第十九話 待機

 松本空港までの記憶は曖昧になっている。

 ヘリの騒音の中で、私は宿の御主人から経緯の説明を受けたらしいのだが、細かい部分は全く覚えていない。大筋だけは記憶に残っている。

 宿の無線設備が突然の負荷により、途中で故障していた。私が宿の御主人と笠井が電卓を前に腕組みしていたのは、その時点で判明している事実だけで、避難計画を組み上げなければならなかったからである。

 ヘリの搭載可能重量と到着順は既に指定されていた。

 連絡が途絶えた以上、救助隊はその時点の連絡を遵守しようとするだろう。

 修正の効かない状況下で笠井が計算した避難計画は、すべての人を制限の中で運ぶために最適化されていたため、途中で体重の過少申告など誤りが発生した場合、誰かがはみ出してしまう可能性があった。

 また、救助活動中に天候が悪化した場合には、そこで計画が破たんしてしまう。そこで最初の計画では宿の御主人と女将さんが最終のヘリに割り振られていた。

 鞠子がそれに異議を唱えるかもしれないことも笠井は想定していたという。

 途中で過少申告が判明した時点で、笠井がはみ出すことは確定していた。

 最初からそこまで想定されていたことは、三人以外の誰も知らされていなかった。

 特に鞠子には気づかれないように注意してほしい、彼女は誰かが一人で残されることに納得しないはずだから、と笠井はご主人に頼んだという。

 自分一人だけであれば生き残れるかもしれないが、二人が残された場合には、ベストを尽くしたとしてももう一人が生き残れるかどうかが限界だ、と彼は語ったという。


 松本空港に到着すると、私たちは救急車で信濃大学付属病院に搬送された。検査入院のためである。

 また、既に避難を終えた人や心配して駆けつけた親族が、会議室に集まっているという。

 私は三笠にあわせる顔がなかった。笠井は私を助けるために残った。そのことを私は黙って見過ごした。いや、残っても役に立たないので邪魔をしないように追い出されたのだと思った。

 検査の指示に自動的に従いながら、私の心は空虚になっていた。


 山岳救助隊が正義の味方だけではやっていけないこと。

 あくまでも正義に拘ってしまうと最適な救助活動の支障になってしまうこともあること。

 さらには救助者自身の二重遭難を引き起こしかねないこと。

 すべてを飲み込む覚悟が必要であること。


 籤が目の前で引かれたとしても、その覚悟を受け止めて決して邪魔をしないこと。


 笠井が一人で残されることに気がついていたとしたら、私はヘリが飛び立つ前になんとしても残ろうとしただろう。

 それが避難計画全体の大きな妨げになったとしても。


 *


 会議室から話声が聞こえてくる。

 検査結果に問題がなかった人は、順次帰宅したと聞いている。しかし、三笠は残っているに違いない。彼女は彼が戻るのを待っている。

 扉を開けると、中には宿の御主人と女将さん、そして三笠と見知らぬ初老の男性が残っていた。

「鞠子さん、大丈夫だった?」

 そう言いながら三笠は駆け寄って、私を抱きしめた。

「三笠さん、私、何もできなかった」

 私は感情がすっかり抜け落ちた声でそう言った。

「話は全部聞いた。彼ならそうすると思った。だから彼が戻ってきた時には、この借りはきっと帰させる。あなたも手伝いなさい」

 そう言って三笠は微笑んだ。

 そして、その後ろから近付いてきた初老の男が、場違いなほど穏やかなのんびりした声で尋ねてきた。

「洋はしまいに何か言ってなかったか?」

「そうそう、彼は何か言っていなかった?」

 あまりの予想外の雰囲気に、私はあっけにとられていたため、

「あ、はい。必ず忘れ物は探して持ち帰るから大丈夫、と」

「約束したのかな」

「はい」

「じゃあ、心配いらない」

 にっこりと笑ってそう断言すると、男は飄々とした足取りで部屋を出て行った。

 私はまだ状況が理解できていなかった。三笠が苦笑しながら補足説明する。

「あの人は笠井君のお父さん。私もさっきからずっと、大丈夫、心配ない、とあの調子で言われ続けていたので、すっかり落ち着いちゃった」

 私は振り返ると笠井の父親の後を追った。


 *


 笠井の父親は病院の裏手にある喫煙場所にいた。

 私は息を切らしながら彼の前に立つ。

「あの、その、えーと」

「名前なら清だよ」

 笠井清は落ち着いた声で言った。目がやさしく笑っている。笠井洋が居眠りをする熊だとすると、清は「かなり歳を重ねた知恵者の象」という印象だ。

「申し訳ございませんでした」

「別にあんたは悪くない」

「何もできませんでした」

「洋が何も説明しなかったんだから、できなくて当然だ」

「役にも立ちませんでした」

「そんなこともあるだろうよ」

 言葉だけを見るとかなり乱暴なのだが、落ち着いた物腰や穏やかなまなざしとともに語られると、こちらの肩の力の入りようが馬鹿げているような気分になる。

 私は息を吐いて体の力を抜くと、清に尋ねた。

「息子さんのことが心配ではないのですか」

 こちらの言葉もかなり乱暴だが、詰問している訳ではない。純粋に不思議に思ったのだ。

 そして、この笠井の父親にはそういった意図が、確実に理解されると思った。会って五分も経っていないのに、である。

 そして、清は確実に読み取った。

「洋はできないことは決して約束しないよ。大丈夫と言ったからには、何か方策があるんだろう」

 そういって煙草を吸う。吐き出された煙は、山の荒天を暗示するかのように横にたなびいてゆく。

「それから、あいつは役に立たないからあんたを先に避難させたわけじゃないよ」

「でも――」

「天気が変わって最終のヘリが空港から飛べなくなってしまったら、もっと大勢が残されていたはずだね」

「そうです」

「それをあいつが想定していないはずがないじゃないか」

 私は考える。

 確かにその通りだとは思うが、

「だったら一人が残される可能性が生じた時点で、複数名で協力して次の機会を待つことも想定できたはずです」

「いや、それはない。最も適切な解答は『全員が避難できる』ことだが、次に適切な解答は『洋だけが残る』だから」

「どうしてですか。彼は古武道で体を鍛えているようですが、冬山に関しては私や宿の人より詳しくないじゃないですか」

 そこで清はじっと私を見つめた。

「なるほど――そうか」

 そうしてまた煙草を吸う。

「まあ、なんだ。確かに古すぎて役にも立たない田舎武道だけど、元々は修験道の流れを汲んでいるからなんとかなるよ。それに今更そこを問題にしても始まらない」

 これもその通りだが、なんだか盛大にはぐらかされたような気がする。

「なんだかごまかされているような気がします」

「あいつは簡単には死なないから大丈夫だ」

 相変わらずの飄々とした姿で、清は言い切る。

「それよりも何であいつはお前さんが最後の便に乗ることを見逃したのだろうね」

「え」

「俺だったら途中の便に滑り込ませる修正計画を複数準備しておくけど。そうしたらあんたの論理では反論できなかっただろ」

「――そうです」

「あんたとあいつの間で、何か他に話をしたことはないかね」

「話といえば――」

 そこで私は『カンビュセスの籤』に関わるやりとりを潔に話した。それを聞き終えた清は、

「あの馬鹿、そこまで想定していたのかよ」

 と言って苦笑した。

「どういうことですか」

「ああ、あいつはお前さんが最終便に乗り換えることと、その便で自分が戻れない可能性までを想定した上で、お前さんがその『カンビュセスの籤』について最も効率よく理解できるような機会まで準備して、そこに放り込んだのさ。そうでなきゃ最終便になんか絶対に乗せるものかよ」

「どうしてそんなことを!? 自分の命がかかっている時だというのに」

「そんなにすごくないって。まあ、そうさな――」

 清は山のほうを向いて言った。

「自分がどんなに苦労してもいいから、お前さんが成長するための機会を作りたかったんだろうよ」

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