第七話 邂逅

 平成元年の冬、高校一年生だった私はバイトをすることにした。

 目的は金銭ではなく、山岳救助を志す以上は冬季活動に対する訓練も必要と考えたからである。従って、最初はスキー場でのアルバイトを考えていたのだが、さすがに両親から猛反対された。

 これは実は想定内だった。私はもっとも受け入れがたいものから順に提示していけば、徐々にハードルが下がるいずれかの時点でアルバイトが認められるだろうと考えていた。

 そこで、次の候補について提示しようかと考えていたところ、父とは大学関係でお付き合いのある方が、もう一人の男性を連れて自宅にやってきた。

 その男性は、しばし前置きのやりとりがあった後で、用件を切り出した。

「学生で、冬休みに住み込みのアルバイトをしてくれそうな人はいないだろうか」


 *


 父の知人の知人というこの男性は、長野県の山奥(まあ、長野はどこもそうだといえばそうなのだが、もっと極端な奥)で奥様の実家が営んでいた民宿を継いでいた。

 最初は避暑目的の客をターゲットとした夏季限定の宿だった。

 しかし、二年前に公開された映画の影響からスキーブームが始まり、冬季も客が見込めるようになったこともあり、昨年から通年で営業を開始したところだった。

 初年度である昭和六十三年末から平成元年初は、昭和天皇の崩御に伴う自粛ムードもあり、実際にはさほどの宿泊がなかった。

  そのことに気づかず、前年と同じような体制で冬季営業の準備をしていたところ、平成元年夏頃から急に冬休みの宿泊予約が入り始めた。

「前年に十分なスキーができなかった鬱憤」もある。

 さらに「冬季国際オリンピックの開催地として、日本が名乗りをあげる際の日本国内候補地」という狸の皮算用にもほどがある選考会で、長野県が選抜されたことも影響している。

 それにより平成元年末におけるスキー熱は一気に過熱した。

 遠方からも週末になるとスキー客が押し寄せるため、スキー場周辺の宿泊施設はもとより、少々離れたところにあるホテルであっても冬休み期間は予約で埋まってしまう。

 次第に周辺へ、施設のレベルも問わない方向へ予約可能な地域が広がり、そしてその民宿のある地域に到達した。

 後は一気呵成だった。キャパシティを冷静に計算して、受け入れ可能人数を算出する間もなく、電話番のバイトによってまたたく間に冬季の宿泊予定は『満室+キャンセル待ち』となってしまった。

 そもそも冬季の営業は付けたしであり、満室状態を維持できるほどの要員はいない。

 夏季営業であれば、最初から地方学生バイトを手配していたが、この時期では急きょ声をかけたとしても確保は難しい。

 ましてやバブル景気の中で大学生のアルバイトは時給が高い派手な職種にシフトしている。

 父の知人が経営している民宿のような「住み込み+力仕事+低時給」のアルバイトは募集してもなかなか人手が集まらなかった。

 いや、それどころか当初予定していたアルバイトも、より割の良い仕事に流出していく状態である。

 これからの予約はもちろん、このままでは既存の予約分についても高いキャンセル料を支払ってお断りしなければ成らないかもしれない、という事態に陥っていた。

 大規模災害などの理由もないのに、宿泊施設側が宿泊予約を直前にキャンセルするなど、廃業覚悟でなければできない。

 そこで、人手を確保するためにどんなに細い人間関係であっても手繰り寄せ、藁にもすがる思いで父のところまでやってきたのだという。

 そこまで聞いて私は、

「じゃあ、私が手伝う」

 と宣言した。

 最初のうちはなかなか首を縦に振らなかった両親は、父の知人による人物補償と、父の知人の知人による「民宿の人手不足」についての切々とした訴えにより、最終的にはアルバイトもやむなしと許可した。

 ただし、「危険なことはしない」「変な男には近づかない」「勉強は疎かにしない」という三条件が絶対である。それは最初から想定内だったので、私は約束した。


 *


 松本市内から上高地方面に向かい、途中の交差点で上高地方面と別れてさらに県道を山奥に向かう。舗装された区間は途中で尽き、県道とは言っても舗装されていない区間に入る。

 しかしながら、地盤がよほどしっかりしているのか、通行に支障となるようなおうとつがほとんどない。なぜか山奥に不釣り合いなほどに整備されているように感じる。

 その道を一時間ほど進んだところに、『雲中閣』という気宇壮大な名称を持った民宿はあった。

 実際のところ『雲中閣』は、「山小屋でしたが少しだけ一般向けサービスを整えてみました」という程度の施設だった。

 県道は、もう少し山のほうに行くと金網で囲まれた立ち入り禁止区域に行きつくそうだ。

 民宿自体はそれこそ江戸時代後期からこの場所にあったものだが、その立ち入り禁止区域は最近(といっても戦時中に)仕切られたらしい。

 これは「家付娘」ならぬ「民宿付娘」であるところの女将さんから教えて頂いたことだった。

 仕事はだいたい教わった。さすがに高校生ということで手加減しているのかもしれないし、あまり表立って高校生に手伝いをさせるわけにもいかないという事情もあるのだろう。

 私の担当はチェックアウト後の部屋掃除やリネン類の洗濯など、裏方のルーチン作業だけだった。

 こういうものは作業量と作業時間が一定なので、だらだらやってもそれほど楽ではないし、手際よくやれば労力もかからず時間も短縮できる。

  三日目になると朝の七時から作業を始めて午後三時には作業が完了してしまった。

 休憩含めて八時間労働なので、これはこれで契約通りなのだが、本来は訓練目的なので余裕が出ても困る。そこで「手が空いたので他の作業を手伝いたい」と申し出たのだが、

「鞠子ちゃんには既に一人分以上の仕事をこなしてもらっているから、それ以上はさすがに無理させたくない」

 と言われた。民宿のご主人は

「サービスする側にも余裕がなければ、サービスを受ける側が余裕を感じることはできない」

 という考え方のようで、だからこそアルバイトが足りなくなって困ったのだと思う。もう少し全員に負荷をかければ、二、三人は人が減らせるかもしれないにもかかわらず、ご主人はそれをしなかった。

「サービスの反義語は効率化だ」

 というのが持論であった。働いている側としては非常にありがたい話である。


 *


 その日も、午後三時を過ぎると、特に何もやることがなくなってしまった。

 とはいえ、あまりだらだらしたところは見せられないし、むしろ勉強している姿が見えているほうが周囲からは喜ばれる。

 そこで、時間が空くと、私は民宿の玄関に居座って勉強するか松本中央図書館から借りてきた本を読むことにしていた。

 登山関係の本が多かったが、周辺知識も重要だからとサバイバルテクニックや格闘技に関する本にも手を伸ばしていた。

 また、懸案事項である『カンビュセスの籤』についても考え始めており、その日はちょうど「日本の古武道」についての本とヘロドトスの「歴史」に出てくるカンビュセス二世の故事を読んでいるところだった。 暖房が利いているおかげで、厚手の靴下に内張りが起毛しているスリッパを履いていると暑いくらいだ。少々お行儀は悪いが、脱いで揃えておく。

「こんにちわ」

 玄関の引き戸を開ける音の後、女性の朗らかな声が聞こえる。

「予約しました仙台の三笠です」

「ああ、いらっしゃい。お待ちしていました」

 女将さんが奥から小走りしてくる。

「三笠様、団体四名様ですね」

 スキー客の常として、大きな荷物を抱えた女性二名と男性一名が入ってくる。

 そして――その後から、ボストンバック一つといういやに軽装な男性が入ってきた。

(なに、あの人)

 絶対に山を舐めている。登山やスキー目的ではなかったとしても、冬に信州の山奥までやってくる者として、それなりの準備は必要と心得るべきだと思う。

 それを手荷物一つとは情けない。どんな人だろうと、少々不躾ながら観察してみる。

 身長は百七十五センチぐらいだろう。黒いコートを脱いだ後の体格は、特にがっしりともほっそりとも言い難い中途半端なものだった。

 黒い毛糸の帽子を脱いだ後から、もさもさとした縮れ毛が現れたが、あの乱雑さから察するに天然パーマに違いない。

 顔の彫が日本人にしては深く、西洋人にしては浅い。鼻と耳が標準と比べると少々大きいのではないかと思う。そして――

 眼鏡の下の目が印象的だった。

 色素の薄そうな茶色い目が眠そうに垂れている。しかし、怠惰そうな、とか疲れている、という訳ではない。どこか穏やかなものを感じさせる。

 そういった全体的な印象を他の何かに置き換えてみると、出てきた答えは『居眠りをする熊の縫いぐるみ』だった。

 眠そうな縫いぐるみの熊のような男性が、私のほうを向く。そして、

(ほう)

 というような顔をした。視線があっていないので、私に対してではない。どうやら私が読んでいた本のほうに反応したらしい。

 しかし、どう見ても古武道とは関係のなさそうな男である。なによりも冬山を愚弄した態度が許せない。

 その気持ちが目つきに出ていたのだろう。男は視線をあげて私を見ると、少しだけ眉を動かした。

 近づいてくる。

「ごめんなさい、なんだか面白そうなものを読んでいると思って見つめてしまいました」

 そう言って男性は頭をさげる。遠目には分からなかったが白髪がいくつかある。顔や肌の様子から考えて大学生ぐらいだろうと思っていたので、ちょっと意外な感じがした。

「アルバイト中の女子高生が、休憩時間に読む本にしては渋かったので」

 目を細めて言う。その柔らかい物腰が、逆に山の厳しさを知らない甘えた生活を送っている人間のように感じられ、さらに神経を逆なでする。

「――失礼です」

 と、切り捨てるように言って、私は本を手に取るとスリッパを履いて立ち上がった。男は困ったような顔をする。そこで、

「笠井君、宿帳に名前書いてって」

 と、最初に入ってきた女性から呼ばれたために、彼は振り返った。私は同時に足を踏み出して、住込み従業員用の小部屋に移動する。

 暖房がまわり切らない板張りの廊下は冷たい。

 徐々に頭に上った熱が冷めてくる。

 そうすると今度は、さっきの会話の不自然なところが意識に上ってきた。

 なぜ彼は、私がアルバイトであると断定できたのだろう?

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