めていた鞠子は、場の張り詰めた空気にもかかわらず、思わず苦笑してしまった。

 今回は四月朔日にもそれが何か分からない。

「あれは何の動きなのですか」

 と、四月朔日は困惑した声で鞠子に尋ねる。

「ああ、四月朔日さんもぎりぎり対象外かぁ」

 鞠子はやれやれという表情で、質問に答えた。

「あれはね、多分、西條秀樹の『ヤングマン』だね」

 その通りである。

 早回しになってはいたが、ところどころに全身を使って「Y、M、C、A」という文字が差し込まれていた。

 俊夫も空山のその動きを見ながら、苦笑いした。

「また随分と古いものを持ち出してきたね。少しチカチカするから狙い辛いし。ただね、羅刹と違って夜叉は広範囲を狙って巻き込む技だから。多少の攪乱は関係ないんだな」

 そう言うと、俊夫は空山に向かって駆け出した。


 空山が両腕を開いて上に伸ばす――「Y」

 俊夫はそれを両断するために、右から水平に薙いだ。

 しかし、空山が腕を曲げて頭の上に降ろす――「M」

 剣は、曲げられた腕の僅か上で空を切る。

 即座に俊夫は左腕に持った剣を空山の頭に向けて斜めに振り下ろす。

 空山は両腕を伸ばしながら左に身体を躱した――「C」

 俊夫の剣は彼の両腕の先を抜けてゆく。

 空山の後ろから進み出た山根が、右掌でその剣の左側面を軽く叩いて軌道を逸らした。

 強く叩き過ぎると、紙が腕に巻きつく速度も速くなると読んだのだ。

 紐と化した紙に巻き込まれる前に、山根は右に身体を躱した。

 そして、空山と山根の間から、馬垣が身体の横に腕を添わせた形で突っ込む――「A」

 俊夫は左方向に身体を傾けているので、右腕の剣を前に出せない。

 左腕の紙は乱れていて、すぐにはまとまらない。

 そのため、俊夫は後退して馬垣を躱した。


 なおも攻防が続く。


 空山が場律で俊夫の狙いを攪乱する。

 空山を狙って飛び込んでくる俊夫の剣を、山根が堅守で弾く。

 そして、二人が身を躱した間隙を縫って、馬垣が槍風で飛び込む。

 俊夫は馬垣を躱して、再度紙を伸ばす。

 その繰り返し。

 逆転の余地が見つからない。

 俊夫は笑っていた。


「まあ、あれでは良くてもせいぜい引き分けだわな。敵のほうが、余裕がある分、有利だわ」


 鞠子の隣から、そんな長閑のどかな声がした。

 驚いた鞠子は声がした方向を見る。そこには清が立っていた。

「お義父とうさん、一体いつの間に来ていたのですか?」

「ついさっきだよ。皆さん、戦いに集中していたから気がつかなかったと思うけど」

 清はいつもの年老いた象のような眼で、四天王の戦いを真っ直ぐに見つめていた。

 慌てて鞠子は周囲を見回す。

 すると、倉庫裏側の廃車にもたれた修一の隣には、隆が立っていた。いつの間にか篠山と柏倉もそのかたわらに移動されていて、同じく車に背を預けて地面に座っていた。

 鞠子は視線を表側のテーブル席に戻す。

 すると、洋が榊の隣に立っていた。彼は榊と何か話をしており、頷いた榊はズボンのポケットから何かを取り出すと、それを洋に手渡していた。

 今まで全く三人の気配に気がつかなかった。

「パパ、そこで何してるの!?」

 鞠子は洋に向かって言った。

 一番初めに自分に声をかけてくれなかったことに若干腹を立てていたので、少し言葉がきつくなる。

「あ、ごめん」

 洋は弁解もせずに素直に謝った。それはいつもの穏やかな彼だった。


 そう、彼はそういう人だ。

 どんな修羅場の中にあっても、彼と一緒にいると春の野原にいるのと同じぐらい安心できる。


 鞠子はそう考えて溜息をつく。そして、洋に身を寄せると耳元でこう呟いた。

「でも、瞳子まで戦わせたことは論外だからね。後で小言を一杯言いますから、覚悟して頂戴」

「そんなあ」

 情けない顔になる洋を見ながら、鞠子は心の中で思った。

(でも、ちゃんと間に合わせてくれると信じていたわ、有り難う)


 *


「その、お楽しみのところ大変申し訳ないのだが――」

 清が倉庫内に響き渡る声で言った。

 場違いなほど穏やかな響きである。

 思わず、俊夫、空山、山根、馬垣は、身を引いて間合いをあけた。

 清は、今度は俊夫のほうを向いて言った。

「遅れてきたので状況がよく分からない。なんだね、その羅刹もどきの技は?」

 俊夫は急に現れた老人を怪訝に思いながらも、自分の技を「もどき」扱いされたことに腹を立てる。

「これは夜叉だよ、爺さん。もどきじゃない。だいたいあんた誰だよ、なんで羅刹を知っているんだよ」

 そう言いながら、俊夫は抜け目なく倉庫内を見回した。

 いつのまにか洋が鞠子と一緒に立っており、俊一のそばにも青年がいるのが分かった。


 いや、待て――どうしてこんなに早く洋がここにいるのだ?


「ちょっと待ってくれ。いつの間に三人も増えたんだ? そういえば、さっきの三人――ああ、一匹もいたか、お前らも含めてどうやってここまで来たんだよ? どう考えても車じゃ早すぎるだろ。それに途中にいた自衛官はどうしたんだよ? 全員スルーか?」

 俊夫は疑問をすべてぶちまけた。

「まとめて言われてもなぁ。別にゴキブリみたいに湧いて出た訳ではない」

 清は困ったような顔をして言った。

「六人と一匹、まとめて県警ヘリでここまで送ってもらった。途中の自衛官には全員黙ってもらった。そうとしか説明のしようがないわなぁ」

「なんだと……」

 俊夫は絶句した。

(百名の自衛官が沈黙しただと――)

 全員が実弾で武装していたはずなのに、銃声は遠くのほうの数発分しか聞こえなかった。一切、交戦の気配がなかった。

 篠山が力の入らない声で尋ねる。

「そんな馬鹿な。陸上自衛隊の中隊の、しかも訓練された先鋭だ。無抵抗で無力化されることなぞ――」

「暗闇の中で、密集して警戒態勢を取っていたからな。あれでは同士討ちが怖くて、実弾は撃てないよ」

「……」

「サーチライトを最初に潰したら、あとは各個撃破だ。銃器は関係ないだろう?」

「……」 

 黙り込んだ篠山から目を逸らして、清はやはりのんびりとした口調で洋に言った。

「おい、洋。今回の件は全部お前が仕組んだことなんだから、最後の責任ぐらいはお前が取れよ」

「はあ、仕方がないですね。お父さんは手を出さないで下さいよ」

 洋はそう言いながら、ゆっくりとテーブルを離れて前に出てきた。

「分かってるよ。おおい、隆、お前も手を出すなよ」

 清が倉庫の裏側にいる隆に声をかける。

「了解――ただ、こっちの三人は俺が抑えてていいんだよね、爺さん」

「せめて親父と言わんか、この馬鹿息子」

 

 以上の脱力したやりとりを聞いていた俊夫は、顔面蒼白になった。


「……すると何か? お前ら三人、親子なのか?」

 俊夫の問いに清が簡単に答える。

「そうだよ」

「そりゃあずるいだろ!」

「何が」

 清のとぼけた表情に、俊夫は激昂した。

「何がって! 分かっててとぼけるなよ!! 帝釈天が三人じゃあ、お話にならないだろ!!!」

「そりゃあ、違うって」

「違うって、どこがだよ!」

 興奮する俊夫に向かって、清はやはり落ち着いた声で言った。

「帝釈天なのは俺と隆の二人だけだよ。洋は違う」 


「はあ?」


 俊夫は一瞬、清から何を言われたのか、その意味が分からなかった。

 洋は帝釈天ではない。それは分かった。

 つまり三人の中で最弱だ。そういうことになる。

 その洋が最後の責任を取る。やつが全てを仕組んだのなら、そうだろう。

 つまりは、自分と戦うという意味だ。

「ああ? つまりは、俺の相手だったらその程度で十分だ、という意味かよ!」

 清はさらに追い打ちをかける。

「そこまでストレートに言っていないぞ。まあ、趣旨はそうだがな。お前の相手ならば、洋で十分だ。俺と隆が相手では、力の差があり過ぎてお前さんが危険だからな」

 力の差が大きすぎると、それは戦いにすらならない。大人と子供の場合がそうだ。

 力の差があって弱い者の技能が高すぎると、弱い者が自尊心から決して負けを認めようとせず、とことんまで力を使い果たして、自分の命を危険に晒すことがある。清と俊夫ではそうなる。

 だから、実力が均衡している相手と勝負したほうがよい。それでも、洋のほうが実力は上だ。

 清はそう言ったのだ。

 話を理解した俊夫は、怒りに我を忘れた。

「ああ、いいよ、じゃあご要望通りに相手をしてやるよ!」

 早口で言い切ると、彼は両手に持っていた紙を投げ捨てた。

「しかし、現役四天王のうちの三人が束になってかかってきても、夜叉の相手にすらならなかったのだからな! そして、一切手加減なしで最初から三ノ形出すからな! 終わったら次はお前だからな!」

 そう言うと同時に、彼はスーツの内ポケットに再び手を入れた。

「俺が帝釈天と戦うことを想定して生み出した三ノ形――『修羅』だよ!」

 彼は懐から、紙を巻き付けていた筒を取り出した。

 その一方の端を引っ張ってふたを外すと、中のものを引き出す。

 それはビニル袋に入ったストローと粉だった。

「えっ、そこまで大きな口を叩いておいて、まさかのドーピング?」

 やっと腹部に受けた打撲から回復してきた斎藤が、そう口を滑らした。

 それを聞いた俊夫は、

「そうだよ。それがどうした、何か問題でもあるのか? 時代が違うんだよ。現代科学の力で強くなるのが、現代の格闘技だ」

 と、全く意に介することなく鼻にストローをあてて、袋から直接、粉を吸い込んだ。

 その粉は、スイスの製薬会社が合成した中枢神経刺激薬である。日本でも認可されている医薬品であり、通常は錠剤だが鼻から吸引するとより即効性がある。

 成分が血液中から速やかに中枢神経系に移行し、ドーパミン濃度を急上昇させた結果、身体が軽くなったように感じ、意識が覚醒した。

 無論、中枢神経系に作用する他の薬と同様に、精神的な依存を引き起こし、長期間に亘って摂取すると統合失調症に似た症状が現れる。文字通りの「薬やめますか、それとも人間やめますか」だ。

 俊夫はそれを友の会を通じて入手していた。


 *


 隆は隣で廃車に背中をつけて座っていた俊一が、震えていることに気づいた。

 そして、俊一は俊夫を見つめて、涙を流しながら小さな声でこう呟いていた。

「もうやめてよ……父さんが、父さんじゃなくなるよ……人ですらなくなるよ……」

 隆はその姿を横目で見て、何も言わなかった。

 以前の彼ならば温かい言葉をかけていたかもしれない。しかし、今の彼は実体験として知っていた。

「勝利に拘泥こうでいしすぎると、勝利と引き換えに何か大切なものを失うことがある」

 それは武術家の必然であった。


 *


 俊夫は上を向くと、大きく息を吐く。

「おお、いい感じで効いてきたねぇ」

 頭が次第にはっきりして、落ち着いてくる。

 初めて使った時は自分が無敵になったような気がした。

 使えば使うほど効きにくくなると聞いていたので、いざという時の切り札として通常は使用していない。

 いや、正直に言えば彼はもっと使ってみたいと思っている。依存の初期症状が現れていた。

「これでもう俺は、誰にも負けない」

 目の前にいるのは小太りの中年男である。

 そんな男に日々鍛錬を怠っていない自分が――マケルハズガナイ。

「負けるはずがないよなぁ」

 俊夫の顔にだらしない笑みが浮かんだ。

「はて、どうでしょう?」

 洋はいつも通りだった。

「そちらが奥の手を出すのならば、こちらも出し惜しみをしている場合ではありませんね」

 そう言うと、洋は足を肩幅より広めに開いて腰を落とし、合掌した。

「参ります。帝釈天憑依――阿修羅」


 阿修羅は修羅の別名であり、通常は「頭が三つ、腕が六本」の姿で表現される。


「ああん、今何て言った?」

 絡みつくような俊夫の問いかけに、洋は答えない。

 目を細めてどこか遠くを見つめるような表情になっている。

「だんまりかよ。じゃあ、こっちはいい具合に温まってきたんで、いくよ!」


 修羅と化した俊夫が駆ける。

 阿修羅と化した洋が迎え撃つ。


 俊夫は殺気を消した。

 それは、堅守を相手にする場合に限った技ではない。

 相手が誰であっても、必要に応じて彼は殺気を消すことが出来た。

 ただ、場律の支配下にある時は、そのような小細工をろうする心の余裕がないため、先程の空山と山根の連携技のように、堅守にすら後手に回ることがある。

 しかし、現時点で洋はまだ場律の技を表に現わしていなかったから、俊夫には好都合だった。

 だからこそ、今のうちにさっさと先攻してしまうに限る。

 何気なく近づき、間合いの中に入って、逃げられない距離からいきなり殺意を剥き出しにするのだ。

(しかも今なら自分は絶好調だ)

 俊夫はにやにやしながら、通常であれば堅守の防衛線上、両腕と両足で攻撃を弾き飛ばせる範囲の中に、殺気を消して忍び込む。

 そこで、右腕上腕部に常に仕込ませている暗器「針」を抜き出した。

 徒手空拳での暗殺をむねとする羅刹であっても、準備する時間がある時は十分に仕込みを行なう。

 今回は帝釈天を相手にするかもしれないので、全身に細かな武器を隠し持っていた。

 夏なのに上着を着ているのはそのためである。

 完全に間合いの中。

 もう羅刹が外す距離ではない。

 俊夫は「針」を、洋の顔面に向けて伸ばす。

 周囲でその戦いを見ていた者達も、清と隆を除く全員が「あ、刺さる!」と思った直後――


 おかしなことが起きた。


 俊夫の側からは、針が洋の顔に突き刺さる寸前で、紙一枚の間隔を維持したまま、洋が後退したように見えた。

 周囲の者からは、針が洋の顔に突き刺さる寸前で、紙一枚の間隔を維持したまま、針が洋を押したように見えた。

 その動きはあまりにも滑らかで、俊夫はつい針を先まで伸ばしてしまう。

 そして、全身が伸びきって次の動きに移行できなくなる寸前に思い直す。

 俊夫は、左腕上腕部から暗器「刃」を取り出して、横にいだ。

 それが洋の右腕を削ぐ寸前――


 やはり、おかしなことが起きる。


 俊夫の側からは、刃が右腕に触れる手前で、紙一枚の間隔を維持しながら、洋が横に移動したように見えた。

 周囲の者からは、刃が右腕に触れる手前で、紙一枚の間隔を維持しながら、刃が洋を押したように見えた。

 やはり、滑らかな動きである。

 俊夫は、実体のない陽炎かげろうを追っているような気分になった。

 そこで、彼は右手を真上に挙げて、針を洋の頭上に向けて振り下ろした。

 これであれば、いくら洋が針の進行方向に後退したとしても、最後に地面と針の間に横たわるだけだ。

(さあ、やってみろ!)

 と、俊夫が勝ち誇った気分でいると――


 針は洋の身体の表面を、紙一枚の間隔を維持したまま、頭上から上半身の途中まで流れていった。


 言い換えると、針は立ったままの洋の身体の表面上を滑り降りていった。

 あるいは、針が洋の身体を進行方向から押し出していった。

 針が上から落ちてきて胸元に至った時、洋の合掌していた手が開かれたが、針が通り過ぎた後にまた閉じられた。

 俊夫は紙一枚の間隔で、洋に触れることができない。

 しかもそれを維持したまま洋が滑らかに動くので、俊夫の視覚は混乱した。

 これでは、僅かな風の動きに揺らめく薄布のようだ。

 ならば。

 俊夫は右の靴のかかとを地面に打ち付け、靴の爪先から針を露出させる。

 それを下から上に蹴り上げた。

 まさか、宙に飛ぶことはなかろう、と俊夫が考えていると――

 

 右脚の針は洋の身体の表面を、紙一枚の間隔を維持したまま、左の太ももから下腹部を経由して胸の上へと流れ過ぎていった。


 やはり紙一枚の隙間から内側に入り込めない。

 右脚を振り上げてしまった関係で、俊夫はそのまま後転して間合いの外に出ようとする。

 すると今度は、洋のほうから間合いを詰めてきた。

 後退する俊夫の身体との間隔を防御線の内側に保つように、洋は滑らかに追随する。

 しかも合掌したままだ。

 周囲の人間には俊夫と洋の間に紐があって、それが洋を引っ張っているようにも見える。

 それほど滑らかだった。

 俊夫は焦った。

 寄ると、決して紙一枚分の間隔が詰められない。

 逃げると、決して間合いの外に出られない。

 実体のない亡霊のように洋は滑らかに動く。

 鬱陶しいこと、この上ない。

 なんとか振り切ろうと、俊夫は真横に身を躍らせる。

 しかし、洋はその動きに追随して、真横に動いた。

 そこで、多少リスキーだが連続で後転してみる。

 最後に立ち上がった時には、合掌した洋が目の前にいた。

 洋は一切攻撃する気配を示していない。

 俊夫だけが一人で右往左往している。


 薬で高揚しているはずの俊夫の背筋に、悪寒が走った。


 振り切るために出鱈目に動いてみる。振り切れない。

 紙一枚踏み込むため、手と足を動員する。入れない。

 合掌した洋は、滑らかに躱し、常に目の前に現れる。

 高揚した精神は実は圧迫に弱い。

 追い詰めらると脆く崩れ去る。

 洋の執拗な追撃と円滑な退避に、俊夫の神経は攪乱され、次第に崩れていった。

 顔にはにやけた笑いが貼り付いていたが、目は虚ろである。

 攻撃本能が自動的に手や足を動かしているだけに等しい。


 そこでやっと洋は合掌を解いた。


 身体の側面に腕を添わせると、今度は俊夫の間合いに切り込む。

 右腕を槍のように伸ばすと――


 俊夫の身体の表面、紙一枚のところで動きを止めた。


 さらに肘を曲げた左腕を腹にめり込ませる寸前で止める。

 右足を延髄に叩き込む寸前で止める。

 左の踵が頭蓋骨を割る寸前で止める。

 すべての攻撃は、俊夫の身体に触れることなく、そのほんの僅か手前で止められた。

 その間、俊夫は呆けたように動きを止めている。

 そこでやっと洋の口から言葉が漏れた。


「堅守三ノ形、紐――改め、羂索けんさく


 洋は胸のポケットからケブラーを配合した和弓の合成弦を取り出す。

 先程、榊から渡されたものだ。

 洋はそれで俊夫の腕と胸を拘束した。

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