第十六話 馬垣、吠える!

 暗闇の中、彼だけがその音に気がついた。

 絶対に聞き逃すことのない音である。彼は立ち止まると、頭を回して音のする方向を見定めようとした。

 そして、暗闇の向こう側の何もないはずのところから、その音が漏れ出していることに気づいた。

「あそこにいるよ!」

 彼はそのことを仲間達に伝えた。


 *


「ちょっと待ってくれ」

 榊が声を上げて馬垣と空山を制止した。全員が足を止めて上体をかがめる。馬垣が声を潜めて言った。

「どうした?」

「いや、カニコ二号が立ち止まった。それに、様子が明らかにいつもと違う」

 榊は最初のうち、どうして自分が松本市内を犬と一緒に走り回らなければいけないのか、その理由が分からなかった。

 いや、走り回っている理由は総務課の愛川に捕捉されるのを避けるためであって、それ自体が洋の作戦の一部であることも知っていた。しかし、犬と一緒である意味が分からなかった。

 もともと柴犬は好きだし、カニコ二号は賢いので手がかからない。一緒に松本市内を走り回るのは楽しかったが、それが計画の一部とは思えなかった。

 必要だからと洋がヘリに犬を乗せた時も、やはり理由は分からなかった。

 それが、今、やっとわかった。最初から彼は瞳子のところに榊達を導くためにいたのだ。そして、それが榊にも察知できるようにするために、一日を費やしたのだ。

 しばし立ちすくんでいたカニコ二号は、急に、

「わん!」

 と吠えると、暗闇の中でリードを引っ張り始めた。今までにないほどの力強い引きを榊は感じた。

「こっちだってよ」

 榊はそう言いながら走り出す。馬垣と空山は後に続いた。

 小高い丘の周りに自衛隊の車両がところ狭しと並んでいる中を、人目を気にしながら駆け抜ける。後方からはなんの物音もしない。そのことがむしろ榊には心配だった。

 洋達は本当に無事だろうか?

 しかし、馬垣と空山にとっては、それは言うまでもないことであって、彼らならばこう考えただろう。

 自衛官達は本当に無事だろうか?


 車両の列を抜けると、その先には丘を回り込む道だけがあった。その先、何もないように見えるところに自衛官が二人と民間人らしきスーツ姿の男が立っている。彼らは無言だった。

 馬垣が駆け出して、無言のうちに二人を倒す。そして、民間人らしき男の口をふさいで言った。

「質問があるのですが、正直に答えられますか?」

 友の会総務担当はがくがくと縦に頭を振る。


 トンネルの出入口には鉄製の扉がついているが、いずれも施錠はされていなかった。途中の盛大な歓迎に比べてカジュアルな対応である。ここまで来られるはずがないと思っているのだろう。

 彼らは総務担当を先頭にして、トンネルを進んだ先にある鉄製の扉は僅かに開いてあり、笛の音が漏れていた。

 聡子が瞳子に返したカニコ二号散歩用の笛の音である。それが規則正しく鳴り響いていたから、馬垣と榊には全員が無事であることが分かった。

 思わず二人が顔を見合わせた時――

「貰った!」

 という声とともに肉を打つ鈍い音がし、斎藤の、

「がはあああっ」

 という声が聞こえた。

 馬垣が駆け出す。

 鉄製の扉を蹴破らんばかりの勢いで中に入った。

 斎藤が床に伏している。

 目の前には嵩張った服を身につけた男が、右腕の棒を振りかざして、斎藤に止めをさそうとしていた。


「貴様、茜に何してる!」


 馬垣は吠えた。即座に最大戦速に移行する。


 *


 斎藤は薄れそうな意識を繋ぎ止めながら見た。

 トンネルの扉が開いて、

 その向こう側から馬垣が姿を現して、

 自分の名を叫び、

 常の彼とは比べものにならないほどの勢いで、

 自分を助けにくるところを。


 *


 篠山は見た。

 叫び声を上げた男が、自分に向かってくるのを。

 素晴らしい速さ。

 だが、意味はない。

 どうせ十分の一になるだけだ。

 篠山は男の攻撃を正面から受ける。


 *


 俊夫は見た。

 吠えた馬垣が篠山に向かってゆくところを。

 姿勢を低く抑えて、

 両腕を身体に添わせ、

 槍のような鋭さで、

 馬垣が飛び込む。

 まさかの「広目天」飛走。

 篠山は正面から対峙している。

 俊夫が警告する暇もない。

 馬垣の右回し蹴りが篠山に伸びる。


 ※


 篠山は衝撃により足を滑らせなから後退した。

「何だと!」

 彼は信じられなかった。十分の一に減じられてもなお、篠山の身体をはね飛ばすほどの威力がある。

 当の馬垣は、

「茜、大丈夫か」

 と、斎藤を助け起こしながら、頭を捻る。

「なんだか変な感触だったな」

「気をつけて、あの服は衝撃を吸収するから、威力が十分の一になるのよ」

 斎藤に警告されて、馬垣はやっと状況が理解できた。

「なるほどな、そうでなければ茜が遅れをとるなんて考えられない」

「――ごめんなさい、役に立たなかった」

 項垂れる斎藤の肩を、馬垣が叩く。

「そんなことはない。十分に頑張った。あとは私に任せてくれ」

 馬垣は斎藤と篠山の間に立つと、腕組みをしながら言った。

「ということで、選手交代です。茜によると、そのおかしなスーツは攻撃時の衝撃を十分の一にしてしまうという話ですが、これまで吸収された彼女本来の力に、さらに利息を上乗せしてお返ししますから、覚悟願います」

 馬垣は場違いなほど楽しそうだが、こういう声を出す時の彼は本気で怒っている。

「そんなことができるものか。先程は突然の攻撃であったため、腰が安定せず足が滑ってしまっただけだ。そうでもなければ有効打になる訳がない」

 篠山が、馬垣から受けた攻撃の余韻を拭い去るように、両腕を振りながら言った。

 馬垣は目を細める。

「ふうん、そうですか。まあ、答えは直ぐに出ます。要するに、手加減無用ということで宜しいですね」

「くどい。どのみち、そんな余裕はなくなる」

「承知しました。じゃあ、参りますよ」

 馬垣は笑みを浮かべて、再び低い体勢を取る。


 それから丸い刃を思い浮かべた。

「ニノ形、円月。参る!」

 馬垣はそう呟くと、篠山の周囲を側転し始める。

 一回。

 二回。

 回転を重ねるごとに加速してゆく。

 五回転目で、馬垣は遠心力を垂直方向から斜め上方に変更して、篠山に向かって跳躍した。

 空中で身体を丸め、さらに加速。

 篠山の上空で身体を伸ばし、右足のかかとにすべての力を集中する。

 立ちふさがるものを容赦なく叩き潰す、踵落とし。

 篠山は咄嗟とっさに両腕を交叉させて防御の形に組み――


 それを弾き飛ばされて、踵はヘッドギアの頭頂部にめり込む。


「ぐはああっ!?」

 十分の一の力で、篠山は地面に叩きつけられて弾んだ。

 一瞬、篠山の息が詰まる。

 それから喘ぐように息を再開しながら、彼は驚愕していた。

「な、んだ、今の、衝撃、は!? なぜ、スーツ、が、効かぬ!?」

「ちゃんと効いているじゃないですか、素晴らしい」

 踵落としの後、後転して間合いの外に出た馬垣は、立ち上がって小刻みにステップを踏みながら言った。

「そうでなければ両腕の骨は折れて、頭蓋骨も陥没しているところです。よかったですね。まだまだ戦えるじゃないですか」

「お、前、一体、何者、だ?」

 そう言いながら、篠山がよろよろと立ち上がる。

 しかし、両腕は衝撃で痺れて上がらず、頭の中では何かがわんわんと唸っている。

「知らずに戦っていたとは。いいですか、私は微塵流四天王の一人、『広目天』飛走継承者です!」

「そんな流派は知らない!」

「じゃあ、良い機会ですから覚えておきなさい」

 馬垣はさらに低い体勢を取る。

「そして、今後決してその流派とは争わぬことです。一般人では勝てませんから」

 そう言うと、彼はその低い姿勢のまま篠山に向かって駆け出した。

「三ノ形、土竜もぐら。参る!」

 馬垣は地を這うように篠山に向かって動いた。

 そのまま篠山の足元近くまで這いよると、腹這いの姿勢から体を反らして仰向けになり、同時に脚を回して勢いをつけた。

 篠山は覚束ない足で、それでも攻撃を避けるために上に飛ぶ。

 そこに馬垣がタイミングを合わせて、足の裏同士をあわせた。

 篠山は馬垣の足のバネの力で押し上げられる。

(しまった!)

 篠山は自分の失策に気づいたが、もう遅い。

 既に下にいる馬垣は旋風と化している。

 最早、逃げ場はない。

 旋風が地面から垂直に立ち上がる。

「ぐふぅ」――篠山の腹に馬垣の右足が、

「がはぁ」――篠山の腹に馬垣の左足が、

「げぼぁ」――篠山の腹に馬垣の両足が、

 次から次へと連続して突き刺さる。

 すべてが十分の一の衝撃でしかなかったが、それが通常の十分の一の速度で、篠山の腹に叩き込まれた。

 旋風は止まらない。

 篠山は次第に声を上げることすら止めてゆく。

 身体が襤褸ぼろのように宙を舞う。

 

 斎藤はその一方的な状況を見つめていた。

 ここまでの差とは思わなかった。

 身体が震える。息が詰まる。

 しかし、彼女にはやらなければいけないことがある。

 なぜなら、このままでは、このままでは――


「ダーリン、やめて!! このままでは、貴方は人殺しになる!!」


 斎藤の悲痛な叫び声が、場内に響き渡る。

 篠山の身体は宙を舞い、そして馬垣の間合いの外に落ちた。

 落下時の衝撃も、十分の一だった。

 そのまま篠山は動かない。

 斎藤はその姿を、息を詰めて見つめる。

 そして、しばらくの後、

「がはぁ」

 という息と共に、篠山は地面を転げ回った。

 戦闘の継続はもはや無理であった。

 斎藤はそこでやっと息を吐く。

 そして、馬垣の声を聞いた。

「茜さん――」

「はい。あの、ごめんなさい。戦いの邪魔をしてしまって……」

「いや、それはもうよいのです。それよりも――」

 馬垣が斎藤のほうを振り返る。

 その顔は真っ赤になっていた。

「とても恥かしいので、お願いですから人前で私のことをダーリンと呼ぶのだけは、勘弁して下さい」


 *


「淳子さん、お待たせ!」

 斎藤の元に急行した馬垣と同じく、榊は山根の元に急ぎ駆け寄った。

「慎二さん! 有り難う!」

 山根は嬉しそうな声を上げると、ひときわ強く柏倉の繰り出した右手のナイフの側面を左掌底で叩いた。

「何?」

 今までなかった強烈な力に、柏倉は弾き飛ばされて地面を滑ってゆく。その間に、榊は山根と柏倉の間に入った。

「淳子さん、お怪我は?」

「ありません、それより一気に勝負を」

 短い言葉で思いを伝えあう二人。

「了解。こんなものしかないけど、役立つ?」

 そう言って榊は、背中に差していた湾曲した二本の棒状のものを、山根に手渡した。

 山根はそれを受け取る。

 若干長さの異なるその棒は、よく見ると真ん中で分けられた和弓だった。

「一時期、特注で作られた継弓つぎゆみだよ」

 通常の和弓は決して分離できないが、この継弓は弓の握りの上、矢摺籐やずりとうと呼ばれるところから二つに分離できるような構造になっていた。

 アーチェリーの構造を模倣したもので、弓力は出せないかわりに携帯性に優れていた。

 戦国時代ならばいざしらず、現代の戦場で二メートル近いフルサイズの和弓は行動の邪魔になる。そう考えた榊が、自らコレクションしていたものを持ってきたのだ。

 先程、橋の上を照らしたサーチライトが次々と消えたのも、榊がこの弓を使って矢を放ったからである。矢は既に尽きていたが、山根の役に立たないかと思い、榊はここまで持ってきた。

 山根は三回、その一メートル強と一メートル弱の棒を振ってみる。

 流石は和弓である。適度なしなりがあって具合がよい。

 刃物ではない点も山根の趣味に合致していたが――

「でも、これは大切なものでは?」

 と、山根は戸惑った。榊が後ろを振り向いて苦笑する。

「まあ、それはそうだけど――」

 それから真正面の柏倉を見据えて、にやりと笑って言った。

「僕の一番大切な淳子さんにこれ以上危険な真似はさせたくない。そのためには何でも使う。僕の身体だって使う。全然惜しくない。だから存分に使って下さい」

「はい!」

 山根は嬉しそうな声で応じると、継弓を交叉して構え、こう言った。


「二ノ形、紙。ただし、乱舞!」


 前方では立ち上がった柏倉が目を吊り上げていた。

 全身から噴き出した汗とそれが吸い込んだ埃とで、柏倉の整った顔と磨き上げられた服装は、無残に汚れ、乱れ、崩れていた。

 息はすっかりあがっている。ただ、防御だけで体力を消耗させるのは時間がかかる。柏倉はまだ余力を残していた。

「そこの男、邪魔だからどけ! お前に用はない!」

 甲高い声でそう叫ぶ柏倉に、榊は余裕の表情を崩さずに言った。


「馬鹿が――俺はこの中で最強の男だ。お前ごとき半端なやつが相手になる訳ない」


 柏倉は思わず身体を強張らせた。

 ここまで山根に翻弄されて手も足も出ず、彼の自尊心は地に落ちていた。身体はまだ動くし、強がりも言えるが、心は既に萎えていた。

 そこに「最強」を名乗る男の出現である。柏倉の足は震えたが、最後に残った彼の見栄が、それを前に動かした。

「知るかああっ――」

 柏倉は榊を目がけて左のナイフを突き出す。

 榊はそれを見つめて、なおも笑みを消さない。

 柏倉が沸騰する。

「なめやがってええっ」

 鋭い刃先は榊に向い、後僅かでその肉にめり込む寸前――


 榊は左に身を躱し、山根が右側に飛んで継弓を一閃する。

 ナイフの刃の向きを気にしなくてもよいことから、力が十分に乗っている。

 ぱしん!

 棒のしなりが威力を増大させる。柏倉は思わずナイフを取り落とした。

「しゃっ――」

 柏倉は短く息を吐くと、右手に持ったナイフを水平に薙ぐ。

 それを山根が継弓で叩いた。

 ぱしん!

 ナイフを取り落とす柏倉。

 振り向いて空手の構えをとろうとした柏倉の前で、山根が右に身体を翻す。その後ろから今度は柏倉に向けて、榊が迫っていた。

「歯を喰いしばれえええぃ――」

 榊が全体重を乗せた右ストレートは、防御の体勢をとりきれなかった柏倉の、左の頬に深々とめり込んだ。

 意識を刈り取られた柏倉の身体は、二、三回弾んで地面に落ちると、そのまま動かなくなった。


「淳子さん、上出来!」

「慎二さん、ナイス!」

 二人はにっこり笑うと、右掌を打ち合わせる。

 このような戦闘が行われる可能性を考え、二人は互いの動きを検討していた。

 榊が相手の動きを引き付ける。

 彼は山根の防御を信じて、極限まで耐える。

 瀬戸際で身を躱したところに山根が飛び込む。

 相手の攻撃を弾く。

 相手が体勢を再び整える前に、榊が飛び込んで攻撃を加える。

 何度も練習したコンビネーションだった。


 *


「お疲れ様でした。後は任せて下さい」


 空山は瞳子に飄々とした足取りで駆け寄ると、穏やかな笑みを浮かべながら言った。

 それを見て、瞳子はやっと笛を吹くのをやめ、足を止める。彼女は重荷を降ろしたようなほっとした表情を浮かべたが、続けて、

「有り難うございます。でも――」

 と口ごもりつつ、恨めしそうな顔をして汗を流している俊一の方を見る。

 彼は散々さんざん翻弄ほんろうされていた。羅刹らせつは一撃必殺の技であり、無駄な動きを好まない。

 それなのに狙いをあちこちに逸らされて、定まらないままに無駄な攻撃を繰り返してしまった。

 前に動くと思えば後ろに下がる。

 右かと思えば左だ。

 その上、平衡感覚まで狂わされて俊一は車酔いに近い状態になっていた。

「あの――」

 何か言いたげな瞳子に向かって、空山はウインクした。そうやって瞳子の言葉を制してから、しゃがんで耳打ちする。俊一に聞かせないためだろう。

「貴方のお気持ちはよく分かっています。彼に手荒なことはしませんから」

 空山がそう請け負ったことで、瞳子はやっと安心した顔になってきびすを返すと、鞠子のほうに向かってカニコ二号と一緒に走っていった。

「まったく優しい子だ」

 空山はその後ろ姿を見送りながら呟くと、俊一のほうに向き直る。そして、

「父親からの指示があったのかもしれないが、あの子を悲しませるようなことをしたのは君の罪だよ」

 と、彼にしては厳しい表情で言った。

「子供が間違った時には、近くにいた大人がちゃんと事の是非を教えなければいけない」

 俊一は、瞳子への仕打ちを糾弾された時には一瞬辛そうな顔をしたものの、すぐにつまらなさそうな顔に戻って言った。

「おじさんも僕を子供だと思って馬鹿にしているの?」

 空山は苦笑する。

「君は、自分が大人であるかのように振る舞っているが、本当の大人がどのようなものか知らないようだね。少しは思い知ったほうがよい」

 そう言いながら彼は両腕を大きく広げ、それを静かに振り始める。


 次第にずれが生じてゆく両腕。


 今までの瞳子の動きがさざなみとすると、空山の動きは荒れたみぎわに近い。俊一は、意識が吸い込まれそうになるのを懸命に抑える。

「おや、なかなかしぶといね」

 空山はそう言うと、動きを変えた。

 先程までの動きが波の揺らぎだとすると、今度の動きは風のざわめき。手と足が自在に動いて、一連の舞踏を生み出す。


 *


 それを、視線を逸らして目の端に止めながら見ていた鞠子と四月朔日は、苦笑いした。

「鞠子さん、あれって――」

「そうね、多分、彼は今頭の中でマイケル・ジャクソンの『ビート・イット』を歌っている」


 *


 先程から推移を眺めていた俊夫は、とうとう我慢が出来なくなった。

 腕の動きを見たときから分かっていた。あれは「増長天」場律の技である。しかも洋の動きよりも洗練されていて、滑らかだった。ということは、彼は場律の正当な継承者に他ならない。

「多聞天」羅刹の自分。

「増長天」場律の空山。

「持国天」堅守の山根。

「広目天」飛走の馬垣。

 微塵流四天王が全員揃っている。

 そして、恐らく洋が「帝釈天」。

 彼の背筋を震えが走った。

 その目の前で、柏倉が山根にナイフを叩き落された挙句に、榊の右ストレートを受けて転がってゆく。

 篠山は馬垣の踵落としで、足元が怪しくなっている。あのスーツですら勢いを止められない。

 瞳子にすら手も足もでなかった俊一に空山の相手ができる訳もなく、完全に足が止まっている。

(何だ、これは?)

 確かに友の会の現行体制は平和ボケした日本の現状を反映して、規律の緩んだものになっている。

 それでも、篠山の培ってきた組織力、柏倉の秘められた狂気、そして自分が鍛え上げてきた殺人技があれば、どんな相手であっても叩き潰せると考えていた。

 必要ならば会長ルートの暴力装置を起動させてもよい。大抵はそれで片が付くはずだと考えていた。

 ところが実際はどうだ。たかだか三人しかいない古武術の継承者に制圧されてしまった。

 外にいる約百名の自衛官が最終防衛線になるはずだったが、馬垣、榊、空山がそれを潜り抜けてきたということは、何の役にも立たなかったことを意味している。

 そして、洋がまだ姿を見せていない。

 恐らくは馬垣達を先行させるために囮になったのだろうが、いくら「帝釈天」といえども百名の訓練された兵を相手にすることは容易ではない。

 もうしばらくは時間に余裕があるだろうから、その間にかたをつける必要がある。

 一般人は問題外である。数に数える必要すらない。堅守は羅刹の敵ではないから、これもカウントの外。飛走は手強いが、それよりも脅威となるのは場律だ。

 馬垣が篠山の相手をしている間に、自分が空山を仕留めなければならない。

 そして、自分は羅刹の限界を超えるために、夜叉から修羅となった男である。

 俊夫は空山のほうに足を踏み出した。それと同時に、篠山が襤褸ぼろ雑巾のような有様で床に叩きつけられたのを見る。

 俊夫は苦笑した。これはいよいよ腹を括らねばならない。


 *


「俊一、下がれ」

 俊夫は完全に足が止まっていた息子に、そう声をかけた。

 慰労の響きなぞ欠片もない、完全に事務的な指示である。

「でも――」

「下がれ」

「……はい」

 短い言葉のやりとりに、俊夫の絶対的な支配と俊一の盲目的な隷従の関係が見て取れた。

 俊夫の接近に動きを止めていた空山は、その関係に気づくと眉を潜めて尋ねた。

「いくら一子相伝とはいえ、そこまでやる必要があるのか?」

 俊夫は無表情でそれに答える。

「生ぬるい他の系統には分かるまいよ。羅刹は殺しの技なのだから、場に臨んで躊躇ちゅうちょは許されない。ゆえに善悪を超越して、己のみをたのむ心が必要なんだよ。俊一は未熟だから、当座のところは絶対服従で代用したまでのことだ」

 それに自分も親からそう叩き込まれたのでね――と、そこまでは俊夫も口には出さなかった。

「貴方が羅刹の継承者ならば状況を理解しているはずだ。私は場律だから貴方は決して私に勝てない」

 空山が厳しい顔で言った。

 篠山との戦いを終えた馬垣、柏倉を翻弄した山根が、空山の後ろに立っている。彼らもやはり厳しい顔をしていた。俊夫は軽く溜息をつくと、眉を上げて軽い調子で言った。

「まあ、微塵流の中だけの話ならば、そうだろうよ」

 その言葉を聞き、その裏に含まれている意味を感じ取った空山、馬垣、山根に衝撃が走る。

「お前、まさか――」

 馬垣の驚愕に、俊夫が答えた。 


「そうだよ。それこそが、私の別名が夜叉である所以ゆえんだよ」


 羅刹と夜叉は、多聞天の眷属である。

『羅刹』とは固有名詞ではなく鬼の総称であり、ヒンドゥー教では破壊と滅亡を司る鬼神であったラークシャサが仏教に取り入れられた結果、仏法を守護する神となった。

夜叉も同様に鬼の総称であり、ヒンドゥー教の神が仏教に取り入れられた結果である。男と女があり、男は「ヤクシャ」、女は「ヤクシニー」と呼ばれていた。

 そもそも、俊夫の先祖が脈々と継承してきた微塵流の技は、最近まで多聞天の眷属の片割れである「羅刹」しかなかった。しかし、それをいくら習得しても同じ流派に属する天敵の馬律には決して勝てない。

 一撃必殺を極める過程でそのことを不満に思った俊夫の父親は、羅刹から派生させた技を別系統として加え、そちらの流れをもう一方の眷属である「夜叉」と呼称した。

 従って「夜叉」は、微塵流の延長線上にはあるものの、微塵流の正統ではない。

 代々の為政者からその存在を厳しく管理されてきた微塵流において、正統から外れた異端の存在は致命的である。

 ある系列が暴走した際には別な系列で抑えることができる。

「帝釈天」といえども四天王総がかりであれば抑え込むことができる。

 そうされていたからこそ流派を生き長らえさせることが出来たのだ。制御しきれない異端が存在するとなると、権力による徹底的な圧殺を招くことになりかねない。

 従って、代々の継承者は正統から外れることを禁忌としていた。


 それが既に破られていたという。


 三人は予想外の事態に黙り込んだ。

 その様子を見ながら俊夫は楽しそうに話を続ける。

「従って、夜叉に対応する場律の技は微塵流にはない。独自に発展したものだからな。まあ、羅刹の延長線上にはあるから、全く影響を受けないということではないが、身動きできなくなるほどではないと思うよ」

 彼は両腕をぶらぶらとさせる。戦闘準備だ。

「そもそも一撃必殺の羅刹には、飛走や堅守のような奥義や形という考え方がなかった。それを加えただけのことだよ。一ノ形が羅刹。二ノ形が夜叉だ」

 俊夫は脚の屈伸も始めた。

「ところで、君達は帝釈天に天敵がいることを御存知かな」


 修羅――阿修羅とも言う。


 古代インドのアスラ神が仏教に取り入れられた後の名であり、そもそもは善神であった。

 それが、帝釈天の人気が高まるにつれて、相対的に善者から悪者に転落したと言われている。

 ある説話では、二人の関係がこう語られている。

 阿修羅は正義を、帝釈天は力を司る神であった。

 阿修羅は娘の舎脂を帝釈天に嫁がせようと考えていたが、ある日、その帝釈天が舎脂を強奪した。

 阿修羅は激怒し、帝釈天に戦いを挑む。

 帝釈天は、実は舎脂を正式な妻として迎え入れていたのだが、阿修羅は赦す心を失っていた。

 ある時、優勢だった阿修羅の軍に追われて帝釈天は後退していた。

 気がつくと足元に蟻の行列があり、帝釈天は蟻を踏み殺してしまわぬように軍を止めた。

 それを見た阿修羅は、帝釈天の計略ではないかと疑念を抱き、兵を引いたという。

 この説話は「発端は正義であっても、それに固執して慈悲の心を失うことで、最後には妄執に変わってしまうことがある」と教えている。


 俊夫はにやりと笑った。

「私もまた妄執に取りつかれた者のうちの一人でね。私は三ノ形まで作った」 

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